32−84・85木越円光寺線・柳橋円光寺線
              (木越線・福久線)



84系統は、もともとは木越線という路線で、
平成10(1998)年3月改正までは兼六園下発着でしたが、
現在では円光寺線と連結し木越円光寺線となっています。

画像の幕は99年の木越円光寺線誕生のさいに新調された兼六園下発の
大浦行きのものですが、この系統は平成17(2005)年4月改正で消滅しています。

▲横幕です。反射して「浦」の字が見えなくなっていますが ご容赦ください。

木越線は昭和33(1958)年6月に誕生しています。
当初は、金沢駅〜武蔵ヶ辻〜橋場町〜東金沢〜木越〜大浦
という経路で、しかも東金沢から先は三池町、日本冶金、疋田町、千木、今昭町、千田町、木越
の順に停車し、現在とはまったく異なる経路で木越へと至っていました。
(※ バス停名については昭和50年路線図の表記に従いました。)
本数は6往復でしたが、開業後すぐに朝に千木発の金沢駅行きが増発されるなど
徐々に本数を増やしています。

昭和35(1960)年の時刻表では、金沢駅から武蔵、橋場を経て大浦に至るダイヤが踏襲されて
いますが、昭和37(1962)年の時刻表では金沢駅から富本町、
片町経由となっていることが確認できます。
これは当時の金沢北部路線共通の傾向で、津幡線・河合谷線・高松線でも
こうした運転が見られました。

このころの担当営業所は不詳ですが、昭和38(1963)年に金沢駅発着から泉車庫発着に
変更されていることから、少なくともこのときには泉営業所担当となっていたものと思われます。
しかし、泉車庫発着時代も長くは続かず、
昭和43(1968)年11月に兼六園下発着に変更されました。
(担当は兼六園下営業所に変更? というのも、昭和50年の東部営業所の幕に
木越線・福久線の幕が確認できることから、東部営業所発足に伴い閉所した
兼六園下営業所が担当していたと考えられるためです。)


昭和50(1975)年4月の色別方向幕制定では、木越線は福久線と同じ
83番の路線番号が与えられました。
そしてもりさけてんさんのサイトによれば、同年9月に木越線は経路変更をして
神谷内経由となり、同時にワンマン化と住宅地造成が進んでいた木越住宅乗り入れが
実施されたのではないでしょうか。
なお、このときに変更された旧ルート(三池町・千田町経由)については
もりさけてんさんのサイトを ご参照ください。 (柳橋円光寺線のページ  [直リンク])

なお、昭和50年当時の終点は大浦でしたが、翌昭和51(1976)年9月までに
大浦小学校まで延伸されています(変更時期は昭和50年9月が有力か)。

▲昭和50年頃の横幕です。下段は千木〜兼六園下の幕です。

こうして神谷内から先の停留所は「疋田東」がないこと以外は現在と同じになりますが、
「中神谷内」は現在の道路の一本南にある旧道にあり、踏切を渡って直進して
「疋田」、ここからは金腐川沿いの道を走り8号線と交差して「千木」
(旧道。私が小学校低学年のころまでバス停の土台のようなものが残っていました)
となっていました。

昭和61(1986)年から翌年にかけて、疋田〜千木が現行の道路に変更
されています。ただ、当時はまだJRをくぐる地下道が完成しておらず、疋田までは
相変わらず旧道経由でした。そのため、中神谷内から踏切を渡って右折し
しばらく行ったところに疋田バス停が移設され、疋田東交差点を左折して新道に
移っていました。
この新道に疋田東が新設されています。現在の経路から見れば疋田の西に
疋田東があるのはおかしいと思われた方もいるかと思いますが、
この当時の疋田から見て東にあるから付けられたものと思われます。

現在の4車線道路に変更となったのは平成2(1990)年ごろのようです
(このときに疋田バス停が現在の位置に移設されています)。
ここでようやく、現在の経路が完成しています。



昭和50年の色別方向幕発足時の大浦行きの幕です。
この幕は東部営業所の車両に入っていたことが確認されており、
このことから当時の木越線の少なくとも一部便は東部が担当していたものと
思われます。



こちらは千木行きの幕です。
朝に一本存在していたようです。



昭和59(1984)年11月に色別方向幕が再編され、
木越線は現在の84番に変更され、幕も茶色地白字のものとなりました。
このときに新調された幕は、経由地表記が「鳴和」のみでした。
90年代初期の車両までこの表記の幕が使われていました。

なお、80年代には木越線の担当は柳橋営業所となっています。



95年にローマ字併記幕になるまではこんな幕でした。

この95年までは柳橋にいるハイグレード車は循環寺町と平和町ばかりに
充当され、84・85系統をはじめとする路線は依然としてブルドッグや
89、90年式中型もしくはお古のエアロスターの運用で、あきらかに
ローカル線の様相を呈していました。



平成10(1998)年3月、木越線は循環寺町線と連結して木越循環寺町線となります。
しかし、運行区間が大浦〜千木〜橋場町〜武蔵ヶ辻〜有松〜寺町〜兼六園下・柳橋
というとてつもなく長いものになってしまい定時運行が難しかったことから、
翌年3月には循環運転を終了し、有松から円光寺へと足を伸ばし
木越円光寺線として生まれ変わりました。

幕も新調され、大浦・木越方面行きには経由地表記に「有松」が追加されています。



84系統ですが、大浦までは行かずに木越止まりの便も存在しています。
画像の幕は、円光寺発で使用されているものです。

以前から存在する84系統の木越住宅行きですが、
木越行き=85番と思っている人は多いのか、
未だにしばしば誤乗が見られる系統でもあります。



兼六園下発の84系統の木越止まりの幕です。
「有松」表記がなくなっていますね。

残念ながらこの系統も現存していません。。。



80年代〜90年代初期の木越住宅行きの幕です。
当時でも85系統は「鳴和/千坂」の2つ表記でしたが、
84系統はなぜか「鳴和」のみの表記でした。



ローマ字併記になる前のものです。
先ほどの幕もそうですが、かつての幕は「鳴和」を入れたがる傾向にあり、
福久線・森本線・津幡線などでも確認できます。



昭和50年ごろの兼六園下行きの幕です。
「武蔵ヶ辻」ではなく「武蔵」表記となっていますが、
これは循環寺町線などでも同様でした。当時は小型方向幕ばかりでしたので、
見やすくするためか文字数を減らして表記する例はよく見られました。



ローマ字併記前の84系統の兼六園下行きの幕です。
84年11月の幕再編時から95年のローマ字併記まで表記は変わることなく
続きましたが、この幕を使用する便は既に姿を消しています。



香林坊までの便も数本ありました。






現在は柳橋円光寺の一部となっている85系統ですが、
こちらもかつては福久線という路線名を持っていました。
画像の幕は、09年5月まで片道一本のみ残っていた福久線時代と同じ
兼六園下〜武蔵ヶ辻〜橋場町〜荒屋〜木越住宅の便で
使用されていました。


福久線の誕生はいつ頃なのかは分かりませんが、
少なくとも市電廃止以前から存在していたことは間違いないようです。
「木越の歴史あれこれ」という本によれば昭和30(1955)年開業とのことですが、
昭和32年や33年の時刻表にも登場せず、木越線誕生後も木越線のみ表記されていることから、
どうもこれは怪しいのではないかと思います。
この本には大浦〜泉車庫間の運転だったとありますが、そもそも泉営業所の開設が
昭和31(1956)年であることからして矛盾しています。

福久線が初めて確認できるのは昭和37(1962)年7月の時刻表で、
とくにこのときに新設されたとの記述もありませんので、この少し前(昭和35年から37年の間か)に
開業しているのではないかと思われます。

このときの運行区間は、金沢駅〜片町〜森本駅〜福久〜大浦で、
現在とは大きく異なる経路だったことが分かります。
金沢駅から片町へは木越線同様に富本町経由で、森本駅からは
森本中学校前、大場口、荒屋(現在の荒屋バス停とは異なる位置)、福久、木越、大浦東口、大浦の
順に停車していました。
(ただし、昭和50年路線図では森本駅〜森本支所〜大場口という経路になっており、森本経由の
末期は森本中学校前を通っていなかったようです。これは他路線や人員の都合上、
経路変更(疋田経由)の前に福久線のワンマン化をしたため、
誘導が必要だったこの区間の経由をとりやめたためではないか…と思うのですが、いかがでしょう。)

福久線の旧経路(森本経由時代)についても、
もりさけてんさんのサイトに詳しいので ご参照ください。 (柳橋円光寺線のページ  [直リンク])


金沢駅発着でスタートしたと思われる福久線ですが、
昭和38(1963)年には木越線同様、泉車庫発着に変更され、
さらに昭和43(1968)年11月からは兼六園下発着に変更されています。
そして、昭和50(1975)年4月に木越線と同じ83番の番号が与えられました。

▲昭和50年頃の横幕です。当初は木越線と同じ83番でした。
 85番になったのは昭和59年11月のことです。


このころまでは開業時からの森本経由だった福久線ですが、
昭和53(1978)年までには疋田経由となり、神谷内からは
中神谷内、疋田、福久南(新設)、福久、木越住宅(新設)の順に停車する経路となりました。
このときに大浦への運行をやめて木越住宅止まりとなっています。
この経路変更時期は資料がなく不明ですが、
木越線の変更と同じ昭和50年9月に行われたと解釈するのが自然かと思います。

昭和58(1983)年11月には再度経路変更が行われ、
神谷内から法光寺、千坂住宅、福久南、福久、木越住宅の順に停車する経路になりました。
これは、循環寺町線が千坂住宅乗り入れをやめて柳橋発着に一本化されたためで、
10年近くこの形態が続きます。

▲香林坊にて。現在は全車両がLED幕となっています。

平成元(1989)年6月、福久線と同じ85番を名乗りながら別路線の
湖南運動公園線が誕生しました。
香林坊〜橋場町〜法光寺〜横枕〜荒屋〜福久〜湖南運動公園
という経路で、現在の荒屋経由はこの時に登場しています。
(バス停は、横枕・金市・荒屋・荒屋北が新設されました。路線図によると金市団地は
当初はなく、平成2年までに設置されたようです。)

その後平成5(1993)年には福久線も荒屋経由に変更され、
千坂住宅バス停は廃止、福久南バス停は現在の場所に移設となっています。
これで福久南バス停は香林坊方面行きしかバスが来なくなったため、
代わりに福久南口バス停が新設されました。
ここで数年ごとに経路変更を繰り返してきた85系統がようやく現在の形になります。

98年までは、横枕や荒屋を通るバスは2路線もあり、
本数も毎時1本程度は確保されていて便利でした。北鉄も、団地の造成が進む
この地区のバス利用を見込んでのことと思いますが、この後のみずき団地と同様、
マイカー利用が定着してしまっており、残念ながら利用者は増えませんでした。

このため平成10(1998)年3月改正では、福久線が
循環寺町線と連結して福久循環寺町線となると同時に、
湖南運動公園線は減便され、一日1.5往復の免許維持路線と化してしまいました。



そして翌平成11(1999)年3月、循環寺町線が柳橋円光寺線になると、
福久循環寺町線もこの一部となって独自の路線名を失っています。
また同時に、湖南運動公園線も廃止となり、わずか10年の歴史に幕を下ろしています。

画像の幕は、円光寺発木越住宅行きで使用されていたものです。

▲円光寺→木越住宅の横幕です。



昭和50(1975)年当時の福久線の幕です。
この幕もまた東部営業所の車両に入っており、
木越線同様に当時は東部が担当する便があったことがうかがえます。

なお兼六園下行きの幕は木越線と共用で「83武蔵 兼六園下」だったようです。



千坂住宅経由時代の幕です。
当時は木越線は「鳴和」のみの表記でしたが、福久線は「鳴和/千坂」と2つの
表記が入っています。

幕情報ご提供:Commuter Rapidさん。



荒屋経由に変更された後の福久線の幕です。
ローマ字併記となるまで使用されていました。



湖南運動公園線の幕です。
末期は行先以外は福久線とほとんど区別がつかない路線となっていましたが、
香林坊発着であることがささやかな違いでした。

福久から先は、福久西・木越住宅西・湖南運動公園口・湖南運動公園の順に
停車していて、八田や大場地区からの利用も考えられていたようです。
この地区にはかつて北鉄の才田線も走っていたのですが、昭和62(1987)年に
JRへ一元化しており、この地区の住民の利用も見込んでのバス停設置だったものと
思われますが、当時の木越住宅西と湖南運動公園口は周囲に何もない
殺風景な場所で、バスを待っている人の姿も見たことがありません。。。

そもそも、開業当時の湖南運動公園線は
4月の第1日曜日から12月の第2火曜日の間の、それも金沢競馬の開催日のみしか
湖南運動公園行きは運転されず、それ以外の日は全便荒屋北までの運転でした。
全日湖南運動公園まで運転されるようになるのは、平成6(1994)年のことです。

平成8(1996)年2月からは、86系統とともに新設の「みずき団地」
(現.みずき1丁目)へ乗り入れを開始しています(福久西は廃止)が、
とうとう平成10(1998)年3月改正ではわずか1.5往復となり、
免許維持路線と化してしまいました。
そして平成11(1999)年3月にひっそりと廃止されています。



平成10(1998)年3月までは荒屋北までの区間便も存在していました。
これは湖南運動公園線の一部で、平成元(1989)年に誕生しています。

この付近の住民の利用を見込んで用意された系統だったのですが、福久線が
のちに荒屋経由に変更されたこともあり、平成10年改正で姿を消しています。
幕は「荒屋北」ではなく、「荒屋」表記となっていました。
(放送では「荒屋北行きです。」と言っていたのですが…)

荒屋北行きは終点付近でラケット循環となっており、
荒屋、荒屋北と進んでここで終点となり、時間調整をしたのち
荒屋北を始発として福久南口(当初は設置されず)、福久南、荒屋と停車していました。
(なお福久南口、福久南では乗車しかできなかったと思います。)
現在もこの付近の経路が上下線で異なっているのは、この当時の名残なのかもしれません。



85系統の兼六園下行きも84系統と同じでした。
この幕は福久線で使用されていたものです。

95年ごろまでは、番号ごとに幕がバラバラだったのが懐かしいですね。
これがもし現在ならば「武蔵が辻 兼六園下」1枚でまとめられている
ことでしょうね。。。



香林坊行きの幕は、湖南運動公園・荒屋北発の便で使用されていました。



平成10(1998)年3月改正から1年間だけですが、香林坊方向行きは
80番を表示していました。
荒屋経由、千木経由で幕の違いはなく、共用だったようです。



木越循環寺町線時代の横幕です。
ハイグレード車は電動方向幕なので途中で幕を回して柳橋行きに変更していましたが、
90年式までの手回し式横幕車は、幕回しを省略するために
柳橋―兼六園下―寺町―有松―武蔵ヶ辻―千木―大浦
という表記になっていました(路線番号は書かれず)。

循環寺町線についてはこちらをご参照ください。→ 【方向幕博物館】80循環寺町線



平成11(1999)年3月改正で、木越円光寺線となると、
幕が新調され、千木経由と荒屋経由で異なる幕となりました。



木越→円光寺の幕は「荒屋」表記となっています。



荒屋経由の円光寺行きのLED幕です。
LED幕は「武蔵ヶ辻」の表記がありません。


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【方向幕博物館】32−80柳橋円光寺線

【方向幕博物館】81柳橋寺町線

【方向幕博物館】32円光寺線

【方向幕博物館】80循環寺町線