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2012年5月15日美しい日本語(言葉)
慈しむ(いつくしむ)【美しい日本語】
2012年5月14日偉人の言葉
土門拳の名言 カメラのレンズキャップをはずしなさい。
2012年5月13日言響プロジェクト
こだま2号 微熱
2012年5月11日言響プロジェクト
無料版「こだま」創刊号 温もり
2012年5月10日Web文章の書き方
コピーライターとブロガーの違い

慈しむ(いつくしむ)【美しい日本語】

「美しい日本語」「美しい言葉」について、毎日かなり意識的に暮らしているつもりなのですが、ぜひとも「美しい日本語」だとして紹介したい言葉が、次から次へと浮かんでくるわけではありません。

おそらくは「美」というものは、美しいと感じている時にだけ「ある」のであって、感じていない時には「ない」のでしょう。

それに「美しい」というのは「綺麗(きれい)」というのと違っていて、ただならぬ感じ、非日常的であり、危険な香りがするものなので、ひんぱんに感じていたら、一つ間違えば、心が壊れてしまうかもしれないのです。

ドストエフスキーは「美は謎です」(白痴)と言っていますが「美は怖ろしいものだ」(カラマーゾフの兄弟)とも語っています。

ですから、そう簡単に「美しい」という言葉は使いたくありません。少し大げさかもしれませんが、本当に美しいと感じる瞬間は、長い人生の中でも、何回もあるものではないのです。

ただ、このまま世の中が、進んでゆくというか、流れてゆきますと、いずれ死語になってしまう、大事にしたい言葉は確実にあるのです。

そうした、消えゆくかもしれない「尊い言葉」を「美しい言葉」というのならば、いくつかあげることはできます。

慈しむ」もまた、死語になりかけている、貴重な言葉だと言えます。

「慈しむ」を、大辞林は以下のように説明しています。

いつくし・む  【慈しむ】

〔「うつくしむ」の転〕かわいがって、大事にする。
「我が子のように―・む」

また大辞泉の解説はこうです。

いつくし・む【慈しむ/▽愛しむ】

[動マ五(四)]目下の者や弱い者に愛情を注ぐ。かわいがって大事にする。「わが子を―・む」

◆平安時代の「うつくしむ」が、「いつ(斎)く」への連想などの結果、語形が変化し、中世末ごろ生じた語。

「慈しむ」に近い言葉としては「愛する」「 いとおしむ」「 可愛がる」があります。

私たちが日常でひんぱんに使うのは「好き」という言葉でしょう。「愛している」は、よく耳にしますが、毎日使うかというと、そうでもありませんね。「好き」よりは「愛する」と言った方が、特別な感じはしますよね。

では「慈しむ」はどうでしょうか。おそらく、ほとんど使わないでしょう。

しかし、何かを大切にしたい思いや、本当に大事にしたいという気持ちを表す時、「愛する」というよりも「慈しむ」と言ったほうが、自然だと感じるのは私だけでしょうか。

「愛する」が少し概念的であるのに対し、「慈しむ」は触感的というか、手でそっと触って愛情を深めるといった身体感覚的な言葉のような気がするのです。

二十代の頃、詩の同人誌を主宰していた頃、同人の一人が、しばしば「慈しむ」という言葉を使っていたのを想い出すことがあります。

言葉は使われなければ、死んでいるも同然。「慈しむ」という言葉を死なせないためには、日常で使わなければなりません。

そのためには、本当に「慈しむ」気持ちを抱くことから始めるべきなのでしょう。

よろしければ、美しい日本語アンケートにご協力ください。

美しい日本語アンケート

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土門拳の名言 カメラのレンズキャップをはずしなさい。

土門拳は、言わずと知れた「写真の神様」です。写真作家という言葉が、土門拳ほど似合う写真家はいませんね。

土門拳は数々の名言を遺した人でもあります。この本は人を鼓舞する言葉の宝庫です⇒写真作法

さて、今回ご紹介する土門拳の名言は、彼のどの著作にも書かれていません。と申しますのは、実際に土門拳に逢って、写真についてアドバイスを受けたという人から聞いた話だからです。

土門拳の意外な、そして怖ろしいくらいに深い忠告の言葉を風花に教えてくれたのは、英語の恩師です。私が18歳で東京に出た年に、小野先生に指導していただいたのですが、その熱血指導にどれほど勇気づけられたことか。

滅多に余談はしない先生でしたが、その時は、珍しく、土門拳の話になったのです。

どうして、土門拳の話題になったのかは忘れてしまいましたが、たぶん、よほど土門拳に直接アドバイスをもらったことが嬉しかったのだと思います。

小野先生は土門拳に「どのようにしたら、すばらしい写真が撮れるようになりますか」という質問したというのです。

土門拳は、こう答えたそうです。

カメラのレンズキャップをはずしなさい

小野先生は「さすが土門拳さんは凄い。ふつうならば、もっと技術的なことを言うだろうけれど、それが何と『レンズキャップをはずしなさい』ときた。さすがは、写真の神様。言うことが違う」

その話を聞いた時、私は思わず「う~ん」と唸ってしまいました。私も「土門拳は凄い」と確かに感じたのでした。しかし「なぜ凄いのか、どこが、どのように凄い」のかは、18歳の私にはわからなかったのです。

最近になって、ようやく、少しずつ、土門拳の言葉の意味が呑み込めるようになり、同時に、その奥深さが心に沁みてきています。本当に理解しているかのは定かではありませんが、おそらく、土門拳は、以下のようなことが言いたかったのではないか。

写真撮影にかぎらず、人は何かを始めようとする時に、実は「レンズをはずさずに、やっていること」が多いのではないか。だから、どんなに技巧に走り、頑張ったところで、フィルムには、肝心なものは映っていないのだ。何よりも大切なのは、まず「レンズキャップをはずすこと」。つまり、「何とかして傑作写真を撮ってやろうと」というような強欲は、心を曇らせ、人間の真実を写しとることはできない。邪心や傲慢を捨てた時、初めて被写体は、その真実の姿を目の前にさらしてくれる。だから、被写体にカメラを向ける前には、心を虚しくして、レンズキャップをはずさなくてはならないのだ。

そういうことを土門拳という写真家は言いたかったのではないでしょうか。だとすると、名言の真意が見えてきます。

レンズキャップをはずしなさい」とは「心の眼を開きなさい」という意味なのです。

デジカメ全盛の時代となり、レンズキャップを手ではずすという機種は少なくなっていますが、土門拳の言葉は、決して死語にはならないでしょう。深い含蓄と、鋭い示唆に富んだ名言ですので、密かに語り継いでゆきたいと思うのです。

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2012年5月14日 | コメント/トラックバック(0) |

カテゴリー:偉人の言葉

こだま2号 微熱

風花水映の購入者様限定メルマガ「スワン」とは、異なる視点から「言葉のこと」「文章のこと」などにつて語る「こだま」。その第2号のテーマは「微熱」です。

気温の差が激しいですね。風邪をひいている方も、多いのではないでしょうか。

微熱があるけれど、仕事や家事は休めないので、無理して動いていることって、多いですよね。

では、文章を書くことはどうでしょうか?

微熱がある時って、書けますか。

なかなか、書けませんよね。

私の場合ですと、心身共にベストの状態でないと、執筆は進みません。

ですから、ライティングは、午前中の2~3時間ぐらいと決めているのです。

それ以上書いたとしても、冴えたものは書けないので、無理はしないことにしています。

よほど忙しい時は別ですが……。

しかし、熱があって横になっている時に、ふと文章が頭の中で流れ出すことがあります。

熱があるために、ふだんでは書けない、不思議な文章ができあがる時もあるのですね。

去年の「言響プロジェクト」では、ブログの役割の一つに「非日常への招待」があると語りました。

読者さんは、日常では満たされない何かを、インターネットで探しているものなのですね。

微熱があるから、目の前がいつもと違って、少し揺らいで見える……これも、非日常です。

揺らいだ世界を写しとってみるのも面白いかもしれません。

どんな人でも、日常から逃れたいと願っている、もう一人の自分を抱えています。

実用的な情報を提供することもブロガーの大事な仕事ですが、時には、自分も、読者も、オヤッと感じるような、
日常の向こう側に見える、隠微な世界を描いてみてはいかがでしょうか。

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