Aum7 謎と陰謀
Part1. 不思議いっぱい、噂のオウム
   ――あっと驚く怪文書の数々

怪文書その参
「告発の書」
2枚目
 

 この事件と後に述べる「熊取」の意味、以後の“セレモニー殺人”続発の危険性について我々は、199

2年7月4日付けで首都圏の主要マスコミ各社に封書で警告している(もっとも表向きはまったく黙殺され

てしまったが)。その内容の詳細についてはその中のひとつである信頼すべきNHKニュース21(当時)

にも殴り込みをかけているので、興味のある方は問い合わせてみていただきたい。[4行削除]

 その真相のすべてを語り尽くすことは分量的に見てもここではとても不可能なので、キーになる特異的事

実のみを挙げるにとどめたい。

 それはすなわち、殺害された2小女の父親のひとり、中川雅彦氏の発案、いやほとんど霊感と言える「7

年7月7日しか生きれなかった我が娘」と呼ばれる名文句である。すべてはここから始まるのである。

 さて、この犯人が“象徴”させたかったものはおぼろげながらつかめてきた。しかしこれは事実とよべる

ものであって、真相とよべるようになるまでにはさらに忌まわしき関門=“血塗られた痕跡”を検証する必

要があろう。

 「7年7月7日キッカリの中川藍殺し」がその一つであることは既に述べたが、決定的なのが大阪府泉南

郡熊取町で、これもまた1992年度に入ってから起きた、『若者7人連続怪死事件』である。この怪事件

の詳細に関しては各マスコミが連日、「熊取初7日自殺」として大々的に報道していたので、既に御存じの

事と思うが、念のため事件のあらましを要約すれば、5月までの少年2人の変死(いずれも当時17才、警

察発表はシンナー吸引を伴う事故死)の後、6月の1ヵ月だけで何と4人が熊取町内で連続首つり白殺(バ

イク仲間の少年3人と22歳の地方公粉員、特にバイク仲間の少年3人に関しては6月4日、6月10日、

6月17=7・7・7と妙に7を意識した奇妙な死に方をしている。公粉員は6月25日)、最後が7月2

日、女子体育大生の魔に果物ナイフが刺さって路上で失血死した(警察発表はまたもや「自殺」である)と

いうものである(バイク仲間の3人と合わせれば、ほぼ1週間おきの5週連続自殺となる)。6月10日、

17日の2人の少年と体育大生に関しては、かねてから「不審な車に跡をつけられている」と身内や友人に

打ち明けているにもかかわらずにである。

 都会ならまだしも、なぜローカルな平和な田舎町でこのような「怪事件」が続発して起こらねばばならな

かったのか、誰もがミステリーであり、疑問である、と思うであろう。しかし我々に言わせれは決してミス

テリーではないのである。ましてや偶然などでも決してなく、起こるべくして起こった事件なのである。し

かも絶対に“熊取町”で起こらなければならなかったと言い切れるのである。

 この真相を明かす前にもう一つの「怪事件」に触れておきたい。仙台の中学同窓の『3高校生連続自殺事

件』である(それぞれ2月9月、4月1日、4月9月、2人が自宅、1人が物置)。「連続自殺」となって

いるが、もちろん警察発表が、である。警察が変死事件を確率的に見て、殺人よりは「自殺」としてかたづ

けたい気持ちは分からなくもないが、自殺(事故)の目撃者がいない以上はすべて殺人の可能性も含めた変

死事件として扱うべきである。例えばこの場合、何者かが(恐らく2人以上が)自宅に忍び込み、一人でい

る少年を縛り上げ、脅して「遺書めいたもの」を書かせた後で、絞首刑のごとく処刑したとも十分に考えら

れるのである。これらが「自殺」か殺人か、という疑問はさておき、奇妙なのは「彼ら3人がクラスは違う

が同じ中学の同窓生だった」という事実だ。もちろんこれだけでは確かに奇妙であり、ミステリーではある

が、有り得ないことではない、非常に確率は低いが偶然の一致である、と反論の余地があるだろうが、じつ

は彼らも“7”に関連して死んでいるという次の事実を挙げれは、偶然だ、などという反論の余地などもは

やないであろう。そう、彼ら3人はすべて仙台市立“7郷”中学の同窓生なのである。しかも「第7中」と

いうような形容詞的なものではなく、“7郷”というのが固有の名詞であることに注目してほしい。7を固

有名詞にもつ学校などそう多くはあるまい。7郷・7郷・7郷=7・7・7。

 これら“血塗られた痕跡”の数々をつぶさに検証し直してみると、もはや偶然と呼べる範疇を超えた、あ

る“ひとつの象徴”を誇示すべく解き放たれた宇宙生物とも呼べる悪魔のような化け物のどす黒い影が如実

に浮かび上がってくるのだ。

 唯一言えることは、少なくとも「これらの事件」が決して偶然などではなく、“7”を意識した、いや意

識しなけれはならない何者か、恐らくは何らかの組織による意図された計画的犠式、いや、“犯罪”であっ

たということである。「熊取の初7 日自殺」の3人が“仲間”でなければならなかった理由もここにある。

何者かにとっては7・7・7、この“・”の結びつきが絶対に必要だったのである。

 さて、署長殿、ここまで読み進まれたあなたは恐らく戦慄を禁じ得ないであろう。それは無理もないこと

である。何しろこれを書いている我々ですら底なしと言っていいくらいの恐怖を感じているのだ。しかし我

々のさらなる検証を勇気を持って見守っていただきたい。

 貴志川の忌まわしい出来事は果たして“事故”なのか。


 すでにお気づきのことと思われるが改めて愕然としていただきたい。もちろん園児達は7に関連して死ん

でいる。しかも極めつきの“7”で。ななさと・ななさと・ななさと・ななさと=7里・7里・7里・7里。

園児たちが“仲間”でなければならない理由は既に述べたとうりである。しかもこの園児達はすべて“7山”

出身者ではないか。7山・7山・7山・7山。もはや返す言葉もないであろう。同時に熊取に関しても真相

を述べておく。先に我々は熊取で起こるべくして起きた事件と述べた。そう、地図を広げて調べてみてほし

い。驚愕すべきことに熊取にも“7山”が存在していたのである。先の「怪死した7人」は“熊取7山”を

“象徴”すべく“何者か”の手によって“生け贄”として貢がれていたのである。7山・7山・7山・7山

・7山・7山・7山。熊取の警察がすべて「自殺」と断定したのは、“象徴殺人”という概念が完全に欠落

していたからであり、まさに犯罪的捜査ミスを犯してしまったと言えよう。

 これらすべてを総合して検証してみると、先の少女のひとりは7・M生まれ(逆算すると7月13日生ま

れということになろう、12、ないし14の場合もあろうが)―7・Mt―7山での7年7月7日という具

合に7という“時”を暗示させるものであり、後の3事件はそれぞれ“7郷中学”、“7山病院前”、“7

山”という具合に7がつく路線バスの停留所名にも象徴される町=“場所”を暗示させるものである。加え

て7郷に関しては同時に儀式に貢がれる被害者の出身校名にもなっており、今回の事件ではななさと・7里

保育園児が被害者となっている。[5行削除]

 さて、所長殿、恐ろしいことだがこれら“血塗られた儀式”は、これから以後も確実に起こり得るという

ことを申し添えておかなけれはならない。この“4つの血塗られた儀式”だけですでに“16人”の少年、

少女達の尊い命が悪魔の手によって葬られているのである。傍観しているだけではこれから以後もさらに犠

性者の数は確実に増えることになろう。

 我々が以上述べてきたことは、にわかには信じかたいことかもしれない。しかしこれは現実に起こったこ

とであり、すべて事実なのだ。事実は事実として率直に受け止めてほしい。と同時にこれら“血塗られた儀

式”は、日本のすべての警察に対する“挑戦状”でもある。警察がこのまま静観を続けるならば、もはや人

間とは言えないこの悪魔のような邪悪な生物はさらなる凶行を続けることになろう。日本の警察も舐められ

たものである。日本の警察はここまで地に堕ちてしまったのか。そうではあるまい。ここはひとつ日本の一

警察署長としての最後の意地をみせてほしい。この「悪魔のような邪悪な生物」に一撃を食らわせるのであ

る。この「忌まわしい出来事」は何者かの手による“犯罪”であった、と世間に公表するのである。そうで

なけれは殺された4人のちいさな御霊は永遠に浮かばれないであろう。また、そうすることによってこの邪

悪なる生物の活動範囲を狭めることもできる。少なくとも今後、7山周辺では活動しにくくなるに違いない。

内密に警察だけですべてを対処しようと思ってはいけない。市民レベルでの連携が必要である。「単なる偏

執狂的な一個人の手による猟奇殺人」といった類いのものではないからだ。「極めて結社的、また宗教的色

彩の濃い、とてつもなく巨大な組織の手による犯行」と言えるからである。恐らく犯行の実動部隊はこの「

組織」が雇った「プロの殺し屋」の手によるものであろう。単なるヤクザ的な殺し屋ではなく正真正銘のプ

ロの殺し屋である。この「手」にかかれば、“殺人”を絶対ばれないように「自殺」や「事故死」に偽装す

ることなど、赤子の手をひねるがごときであろう。ただし、「7郷」に関しては、一人目の彼は“本当の自

殺”だった可能性がある。この「悪魔」が“7郷”でターゲットを選定中、たまたま自殺され、ターゲット

をこの自殺者の周辺に絞ったとも言えよう。(これは3人の殺された日付のずれから推測されることである)。

7郷中出身者なら誰でもよかったわけであるから、一人殺す手間が省けたというわけである。もし彼が自殺

していなけれは、全く別の7郷中出身の3人が仲間、あるいは近所同士という結びつきで、全く違った形で

死を迎えていたに違いないのである。

 今回の事件でも“7山”出身の“7里”園児なら誰でもよかったわけであるが、この4人に関してはかな

り以前からターゲットにされていた可能性がある。4人ともが自転車を持ち、行動範囲が広がるということ

は、この「悪魔」の、殺害のための選択の幅も広がるからである。今回の事件では熊取同様、恐らく殺人に

結びつけることのできる物証も痕跡も何一つ得ることはできないであろう。何しろ相手はプロなのだ。我々

は、複数の殺し屋(一人の可能性ももちろんある)が巧妙な手口で川岸まで誘い込みその場で次々と“溺死”

させた、とみている。あるいは以前から監視していたこの「悪魔」が、本当に川岸に遊びにいったのを絶好

のチャンスと認識し凶行に及んだとも考えられる。この点については遺族に、この幼児達が過去に川で水遊

びをしたことがあるのか否かを問いただす必要があろう。否なら、「巧妙な手口で誘い出した」ことになる。

いずれにしても捜査の重点を、過去この園児達(すべての7里園児も含めて)につきまとった不審人物、特

に7山周辺での不審な車についての住民からの徹底的な間き込み調査におくことが正しい選択といえる。

 我々は今、これら“血塗られた痕跡”を次のように定義したい。“7山路線バス連続象徴殺人”と。


 世界一優秀と言われ続けてきた日本の警察がなぜ我々が指摘してきたごとき“失態”を犯し続けるのか。

それは日本の警察の、殺人に関するマニュアルに、“象徴”(生け贄)という概念が欠結しているからにほ

かならない。日本の殺人と言えば、身の代金誘拐、保険金、強盗殺人、怨恨(内ゲバ、ヤクザ闘争などを含

む)、通り魔などによる殺人(性犯罪などを含む)、親の手による心中的殺人(経済苦、精神苦的な殺人を

含む)、後はゲリラ活動に伴う致死的殺人、国家テロ的暗殺くらいのものであろう。幼児が4人水死体で見

つかった、では事故死か、殺人か、ということになる。外傷も着衣の乱れもない、上述したどの殺人の定義

にも当てはまらない、従って不慮の事故死(溺死)と断定、という具合になってしまうのであろう。これが

そもそも間違いの始まりなのだ。なぜ断定できるのか。目撃者がいない以上すべて“変死”と扱うべきなの

だ。日本の変死事件の多くが「事故死」や「自殺」としてかたづけられてしまうのは、先に述べた“象徴”

という概念が日本の警察に欠落しているからである(熊取の警察はこの欠落によって犯罪的捜査ミスを犯し

てしまった)。象徴殺人とは、「宗教的、信条的結社、団体が、己の教義に基づいて行う儀式的殺人」のこ

とである。噛み砕いて言えば、「個々の結社、団体の崇拝する神(悪魔)への生け贄、あるいは、個々の結

社、団体の信条、願望を誇示するための殺人」である。

 今回の事件で特徴的なのは言うまでもなく、7、特に“7山”を象徴していることである。しかもこの象

徴は、命を絶たれた人達のみならず、一般の日本人にとっても決して祝福的なものではない。いや、むしろ

呪われたものと言える。なぜならただ7に関連したというだけの不特定多数の“日本人の死”のつながり(

バス路線)をもって、この象徴は成立しているからである。この化け物は“7山”に“死”を“象徴”させ

て、“すべての日本人に呪いをかけた”と言える。裏返せば、この化け物の正体は、我々に言わせれば、“

7山を根絶の対象とする教義を持つ血塗られた集団”ということになる。

 また、ターゲットの“死”をもって儀式を遂行しており、殺害形態にはこだわっていない。これは、あか

らさまに殺害して世間を騒がせては、後の儀式の遂行に支障をきたすからであり、これがターゲットを「事

故死」や「自殺」に偽装する理由であろう。そうゆう意味で一連の儀式は完遂しておらず、これから以後も

確実に起り得ると言わざるを得ないのである。

 福岡の2少女のあからさまな殺害は、この「悪魔」にとってはやむをえない処置であったと思われる。い

くら悪魔といえど、7才の少女2人を失結した地点から17キロも離れた場所で「自殺」や「事故死」に偽

装することなど不可能であろう。この事件が特異なのは、なぜわざわざ17キロも離れた山頂の道路脇に2

人の遺体を放置したのか、放置場所が“熊取7山”や“海南7山”などであれば納得いくであろうが、謎は

ますます深まるばかりである。署長、ここはひとつあなたに謎解きをお願いしたい。キーは「8丁峠頂上」

にある。この化け物はこの付近を一体、何に見立てたのか。

 我々はこの「悪魔の暴虐」を阻止すべく、1992年7月4月付けで主要マスコミ各社に、1992年7

月4日以降、7に関連した幼児、幼女、少年、少女達の変死、自殺が雪だるま式に激増するであろう、とい

う警告とともに真実の公表を求めた。にもかかわらず我々の主張は闇に葬り去られた。あの時点で真実を追

及するマスコミがいたならば、以後の“儀式”は防げたかもしれないのである。

 [32行削除、悪魔に対する対抗策が延々と述べられている]…。その地域の町名などの象徴物に何か共

通するものはないか。7の付く町名、路線バス停留所は言うまでもなく、“7に連関した象徴物(=後述す

る“8”など)をその周辺で発見できたならほぼ間違いなく、“7山”なら100%確実に我々が述べてき

たのと同一の「悪魔」が関与していたと断定できよう。また、極論すれば、“7を象徴させる地域”で起き

た「変死事件」(自殺、事故死を含む)はすべて我々が主張するところの「悪魔」が関与していたと疑って

かかるべきであろう。象徴誇示のための貢ぎ物は、何も“未成年者に限ってはいないこと”、さらに福岡の

事件のように、“7以外の象徴物で7を代用している場合がある”ので、未成年者や7に固執することのな

い柔軟性も必要である。今だ際立った“痕跡”の見られない“7”バス停留所、これが当面の「魔手」の出

現ポイントであり、対峙すべき“有効な場所”である。

 署長、我々はこの場を借りて再度警告したい。“7山”の住民は危ない、と。これより以後も7山の住民

には死の仮面で覆われたさまざまな罠が仕掛けられる可能性が非常に高いと言わざるを得ない。少なくとも

あなたには7山の住民を守る義務があるはすであろう。ことが起こってからでは既に手遅れなのである。そ

のためには県民レベルでの連携が必要である。

 署長殿、ここまで読み進まれたあなたにとりあえずは敬意を表したい。ここでひとつの疑問を持たれたと

思う。それは恐らく、“7”に“死”を“象徴”すべく活動している“悪魔のような邪悪なる生物の正体”

とは何か、という疑問であろう。ここで直接的に表現して、固定した先入観を植えつけるのは得策ではない

と思われるので次のような表現で疑問に答えたい。


 “7山に日本人の死の象徴”とはつまり、「まことの神を気取るバケモノが、神国日本(天皇とすべての

日本人)を“サタン”に仕立てあげるための“パフォーマンス”」ということである。“7山の根絶を教義

として持つこのシナリオライター”こそ、“悪魔のような化け物の正体”にほかならないのである。

 繰り返し言うが、この一連の“血塗られたパフォーマンス”はすべての日本の警察に対する“挑戦状”で

もある。恐らく日本警察史上、最大、最強、最悪、そして最後の敵となろう。市民の町に立つ良織ある警察

がこの戦いに破れるなら、すなわちそれは日本という国の“滅亡”を意味することになる。“象徴”を中心

としたあらゆる犯罪の発信基地=“サタンの巣窟”となろう。警察は今何を為すべきか。

 さしあたって為すべきことは、一連の「血塗られた儀式のシナリオライター」のところへ直接切り込みに

行くことではない。国境という壁が立ちふさがり事実上不可能である。この「悪魔」が解き放つ「魔の手」

からいかに市民を守るかを考えることであろう。そのためには、まず市民に真相を知らせ、我々が先ほど述

べた簡易レーダーの作成を急ぎ、「魔の手」が及びそうな地域のめばしをつけることである。良識ある警察

はそこで「魔の手=殺し屋」と一騎打ちということになるだろうが、「殺し屋」の検挙よりあくまで市民の

命の方に重点を置かなければならない。「魔の手」を封じることそれ自体が良識ある警察の勝利につながる

からである。そのための市民との連携はもちろん欠かせない。

       我々の文書が魔封じの一助になることを祈って…1993年9月

 最後に、今年5月に起きた山梨県忍野村の「7人中毒死事件」は、福岡の2少女殺しの儀式の延長であっ

たということを申し添えておきたい。キーは「7」、「8海」、「藍」、『○○○○○○○』である。

 我々はこれらの義式を7山象徴殺人の一連鎖としての“○○○○○○○象徴殺人”と定義している。一連

の血塗られた化け物が、いかに日本をサタンに仕立てあげ、根絶の対象としたいか、恐るべき願望が見えて

くる。

 9、24、宮城“7ヶ宿町”収入役に一体何が起きたか。死体発見現場は“7ヶ宿湖”(路線バス7ヶ宿局)

ではないか。警察は急がなくてはならない。“魔の手”はすでに地方公務員にまで及びつつある。躊躇して

いる余裕などないのだ。ことは一分一秒を争うものである。一日遅れるごとに犠牲者の数は確実に一人増え

ることになろう。

 9、26、愛媛伊予都“7折”(路線バス)の4人は本当に無理心中なのか。キーは、えひめ=“愛”媛

幼椎園児、死、「8倉」である。ことは、驚愕すべき血塗られた連続“儀式殺人”の観を呈してきた。サタ

ン封じ込めのための、警察の広域捜査の一日も早い確立を望むものである。



 以士、「悪魔の儀式殺人」に対する驚愕すべき告発書である。いわゆる悪魔の“生贄”と呼ばれるものを

象徴体系として完成させ、その正体の捕捉に最も肉薄した驚天動地の内容であると言えるものだ。この書の

存在こそ、この世が悪魔の独壇場ではないことの証明であろう。この書のいう“7山の根絶”を教義として

持つ血塗られた集団とは一体何者のことなのか。『ヨハネの黙示録』に次の一節がある。

 ここに知恵の心があります。7つの頭とは、この女がすわっている“7つの山”で、7人の王たちのことで

す。(17章9節)

 ここでいう7つの頭、7つの山、7人の王とは、終りの日、神の裁きにあって滅ぼされる大バビロンの象

徴である。この滅びの象徴である“7山=大バビロン”を“熊取”や“海南”に象徴させつつ関連する路線

バス等で日本全土に連鎖させる。しかも“日本人の死”の鎖によって。果たしてこのような悪魔的な発想が、

地球食物連鎖体系の一種族である人間に思い浮かぶものであろうか。これは悪魔的発想ではなく、まさしく

悪魔そのものに由来するものであると断言できるのではないか。サタンは間違いなく実在するのだ。日本人

の死によって裏千年王国の完成を望むもの、これが彼ら(ボエド)のいう“誠の神を気取る化け物”の正体

であろう。

 為したことは必ず返るという、いわゆる因果応報、カルマの法則は何も仏教やオウム真理教の特権ではな

く、宇宙に住まう全生物種を貫く普遍の法則である。これは神の天罰が下るという意味においてではない。

生物学的に例えて言えば、食物連鎖体系が健全である限り、その体系に適合して住まう一個種が滅びること

はない。だが、ここに悪しき種族がいたとして、ある一個種を根絶やしにしたとする。その種が悪しき種族

の生存に必要な酸素、エネルギーの供給の大本である植物休系であったらどうなるか。もっと単純に言って、

生理的にも暴飲すれば肝臓を痛めるし、暴食すれば胃を壊す。不規則な生活をすれば隈や吹き出物がでるか

も知れない。いじめにシンナー遊び、家庭内暴力、売春、果てはブルセラショップと落ちるところまで堕ち

ていく子供達の精神性の退廃は何を意味するか。これは人間の霊性をなおざりにした物質偏重、経済本位の

社会に対するカルマの現象化に他ならない。子供達の非を論ずる前にまずは己の醜態を自覚すべきである。

3枚目>

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(C)AUM Shinrikyo Public Relations Department, 1997