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2004/08/04
日顕宗を破す
学会=大聖人直結で偉大な世界宗教へ
日顕宗=広布の破壊で権威独善の邪教へ
言論の雄・学生部には、極悪の本質を見抜き、敢然と正義を叫び抜いていく使命がある。ここでは、仏意仏勅の団体である創価学会を“衣の権威”で縛り付け、広宣流布を破壊しようと画策した日顕宗の悪を糾弾する(連載中の「日蓮仏法の大道II」を、加筆・再構成しました)。
御聖訓
悪侶を誡めずんば豈善事を成さんや(21ページ)
如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには(24ページ)
戸田第2代会長の言葉
「信心は大聖人の時代に還れ」
「我々は大聖人を信じ、大聖人の教えを行じているのだ。この原点を忘れたら大変なことになる。“途中”の僧侶などを盲信したら、すべてが狂ってしまう」
1 なぜ日顕宗と戦うのか
人の生命を濁らす魔縁/
日蓮大聖人の国主諫暁の書「立正安国論」に、次の一文がある。
「悪侶を誡めずんば豈善事を成さんや」(御書21ページ)
大聖人は、「悪」を徹底的に責め抜くことが「善」であると述べられている。
そしてさらには、悪僧と戦うことを訴えられている。
「悲いかな数十年の間百千万の人魔縁に蕩かされて多く仏教に迷えり」(同24ページ)
正しい教えを歪めた仏教によって民衆が苦しんでいる。邪法や謗法が人々の生命を濁らせている、と。ここでいう魔縁とは、邪法を弘め、正法を誹謗する悪僧のことである。
さらに大聖人は以下のように述べられている。
「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(同ページ)
「須く凶を捨てて善に帰し源を塞ぎ根を截べし」(同25ページ)
要するに、根源の悪を断ち切ってこそ、全民衆の幸福という大善が築かれるのである。
今、私たちが、この立正安国の原理に基づいて日顕宗を徹底して呵責し続けるのは、日顕宗の持つ魔縁の性分が蔓延するのを断ち切るためである。
「日顕宗」と呼ぶ理由/
それでは、日顕宗のどこが魔縁なのか。
日顕宗の過ちは、本来、日蓮大聖人の仏法にない教えを、日蓮大聖人の教義として展開している点にある。
僧俗差別義や法主信仰などは、明らかに僧俗平等を説く日蓮仏法に違背する大謗法にほかならない。
なぜ、創価学会が日顕の宗門を「日顕宗」と呼ぶのか。それは、すでに日蓮大聖人の宗教ではなくなったからであり、日顕を信仰の対象としている(法主絶対論)からである。
日蓮大聖人は、「十宗判名の事」のなかで、当時の日本の仏教各派に対して、それぞれの邪義の特質をとらえて別名を付けられた。
例えば、念仏は娑婆世界の父である釈迦仏を忘れたので「不孝宗」、経典を捨てて末流の人師の説を重んじる三論宗を「背上向下宗」などと付けられている(同692ページ)。
私たちも、法主を詐称し法主絶対論を説く日顕の教団に対し、その元凶たる「日顕」の名を示し「日顕宗」と名付けたのである。
“途中”を信じるな “原点”に立ち還れ/
宗教者が民衆の苦悩を忘れて、修行の世界に閉じこもる。あるいは、権威化し人々を隷属させようとする。独善的な宗教、排他的な宗教が、どれだけ民衆を苦しめてきたことか。
こうした問題に目をそらしては、民衆を救う使命を果たすことはできない。
宗教を絶えず「人間のための宗教」に戻す。「民衆の苦悩を解放する宗教」として、一切の魔性の悪と戦い続ける。そこに「宗教革命」の本質がある。
言い換えれば、腐敗・堕落・背信の悪僧とどこまでも戦い抜くことが、宗教を純化させるのである。
戸田第2代会長も、こう語られていた。
「信心は大聖人の時代に還れ」
「我々は大聖人を信じ、大聖人の教えを行じているのだ。この原点を忘れたら大変なことになる。“途中”の僧侶などを盲信したら、すべてが狂ってしまう」
どこまでも大聖人の教えを守り抜き、それに背くような悪僧は徹底して責める。
私たちの日顕宗に対しての精神闘争は、大聖人直結の仏法に立ち還る、崇高な宗教革命なのである。
2 宗門事件の経緯
学会こそ広布の功労者/
創価学会は昭和5年(1930年)11月18日の創立以来、広宣流布を目指し、日蓮正宗宗門の外護に努めてきた。戦後、経済的に衰亡を極め、荒廃していた宗門を支えたのは学会であった。日蓮正宗の歴史上、未曽有の折伏を行い、広宣流布を実際に推し進めたのも、僧ではなく学会であった。また、大石寺の大講堂、大客殿、正本堂をはじめ、350以上もの寺院を各地で建立、寄進した。
広宣流布の大願に生きる創価学会と、僧の権威に固執しようとする宗門との間には、時に摩擦が生じることもあった。しかし学会は、ただ大聖人の御精神のままに、僧と俗の和合を願い、事態の収拾に努力し、乗り越えてきた。
だが、学会が宗門を守り、純粋な信心で僧を大切にしたことに対し、感謝するどころか、驕り高ぶり、本来の使命と精神すら忘れて、下劣な欲望に溺れ、仏道修行の自己鍛錬を怠る僧が続出。その最たる者が、醜い嫉妬心と保身から学会を破壊しようとした法主・日顕である。
信徒支配を狙った宗門/
平成2年(1990年)、日顕は信徒蔑視の体質を現し、学会を切り捨てて会員を宗門の支配下に置いて隷属させるために、「創価学会分離作戦」(C作戦)という陰謀を企て、実行に移した。
具体的には同年12月、宗門は宗規を一方的に変更し、池田名誉会長をはじめ学会幹部に対し、それまで信徒の指導を託して任命してきた法華講総講頭・大講頭の役職の罷免を通告してきた。あまりにも突然の措置であり、学会は話し合いによる解決を求めた。
しかし、宗門は話し合いを拒否。さらには学会員に対し、信仰の対象である御本尊の下付を停止。そして平成3年(1991年)11月には、一方的に学会を「破門」するという暴挙に出たのである。それを通達してきた「破門通告書」には、御書の引用など1カ所もなかった。教学的な裏づけもなく、それまで尽くしてきた信徒を切り捨てたのだ。
事実、日顕は“学会員のうち20万が山につけばよい”と発言しており、自らの保身のために、学会組織を破壊し、金蔓としての信徒の支配をたくらんだのだ。
日顕宗は、教義的にも大聖人に違背し、邪教と化した。また、御本尊や塔婆を信徒支配、供養収奪の道具として利用する一方、法主をはじめとして各地の僧が反社会的行動や犯罪を重ねるなど、大聖人の名を汚す行為は数え上げればきりがない。
結果、C作戦実行前に比べて信徒数は2%に激減。宗門を離れる脱講者も相次ぎ、その凋落ぶりは、いや増して大きくなっている。
一方、学会は、「御本尊根本」「御書根本」を確認し、仏意仏勅の王道を歩んできた。平成5年(1993年)には、日寛上人が書写された御本尊を御形木御本尊として全世界の会員に授与することを決定。そして世界190カ国・地域にまで妙法を弘めるなど、大聖人直結の教団として、広宣流布を現実に進め、大発展してきた。
C作戦から14年がたつ現在、学会と宗門の正邪、善悪はもはや完全に明らかであり、大聖人の仏法の清流は偉大な世界宗教たる学会にこそ流れているのである。
3 日顕宗の主な邪義
(一)僧俗差別義の錯誤
日顕宗の教義は、日蓮仏法に脈打つ人間主義の思想に真っ向から違背する。
その最たるものが、「僧侶が上で、在家信徒が下」という僧俗差別義である。
例えば、学会に送られてきた日顕宗の文書には、こう記されている。
「あたかも僧俗がまったく対等の立場にあるように言うのは、信徒としての節度・礼節をわきまえず、僧俗の秩序を失うものである」と。
極端に時代錯誤の考え方である。封建主義の思想が抜けきれないのだ。
そもそも、日顕が僧俗差別を強調するのは、“僧侶による信徒支配”を正当化したいからである。
信心もなければ、修行にも励まず、教学力もない。信徒から信頼も尊敬もされないことを、身にしみて痛感している坊主たち。だから、偉く“見せかける”しかない――。
そこで日顕宗は、“衣の権威”で、在家信徒を無理やり下に押さえつけようとするのである。
本来、“僧と俗とを問わず、広宣流布のために戦っている人が偉大”というのが仏法の精神である。
無条件に僧が偉いなどという考えは、日蓮仏法からは生まれない。むしろ、大聖人は次のように仰せである。
「僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使と見えたり」(御書1448ページ)
「此の世の中の男女僧尼は嫌うべからず法華経を持たせ給う人は一切衆生のしう(主)とこそ仏は御らん候らめ」(同1134ページ)
法華経を持ち、それを実践する人は、僧も俗も関係なく仏の使いであり、平等である――これが大聖人のお心であり、日蓮仏法の根幹である。
大聖人は、すべての人間を、仏と同じ大福徳の境涯へと高めるために、一切衆生が等しく仏性を具えた尊貴な存在であることを明かした法華経こそ唯一の正法であると訴えられ、末法の万人成仏の真髄を御本尊として顕された。
大聖人は仰せである。
「一人を手本として一切衆生平等」(同564ページ)
仏の生命が尊貴であり、すべての人間には、平等に尊貴なる仏界の生命がある――妙法の生命尊厳観に裏打ちされた平等思想こそが、日蓮仏法の魂である。
「僧俗差別」の邪義に狂い、仏法の魂を捨てた日顕宗。それは、一切衆生を等しく仏にするため、人を差別する魔性と戦い抜かれた大聖人への反逆である。否、大聖人が戦われた大悪そのものである。
(二)神秘的な血脈論
見せかけの権威にすがる日顕が、「法主が無条件で一番偉い」と言いたいがために、その根拠として強調しているのが、神秘的な血脈観である。
血脈とは、もともと、師匠から弟子へ、法門が受け継がれていくことを、血管に血が流れることに譬えたものである。
大聖人は、以下のように仰せである。
「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとする」(同1337ページ)
「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(同1338ページ)
「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」(同1337ページ)
成仏の血脈は、特定の人間のみが所持するものではなく、万人に開かれるべきものであり、法華経を信じる心が大事である、と教えられているのだ。
「血脈」とは要するに「信心」であり、日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、南無妙法蓮華経と唱え、異体同心の団結で広宣流布の実践に励むなかに、万人に流れ通うのである。
そこには、“法主であるから特別”というような特権主義など、微塵もない。
日顕宗のいう血脈とは、前の法主から法主の座を渡され、「血脈相承」されるだけで、大聖人の“御内証”を受け継ぎ、その法主は大聖人と等しい存在に無条件でなれるとする“オカルト的な”血脈である。
日顕は「(学会は)法体の血脈を除いて、信心の血脈だけを論じております(中略)枝葉のところに執われているわけです」と。
大聖人が明確に「信心の血脈」を強調されているにもかかわらず、それを「枝葉」と軽視する。御聖訓を矮小化する、完全な御書否定、大聖人否定である。これこそ、まさに邪義である。
日顕宗は、相承や血脈をいたずらに神秘化してきた。そのため相承が権威化し、一般の者が論ずべきではないと「タブー視」されてきた。
「僧が上」と言い続けるために、オカルト話をつくりあげ、人の目をごまかすしかないのである。
「相承」や「血脈」という、本来、仏法の真髄を永遠に伝え、広宣流布させていくための法門が、いつのまにか高僧たちの権威を飾り立てる道具となる。信徒がその権威に騙され、ありがたがり、利用されていく。
これは、宗教が堕落する、“お決まりの方程式”である。
いずれにしても、大聖人に違背している日顕宗は、信心の血脈を失っており、たとえ御本尊を拝しても功徳はない。
(三)法主信仰の驕り
日顕宗が終始、主張しているのは“法主は絶対であるから、ともかく法主に従え”という「法主絶対論」「法主信仰」である。
日顕いわく、“学があろうが、なかろうが、どんな僧でも相承を受けた以上は「生身の釈迦日蓮」である”と。
宗門能化の文書にも、「本宗の根本は、戒壇の大御本尊と唯授一人血脈付法の御法主上人であります(中略)なぜならば、唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にましますからであります。したがって、この根本の二つに対する信心は、絶対でなければなりません」と。
相承を受け、法主になった以上は、自動的に“法主=大聖人”“法主=大御本尊”であり、絶対の者として法主を敬え、と言うのである。
法主が絶対であるなどという教義は、大聖人の御書にも日興上人の御教示にも一切ない。
そもそも日顕は、広宣流布を目指してまじめに信仰に励む信徒を権威で従えようとし、嫉妬に狂って破門したのである。反仏法の破壊魔の人間を、無条件で“大聖人と同じ”とすることなどできようか。
また、信じる根本が二つあるというのも、おかしな話である。「根本として尊敬する」から「本尊」なのである。その本尊と日顕を同列に扱うなど、これ以上の御本尊への誹謗はない。
本来、法主とは、宗門組織を「管領」「統治」する「座主」という組織上の立場であり、大聖人や御本尊と同じであるはずがない。
日興上人は「日興遺誡置文」で「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(同1618ページ)と、仏法に背いた法主を用いてはならないと戒められている。
この仰せは、時の法主であろうと絶対ではなく、将来には大聖人の仏法から逸脱するような魔物も現れるであろう、との警鐘と拝することができる。
この戒め自体が、法主絶対論を明快に否定しているのである。
(四)化儀の悪用
今日、一般的には常識となっている、僧が導師となって営まれる葬儀や法要。これらは特に江戸時代に日本社会に定着した習慣であり、仏教が本来定めているものではない。いわば仏教が形骸化した象徴ともいえる。
そうした化儀を大聖人の仏法における不変の化儀、仏法の本質であるかのように主張しているのが日顕宗である。
「本宗伝統の法要化儀の一切は、その大綱において、大聖人以来、いささかも変わるものではありません」(「解散勧告書」)
後の時代に形成された化儀を、あたかも大聖人が定められたかのようにすりかえている。そして、葬儀が成仏に欠かせない儀式であるかのように主張する。
特に追善供養のために立てるとされている塔婆は、供養収奪の道具の最たるものとなっている。盆や彼岸どころか、正月、結婚式の折にまで売りつけ、供養を稼いでいるのだ。
もし仮にも日顕宗の言うように葬儀が成仏に欠かせないほど重要であるならば、大聖人が葬儀の大切さを説かれ、葬儀の作法などについても事細かに指南されているはずである。
だが実際には、御書のどこにも、葬儀で成仏が決まるかのような御教示はない。あるのは、南無妙法蓮華経の題目によって回向していくことである。
「過去の慈父尊霊は存生に南無妙法蓮華経と唱へしかば即身成仏の人なり」(同1423ページ)との大聖人の御金言にあるように、要するに成仏は生前の信心・実践によるのである。
大聖人の御教示を無視して、僧による化儀が成仏のために不可欠である、と主張すること自体、大聖人の仏法を歪める大罪である。
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