End-Users Side Diary
言葉というのは、数式や論理式と違い、非常に抽象的なツールだ。特に日本語は世界的に見ても、大変に意味曖昧な言語であり、又、その文法も渦巻き型である。文章や発言は最後まで聴かないと、結果が分からないことが多い。主語の直後にいきなり延々と修飾語が続き、最後に目的語と動詞あるいは補語である。それに比べ、英語の場合は5つの基礎文型にも拠るが、基本的には主語の直後にまず動詞、、目的語と続き、修飾節は最後に位置することが多い。時制についても、現在・過去・過去完了・現在完了となり、仮定法もほぼ同じ手法で分類される。文字数もアルファベット24個と極めてシンプル。PCにおいても、全て1バイト文字で済む為、厳密に言えば、PCへの負担も少なく、容量の節約にもなる。又、あらゆる分野で工数の節約になる。しかし、日本語の場合はひらがなに始まり、カタカタ、そして漢字を含めると、その数は膨大だ。
日本語の起源はそもそも中国漢字であるが、殷や周の時代に普及した象形文字がその由来となる。そして、それらが当時の中国・朝鮮から伝来し、平安時代、庶民の苦しい生活をよそに、上流階級である貴族の間では和歌や随筆等の文学が栄え、女流文字とも言える、ひらがなが独自に発達した。このひらがなという言語は、物事を婉曲的に表現することに優れていた為、文学という分野に適していた。作者から一つのフレーズが発せられたなら、読み手は自らの想像力を駆使して、解釈し、楽しむというのが嗜みだ。それも作者の意図に反する解釈は許されず、作者の意図を組み、心情通りに解釈することが最上とされた。
従って、それでは何のことか、さっぱり分からないという読み手だと、周囲から彼は「風流」で無いと罵られる羽目になる。かと言って、今度は逆に作者のほうが、誰にでも理解出来るようにする為、物事を直接的かつ具体的に捉えて表現してしまうと、読み手からは「興冷め」とされ、センスが無いとされた。そういった日本文学の歴史を踏まえると、現代でもよく耳にする「1を知って10を知れ」や「空気を読め」等、直接的かつ具体的な表現を嫌うのは、もはや日本独特の風習とも言えるだろう。 このような有様では、たとえアメリカから日本が真に独立しようとも、世界各国の代表達を相手に外交力を駆使して対等に渡り合う事など到底適わないだろう。
一方の英語では婉曲的な表現をするフレーズが殆ど存在しない。勿論、日本語と同じく、口語と文語というものは存在するが、特に異なるのは、日本語の場合、一つの単語として様々な意味合いとして十分認識される単語でも、英語の場合はその概念の違いから、様々な単語に分類されるという点だろう。例えば、日本語で「話し合い」という単語、これは英語には該当する単語は無い。その為、次の中のいずれかを選んで使う必要がある。
talk (about/over/to/together)
話し合う(漠然と)
discuss
話し合う(ある問題を多方向から)
debate
話し合う(公の場で賛成反対に別れて)
argue (with/about/over)
話し合う(結論を得る目的で、理由や証拠を挙げて)
consulte
話し合う(その分野に精通する人達で)
confer
話し合う(対等の立場の者同士で)
あれは「話合い」ではなく「Judge」である。(ここまで書くと怒られそうだが・・・)
洋楽が好きな人間は、邦楽に戻れなくなることがある。それは単語一つ一つに込められる概念が英語のほうが遥かに多い為、同じビートの中で、より多くの意味を伝えることが可能だからだろう。特にメッセージ性の強い曲になると、日本語の場合、うまく韻が踏めず、邦楽はまるでお経のようなになってしまう。しかし、哀愁漂うメロディアスな曲は少ない単語で済むので、婉曲表現も活かせて、むしろ邦楽のほうが美しく感じる。いずれにしても、日本語というのは、ことコミュニケーションという部分においては、正確な意思を伝えるのが難しい言語だろう。