意外と知られていない元寇の原因




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「高麗史」によれば、元寇の発端は高麗の忠烈王が元の世祖(フビライ・忽必烈)に

しきりに働きかけ、執拗に日本への遠征を勧めたことになっている。



高麗の王、忠烈王の言葉

高麗史の元宗十三年(1272年)三月の条日本は、モンゴル皇帝様に服属していません。

だから、戦艦を作って日本を侵略しましょう。

もしも、この事を皇帝さまの下僕である私に任せくだされば心力を尽くし励みます。皇帝さまの力になりたいです。
当絵画は、Yada Issho画伯、福岡県の指定文化財です。



その結果、1274年、高麗は自ら、日本を侵略するために、戦費全額を高麗が負担。

軍船900隻建造
し、2万人の高麗軍によって、日本の対馬・壱岐に上陸し残虐な殺戮を行った。




1274年10月5日、対馬に上陸した敵兵は、住民は男はことごとく殺され、

女は生きたまま手に穴を空けられ、数珠のように繋がれ、捕虜として船に吊るされた。

さらに200人の少年と少女は高麗軍に連れ去られ、高麗王・忠烈王に献上された。




1274年10月14日、2万人の高麗軍は壱岐を攻める。

こでも対馬と同じく、壱岐の住民は大部分が斬殺され、対馬と同様に、

婦女子は手に穴をあけられ船に吊るされたという。

壱岐の守護代 平景隆は約100騎と義勇軍で奮戦力及ばず、

一門一党残らず自殺、宗三郎に急を太宰府に報じるよう命じた。




壱岐は、高麗軍らの残虐行為により、すっかり荒廃してしまった。 夕暮戦場のあとを彷徨い、

戦没した夫を恋う妻、父を慕う子の悲惨さなど戦争のむごたらしさを物語るものがあった。

対馬・壱岐に点在して残る「千人塚」。高麗軍によってたくさんの日本人が虐殺されたことをいまも伝えている。

今も泣く子を黙らせるため、母親が子に「ムクリコクリの鬼が来る」(モンゴル韓国の鬼が来るよ)とあやす言い方が

日本各地に残っていて、辞書にも残っている。

元寇(日本征伐)から700年を経過した今なお、日本人の高麗に対する潜在的な恐怖心は消えていないのである。



現在の壱岐、対馬の状況や当時から変わらない韓国の事大主義、日本への態度。。
もろもろ考えさせられる。

ちなみに朝鮮半島がハゲ山になったのは元寇襲来によるためらしい。
(船の建造のため半島中の木を伐採。モンゴルには木が無い)
のちに日本統治時代に植林・・

壱岐といえば・・

こんなこともありました。







★重文の経典盗難事件が時効・韓国に酷似の国宝

1994年に長崎県・壱岐の安国寺から国の重要文化財「高麗版大般若経」が盗まれた事件は、
23日午前零時で7年の時効が成立した。酷似した経典3巻が95年に韓国で国宝に指定されたことが判明。
外務省が韓国側に調査協力を要請したが、同一物か確認できないまま終結となった。
盗難が発覚したのは94年7月23日。
11世紀初頭に高麗で彫られた版木から刷った初彫本と、写本の計493巻が宝財殿からなくなっていた。
南京錠を切断して侵入し、経典だけを持ち去ったとみられ、被害額は数億円。
長崎県警は全国の古物商から情報を募るなどしたが犯人像はつかめないまま。
「最後に見てから盗難に気付くまで2カ月が過ぎており、広範囲な捜査を余儀なくされた」(県警幹部)。

一方、文化庁は韓国が95年に国宝に指定した経典3巻と、安国寺の初彫本の写真を照合。
しみや汚れ、巻末の署名などが酷似していることが判明し、
外務省は98年2月、韓国側に調査協力を要請した。





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