Winny金子勇×サイバー寺院開祖・松本紹圭が語る、「開発」の本当の意味。そして、「創る」を愛するということ(1/3)
2012/05/14公開
ファイル共有ソフト『Winny』開発者として名を馳せ、その後の逮捕~訴訟~逆転勝訴という話題もあって、数多くの逸話を持つ伝説のプログラマー金子勇氏(写真右)。一方、MBA(経営学修士)を持つ僧侶として、インターネット上に『超宗派仏教徒によるインターネット寺院 彼岸寺』を開いたのが松本紹圭氏(写真左。本名・圭介)である。
独自の道を歩む2人に対談を依頼したきっかけ。それは、「開発」という言葉の由来が仏教にあると知ったところから。ソフトウエア開発の天才と、サイバー寺院開祖の若き僧を引き合わせたら、何か見えてくるはず――。そんな暴走気味な思惑を、2人は真摯に受け止めてくれた。
そもそも「開発」という行為の本質とは何なのか。なぜ、少なくない数のエンジニアが、開発を「業務」にした途端、疲弊してしまうのか。その答えに迫る。
浄土真宗本願寺派 僧侶
松本紹圭氏
1979年生まれ。東京大学・文学部卒業後の2003年、仏教に興味を持つ人たちが宗派を超えて自由に集えるWebサイト『彼岸寺』を設立。その後も通称"お寺カフェ"「神谷町オープンテラス」の運営など、従来のお寺とは一線を画した取り組みに挑む。2011年、インド商科大学院にてMBA取得。2012年、お寺マネジメントの講座「未来の住職塾」を開講。著書に『東大卒僧侶のお坊さん革命』、『お坊さんが教えるこころが整う掃除の本』、『脱「臆病」入門』がある
―― 今日はお集まりいただきありがとうございます。対談前にお2人の接点を探そうと調べていたら、松本さんは学生時代にPerlをイジっていらしたとか?
松本 えぇ、それほど複雑なプログラミングはしていませんでしたが。見よう見まねでCGIのスクリプトをイジって、学生向けのポータルサイトなどを作っていました。わたしの父が機械設計の仕事をしていた影響もあり、子どものころから『BASICマガジン』を読んで、いろいろ遊んでいました。
金子 話が合いますね(笑)。わたしも『ベーマガ(BASICマガジンの略称)』の愛読者でした。そういう経験をしていた方が、なぜお坊さんに?
松本 実は大学の時、わたしのサイトを見たISPの方から「ウチでやらないか?」と誘われて、そこでアルバイトとして働くことになったんですね。でも、プログラミングが「趣味」から「仕事」になった途端、ヤル気をなくしてしまって。卒業前に、自分のやりたいことをよく考えてみると、わたしはテクノロジーの最先端を切り開くことよりも、日本人としての文化や伝統に根差して未来を開く仕事がしたいと思いました。それで、同じく小さなころから興味を持っていた仏教の世界に進むことにしました。
金子 なるほど、それで仏門に入られたわけですね。
松本氏ら新世代の僧侶が集って立ち上げたインターネット寺院『彼岸寺』。サイトのクオリティは非常に高い
―― 松本さんが『彼岸寺』を作られたのも、そういったバックボーンをお持ちだったからですか?
松本 はい。もちろん『彼岸寺』はわたし一人で作ったわけではありませんが。サイバー寺院を作った理由の一つは、仏教の世界はせっかく優れたコンテンツがあるのに、それが閉じられていてもったいないと思い始めたからです。
金子 仏教をコンテンツと呼ぶところが面白いなぁ。
松本 お釈迦さまの説法というのは、いわばそれを聞く人一人一人を目覚めさせるコンテンツです。そして、お寺はそのコンテンツを利用して人を目覚めに導くデバイスなのです。ただ、現代社会ではお寺の活動はそれほど活発ではなく、経営者目線で言うと「稼働率」が低い。それで、お寺が比較的ヒマな平日に、お寺カフェ「神谷町オープンテラス」を立ち上げたりしたわけです。
開発とは本来、新たな「気づき」を得る行為である
―― では、そろそろこの対談の本題について伺います。調べたところ、「開発」という言葉の語源は仏教用語だそうですね?
松本 そうです。開発と書いて「かいほつ」と読みます。「仏性を開き、覚り(さとり)へと導くこと」という意味ですね。浄土真宗でも、「信心開発」という風に使われます。モノやサービスではなく、心を開発するんですね。
金子 その考え方には、わたしも共感します。前々から、「プログラミングは自己表現だ」というのが持論ですから。
―― では、本来「開発」とは、何をすることを指すのでしょう?
「開発とは気付きを得る作業」と語る松本氏の言葉に、深くうなずきながら同調する金子氏
松本 分かりやすく言うなら、「気づきを得る」ということではないでしょうか。何か対象に一心に向き合い、それを自ら開いていくことで、初めて手に入る気づきがある。つまり、「開発」という行為の本質は、それまで自覚していなかったものが自覚されるようになる、心の成長にあるのだと思います。
金子 あぁ、まさにわが意を得たり、という感じがします。わたしにとっての「開発」はプログラミングそのものを指すわけですが、ポリシーとして「常に実験的なことを」と心掛けてきた。仕様書どおりにプログラムを書いて終わり、なんて面白くないじゃないですか。
松本 そうかもしれませんね。
金子 自分で考えたコードを書いて、動かしてみる。そうすると、想定外のバグが出たり、思ったように動かなかったりするものなんです。そこで、「あぁ、こういう風になるのか。じゃあ今度はこうしてみよう」と気づき、またコードを書く。わたしは今でもその繰り返しです。
松本 金子さんのやってこられたプログラミングこそ、まさに「開発」なのだと思います。わたしと違うのは、なぜそれが仕事として長続きしているのかという点ですね。
金子 なぜなのかなぁ。わたしはただ、ちょっと動かして、検証して、またイジって動かしての繰り返しが楽しいだけなんですね。実験的なプログラミングを繰り返せば、挙動を分析するのも難しくなっていきますが、どんなに複雑になってもちゃんと理屈があるものです。この、説明が付かないものの理屈を見つけた瞬間が、たまらなく面白い。
開発すべきポテンシャルには3つのレベルがある
多彩な活動を行う松本氏は、自身のアイデンティティについて、思い悩んだ時期もあった
松本 なるほど。それも、開発という行為のゴールというか、気付きの形なのでしょうね。今のお話のつながりで思い出したことがあるので、少し話を逸らせてもよろしいですか?
金子 どうぞどうぞ。
松本 実はわたし、自分の仕事をどう説明していいのか困る時が多々ありまして。「お坊さん」と言った時に多くの方がイメージするのは、「住職」という形態。そのお寺に住んでいる僧=住職なんです。でも、わたしはここ(※対談が行われた東京神谷町・光明寺)に所属している僧でありながら、住んでいるのは京都ですし、『彼岸寺』運営のように場所を問わない仕事をしている。
金子 そうですね。
松本 そういうノマドな働き方を許していただけることもあって、最近は『未来の住職塾』というお寺運営の講座の準備も進めているんですね。じゃあ、わたしのようなスタイルで働く僧のことを何と呼ぶのかと考えたところ、「開発僧」という言葉がピタリときたんです。
―― ここで再び、開発とは? というテーマに戻りましたね。松本さんのおっしゃる「開発僧」とは、何をする人なのでしょう?
松本 ポテンシャルを開発する人、ということになります。ここで言うポテンシャルには3つのレベルがあって、1つはお寺という場のポテンシャル、もう1つは僧侶という役割のポテンシャル、最後は人間の心のポテンシャル。この3つを、いろんな「気づき」でもって開き発せしめていくのが、開発僧の役目であろうと思うようになりました。
―― それは、エンジニアが開発を行う意義と置き換えて考えても良いのでしょうか? つまり、会社のポテンシャル、技術者としてのポテンシャル、そして自己のポテンシャルの3つを開拓していくのが存在意義である、と。
(ページ[2]に続く)
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