「戦後」の思想や政治、社会趨勢に対する問題提起が成され始めて久しい。
我々「真正の保守(自由)主義グループ」は、これが「戦後、突然始まった事」ではなく、少なくとも戦前、遡ること明治維新にその萌芽を指摘している。
少なくとも「戦前」の段階で、「マルクス経済」を入り口として、その実践の場を整備するという経緯を辿り、次第に輪郭を鮮明にしてきた「真紅の思想」は、先の大戦で大輪を咲かせ、見事に我が国を敗戦、焦土という「亡国」に導いた。
奇跡的にこの「亡国」は、共産圏に統合されるという「真の亡国」には至らず、皮肉にも我が国の生命力を再認識することとなった。
しかしながら、その後も、米国極左が主導した前期GHQ、共産国による内外の工作活動、敗戦を期に再び世に解き放たれた我が国に巣食う極左グループらの結託による「日本社会主義化計画」は執拗に続けられた。
この「社会主義・共産主義革命の正面突破」は、学生運動期にピークを迎えたが、彼等が元来の「極左思想」の「齟齬、矛盾」によって自滅したこともあり、再び亡国の危機は何とか回避された。
我々「真正の保守(自由)主義グループ」は、これが「戦後、突然始まった事」ではなく、少なくとも戦前、遡ること明治維新にその萌芽を指摘している。
少なくとも「戦前」の段階で、「マルクス経済」を入り口として、その実践の場を整備するという経緯を辿り、次第に輪郭を鮮明にしてきた「真紅の思想」は、先の大戦で大輪を咲かせ、見事に我が国を敗戦、焦土という「亡国」に導いた。
奇跡的にこの「亡国」は、共産圏に統合されるという「真の亡国」には至らず、皮肉にも我が国の生命力を再認識することとなった。
しかしながら、その後も、米国極左が主導した前期GHQ、共産国による内外の工作活動、敗戦を期に再び世に解き放たれた我が国に巣食う極左グループらの結託による「日本社会主義化計画」は執拗に続けられた。
この「社会主義・共産主義革命の正面突破」は、学生運動期にピークを迎えたが、彼等が元来の「極左思想」の「齟齬、矛盾」によって自滅したこともあり、再び亡国の危機は何とか回避された。
しかし、彼等が残した現行憲法礼賛、民法改正、反国家思想と反米思想の蔓延、ポストコロニアル思想やジェンダー思想の蔓延、反資本主義・反自由主義
思想の拡大浸透、統制経済(管制経済)の拡大といった傷跡は、再三に渡って膿み続け、合併症を併発しながら我が国の「基礎疾患・持病」となった。
その後も極左グループの「革命に向けた闘志」は折れる事無く、「真紅の思想」の方程式をあらゆる方面に転用・応用し、「無色透明」の形を取ることによって社会の隅々まで浸透することに成功した。
この「無色透明」の「遅発性毒ガス」は、数多の危機の中でも息づいて来た我が国の「自生的秩序」の骨格を見事に融解し、遂に国民は「核家族化」「少子高齢化」というオブラートに包まれた表現の下、「ばらばらのアトム」「海面に漂う浮き草」「根無し草」と化しつつ在る。
これはつまり国民の「(地球)市民化」が達成されつつあるということだ。
「ばらばらのアトム」「海面に漂う浮き草」「根無し草」では、生存はままならぬ。
特に「誰かの助け」を絶対的に必要とする「幼児」や「高齢者」が、アトム状態で生きて行く事は不可能だ。そこで、「その生活、政府が面倒を見ましょう」ということになる。
今や「幼児、高齢者」は「国家で生活の面倒を見るのが当然」とされるまでに至り、現実的にも「国家の助けなくしては幼児、高齢者は生きて行けない」状況が”整備”されつつある。
これは正にハイエクが「隷属への道」で警鐘を成らした通りの「道」である。
しかしながら、「バラバラにしてから”再統合”」こそが社会主義、共産主義思想の核の部分である。
そしてその「再統合」を行うのが、特定組織(左翼政党・左翼労組等)であり、極左人であると、連中は妄念して憚らない。
極左人とは、自身を「メシア・指導者」であると狂信するカルトグループである。
そして、その「再統合作業」も日々着々と進行しており、既に「公営年金」「医療保険」「介護保険」といった「公営社会保障・福祉」を少々いじる事だけで、国民生活が激変してしまうまでの異常事態に至っている。
そうした実体的な「アトム化と再統合」に加え、決定的であったのが、「あなたが悪いのではない、社会や政府が悪いのだ」という悪徳カルト宗教さえも腰を抜かす「ドグマ」の拡散と浸透だ。
この「悪魔的ドグマ」は、「他罰、無道、無責任」を奨励し、人心(道徳、倫理、美徳)を腐敗させるばかりか、同時に逆説的に「社会、政府に対する依存を深める」という二元的な破壊を齎している。
経済的な側面で見れば、「統制経済(管制経済、計画経済)」を全面に押し出す極左勢力は言わずかな、「統制経済(管制経済、計画経済)」とは無縁の、むし ろ古来より自由経済の花咲いてきた我が国において、戦前から今日までの「統制経済(管制経済、計画経済)の推進こそが日本の国柄」などと出鱈目をアジテー ション・プロパガンダして、左翼の好アシストを続ける「純粋経済左翼」である「民族派(国家社会主義グループ)」による国力衰退誘導も看過出来ない。
経済思想における民族派と極左の相似は、マクロばかりでなく、最近で言えば「TPP反対」の絶叫や「派遣制度反対」といった具体的な事柄にも顕著に表象している。
劣化の度合いを深める民族派は、「反米」に留まらず、「鎖国嗜好」にまで転落し、「国家の繁栄と永続」という保守哲学の基本目的などお構いなしの暴れぶりを晒している。
我が国の「自生的秩序」を保守する安全弁は、もはや「皇室・天皇」という背骨しか残っていないとさえ言えるまでの「亡国危機」である。
当然、極左勢力の狙いは、この一点に注がれる。
彼等はもう「天皇制廃止」などという正面突破や、「天皇を絶対権力者として位置づけ、その下で国民を統制する」という既に試みられた手法は用いない。
彼等は「無色透明路線」の「迂回ルート」、つまり「極左思想の方程式の応用」の絶大な効果に味を占めている。
これまで不断に続けられてきた、皇室と天皇の威信・権威を失墜させる「皇族、天皇平民化キャンペーン」や、それと併行して今日急速に発動された「皇統断絶工作」、つまり「女性宮家創設」「女系天皇容認」がそれである。
彼等の「天皇制廃止運動」は最終局面に入り、「平民化」と「皇統断絶」という二面作戦を展開している。
甚だ情けないのが、民族派の少なくない数が、この二面作戦に積極的に加担している現状だ。
加えて以前も指摘した通り、「リバタリアン」と称する中に、少なくない数の「放縦の自由主義者」が混ざり込んでおり、これらは極めてアナーキズムと親和性が高く、彼等が至上価値とする筈の「自由」についての智慧すら甚だ低水準である。
殆ど「(放縦の)自由カルト」と言ってよい程の哲学無知であり、「なぜ自由が擁護されるのか」「何によって自由が擁護されるのか」を僅かにも考えない。
精々が、放縦の自由主義者であるJ・S・ミルの自由定義「他人を害しない限りにおいて自由は保障されなければならない」を呪文のように唱える程度だ。
そもそも「他人を害しない」というのが、「道徳・倫理」の一端であることにさえ気付かず、このたった一つの道徳・倫理のみ守れば良いと妄念する。
よって彼等には、「天皇・皇室」を筆頭とする「法」の価値が全く見えない。そして理解も出来ない。
経済政策には優れた論を展開する彼等であるが、こと「法と自由」に関しては無知蒙昧で、彼等の主義主張が完全に達成された折には、「自由ゼロ」「アナーキー」の世界となる事が解らない。
我々の課題は多い。
1)皇統護持、皇室護持
2)自由経済の推進
3)真正の保守(自由)哲学の周知
これを3本柱として、改めて、共産・社会主義勢力、全体主義勢力に宣戦布告する。
当記事は真正保守政党を設立するより管理人のshinseihoshu氏のご好意で転載させていただいています。

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その後も極左グループの「革命に向けた闘志」は折れる事無く、「真紅の思想」の方程式をあらゆる方面に転用・応用し、「無色透明」の形を取ることによって社会の隅々まで浸透することに成功した。
この「無色透明」の「遅発性毒ガス」は、数多の危機の中でも息づいて来た我が国の「自生的秩序」の骨格を見事に融解し、遂に国民は「核家族化」「少子高齢化」というオブラートに包まれた表現の下、「ばらばらのアトム」「海面に漂う浮き草」「根無し草」と化しつつ在る。
これはつまり国民の「(地球)市民化」が達成されつつあるということだ。
「ばらばらのアトム」「海面に漂う浮き草」「根無し草」では、生存はままならぬ。
特に「誰かの助け」を絶対的に必要とする「幼児」や「高齢者」が、アトム状態で生きて行く事は不可能だ。そこで、「その生活、政府が面倒を見ましょう」ということになる。
今や「幼児、高齢者」は「国家で生活の面倒を見るのが当然」とされるまでに至り、現実的にも「国家の助けなくしては幼児、高齢者は生きて行けない」状況が”整備”されつつある。
これは正にハイエクが「隷属への道」で警鐘を成らした通りの「道」である。
しかしながら、「バラバラにしてから”再統合”」こそが社会主義、共産主義思想の核の部分である。
そしてその「再統合」を行うのが、特定組織(左翼政党・左翼労組等)であり、極左人であると、連中は妄念して憚らない。
極左人とは、自身を「メシア・指導者」であると狂信するカルトグループである。
そして、その「再統合作業」も日々着々と進行しており、既に「公営年金」「医療保険」「介護保険」といった「公営社会保障・福祉」を少々いじる事だけで、国民生活が激変してしまうまでの異常事態に至っている。
そうした実体的な「アトム化と再統合」に加え、決定的であったのが、「あなたが悪いのではない、社会や政府が悪いのだ」という悪徳カルト宗教さえも腰を抜かす「ドグマ」の拡散と浸透だ。
この「悪魔的ドグマ」は、「他罰、無道、無責任」を奨励し、人心(道徳、倫理、美徳)を腐敗させるばかりか、同時に逆説的に「社会、政府に対する依存を深める」という二元的な破壊を齎している。
経済的な側面で見れば、「統制経済(管制経済、計画経済)」を全面に押し出す極左勢力は言わずかな、「統制経済(管制経済、計画経済)」とは無縁の、むし ろ古来より自由経済の花咲いてきた我が国において、戦前から今日までの「統制経済(管制経済、計画経済)の推進こそが日本の国柄」などと出鱈目をアジテー ション・プロパガンダして、左翼の好アシストを続ける「純粋経済左翼」である「民族派(国家社会主義グループ)」による国力衰退誘導も看過出来ない。
経済思想における民族派と極左の相似は、マクロばかりでなく、最近で言えば「TPP反対」の絶叫や「派遣制度反対」といった具体的な事柄にも顕著に表象している。
劣化の度合いを深める民族派は、「反米」に留まらず、「鎖国嗜好」にまで転落し、「国家の繁栄と永続」という保守哲学の基本目的などお構いなしの暴れぶりを晒している。
我が国の「自生的秩序」を保守する安全弁は、もはや「皇室・天皇」という背骨しか残っていないとさえ言えるまでの「亡国危機」である。
当然、極左勢力の狙いは、この一点に注がれる。
彼等はもう「天皇制廃止」などという正面突破や、「天皇を絶対権力者として位置づけ、その下で国民を統制する」という既に試みられた手法は用いない。
彼等は「無色透明路線」の「迂回ルート」、つまり「極左思想の方程式の応用」の絶大な効果に味を占めている。
これまで不断に続けられてきた、皇室と天皇の威信・権威を失墜させる「皇族、天皇平民化キャンペーン」や、それと併行して今日急速に発動された「皇統断絶工作」、つまり「女性宮家創設」「女系天皇容認」がそれである。
彼等の「天皇制廃止運動」は最終局面に入り、「平民化」と「皇統断絶」という二面作戦を展開している。
甚だ情けないのが、民族派の少なくない数が、この二面作戦に積極的に加担している現状だ。
加えて以前も指摘した通り、「リバタリアン」と称する中に、少なくない数の「放縦の自由主義者」が混ざり込んでおり、これらは極めてアナーキズムと親和性が高く、彼等が至上価値とする筈の「自由」についての智慧すら甚だ低水準である。
殆ど「(放縦の)自由カルト」と言ってよい程の哲学無知であり、「なぜ自由が擁護されるのか」「何によって自由が擁護されるのか」を僅かにも考えない。
精々が、放縦の自由主義者であるJ・S・ミルの自由定義「他人を害しない限りにおいて自由は保障されなければならない」を呪文のように唱える程度だ。
そもそも「他人を害しない」というのが、「道徳・倫理」の一端であることにさえ気付かず、このたった一つの道徳・倫理のみ守れば良いと妄念する。
よって彼等には、「天皇・皇室」を筆頭とする「法」の価値が全く見えない。そして理解も出来ない。
経済政策には優れた論を展開する彼等であるが、こと「法と自由」に関しては無知蒙昧で、彼等の主義主張が完全に達成された折には、「自由ゼロ」「アナーキー」の世界となる事が解らない。
我々の課題は多い。
1)皇統護持、皇室護持
2)自由経済の推進
3)真正の保守(自由)哲学の周知
これを3本柱として、改めて、共産・社会主義勢力、全体主義勢力に宣戦布告する。
当記事は真正保守政党を設立するより管理人のshinseihoshu氏のご好意で転載させていただいています。
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江戸時代の天皇のありかたを現代に導入した方が「皇統護持、皇室護持」になると思うのだが。