(87)津幡線



今では金沢市北部方面路線で、唯一無番号の路線として
目立っているのがこの津幡線です。
ただし、現在では上り(兼六園下方向)には「87」番が付けられています。

平成16(2004)年4月に長らく続いた橋場町経由から彦三経由に変更され、
現在の幕が新調されました。しかし、運行を担当するほくてつバスではすでに全車両が
LED幕に改造されているため、幕を見ることはできません。



現行の旧道経由の幕です。
LED幕では、09年5月改正以降しばらくは「彦三/森本駅前」表記となっており、
旧道経由であることが分かりにくく(八幡経由のLED幕は「彦三/八幡」なので
一応区別はできましたが)なっていましたが、
現在では「彦三/森本駅前/二日市」の三段表記に改められています。



かつて在籍していた29−134号車に入っていた幕ですが…
順序がメチャクチャになっていました。
発注ミスなのか業者のミスなのかは不明ですが、素知らぬ顔で使用されていました。


▼武蔵ヶ辻エムザ前に津幡線、という光景も当たり前に。。。

津幡線は、昭和18(1943)年12月に誕生しています。
これは「北陸鉄道」としての誕生で、前身の「北陸自動車商会」
により運行されていたものが戦時統合で北陸鉄道の路線となったものです。
(北鉄以前の歴史は もりさけてんさんのサイトを参照ください。)

当時の津幡線の様子を伝えるものとしては、昭和28(1953)年の社内報「ほくてつ」が
挙げられ、終戦直後の一時期だけ活躍した電気バスが津幡線で運用されていたとの記述が見られます。
これは、終戦直後の燃料事情の逼迫によりガソリン車および木炭車の運営が厳しくなったため、
「打開策として昭和22(1947)年10月の石川国体を契機として旅客輸送の完璧を
期するため」(「ほくてつ」より)北陸初の電気バスが導入され、国体終了後に津幡線に
運用されたというものです。
5両導入されたそうですが、昭和25(1950)年2月にはやくも廃車となっています。

なおその後の電気バスについてですが、昭和25(1950)年2月に電気車再建計画に基づき
10両の電気バスを新たに購入し、50KW電動発電機を増設して同年4月より
循環線で運行を開始し、コース縮小の効果もあり電気車運用の改善がみられたそうですが、
その後燃料事情の好転と、逆に畜電池価格の高騰により維持費が高くつくようになったため、
昭和28(1953)年3月に全車両が廃車となっています。


昭和26(1951)年10月改正では、津幡線が宇の気まで延長運転を開始しています。
これは高松線の開業までの一時的なものと思われますが、
高松線開業の昭和32(1957)年の時刻表では朝夕に「宇ノ気」発着便と
「旧道宇ノ気」発着便が2往復確認でき、これが津幡線の宇の気延長便の名残と
見ることができます。

その昭和32(1957)年当時の時刻表では、宇ノ気便を除くと津幡線は
朝に片町〜津幡四ツ角間に1往復あるのみとなっています。
当時、津幡へは高松線・竹の橋線のほかに各駅停車の七尾線や羽咋線が存在しており、
これらを合わせて片町〜津幡間は30分間隔のダイヤが組まれていました。

翌昭和33(1958)年までには河合谷線や川尻線も開業し、
これらの路線と高松線・津幡線は片町から富本町経由で金沢駅まで延伸されました。
しかし依然として津幡線自体の本数は少なく、
昭和35(1960)年には日中に2往復河北病院(現.津幡中央)発着が設定されましたが
すぐに消滅し、昭和37(1962)年には代わって本津幡発が日中に2本設定されました。

この頃になると、七尾・羽咋線と津幡・高松・河合谷・川尻・竹の橋線は切り離され、
金沢近郊と津幡地区の輸送は後者の路線が担うようになり、これらの路線だけで
日中30分間隔のダイヤを組むようになります。

津幡地区への路線と本数は充実してきましたが、津幡線自体は高松線や河合谷線の補完、
という位置づけとなっていました。
しかし、輸送力の強化が求められるようになり、大型バス15両を増車してラッシュ時の
増強が実現した昭和39(1964)年8月改正で、野々市〜柳橋車庫間の鳴和線
太平寺〜野々市〜柳橋車庫〜本津幡間に延伸しています。
どれくらいの本数だったのかは分かりませんが、この鳴和線廃止の代替として
のちに上荒屋線が本津幡まで14往復延伸されていることから、これと同程度の本数だったのでは
ないかと思われます。

その上荒屋線の延伸ですが、これは市電廃止の昭和42(1967)年2月改正で行われました。
上荒屋〜西金沢〜兼六園下〜二日市〜本津幡 14往復
が設定されています。

しかしこの体制もわずか1年で終了し、昭和43(1968)年11月改正では
兼六園下〜香林坊〜森本〜旧道〜本津幡の系統が30分毎に新設され、
津幡線の名称が復活しています(それまでも高松線・河合谷線の補完として細々と路線名は
残っていた可能性はありますが。。。)。
この改正では、高松線・羽咋線・河合谷線・川尻線は新国道(八幡)経由に変更されており
旧道区間の減便を補うためか上荒屋線時代の60分毎のおよそ2倍の本数に
増加しています。

この当時の終点本津幡は「津幡車庫前」とも呼ばれていたそうで、津幡駐在車も存在していたようです。
また、津幡町内での経路も現在とは異なっており
〜横浜〜加賀爪〜津幡四ツ角〜庄町〜本津幡 の順に停車していました。
しかし、その後津幡四ツ角折り返しとなったようで、
昭和50(1975)年4月の時刻表では全便が津幡四ツ角発着で30分間隔の運行となっています。
なお、この昭和50年4月には津幡線に「82」の路線番号が与えられています。
津幡線の「82」番時代は路線番号再編の昭和59(1984)年11月まで続きました。



この幕は昭和50(1975)年4月に新調されたもので、
東部営業所の車両に入っていました。このことから、少なくとも一部の便は東部担当だった
ということが分かりますが、津幡線のほかにも竹の橋・河合谷・川尻・木越・福久・金高急行線の
幕が確認でき、さらに朝夕のみのレア系統の幕もしっかり入っていることから、
これらの路線は兼六園下営業所が担当していて、東部営業所発足時にそのまま移管された
のでは、という可能性もあります。

▲昭和50年当時の津幡線、竹の橋線の横幕です。
 画像:野山あずささんご提供。


津幡四ツ角発着となっていた津幡線ですが、昭和50(1975)年9月からは
津幡中央経由に変更されています。
四ツ角終点では、車掌の誘導のもと商店街の道路上で転回が行われており、
津幡線ワンマン化のネックとなっていました。
しかし、ワンマン化によって年間500万円余の人件費が削減できることから
川尻口(加賀爪交差点)から国道を経由(津幡中央)して本津幡を終点とするルートに
変更されました。
これには商店街の反発も大きく、成案には至りませんでしたが四ツ角での
Uターン誘導の人件費負担などを町当局や商店街で検討したほどだったそうです。

ちなみにこの改正では、乗客が少なく赤字路線となっていた池ヶ原線の減便と
川尻線の廃止も行われており、津幡地区のワンマン化と合理化が行われていきました。

なお、津幡線の担当は少なくとも昭和50年代後半には柳橋営業所となっています。

▲05年〜08年には中型ノンステがメインの運用でした。

昭和59(1984)年には森本大橋〜横浜間がフリーバス区間に指定され、現在も続いています。
しかし、これは津幡線が幹線からローカル線へと衰退していく序章であり、
昭和60(1985)年の改正では、日中の便が一気に半分の60分間隔に減便され、
かわりに87循環寺町B線(兼六園下〜香林坊〜橋場町〜今町(国道))
新設され、減便に対応しています(今町までは逆に増便となっています)が、
これも長続きせず、昭和62(1987)年3月改正では
88森本線(金沢駅〜橋場町〜今町)が新設され、循環寺町B線は
わずか2年で消滅しています。

昭和60年に本数を半分に減らされた旧道経由便は、平成に入ってからも
さらに大幅な減便を受けます。
平成(1993)年改正では、半数以上を旧道経由から国道経由に変更し、
高松線と本津幡まで全く同じ経路となったことで、津幡線も高松線も
減便されています。

そして、平成10(1998)年3月には今町までの森本線が柳橋までとなり、
高松線も金沢市内から撤退し寂しい状況となりましたが、87野町鳴和線が
一部今町まで延長されたため、片町から森本方面が便利になりました。
同時に、渋滞による遅延防止のための実験ということで、
橋場町経由から現在の彦三経由に変更されましたが、この時は
利用者のクレームが多発したため6月には橋場町経由に戻されています。

▲系統幕が黒のものを使用していたこともあります。

平成12(2000)年3月改正では、柳橋円光寺線の一部を津幡線が
肩代わりをするという便が数便誕生しました。これは平成16(2004)年改正で
1往復のみとなってしまっていますが、所要時間も長く、乗務員の評判もよくなかった
ことも原因のようです。
また、この年から西工「プチ」が柳橋営業所に導入され、津幡線に
投入されました。これもまた評判がよくなく、積み残しを出すなど
悲惨な結果を多く残してくれました。

そんなこともあり平成16(2004)年4月改正では、兼六園下・円光寺
発着だった津幡線を、朝の本津幡〜円光寺の一往復を除き野町駅発着とし
、野町駅発着便は彦三経由となりました。
これは野町鳴和線の肩代わりで、野町駅行きは87番を名乗るようになり、
野町鳴和線と区別がほとんどつかないようになりました。

さらに翌平成17(2005)年8月には津幡町内の経路変更が行われ、これまでの
清水経由からパピィ1通り経由となり、古くからの津幡四ツ角を
通るようになっています。また、終点も本津幡から本津幡駅となっています。
(車両の待機場所は今もかつての「本津幡」となっています。20〜30年前はこの場所に
「津幡車庫(通称?)」があり、津幡駐在もあったようです。)

しかし、経路変更をするなどの需要掘り起こしもむなしく、
平成18(2006)年より徐々に日中の間引きが始まり、
平成20(2008)年12月改正ではついに日中で2時間も間隔が空く
時間帯も出るなど、かつての面影は薄れつつあります。

この改正で、「野町鳴和線」という路線名は消滅し津幡線に吸収されました。
そのため、現在では野町駅〜柳橋の便も津幡線の区間便という扱いとなっています。

▲09年5月、懐かしい光景が復活しました。
 しかし、表記は「彦三」経由で幕もLEDに。。。


衰退著しい津幡線ですが、平成21(2009)年5月改正ではさらなる減便と
同時にほとんどの便を兼六園下発着に戻しています。
これで柳橋方面から野町駅へ行く便は数年前の30分間隔から、一気に朝晩の数本のみ
という状態となってしまいました。
また兼六園下行きにも「87」の路線番号が与えられています。

そして兼六園下行きになったがために、武蔵ヶ辻での停車位置が変更となり、
これまでの丸年前から三井住友前となりました。
これは事前に何の告知もなかったため、戸惑う利用者も多く見られました。

▲87番の兼六園下行きが誕生しました。



▲橋場町経由時代の津幡線の姿。旧型エアロがよく似合います。

私の記憶では、98年の大改正前までは夕方の津幡線に乗ると
法光寺まで立ちっぱなしだったことを覚えています。
それから、野町駅発着になる直前の04年頃まではちょうど10時過ぎに
武蔵ヶ辻に到着する津幡からのバスは、柳橋では座れませんでした。

先日ほぼ同じ時間を走る野町駅行きに柳橋から乗車したのですが、
なんと武蔵ヶ辻まで立ち客が出ることなく到着してしまいました。
津幡線だけではありませんが、柳橋方面の乗客はこの数年でもかなり減少
していることは確かだと思います。


担当は、平成13(2001)年3月より「ほくてつバス」(円光寺系統のみ北陸鉄道のまま)
となり現在に至っています。



98年に彦三経由となったときに使用されていた幕です。
わざわざ幕を新調していたことからも、定着させるつもりだったのでしょう。
ダイエー前のりばには大きな看板が立てられており、津幡線は彦三経由に変更となった旨が
書かれており、周知徹底を求めていましたが、先述のとおり、同年6月には再び橋場町経由に戻り、
幻の幕となりました。
(幕情報ご提供:もりさけてんさん)



円光寺→本津幡に使われている幕です。
なお、本津幡→円光寺は柳橋→円光寺と同じ幕です。


▼現在も一本のみが残っています。「森本、八幡経由、本津幡行きです」

円光寺発ですが、かつての津幡線の雰囲気を楽しめる系統が
現在もなお残っています。
免許の都合とかそういった理由でしょうか。。。



04年4月まで使用されていた、橋場町経由だったころの幕です。
画像の元周遊バスは、01年から03年まで津幡線で多く見られました。
この時期は、日野の中型RJも使用されており、多様な車両が走っていました。

ちなみに、07年に柳橋から幕車はなくなりましたが、
最期までこの幕は搭載したままでした。

そういえば、津幡線は車内放送がテープの頃は
なぜか「98番、森本、八幡経由本津幡行きです」
と言っていたり、年によっては81番を名乗っていたり
と、謎な放送もしていました。テープの声も
循環寺町などのほかの柳橋の路線のものと異なるものが
使用されていたりもしました。

画像:H−199さんご提供。

▲横幕です。ハイグレード幕よりもこっちのほうが似合います。



ローマ字併記になる前の国道経由の本津幡行きの幕です。

国道経由…とつい今でも言ってしまいますが、08年4月より
国道は津幡バイパスのほうに移り、県道に格下げとなっています。



平成10年の大改正までは、兼六園下を20時以降に出る津幡線は
すべて新津幡止まりとなっていました。
これは昔から行われてきており、少しでも運用効率を高めるためなのか
勤務時間の関係によるものなのかは分かりません。。。



こちらは旧道経由の幕です。

兼六園下で発車待ちをしている、今となっては貴重な写真も撮ったはず
なのですが、残念ながら紛失してしまいました。。。

▲横幕です。「鳴和」がなくなり、「二日市」「潟端」が
 追加されています。


▲ハイグレード車の横幕です。
 上段幕にも経由地表記があります。




ローマ字併記になる前の旧道経由の幕です。



旧道経由の新津幡行きの幕です。
新津幡到着後は、そのまま今度は国道経由の柳橋行きとなって
回送を兼ねて走っていました。



昭和60年ごろの兼六園下モータープールでの一枚です。
後方右のバスはブルの一代前の形式で「羽咋駅」行き、
後方左のブルドッグは「急行 東回り 七尾駅」です。

「フリーバス」懐かしいですね〜
もちろん、現在でも森本大橋〜横浜間はフリーバス区間
となっているのですが、いつの間にやらこの表示は
見れなくなりました。なお、
同区間のフリーバス開始は昭和59(1984)年です。

津幡線もまたブルドッグでの運用でした。しかも77年式以前の
2枚折戸の車両でした。そして、小型幕の車両はなるべくスッキリ
と見えるように「本津幡」ではなく「津 幡」表記でした。

この旧幕ですが、34-871号車のみ
96年くらいまで「津 幡」幕が残っていたそうです。
(情報ご提供:もりさけてんさん。)
当時私はまだ小学生、ちょうどバス趣味から離れていた頃だったためか、
この頃最期を迎えた柳橋のブルドッグも記憶にありません…
惜しいことをしたものです。

画像:H−199さんご提供。



橋場町経由がなくなると、その経由地を消して
早朝の柳橋→本津幡の便に使われていました。



もちろん純正品(?)の幕もあります。



昭和50年当時に存在していた香林坊発森本駅行きの幕です。



柳橋行きは現在ではなくなっていますが、かつては夜に本津幡からの
回送がわりで柳橋行きが走っていました。



津幡から柳橋行きの幕です。
八幡経由と二日市経由の幕が作り分けられたのは90年代半ばのことで、
それまではこの幕が使用されていました。



二日市経由の柳橋行きは、平成4(1992)年のみ存在していました。
この便のテープのみ更新されておらず、明らかに昔の音声が使用されていたとのことですので、
これ以前にも大昔に存在していたのかもしれません。
(情報ご提供:もりさけてんさん。)



国道経由の柳橋行きの幕です。
新津幡からの柳橋入庫便で使用されていました。



昭和50年に新調された兼六園下行きの幕です。
当時は小型幕だったため、文字数を減らして「武蔵」表記となっています。



こんな幕も入っていました。
橋場町から直進して兼六園下終点となる系統(時刻表上では「味噌蔵経由」と表記)が
昭和50年当時は存在していました。
これは津幡線ではなく、兼六園下→竹の橋が1本と、才田→兼六園下に1本、
森本→兼六園下に1本が設定されていました。



88年に中型車が導入され、新車が津幡線や高松線に投入される
という異例な配置となりました。90年には、この88年式を
置き換え、この90年式(パイプ椅子ではない)が90年代の津幡線の
カオともいえる車両でした。

この車両は、私の記憶にある限りではすでに登場後数年を
経過しており、すっかり津幡線の代名詞となっていましたが、
もりさけてんさん曰く、
「中型も88年の登場時は本当に輝いていたんですよ。
バスなどに興味もない祖父も『新車やな』と云い、
乗客も『新バスや新バス』と話しているのがきこえました。

なにしろ、その前はデジタル運賃表も冷房も無かったわけで、
しかも車内には新車のニオイ。(今から思うと信じられませんが)
デジタル表示に【森 本 大 橋】と表示されたときの
あの嬉しさは、おそらくもう感じられないと思います。」
とのことです。

97年にはこの中型車は津幡線から消えて全て能登地区へと移籍して
いきました。最近まで活躍していたのですが、とうとう今年で全滅でしょうね。。。
その97年ごろの柳橋には、
79−116:河合谷線
70−166:津幡線旧道線
70−167:森本線
での活躍でした。私個人的には、169(画像の車両)の印象が強いですね〜
あの頃はまだ国道上の柳橋バス停がなく、法光寺までよく利用したものです。

この、経由地が「武蔵ヶ辻」表記のものは、初期のエアロスターと中型車のほか、
ローマ字併記前のハイグレード車の高松線にはこの幕が使用されていました。

画像&情報:もりさけてんさんご提供。



経由地が「香林坊」表記のものは、中型車やハイグレード車
(ローマ字併記前・津幡線)に入っていました。



こちらの幕は、中型車とブルドッグほかエアロスターの一部でも
見ることができました。比較的最近(といっても10年以上前ですが)
まで残っていたように思います。



最終期の幕です。旧道経由も国道経由も共通の幕です。
武蔵ヶ辻か香林坊の表記が欲しかったところでしたが。。。



平成16(2004)年4月改正で、野町駅行きは野町鳴和線の幕を掲出して
運行するようになりました。
「87」となっていますが、車内放送では「彦三経由、野町駅行きです。」と
番号を言っていませんでした。

この改正で、幕が新調され「彦三」のみの表記の幕が登場し、
おもに津幡発の野町駅行きはこの幕を使用していました。
従来の幕(「彦三/香林坊」)はなぜ使われなかったのかは不明です。。。

なお、87野町鳴和線についてはこちらをご参照ください。
【方向幕博物館】87野町鳴和線







現在は津幡町営バスの一路線となっている河合谷線も、
平成9(1997)年3月までは北鉄の路線でした。

昭和32(1957)年7月、片町〜津幡〜河合谷間の河合谷A線6往復が
開業しています。同日には高松海岸線と観法寺線が開業しており、一気に金沢北部と津幡町の
バス利便性が高まっていまっています。これらはいずれも泉営業所の担当だったようです。

同年12月には、川尻〜池ヶ原間の河合谷B線も開業しておりそれぞれ後に
川尻線と河合谷線の池ヶ原系統となります。
その川尻線は昭和33(1958)年4月の時刻表で
金沢駅〜片町〜津幡〜川尻間に3.5往復設定されていることが確認できます。
なおこのときの時刻表から、河合谷線の池ヶ原系統も金沢まで1.5往復が姿を見せており、
河合谷系統とともに金沢方の発着点が片町経由で金沢駅へと延伸されていることが分かります。

その後各系統とも増発を重ね、昭和37(1962)年7月改正では
河合谷行きと池ヶ原行き、川尻行きを合わせて60分間隔となるようなダイヤとなりました。
また、昭和40年ごろには金沢駅発着から泉車庫発着に変更されています。

市電廃止後の昭和43(1968)年11月改正では路線が整理され、
河合谷線・川尻線のいずれも兼六園下発と津幡四ツ角発に分けられ、同時に
森本〜津幡間はこれまでの旧道経由から、高松線と同様の国道八幡経由に
変更されました。

昭和50(1975)年4月には、河合谷線・川尻線ともに津幡線と同じ「82」の
路線番号が与えられますが、津幡線などと同様昭和59年11月には無番号に戻っています。

この昭和50年は津幡地区の不採算路線(池ヶ原線と川尻線)の廃止と津幡四ツ角乗り入れの
取りやめが北鉄から発表された年でもあります。
このうち津幡四ツ角乗り入れの取りやめについては商店街などからの猛反発があったそうですが、
廃止の発表があった川尻線に関しては、利用者が少ないことから町当局も
認めざるを得なかったそうです。
川尻線についてはその後いっさい資料に登場しないことから、おそらくそのまま
昭和50年9月に廃止となったようです。

一方の池ヶ原線ですが、こちらはその後も河合谷線の一部として存続していますので
おそらく減便という形で折り合いがついたものと思われます。
あるいは、内川線のように現在も存続しているものの戸籍上は野田線の一部となっている
のと同様に、このときに「池ヶ原線」は戸籍上廃止を迎え河合谷線に編入されたのかも
しれません。

川尻線が廃止されると、河合谷線が代替としてなのか津幡行政センター発着となっています。

昭和55(1980)年には、河合谷発の朝一本のみが
兼六園下行きとして運行していました。これは時刻表を見る限り津幡線との
「結合路線」としての運行だったようで、津幡〜森本間は旧道を経由していました。

この金沢直通便は昭和60年代にはいったん消滅しますが、
平成5(1993)年には若干の減便と引き換えに早朝の便を除き全便が金沢へと
直通するようになりました。ちなみに、津幡〜森本間は国道経由でした。
画像の幕はこの頃のもので、使用される車両はバックアイカメラ装備の
116号車や941号車がメインだったそうです。
(情報ご提供:もりさけてんさん。)

しかしこうしたテコ入れも乗客減少を防ぐ決定的な手段にはならなかった
ようで、翌年には金沢直通便は朝夕のみとなっています。
それでも平成8(1996)年には上大田に立ち寄るようになるなど、最後まで
改善の努力が見えましたが、平成9(1997)年2月に兼六園下直通便を廃止し、
4月に津幡町営バスに移管される形で路線自体も廃止となりました。





川尻行きの幕です。
路線の末期には兼六園下発着便も国道経由と旧道経由の2パターンがあったほか、
残りは川尻〜河合谷・池ヶ原間での運行となっていました。

昭和50年の金沢営業部管内バス通行路線図によると、
加賀爪から中須加、中橋、川尻農協、川尻 の順に停車しており、
加賀爪〜川尻間の所要時間は3分となっていました。





竹の橋線(兼六園下〜香林坊〜橋場町〜森本駅〜二日市〜新津幡〜竹の橋)は、
河合谷線と比べてさらに津幡線の支線のような存在の路線でした。

竹の橋線の開業年次は不明ですが、昭和32年時刻表には片町〜竹の橋間で2往復が確認できます。
その後、ほかの津幡方面路線と同様に昭和33(1958)年に片町から富本町経由で金沢駅発着に、
さらに昭和40年ごろには泉車庫発着に変更されています。

そして昭和43(1968)年11月からは、津幡線と同様に兼六園下発着となっています。
当時から2往復という極端に少ない本数(朝夕に一往復ずつ)で、
時刻表でも津幡線と同じ枠の中に書かれており、当時からすでに竹の橋線は支線的扱い
だったことがうかがえます。

昭和50(1975)年4月には津幡線らと同様に「82」の路線番号を与えられていますが、
9年後の84年11月には再び無番号となっています。



無番号となってから作られた幕で、ブルドッグに入っていました。
幕情報ご提供:もりさけてんさん。



昭和63(1988)年に中型の新車が津幡線や高松線に導入されると、
竹の橋線にも姿を見せるようになりました。
幕はシンプルに「竹の橋」だけとなりましたが、この幕を見れた期間も短く
平成3(1991)年3月末には廃止となり、津幡町営バスに移管されています。

画像はおがさんご撮影のもので、竹の橋線最終日に撮影されたものです。


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【方向幕博物館】87野町鳴和線