さて、ここからが本題。
まず、秋山教授みずから冒頭で予告されたように、
表題は「宍戸氏と佐々部氏」だが、
今日は実質、佐々部氏を紹介する内容であった。
佐々部氏は、安芸高田市高宮町佐々部に本拠を置き、
石見の高橋氏、安芸の毛利氏・宍戸氏、備後の三吉氏らに囲まれた弱小領主であったが、
福原の記憶では、
基本的に毛利の家臣となったはずであるが、
天正初期、美作あたりでの宇喜多氏との攻防では、
宍戸氏の家臣として登場すると聞いていたので、
「まー、宍戸隆家といえば元就の娘婿、親戚のようなものなので、
自らの家臣を吉川氏や小早川氏に出向させたのと同様、
宍戸氏の基盤固めのために佐々部氏を宍戸氏につけたのだろう」
程度に想像しており、
「でも、その経緯は、いつか調べておきたいものだ」
と思っていた。
本日は、その経緯がかなり明らかになった。
それは、福原が「元就!その成功哲学」という小論で展開を試みた、
享禄年間から天文初年にかけての毛利家のミステリアスな動向の謎を解く鍵としても、
重要な意味を持つ事が解った。
が、まずは、今日の講演の論旨をさらっとおさらいしておく。
なお、その内容は、
実は高宮町の菊山ハジメ氏「戦国武将・佐々部若狭守」
という書物から得たものがメインのようである。
佐々部氏は、実は、大永年間に分裂したのだそうだ。
大永五年、佐々部式部は、出雲の尼子と謀って、父・兵部を殺害した。
前年の尼子氏は、伯耆・山名氏の諸城に大攻勢を仕掛け、破竹の快進撃だった。
これを看過できない因幡の山名氏が、
大永六年には尼子氏を取り巻く周辺諸国人に、反・尼子を呼びかけるに至っている。
この頃、毛利氏は、大永四年、尼子と通じた相合元綱を成敗し、
大永五年六月には、大内義興に降伏した東広島市志和東の天野興定と同盟を結ぶなど、
反尼子・親大内を鮮明にしていた。
このようなキナ臭い情勢下ではあったが、
佐々部式部の行動は時宜に適さなかったと見え、
式部は祖父・播磨守に追放され、殺された兵部の次男・宮ちよ丸に家督が継承された。
これを、大永六年正月、石見・阿須那の高橋興光と、安芸の毛利氏が承認した。
が、その僅か三年後の享禄二年、毛利氏は高橋氏を滅ぼし、
佐々部氏は、以後一元的に毛利氏に服属したと考えられる。
なお、高橋氏の滅亡に際しては、上下荘および阿須那の内五百貫を、
毛利氏は宍戸氏に割譲している。
享禄四年、大内陣営であるはずの毛利氏は、尼子晴久と兄弟契約を交わしている。
そして、享禄五年の福原広俊以下家臣連署起請文には、
何と、尼子と組して祖父に追放された佐々部式部が、
毛利氏直属家臣になっているのである。
その四年後の天文五年、毛利元就は、
備後の江田氏へ嫁いだ佐々部氏の姫君へ向かって、
佐々部領における姫君の所領を安堵しており、
依然、佐々部氏への強い影響力を発揮している。
しかし、天文九年および十年、
尼子氏が吉田郡山城を攻めた際、毛利方として働いた佐々部兵部に感状を発給しているのは、
何と宍戸元源なのである。
また「野坂家文書」により、その佐々部兵部は、名を源世(よしよ)と言い、
元服に際して、宍戸元源の加冠を受けた事が解る。
とすると、天文五年から九年の間に、何かの事情で、
佐々部氏本家が、毛利家臣から宍戸家臣に変化した事となるが、
その背景事情は、結局、謎である。
宍戸配下の佐々部氏は、宮ちよ丸が元服して兵部少輔源世となった後、
山内元宗が、母が佐々部氏の出身と言う縁で、佐々部氏に養子入りし、
萩藩では、山内氏として代々家督が受け継がれた。
山内元宗は、山内隆通の子・元通の長男で、幼名を千法士と云ったが、
妾腹のため家督を相続できず、
気にかけた隆通が、毛利輝元に配慮をお願いしたところ、
佐々部氏への養子入りが成り立ったらしい。
一方、大永年間に追放された佐々部式部の系統は、
式部の子が若狭守又右衛門尉元祐、その子が又右衛門尉元資。
元資は、桂就宣・小方元信とともに、
毛利家の三奉行の一人として活躍したようである。
そして、元資の子・弥吉は、父の死後、
758石取りの武士・又右衛門尉として、
慶長二年、福原式部少輔組に名を連ね、
その子孫は今日、佐々部家として山口県に居住されているそうだ。
佐々部氏は、他にも口羽通良の家臣の系譜も確認できる。
さて、福原の疑問は、
いつどのような事情で、佐々部氏本家が宍戸氏の家臣に転じたか、
であるが、
ひっかかるのは、元就の娘が宍戸隆家に嫁いだ時期である。
その時点で、宍戸氏と毛利氏の友好関係が揺らぎなきものとなったわけであるが、
従来は、天文三年と伝えられている。
また、三吉氏の宿老・上里(あがり)氏の屋敷を攻撃した天文四年三月以後、
毛利氏の尼子氏への敵対姿勢が明白となり、
天文五年以降、尼子氏の備後・安芸方面への猛攻が始まるのである。
その後、天文九年までの間に何が起こったのか、
全く手かがりがないようだが、
尼子氏の猛攻により、或いは、
毛利家の下で佐々部式部と同席するのを快く思わなかった佐々部本家の思惑により、
佐々部宮ちよ丸は、ひとたびは尼子に降ったが、
宍戸氏が実力で佐々部領に侵入して、これに掣肘を加えたので、
毛利氏が佐々部氏が宍戸氏の家臣となる事を容認したのではないか、
との仮説も成り立つだろう。
なお、天文九年と大永五年の間には十五年もの隔たりがある。
天文五年から九年の間に、宍戸元源が宮ちよ丸に加冠したのだとすると、
宮ちよ丸は、十五歳を大幅に超過して元服したか、
家督相続時に、まだ赤ん坊同然だったかのいずかであろう。
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