収蔵資料展示「公文書館資料の世界~書庫の記録のものがたり~」
平成24年5月17日(木)~8月31日(金)(91日間)
(期間中の休館日;毎週月曜、7月17日(火))
神奈川県立公文書館1階展示室(横浜市旭区中尾1-6-1)入館無料
(相鉄線二俣川駅から徒歩17分、または相鉄バス「運転試験場循環」で「運転試験場」下車徒歩3分)
幕末当時、相模国愛甲郡下荻野村(現在の厚木市)にあった荻野山中藩陣屋が、薩摩藩の集めた浪士隊によって焼き討ちされた事件を紹介します。
慶応3年(1867)10月、将軍徳川慶喜は大政奉還をおこない、京都の朝廷に認められました。江戸幕府は形式的には消滅しましたが、政権は事実上存続したため、武力討幕派は旧幕府を挑発して反撃をあおり、朝廷の権威を背景に武力で倒そうとはかりました。なかでも薩摩藩では江戸の藩邸に浪士隊を結成し、江戸で強盗をはたらかせ、関東各地でテロを起こそうと工作をします。その流れのなかで荻野山中藩陣屋は焼き討ちされ、近隣の資産家は金品を供出させられました。そのとき地域の村々や人びとをはじめ、旧幕府や藩はこのテロに対しどのように対応していったのかを、御用留(ごようどめ。村の名主がつけていた公用日記)などから明らかにしていきます。
横浜市旭区にある相模鉄道二俣川駅には、北口に片側2車線の厚木街道(県道厚木横浜線)があり、その近くにそれより細い旧厚木街道があります。この新旧二つの厚木街道がある理由を古文書や歴史的公文書で明らかにします。
旧厚木街道は江戸時代からある相州道のことで、東海道保土ヶ谷宿から西谷・二俣川・三ツ境・瀬谷を通って大和市深見から厚木にいたる道でした。昭和前期に失業者の雇用対策事業として、その道の二俣川から厚木方面に向かって、別にもう一本広い道を建設することになりました。それが現在の厚木街道です。
戦時中に横浜市でおこなわれた建物疎開の実態を歴史的公文書と横浜市中区の野村家の事例をもとに紹介します。
建物疎開とは、軍事施設や交通機関、道路などを空襲による延焼から防ぐため、近隣の民家や民間工場などを取り壊して空地を確保することです。当時の防空法により県が疎開委員会の決定にもとづき防空空地(くうち)を指定し、指定された地域の住民・事業者には立ち退きを命じました。横浜市中区の野村家は昭和20年(1945)に店舗兼住居が空地の対象地域となったため、南区へ移転しました。ところが5月29日の横浜大空襲で焼け出され、北海道へさらに移転しました。
平成14年(2002)から翌年にかけてゴマヒゲアザラシのタマちゃんが、横浜市を流れる帷子川(かたびらがわ)に出没したことについて、歴史的公文書から行政側の対応を紹介します。
ゴマヒゲアザラシのタマちゃんはどこからともなくあらわれ、多摩川で目撃されてから「タマちゃん」の呼び名で知られるようになりました。その後、帷子川にもあらわれ、横浜駅から上流部にかけて護岸で寝そべっている姿が目撃されました。そのタマちゃんは法律や条例・規則に照らせば行政で捕獲して保護することが難しく、国や近県、動物園・水族館の関係者がその対応に苦慮しました。
「1、荻野山中藩陣屋焼き討ち事件」のコーナーには「岩倉具視草稿」(当館が所蔵する山口コレクションの一つ。神奈川デジタルアーカイブで公開中)も展示します。これには、大政奉還後、京都で武力討幕計画に関わったメンバーの名前が記されていました。メンバーは20名足らずで、主要人物は次の面々でした。
<朝廷の公卿(くぎょう)>
中山忠能(なかやま・ただやす)
中御門経之(なかのみかど・つねゆき)
正親町三条実愛(おおぎまちさんじょう・さなねる)
※上記三名はいわゆる「討幕の密勅」に関与。
<武士>
島津茂久(しまづ・もちひさ。のち忠義。薩摩藩主)
西郷吉之助(のち隆盛。薩摩藩士)
大久保一蔵(のち利通。薩摩藩士)
品川弥二郎(長州藩士)
中岡慎太郎(変名横山勘蔵、土佐藩出身)
坂本竜馬(土佐藩出身)
香川敬三(水戸藩出身)
「岩倉具視草稿」(部分)(当館所蔵山口コレクション、ID;2199400091〔ポスターにも使った資料です〕)
【翻刻】
中山前大納言~、正三卿(正親町三条卿)~、中御門~、島津修理大夫、西郷吉之助、大久保一三(蔵)、品川弥二郎、横山感三(勘蔵)、坂本良馬、香川敬三、大橋慎三及北島千太郎等僅ニ…
注目されるのは、大政奉還後の武力討幕計画に坂本竜馬らが関わっていたことです。竜馬は武力によらずに政権を交代させようと、将軍から政権を天皇に返上させる大政奉還を画策したといわれてきました。ところがその一方で竜馬は、大政奉還の建白が認められなければ武力討幕も辞さないとの考えをもっていました。岩倉具視は草稿の中で、大政奉還後も依然として徳川慶喜が実権を握っていることに強い不満を書き記していました。岩倉が大政奉還後「討幕の密勅」に関わった関係者とともに武力討幕計画を議論し、そこに竜馬もいたということは、竜馬は最終的に武力討幕の道を選んだ可能性もうかがえます。「岩倉具視草稿」は幕末維新期の隠れた史実を今に伝える資料といえます。