信仰は生活であって、観念の遊戯ではない。また信仰の目的は、心の慰め程度のものであってもならぬ。ゆえに、もし信ずる本尊を間違えたならば、生活の根本が狂うのであるゆえ、生活も乱れ、幸福になるわけがない。されば、信仰の対象である本尊が問題になるのである。しかるに、さいわいにも、われら日蓮正宗の信者は、絶対にして最高の本尊をちょうだいして生活するのであるから、こんな幸福なことはない。
 われら信者は、御本尊を信ずること、それ自体が生活の全部でなくてはならぬ。何をするにも、根本に御本尊をおいて行動しなくてはならない。
 しこうして、御本尊を拝むことだけでことたりるとは考えられぬ。なにゆえならば、われらの生涯は決して幸福なものではなく、常にいろいろな問題がおこってくる。そのたびごとに、御本尊へお願いしなければならなくなってくるのは理の当然である。金がない、商売が繁盛しない、医者にも見放された等々の打開の願いを、御本尊にお願いするのである。この悩みは、だれに頼んでも解決のつくものではない。それを御本尊にお願いして救われようとするのであるから、御本尊のご用をたさなくてはならないことは、いうまでもないことである。
 こういうわけであるから、お金をください、商売を繁盛させてください、難病を治してください等と、まるで御本尊様がそうしなくては悪いような、あたかも御本尊様に貸しでもあるように、また御本尊様にその義務があって、われわれに権利があるように考えては、あいすまぬではないか。
 しかし、もちろん御本尊は広大無比の慈悲と、たとえようのない功徳とをお持ちではあるけれども、われらとしては、御本尊のご用をたしてこそ、その功徳と慈悲に甘えられる資格ができるのである。御本尊様のご用をたすとは、すなわち折伏であって、折伏をする者ほど、御本尊様が愛されるのは当然である。そして、その折伏は、歓喜から生ずるものであって、慈悲の行為であらねばならぬ。歓喜に燃えて、御本尊様を拝し、歓喜に燃えて折伏する者こそ、ほんとうの信心の者といえるのである。かかる人こそ、願わずとも、御本尊様は無上の宝、すなわち強い生命力と、福徳とをくださるのである。功徳なき者は、この歓喜と折伏がないからであることを十分知らなくてはならぬ。
 自我偈に、仏には遇い難しとおおせられている通り、歓喜は御本尊様が最高唯一であって、よくもわれらごとき凡愚がお目にかかれたものだ、遇い難きに遇ったという思いが、心に満ちあふれるならば、自然に歓喜があふれてくるのである。
 (昭和二十七年十二月二十五日)