2011.3.18のレポートです。どれくらいの方がご存じだったでしょうか。
2011.3.21の宮崎日々新聞には、この記事が載りました。
こちらのサイトでは全文も読めます。
現地ルポ・振り切れた測定器の針
ジャーナリスト豊田直巳氏
東日本大震災が福島第1原発を襲ったのは、私が事故発生から25年目のチェルノブイリ原発取材を終えて帰国した直後だった。チェルノブイリでの取材体験から日本がのっぴきならない事態に陥る可能性を直感、「まさか日本で原発事故取材に出掛けるとは」と思いつつ、3月12日に福島県郡山市に入った。
翌13日、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)の仲間や写真誌「DAYS JAPAN」編集長の広河隆一さんと合流した。
福島第1原発のある双葉町は、13日時点で既に避難指示が出ていた「原発から20キロ圏内」にあったが、入域制限しているチェックポイントまでは行ってみようと国道288号線を東に向かった。すると、予想に反して双葉町まで行き着いてしまった。検問も避難指示の案内板もなかったのだ。
国道をまたぐJRの鉄橋が崩れ落ち、地震のすさまじさを見せつけていたが、人影はない。
毎時(以下同)20マイクロシーベルトまで測定可能な放射線測定器を取り出すと、アラーム音を発しながらみるみる数字は上がり限界値の19・99を表示した。放射能測定が初めての仲間が「この数字はどのくらいのレベルなんですか」と防護マスクでくぐもった声で聞いた。「おおよそだけど、普段の東京の数百倍かな」と答える。既にかなりの高濃度汚染地に入り込んでいた。
車を町の中心部に向けて進めた。人けのない家が並ぶが、地震の被害はそれほど見られなかった。そこで、もう一台の100マイクロシーベルトまで表示する測定器を取り出すと、これも針が振り切れた。
この事実を行政当局に知らせようと、双葉町役場に直行したが、役場玄関の扉は閉ざされたまま。緊急連絡先などの張り紙もなかった。静まりかえった町に、ときどき小鳥のさえずりが聞こえる。
入院患者に被ばく者が出たと報じられた双葉厚生病院に向かったが、ここも無人。玄関には患者を運び出したとみられるストレッチャーが何台も放置され、脱出時の慌ただしさがうかがえた。地震で倒れた医療機器や診療器具が散乱。消毒薬の臭いが漂う。
原発から約3キロの同病院前でも測定器の針は100マイクロシーベルトで振り切り、上限に張り付いたまま。そこで1000マイクロシーベルト(1ミリシーベルト)まで測定できるガイガーカウンターを取り出したが、これもガリガリガリと検知音を発し、瞬時に針が振り切れた。「信じられない。怖い」。私は思わず声に出していた。
放射性物質の違いなどにより同列に論じられないにしても、これまで取材した劣化ウラン弾で破壊されたイラクの戦車からも、今も人が住めないチェルノブイリ原発周辺でも計測したことのない数値だった。
放射能汚染地帯の取材経験が一行の中で最も多い広河さんも信じられない様子。「これから子どもをつくろうと思っている人は、車から降りない方がいいかもしれない」と真顔で言った。
放射能は風向きや地形によっても異なる。もう少し調べようと海岸に向かったが、病院から数百メートル行った所で津波に運ばれたがれきと地震で陥没した道路に行く手を阻まれた。放射能汚染に気を取られ、しばし忘れていたが、紛れもなくここは巨大地震と大津波の被災地でもあった。その被災地を五感では感知できない放射能が襲っている。
慌ただしく町中の取材を終え、汚染地帯を脱しようと急いで帰る途中、町方向に向かう軽トラックに出合う。車を止めて汚染状況を説明すると「避難所にいるんですが、牛を飼っているので餌やりに行かないと。だめですか」。私に許可を求めるような困った表情で年配の女性が聞いてきた。「長い時間はこの辺にいない方がいいですよ。気を付けてください」。そうお願いするしかなかった。
町内の道路をまたぐアーチには「原子力 郷土の発展 豊かな未来」との標語が掲げられていた。しかし、現実には未来を奪いかねない放射能の脅威に町はさらされていた。
× ×
とよだ・なおみ 56年生まれ。イラク戦争、劣化ウラン弾問題などを取材。著書に「戦争を止めたい―フォトジャーナリストの見る世界」など。(共同通信)
【 2011年03月22日 09時10分 】
この記事を読んだときに、本当に驚きました。大本営発表が続き、マスコミに壮大な圧力がかかっている(今でもあまり変わらないですが)3月下旬の時期にこのような報道がなされたからです。この線量が、とんでもないと今ならば全員が分かることでしょう。1mSv/hr以上の環境放射線量など、みたことも聞いたこともないからです。 (高レベルといわれても、せいぜい10μSv/hrでしょう)ようやく、本来の報道が始まるのではないかと当時は、かなり期待していました。
動画の中では、伊達市月舘で50μシーベルト/hrだったと報告されています。本当にこのあたりは、一刻の猶予も許されない避難区域だったのです。
これだけのことが分かっていたのに、伊達市の避難は遅れに遅れ、封鎖地域の設定も1ヶ月以上なされませんでした。大勢の方が内部被曝をしてしまい、もう取り返しがつきません。なぜ、このジャーナリストたちの決死の報告を握りつぶしてしまったのでしょう。
また、記事をよむこちら側も、マイクロシーベルト、ミリシーベルトなど、全く分かっておらず、「ただちに危険はない」の話が頭にこびりついていた時期でした。いくら正しいことを伝えていても、受け取る側に危機感・放射能の知識がないわけですから、この豊田氏をはじめとするジャーナリストたちは、大いに歯がゆさを感じていたと思います。
山下氏の100マイクロシーベルト/時 安全宣言は、このレポートが報道されてから3日後です。
この報道を見て、驚いて退避した人と、とどまった人、どちらが正しかったのでしょう。知識がないのは、本当に恐ろしいことだと思います。
まだまだ危機は続いています。御用達学者の口当たりのいい言葉を盲目的に信用するのではなく、自分の頭で考え、行動するしかありません。
最後になりますが、この動画は海外に紹介されているのでしょうか?原発直後の現地の状況をレポートした動画は、おそらくこれ以外にはないはずですし、世界中の人が震え上がるはずです。概略の英訳をつけていただき、発信していただけたらと本当に思います。また、それこそが、このジャーナリストたちの決死の報道に、遅くなったとはいえ生かすことになります。
また、この動画も削除される可能性が高いと思います。是非とも、
http://keepvid.com/
から、各人のパソコンに保存してください。そして、海外のお友達に紹介してください。
■関連ブログ
遅れてしまった立ち入り禁止区域の設定2011.5.21
天は自ら助くる者を助く2011.6.12
タグ:P
これらの取材がまとめられている本をたまたま購入していたので紹介させていただきます。
これが3月のうちにマスメデイアでも報道されていたら状況は変わっていたのでしょうね。
フォト ルポルタージュ
福島
原発震災のまち
豊田直巳
岩波ブックレット
その後の取材も載っています。まだお読みでない方は是非。
この動画をインターネットで見た覚えがあります。夫にも伝えましたが、あんまり興味をもってもらえませんでした。
このときは、どのくらいの数値が危ないのかとか全く分かっていなくて、いろいろネットで調べていたものの、テレビで大丈夫だと言っているから、ネットの情報はどうなんだろう?
なんて思っていたのを覚えています。
もっとちゃんと放射能について知っていたらと思います。
NET情報に積極的に接する事となり、いわゆるマスメディアや政府による報道はちょっと違うのではないかと思うようになりました。フリーランスのジャーナリストの皆さんに感謝いたします。そして、国民のために頑張ってください!
3・11以降、水の汲置や昆布の摂取などをツイートし、その後にこの動画が出ました。当時、この動画を見て{大変だ!}と発言したところ、知人から{あおるな。この前からの発言を見ていて、現地への思いやりはないのか?と感じていた}といわれ、1msv超が危険と判断する人と、100msvまで安全とする人とでは、論戦は水掛け論になると感じました。
今、あらためて、この記事を読んで、ますます切なくなりました。