江戸時代の金環日食観測は5月19日 20時13分
21日の朝、各地で観測される「金環日食」。
東京で、前回観測されたのは江戸時代、実に173年前の1839年です。
現代のような計算機もコンピューターもないなかで、幕府の役人が、当時あった観測機器を駆使して観測に挑んでいました。
前回、173年前の金環日食の記録が、東京・三鷹の国立天文台に残されていました。
江戸幕府の天文方が作った「霊憲候簿」という古文書の中にそのとき観測した「金環日食」の様子が描かれています。
金環日食が終わるまでの太陽の高さや欠けた割合などが詳しく記されています。
ではどうやって観測したのか。
別の文書には当時使った観測機器の記録が残っています。
1つは「測食定分儀」という機器。のぞき窓にある目盛りを使い、重なり合う太陽と月の大きさの違いを正確に測ることができたといいます。
それ以外にもまぶしい太陽の光を弱めるためのいわゆる、フィルターの役目を果たす、「避眩鏡」という特殊な鏡も使っていました。こうして観測された金環日食は、日の出のおよそ10分後、地平線すれすれの地上からの角度がわずか1度の位置でした。
実はこのとき、金環日食が起きる時間を巡り、事前の予測が2つに割れていました。
1つは、中国から伝わった、従来の方法で予測した「日の出の前」。もう1つが、当時、西洋から伝わったばかりの新しい方法で予測した「日の出の後」。
どちらが正しいか判定するため、見晴らしのよい、東京・築地の海岸に観測隊が派遣されたのです。結果は、西洋の方法での予測が的中、見える位置も時刻もほぼ正確に予測していました。
東洋の天文学に比べて、宇宙空間の中で太陽と地球、月の動きをより正確に把握していた西洋の天文学は、それ以降、日本の中で急速に広まっていったといいます。
国立天文台で日本の暦をつかさどる、暦計算室長の片山真人さんは「西洋から導入されたばかりの新しい天文学が日本で受け入れられた瞬間、日本の近代天文学のまさに夜明けといえる」と分析し、このときの金環日食が日本の天文学を大きく発展させるきっかけになったとしています。
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