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【社会】奥西死刑囚、扉は閉じたまま2012年5月25日 16時47分
開きかけた再審の扉は、またも閉ざされた。名張毒ぶどう酒事件の再審開始をめぐる差し戻し審。二転三転する異例の経過をたどった末、名古屋高裁が25日、いったん認められた開始決定を再び取り消した。奥西勝死刑囚(86)は面会した弁護士に「次の勝利を信じている」と語ったが、体の衰えは隠せず、残された時間も少ない。弁護団は「考えられない決定」と怒りをあらわにし、特別抗告して最高裁に望みを託す。事件の舞台となった集落の住民は「これでいい」とうなずいた。 名古屋拘置所(名古屋市東区)にいる奥西死刑囚は、「再審取り消し」の知らせを硬い表情で受け止めた。一審無罪から二審死刑への逆転は戦後初で、異例続きの裁判。司法に翻弄(ほんろう)されるまま、拘置所での生活は42年8カ月を過ぎている。 15分間の面会を終えた小林修(59)、鬼頭治雄(40)両弁護士によると、奥西死刑囚は、紺色のシャツと青のベスト姿で現れた。決定がまだ知らされておらず、問い掛けるように2人を見つめた。 「残念ながら、負けました。申し訳ありません」と小林弁護士。表情は、険しいまま変わらない。ガラス越しに決定書を見せて説明し、特別抗告の方針を伝えた。 「ありがとう」。数秒間の沈黙の後、そうしぼり出した。「きょうは残念でした。次の勝利を信じています。今まで以上のご支援をお願いします」。いつもより寡黙でほとんど言葉を発せず、悔しそうだった。 「兄さんも元気出して頑張りなさい」。妹(82)の言葉を伝えると「良い結果が出るまで頑張る」と誓い、最後は「頑張ります」「ありがとう」と何度も繰り返したという。 「調書がどんなに大事か知らなんだ。後でうそと言えば分かってもらえると」。1961年に35歳で逮捕された奥西死刑囚は、再審請求の意見書でそう述べている。 64年の一審無罪で釈放。三重県名張市や四日市市で、工場作業員やガソリンスタンド店員をして暮らした。 69年の二審判決の朝、母タツノさんが食べきれないほどの赤飯を炊く。「残りは帰ってきてから」。電車で名古屋高裁に向かい、予期せぬ逆転判決で母の手料理は二度と食べられなかった。文字が苦手だった母は、88年に84歳で亡くなる直前まで、手紙で励まし続けた。 死刑は予告なしで午前に執行される。「処刑や獄死を2桁あまり見送った。昼食の配給でホッとし、それ以外の時間帯は地獄」と独房でおびえてきた。 弁護士によると、拘置所の収容者の間で死刑反対運動が広がった際、奥西死刑囚は「僕は死刑制度に反対じゃないから」と協力を断った。 刑を軽くする恩赦制度もあるが、支援者によると恩赦にも反対で「わしはやってないんだから」と、信念は一貫している。 ただ、体調面に不安も抱える。2003年にがんで胃の3分の2を切除。足腰が弱り、支援者らの要請もあって拘置所の風呂場とトイレには奥西死刑囚用に手すりが付いた。今月上旬には肺炎にもかかった。支援者には最近「老齢の身。今回の再審請求が最後かもしれない」と決意を寄せていた。 (中日新聞) PR情報
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