■「カフェバー」ブームは西麻布から
六本木通りを南西に歩くと、西麻布交差点に出る。1985年(昭和60年)ごろ大行列ができて話題となったアイスクリーム店「ホブソンズ」がある交差点だ。ホブソンズは同じ場所で営業している。
交差点からすぐの場所に、1980年代に全国的なカフェバーブームを巻き起こした店があった。「レッドシューズ」。空間プロデューサー、松井雅美氏が内装を手掛けた店だ。どんな店だったのか。松井氏に尋ねた。
「出会いの場、がコンセプト。当時、ディスコ以外で人と人とが自然に知り合える場所が少なかった。バーは常連客ばかりで入りにくかった」
そこで松井氏がとった手法がカフェ的なスタイルだった。ボトルキープをやめ、ワンショットから注文を受け付けた。当時としては画期的で、酒販店が抵抗したという。店内には座高の高い椅子を配置し「座っていても立っている人と目が合うようにした」。こうしたスタイルを取り入れた店は「カフェバー」と呼ばれ、全国で大ブームとなる。
食事とサービス、インテリアなどをトータルで考える「空間プロデュース」という手法も当時、脚光を浴びた。松井氏は「バーのシステムや飲食店のプロデュース方法は現在に受け継がれている」と語る。レッドシューズは1995年(平成7年)に閉店するが、かつての店長らが集まり2002年(平成14年)に復活。西麻布の交差点から六本木通りを渋谷方面に向かった場所で営業している。
松井氏は現在も店舗などのデザイナーとして活躍中。一木氏は会社経営の傍ら、1987年(昭和62年)に立ち上げた異業種交流会「二十一世紀倶楽部」での活動を続けている。
著名人が小学校を訪問する「夢の課外授業」や農業体験などを手掛けているという。メンバーには政治家や企業経営者、スポーツ選手などが名を連ねる。中でも水野正人・ミズノ会長は学生サークル時代に最初にスポンサーになった人物だという。「当時の六本木のディスコは短時間で多様な世界の人と知り合えた。人脈作りの原点」と一木氏はかみしめる。
ただ、バブル期の六本木は華やかさだけではなかった。地価高騰のあおりで立ち退きを迫られた店や家は多い。今も残る空き地や駐車場が、そのゆがみを物語る。六本木はバブルの負の側面が凝縮された場所でもある。
次回はあのころの「遊び場」の跡地を巡る。(河尻定)
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噂の彼
40代男性 岐阜県 今から28年くらい前、慶応大学の学生の時、六本木のディスコによく行きました。青春の思い出がたくさんあります。ダンスパーティーやナンパなどで、スクエアビルのギゼ、エリア、マハラジャなどに行きました。当時の六本木の夜は活気がありましたね。若い男女はデザイナーズブランドなどの服でかため、車は高級外車。彼女彼氏探しも積極的で、お金の使い方も派手だったように感じます。懐かしい。 でも、そのディスコが六本木から消えた記事を読んで、さみしい思いです。今は六本木といえば、六本木ヒルズや東京ミッドタウンですかね。街も年をとって、見せる顔が変わるのでしょうか。 |
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バブルへGo
40代男性 海外在住 この記事、ほんとに懐かしいですね。学生時代にJトリップバーのピアノの上で踊ってたのを思い出しました。男なのに……。レッドシューズもいい飲み屋でしたね。当時は知る人ぞ知る隠れ家的な感じで業界人が集まっていて。旧テレビ朝日の中のビアガーデンもよかったです。いま思えば、高度経済成長の最後の打ち上げ花火という時代だったんでしょうね。いいのか悪いのか、今の若者には想像できないだろうなあ。 |
さと
40代男性 兵庫県 エリアもシパンゴもスクエアビルもマハラジャも、今もにぎやかにやってるものと思ってたが、もうないとは知らなかった。あのころ、トゥーリアという六本木のディスコでシャンデリアが落ちた事故があった。自分もそこへ1週間前の土曜日に行ってた。もし1週間ずれていれば、自分も犠牲になってたかもしれない。 |
元ボディコン娘
40代女性 東京都 懐かしい!マハラジャにスクエアビル、ロアビルのディスコビル、イタトマにジャックベ、レキシントン、Jトリップ……。当時、徘徊していたこともあり、知らない場所はない!(が、同時に一抹の寂しさも……)。 元禄時代のようなもので、たとえバブルといえども、経済が豊かで生活に余裕があったからこそ百花繚乱、すばらしい文化や芸術が花開いた。多くの国民がその恩恵にあずかった。美術展やコンサートなどの催しはもとより、市井のさまざまなイベントでさえ何社もスポンサーがつき、ハイレベルだった。 過去にたくさん遊び、学んだおかげで今さら遊びたいとは思わないが、現在の社会の経済状況では文化や芸術が発展するとは思えない。「貧すれば鈍す」で、若者たちも金銭事情に縛られて、人間としての器がどんどん小さくなっていくように感じられる。国が豊かでゆとりがないと、人々は生活に追われ、文化や芸術は育たない。 |
20代男性 東京都 私はバブルの頃の日本を映像でしか知らないが、当時お祭り騒ぎをしていた年配の方々からすれば、今の六本木は元気がないように映るかもしれない。 だが、今の六本木も、六本木ヒルズや東京ミッドタウン、ニコファーレのような若者が集う新しい施設が誕生し、六本木ヒルズには「ヒルズ族」と称される若手企業家が多く集まり、世間の注目を浴びる存在にもなった。 時代が変わっても六本木には日本を元気にする若者が集まっている。 |
ネペンタ 50代男性 千葉県 私は80年に早稲田に入りましたが、早稲田の学生にとって六本木は敷居が高く、慶応に行った高校の同級生に何度かスクエアビルに連れて行ってもらいました。その同級生はディスコでナンパしたOLに真剣な恋をしましたが、結局相手にしてもらえず、彼女が2人だけではイヤだと言うので、私たちも引っ張り出されて、結局男性3人、女性1人で、郵便貯金ホール(?)のドゥービー・ブラザースのコンサートに行ったという、おかしな記憶もあります。 スクエアビルにはネペンタとかフーフーとかありましたが、当時、スクエアビルに入るだけで、すごくドキドキしたことを覚えています。田舎者だったんでしょう。 この頃の若者文化になくてはならなかったのがホイチョイ・プロダクションズで、「『私をスキーに連れてって』を見てない」=「彼氏(彼女)いない」とみなされていました。馬場さんが今も活躍されているのはとてもうれしく思います。 |
40代男性 大阪府 あのころはバブルでした。自分は10代後半から20代前半の若者でした。浪人して大学に落ちて専門学校に入学。感受性がかなり強かった時期で、社会の醜さ、理不尽さに悩み、社会に出ることに不安を感じていました。あのころはバブルとは思いませんでした。日本経済は無敵だと思っていました。まさか、今のような時代が来るとは思ってもいませんでした。六本木も輝きがなくなりましたね。 |
kato 40代男性 東京都 わたしが勤める会社は40代の人間が中核をなしており、バブル期に社会人ないし大学生だった世代で構成されています。未だに経費は使いたい放題、倹約するよりも売り上げを伸ばして細かいことにとらわれないようにしたいという発想でやっています。縮小均衡では元気が出ませんから。 |
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