危機とGold⑥
シニアアナリスト 増田 悦佐
一橋大学大学院経済学研究科修了後、
ジョンズ・ホプキンス大学大学院で歴史学・経済学の博士課程修了。
ニューヨーク州立大学助教授を経て、外資系証券会社でアナリストをつとめ、
2008年より株式会社ジパングに参画。
急騰している金価格は、バブルなのでしょうか?
「金の工業原料としての価値は、優れた代替物の開発でゼロに近づいている。だから、現在の高い金価格にはなんの根拠もない」と主張する人たちがいます。ですが、これはまったくの嘘っぱちです。熱や電気の伝導率の高さ、柔らかさ、加工しやすさ、いくらでも薄く広げられる性質(展性といいます)の高さ、そして耐酸性の高さによって、金は今もなおかけがえのない貴重な工業原料であり続けています。ほかの装飾品、そして国境なき通貨としての需要も慢性的に高いので、価格が高すぎておいそれとは工業原料として使えないのが玉に瑕というだけのことなのです。
たとえば、宇宙飛行士の頭をすっぽり包むヘルメットのゴーグル部分には視界をさえぎらずに強すぎる光や有害放射線を反射するために、極薄にした金が貼ってあります。地球上に存在する金属の中で、素通しのガラスとあまり変わらないほど見通しはいいところまで薄く引き延ばしても、光や有害放射線は反射できるという機能を持った金属はほかにはありません。ただ、宇宙旅行の必需品という事実は、ちょっと一般の方には遠すぎる将来の話に聞こえるかもしれませんが。
もっと身近な話題ですと、集積回路の接点の95%以上は金でおおわれています。電気を伝導する性質が非常に良好だからです。また、衛星や宇宙探査機から送られてくる微弱な信号を何十億倍に増幅するというような特別高い信頼性を要求される回路の接点にはふつうの集積回路よりはるかに多くの金が使われています。ちょっとしたゆがみでも、何十億倍かに増幅すると回路を破壊するほどの狂暴性を発揮してしまうからです。
その一方で、昔は王侯貴族の家庭で食事を取るとき本当に金の食器を使うこともあったそうですが、現在ではどんなに高級なレストランでも紛失や盗難のリスクが高すぎるので、金の食器で食事をサービスすることはないでしょう。単純に金属としての性質だけを比べれば、水洗いだけで永遠の輝きを保つ金の食器のほうが、ちょっと手入れを怠ると酸化してどす黒くなる銀の食器よりはるかに手間がかからなくていい素材なのですが。
金1トロイオンスと銀1トロイオンスを比べた価格比(金銀比価と言います)が10~15倍の時代なら相当いろいろな用途に幅広く使えていた金も、低くても約40倍、高いときには80~100倍という時代になってからは、本当に厳選した用途にしか使っていません。でも、それは逆に、1つの製品の中でここはどうしても金でなければダメという部分だけに絞りこんで使っているということです。ですから、金価格がかなり高くなっても使いつづけるわけです。
金の工業用原材料としての需要は、とても安定しています
つまり、約10年前の底値ではトロイオンス当たり250ドル前後だった金価格が1700~1900ドルと5~6倍になった段階でも、もともとの製造原価に占める金の比率が0.1%だったとしたら、今でも原価の0.5%~0.6%なので使いつづけていけるということです。工業用原材料としての金は今、ほかのものですむような用途にはほとんど使われず、どうしても金でなければ困るという部分にだけ絞りこんで使われています。だからこそ、金価格がこれだけ急上昇しても工業用原材料としての需要量は非常に底堅い推移を見せているのです。
2007~10年の金の工業用需要を見ると、2008年の第3四半期までは、四半期ごとにほぼ110~120トンで安定していました。さすがに2008年第4四半期から2009年第2四半期くらいまでは、金の工業用原材料需要もリーマンショックによって四半期で80トン弱まで落ちこみました。
しかし、その後金価格は高騰を続けているにもかかわらず、工業用需要は順調に回復しています。2010年の第3四半期には四半期ベースで95トンくらいまで戻しています。これは、だれがどう考えても、もう工業原材料としてはほとんど価値がなくなったという金属の価格と需要の動向を示しているとは思えないでしょう。
最古・最長の経済統計、金銀比価が示す金価格の漸増傾向
歴史をふり返ると、貴金属という実体価値のあるものを根拠にした貨幣を使っていた国々が、すべて金本位を採用していたわけではありません。実際に中国と中国を取り巻く東アジア諸国がかなり長期にわたって銀本位制だったので、現在に至る累計人口ベースで言うと、金本位制より銀本位制のもとで暮らしていた人のほうが人数は多いでしょう。そして、一見したところ金と銀には、実体的な価値を持った貨幣という点で大した違いはなさそうに見えます。
しかし、そうではありません。歴然とした違いがあるのです。上にも書きましたが、同じ重さの金価格を銀価格で割った数値のことを金銀比価と呼びます。英語ではGold Silver Ratioと言い、G/SまたはGSRと略記することが多いようです。
具体的には、金の1トロイオンス当たり米ドル価格を、銀の1トロイオンス当たり米ドル価格で割ったものを指します。つまり、仮に金が1トロイオンス当たり1800ドルで、銀が同30ドルであれば、金銀比価GSRは60ということになります。この金銀比価の歴史的推移を見ると、平時には金の対銀価格はほぼ横ばいで推移するけれど、世界的な金融危機のたびに階段を一段昇るように飛躍的に上がってきたことが分かります。
下に示す表は。有史以来の金銀比価に関する断片的な記述を17世紀末までピックアップしてまとめたものです。
古代エジプトの領内には銀山がなく、またエジプト文明は比較的閉鎖的な文明でした。したがって、古王朝から新王朝までのエジプトでは銀の相対価格が高く、ごく初期には金銀比価は1:1、つまり、金と銀が同じ重さで交換されていたという伝説もあります。ですが、比較的信頼すべき数量的な資料としてもっとも早いもので見ると、紀元前3700年のエジプトにおける金銀比価は2.5、すなわち金1グラムに対して銀2.5グラムという交換比率だったようです。
逆に、シュメールからバビロニアにいたる古代メソポタミアでは、銀山は多かったが金山が少なかったらしく、紀元前2100年前後には金1グラムと交換するには、銀が7~15グラム必要だったという記録が残っています。この上限である15は古代世界では例外的にゴールド価格が高かった事例のようです。その後、紀元前500年ころからメソポタミア地域をふくむ西アジアの広大な領域支配したペルシアでも、領土内に金山がとぼしく、金1グラムで銀13.3グラムという高い金銀比価となっていたと言われています。
古代ギリシアもまた、大銀山には恵まれていましたが金の大きな生産地がなく、比較的金銀比価の高い文明圏でした。そして、紀元前400~300年という大昔から以降は、1870年代というごく最近にいたるまで、ヨーロッパ世界での金の対銀相対価格はだいたいにおいて10~16前後を維持するという、とんでもなく長い安定期がありました。
そのへんの事情は、下のグラフが雄弁にものがたるとおりです。
ところが、1930年代大不況を経ると、金銀比価は低くても20、高いときには100近傍に迫るという大きな振幅を示すようになります。そして、前の表とこのグラフについて注意していただきたいことがあります。
それは、経済が平穏無事に運営されているかぎり、金銀比価はとても安定した水準にとどまる性質があるということです。
結局、約6000年にわたって金銀比価は上がりつづけました
古代から中世の変わり目にあたる7世紀ごろ、1桁から10~12というレンジに入るとその後は2度と1桁で取引されることはなくなりました。それからは、かなり長期にわたって10~12の水準を維持したようです。そして、西欧世界全体に市場経済が浸透する17世紀末から、15~16のレンジに定着するようになります。
その後、ほぼ200年におよぶ長い横ばい期間を脱して金銀比価が上昇しはじめたのは、1873~95年の大不況期のことでした。この大不況の際に15~16というレンジを突破すると、その後は瞬間的な異常値を除けば20未満で取引されることはなくなったのです。
さらに、1930年代を通じて急上昇をつづけ、第二次世界大戦末期の1941~42年には年間平均で100近い高水準に到達します。しかし、第二次世界大戦が終わり、世界中に平和がもどってくると、金銀比価は急落します。しかし、それでも19世紀半ばまでの定位置だった20未満まで下がることはありませんでした。
つまり、過去約5800年間にわたって、金の銀に対する希少性は上がりつづけてきたということが分かります。「金バブル」論者のひとりががいみじくも「6000年のバブル」と評したとおり、何千年といった超長期で見た金価格は、たしかにほぼあらゆる経済指標で唯一、貴金属市場での最有力の対抗馬、銀に対して有史以来一貫して上昇傾向にあったと言ってよいでしょう。
この超長期的な趨勢を見ただけで、断言できることがあります。それは、金と銀では資産としての性格にはっきりとした違いがあるということです。もし、双方とも主として産業用需要中心に価格が決まるとしたら、6000年にもなんなんとする期間を通じて、つねに金の価値は銀に対して横ばいか上昇していたというような事態は起きるはずがありません。
実際には、むしろ逆に銀のほうが価格上昇率の高い時代があったはずです。銀の産業用需要は、銀塩フィルムを用いた写真現像技術の開発で飛躍的に拡大した時期がありましたから、その当時銀の産業用需要のほうが金の産業用需要より大きく伸びていたことはまちがいないでしょう。一方、金の産業用需要には、あまり画期的な拡大の時期はなかったようです。ところが、実際には金銀比価はほぼ一貫して上がっているのです。
宝飾品の原材料として見た場合にも、金に対する需要だけが安定して銀に対する需要を上回るか、同等の伸びを見せるかに終始するはずはないでしょう。価格と生産量とのかねあいで見たとき、金の供給が大きくなりすぎれば銀に対する金の相対価格が下がり、供給が少なくなりすぎれば価格が上がるという市場のメカニズムを通じて、どちらもあまり売れ残らないように相対価格が決まっていたでしょう。だとすれば、長い歴史の中では、必ず金安・銀高の局面だってあったはずです。
なぜ6000年近くも上がりつづけたのでしょうか?
それではなぜ、趨勢としては一貫して金銀比価は上がりつづけ、また過去の深刻な金融危機に際しては、例外なく危機が深刻になればなるほど金銀比価が上がっていたのでしょうか。すでに前章でご説明しましたが、金は銀以上に危機の時代に価値が高まる資産だと考えられるからではないでしょうか。この点については、さらに2つのポイントを補足しておきたいと思います。
第1点として、金の需要は大部分が宝飾品と貨幣および金融商品としての需要となっていることです。典型的なある1年の用途別需要を見ますと、世界の金消費量の6~7割は宝飾用、1割強が製造業などでの原材料用、同じく1割強が地金・硬貨・メダルなどの投資用、そしてわずか数パーセントがETFなどのファンドによる備蓄用でした。
製造業用や歯科医用などの原材料としての金需要は、とても厳選した用途に絞りこんでいます。ですからほとんど好不況に左右されず毎年非常に安定した量になりますが、需要全体の1割程度と非常に水準は低いのです。
一方、銀には金よりはるかに大きな産業用素材としての需要があります。大ざっぱに言えば、4~5年前の内訳で一般的な製造業での原材料用が銀需要全体の4割程度でした。他の用途としては、宝飾用3割、フィルム用2割、硬貨やメダル用が数パーセントといったところです。フィルム用を含めると、工業原材料需要だけで6割を占めることになります。
最近、銀を必要としないデジタルカメラが急速に普及したので、直近の数字ではもう少し低くなっているかもしれません。ですが、銀需要の半分以上が製造業の原材料用であることは変わっていないでしょう。
金融危機が深刻化すれば、当然世界各国の経済活動が低迷します。そうすると、銀の産業用需要も落ちこむわけです。だから、たとえ貨幣用としての需要は増えたとしても、産業用需要のマイナスがあるので、銀に対する総需要は金に対する総需要ほど高まりません。というわけで、金融危機が顕在化したときには、銀の価格は金の価格ほど大きく上昇しないのです。
第2点として、金融危機が本当に深刻になると、戦争や内乱・暴動といった生命や財産が危険にさらされる可能性も真剣に考えなければならなくなります。突然、どこか安全なところになるべく多くの資産を持って避難しなければならないということもありえます。そういう場合には、同じ価値の貴金属を運ぶとすれば、重量当たりの価値が高いので持ち運びが軽くてすむ金のほうが銀より有利です。だから、金融危機が深刻になればなるほど、貴金属の中でも銀より金を選ぶという人が増えるわけです。
現在のように物流網も通信網も発達した社会で、なるべく多くの資産を自分で持って国境を越えて逃げなければならないというような事態が本当に起きうるのでしょうか。日本では、ちょっと想像もつかない話です。
しかし、あらゆる市場でくり広げられる売り買いの行動には、長い歴史の中で蓄積されてきた人類の叡智がしみこんでいます。その市場で、金融危機が深刻化するたびに金銀比価が上がるという経験則が成り立っているということは、用心するにこしたことはないと考えるべきなのでしょう。少なくとも、金融恐慌、戦争、内乱といった危機にさらされた経験の豊富なヨーロッパ人や中国人のほうが、今回の金融市場の混乱に際しても日本人より真剣に金を蓄積しようとしているという歴然たる事実があります。
そこで、金と銀がほかのあらゆる金属と比べても格段に利用されることが多かった貨幣としての金銀に対する需要に、構造的な差があるのではないかという結論に到達します。しかも、世界経済が激動するような時期の金銀に対する貨幣としての需要に大きな差があるのです。だからこそ、国際金融が大混乱するたびに金銀比価は上がるのではないかという推論が成り立つわけです。
※このレポートは投資勧誘を意図するものではありません。
投資の決定はご自身の判断と責任でなされますようお願い申し上げます。