追啓1
平成7年7月2月、千葉県富里町のクリーンセンター最終処分場で富里町の富里小1年の男女児童が『水
死体』で発見された。真相は、“儀式殺人”である。間違いなく何物かが処刑した後、投棄したか、その場
で溺死させたものである。すべての日本人は、日本の子供に、もはや人権はないと気付くべきである。2人
はいずれも“7栄”出身であろう。周囲は7栄のつく路線バス停留所だらけである。ボエドの『警告』した
7バスに関する血塗られた悪魔の連鎖は戦慄すべきことに今尚機能しているということである。もはや警察
云々の次元の問題ではない。日本国民は自分の子供すら守れないのか。認議すべきは、7バスの子供達の末
路は、すべての日本人の子供達の末路であるということである。この悪魔の連鎖を阻止するためには、国民
一人一人が覚醒しなければならない。 ○○○○○○○=『ヨシュア記8章』
追啓2
1、アーチャリー狩り、1、第ニの村井秀夫、1、オウム幹部の拘留死、1、ノストラム神聖大師登場
真のオウム信者にはこれより以後、筆舌に尽くしがたい試練が持ち受けている。脳波制御の自白強要装置
等は既に実用化されている。“そんなSFまがいのもの信じられるか”と笑うのは自由だが、もはや個人の
意志は第三者の手によりコントロールされる時代なのだ。現に、“熊取”の一部で既に実験は成功している
のである。捕らわれのオウムの者には、逆洗脳による、裏取引の誘惑等、様々な罠が待っている。精神の内
部での戦いとなろう。他の幹部の多くが誘惑に負け、次々脱落していく可能性がある。だが我々は、例え麻
原一人になろうとも、麻原が反ヘロデ、真実を貫き通す以上、麻原の側に立つことになろう。我々に裏切り
はない。7山におけるサタンとの戦い、これが真の意味でのハルマゲドンなのである。
付録
『怪文書の正体』
いわゆる「怪文書」と呼ばれているものについて少しコメントしておく。「怪文書」とは、事実と虚偽と
を巧みに組み合わせた装飾的虚像をあたかも真実であるかのごとく媒体を使って流布し、それに洗脳された
あるいはそれを理用した第三者の手を介しての一定の目的の達成、すなわち行為者が対象とする個人あるい
は集団に何らかの損害が及ぶよう目論んだ合法的謀略手段のひとつである。従って愉快犯的な脅迫、警告、
推理、推測、憶測などは「怪文書」とは言えず、言い換えれば、現実に損害を与えることが確実なものだけ
が本物の「怪文書」と言えるのである。これは必ず大がかりな謀略の権威を借りたひとつの布石として計画
されているからだ。ロッキード事件しかり、リクルート事件もまたしかりである。ただオウムが特異なのは
通常五分は事実の含まれる「怪文書」ではなく、1%の事実に99%の嘘で塗り固めている点であろう。そ
の意味でHtoH&T.Kは紛れもなく“本物”である。一連の連作の指摘が現実のものとなったのは全体
像を把握している謀略の当事者がその布石として定期的に手の内を明かしていたからに他ならない。『宝島
30』6月号に全文掲載された連作のひとつ、元旦の『読売新聞』で公になる前に「松本のサリン散布はオ
ウムの犯罪である」とオウムとサリンを結ひつけた『松本サリン事件に関する一考察』に関しては分析させ
てもらったが、謀略の全体像を知る何者かが謀略の進展に合わせてリークした情報を、オウム潰しを目論む
ヘロデ系の政治結社、直属の公安関係者らがさらに反オウムの団体、ジャーナリストらに断片的に再リーク
してアクションを起こすように煽り立てた、または直接頼んだというのが真相であろう(もっとも後半、出
没した連作は、ほとんど支離滅製であり、作成者の人格が疑われるのだが)。読売の報道はもちろんその駄
目押しである。この理解に立てば、江川、小林はともかくとして、少なくとも動機のない「オウムウオッチャー
」である有○、○生、二○などは、その存在そのものが、喋る『怪文書』と言えるであろう。
この怪文書に関しては随所に本音が散在している。例えばブランチ・デビデアン事件を引き台いに出し、
サリンによる集団自殺を「最悪の選択」と認識したうえで、「しかし、自らの意思とは別に肉親が信者であ
るという理由によって、この選択を迫られる子供たちがいるのであれば、不憫でならない」、「せめて今は、
安らかな眠りを得ている子等のために」と念を押し、追伸でしつこく「宗教の名のもとに狂気が、最悪の選
択が、行なわれることを防がねはならない」という、劣悪な環境と子供達の身の危険を妙に誇張しつつ、“
人権”を意識した大偽善ぶりは何を意味するのか。ヘロデによるオウムの子供略奪再開のための言い訳がま
さに上記に符合しているのは果たして偶然なのか。怪文書の作成に、今や疑似○○と化した被○○○○○○
(7文字)の一部の影が見え隠れといったところであろう。T・Kとは、たき、ターキと続むのか。7面鳥
のことではない。
最後に、この封書の“差し出し”名を使わせて頂いたことを感議したい。この封書の差し出し名、現住所
は、いかなる人物、団体にかかわらず、我々とは一切無関係である。あくまで“万全”を期する必要があっ
ことをご理解願いたい。通信の秘密はもはや“ない”のである。
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