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弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html
投稿者 中川隆 日時 2011 年 10 月 02 日 09:31:13: 3bF/xW6Ehzs4I

(回答先: NEW「大化の改新」近代史の盲点。 投稿者 manase8775 日時 2011 年 9 月 22 日 18:56:44)

弥生人の特徴は、縄文人と比較すると、顔立ちは、面長で、眼窩は鼻の付け根が扁平で上下に長く丸みを帯びていて、のっぺりとしている。また、平均身長も162〜163センチぐらいで、縄文人よりも数センチ高い。これらの人骨資料のほとんどは、北部九州・山口・島根県の日本海沿岸にかけての遺跡から発掘されたものである。

近年、福岡県糸島半島の新町遺跡で大陸墓制である支石墓から発見された人骨は縄文的習俗である抜歯が施されていた。長崎県大友遺跡の支石墓群から多くの縄文的な人骨が発見されている。さらに瀬戸内地方の神戸市新方遺跡からの人骨も縄文的形質を備えているという。ただ、福岡市の雀居(ささい)遺跡や奈良盆地の唐古・鍵遺跡の前期弥生人は、渡来系の人骨だと判定されている。

つまり、最初に渡来人が来たと考えられている北部九州や大陸系渡来人が移住した可能性のある瀬戸内・近畿地方でさえ、弥生時代初期の遺跡からは渡来系の人と判定される人骨の出土数は少ない。 水田稲作の先進地帯でも、渡来系の人々ではなく、縄文人が水稲耕作を行ったのではないか。絶対多数の縄文人と少数の大陸系渡来人との協同のうちに農耕社会へと移行したと考えられる。

鈴木尚は、縄文時代から現代までの南関東の人骨を比較研究して、縄文人から弥生人への体質変化を生活環境の変化と考えた。狩猟・漁労生活から農耕生活へと生活環境を一変させた変革こそ形質を変えることになったと理解した。しかし、南関東の人骨比較のみによって、日本全体へ広げて当てはめて理解しようとすることには疑問が残る。

一方、金関丈夫は、西日本の弥生人骨の研究から、縄文人とは違った人間が大陸からやってきて、縄文人と混血して弥生人になったと考えている。この想定は、山口県土井ヶ浜遺跡、福岡平野の前・中期の弥生人骨の研究から導かれた。

混血が起きた地域を西日本と限定し、東日本では、鈴木尚がいうように在来の縄文人が弥生人になったと考えている。福岡平野・佐賀平野などの北九州の一部で、縄文人が渡来人と混血した結果弥生文化を形成して東に進み、混血しながら名古屋と丹後半島とを結ぶ線まで進み、水稲耕作が定着した。そして、西北九州・東日本では、縄文人が弥生人を受け入れたと考えている。 両説対立するというよりも両説両立するといえる。金関の成果を受け継いで前進させている永井昌文は、混血の可能性が大きいと考えている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3


もし、弥生人が稲作を日本列島に持ち込んだ民族(従来の歴史ではそのようにしてある)であるとするのなら、弥生人の故郷は、朝鮮半島ではなく、中国の南部であるという。

これは最近の科学的ミトコンドリアDNA鑑定によって、稲および弥生人のDNAが中国南部のそれと一致するからである。


1999年(平成11年)3月23日、中日共同調査団が発表、 「弥生人」の起源は江南地方か

共同通信によると、日本に稲作を伝えたとされる渡来系弥生人の人骨と、長江
(揚子江)下流域の江蘇省で発掘されたほぼ同時期の人骨の特徴がよく似ており、
DNA分析で配列の一部が一致する個体もあることが、18日までの中日共同調
査団の調査で分かった。

 渡来系弥生人は、朝鮮半島や華北地方から来たという説が有力と考えられてい
たが、稲作の起源地とされる長江下流域を含む江南地方からも渡来した可能性が
高くなり、弥生人の起源を探る上で注目されそうだ。

 同日、東京で記者会見した日本側山口団長らによると、調査団は1996年か
ら3年計画で、江蘇省で出土した新石器時代から前漢時代(紀元前202−紀元
後3年)にかけての人骨と、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人や縄文人の
人骨を比較した。

 その結果、弥生時代の直前に当たる春秋時代(紀元前8―同5世紀)から前漢
時代にかけての江蘇省の人骨と、渡来系弥生人の人骨には、頭や四肢の骨の形に
共通点が多かった。

 また日本列島では縄文時代から弥生時代にかけて前歯の一部を抜く風習があっ
たが、江蘇省の人骨二体にも抜歯の跡があった。

 江蘇省の人骨三十六体からDNAを抽出し分析した結果、春秋時代の三体でD
NAの塩基配列の一部が弥生人のものと一致したという。

 中国側団長の鄒厚本南京博物院考古研究所所長は「弥生人と江南人骨の特徴が
極めて似ていることが分かり、弥生人渡来の江南ルート説に科学的根拠が与えら
れた。今後も多方面から研究を進め、弥生人渡来の実態を解明したい」と話して
いる。

 江蘇省ではこれまで春秋戦国時代から前漢時代までの人骨がほとんど出土せず、
渡来系弥生人との関連を探る研究は進んでいなかった。

「文化的にも江南から影響有」という記事も見られる。

吉野ヶ里で発見された絹は、遺伝子分析により前2世紀頃中国江南に飼われていた四眠蚕の絹であることが分かった。当時の中国は蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じており、世界で最初に国外に持ち出された場所が、日本の北部九州であり、考古学的に証明された。


中国江蘇省無錫市の越時代の貴族墓から出土した鐸(共同)右日本の銅鐸(弥生時代)

『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、原始的な磁器の鐸が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。中国側研究者からは「日本の銅鐸は越から伝わった可能性があるのでは」との声が出ている。鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12〜18センチの鐘型。肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。

同博物院などの説明では、黄河流域を中心に中国各地で出土してきた鐸は上部に手で持って鳴らすための細長い柄が付いたものばかり。日本の銅鐸と似たつり手の付いた鐸が、長江(揚子江)下流域の呉(?〜紀元前473)と越(?〜紀元前334)に存在していたことが歴史書にあるが、実際に中国で出土したのは今回がはじめて。楚に滅ぼされた越から日本に逃げた人がいるとされることもあり、日本の銅鐸との関連性を指摘する声が出ている。』2006年3月7日付の朝日新聞

現在の日本文化の特色となっている神社の原初的形態、しめ縄、鳥居なども中国江南の文化・風俗・風習そのものだと言える事が、考古学的に明らかになっている。

そのほか「抜歯、イレズミ」の風俗、そして大社造の高床式の建物など、DNA鑑定とあわせると、弥生人の出自は中国南部といえそうだ。

ただし中国南部とは、地図上でそういうのであって、その民族は中国人(漢民族)ではない。今も残る中国の少数民族と、すでに消えてしまった民族が混血して出来たものであろう。

春秋戦国時代の呉越の時代の中国、東南アジア、東インド諸島まで視野に入れるべきであろう。

http://sawyer.exblog.jp/7178292/

◇弥生人はどこから来たか?そのルーツを中国江南に探る

第1章 弥生人が見えてきた

@なぜいま江南人骨なのか


我々日本人の祖先はどこから来たか?このテーマは、日本古代史に残された大きな課題の一つである。と同時に、日本人(特に渡来系弥生人)のルーツを探ることは、現代日本人が最も関心を持っている浪漫の一つであろう。

なぜなら、この渡来系弥生人が現代日本人の形質に一番大きな影響を与えているといわれており、学問的なテーマでありながら身近な問題であり、今日的意義も大きいからである。

渡来系弥生人とは、中国大陸からイネを運んできた渡来民のことである。そこで、共同調査団としては、イネの故郷と思われる中国・江南地方にターゲットを絞った。しかし、今まで江南地方からは日本の弥生時代に相当期(中国の春秋戦国時代〜前漢時代)の古人骨はまったく出土していなかった。このため江南人骨との対比調査は未知の分野であった。

ところが、昨秋(1998年11月)の第3回訪中調査で3ヵ年にわたる共同調査を終了したが、予期せざる大きな成果をあげることができた。それは中国側の絶大なる協力と南京博物院の精力的な努力によって提供された未研究の江南人骨数体の中に、日本の渡来系弥生人に極めて類似する固体が数多くあることを確認できたのである。


A衝撃的な成果を上がる

南京博物院の調査研究室にずらりと並んだ江南人骨をまず、頭骨、続いて四肢骨と入念な計測作業が続く。この日は計測を始めて3日目であった。

日ごろ、慎重そのものの3人の学者(山口敏・国立科学博物館名誉研究員、中橋孝博・九州大学教授・分部哲秋・長崎大学講師)が「江南人骨の多くは渡来系弥生人にそっくりである」と自信に満ちた言葉で言われた。

「まだサンプル数が少なく、多少の固体変質はあるが……」との注釈は付いたが、「江南に弥生人の原郷があった」という発見は、人類学上も衝撃的な成果であった。

「日本の渡来系弥生人にそっくり」の古人骨を江南地方で発見し、分析研究できたことは、日本はもちろん、中国でも今回が初めての画期的な成果であった。 

この成果が1999年3月18日、東京国立博物館で、日中共同調査団(日本側団長=山口敏)からマスコミに正式発表され、各報道機関から全国に詳しく報道されている。 この発見は人類学会だけでなく、考古学・農学などの周辺諸分野の研究者にも反響が大きく、また、国民的な話題と関心を読んだ。

http://www.asukanet.gr.jp/tataki/yayoizin.html

弥生人のルーツは江南か〜江南人骨の計測と観察〜


@渡来系弥生人そっくりの江南人骨


頭骨の計測=中橋孝博・九州大学教授

(a)特徴をどう対比する

「渡来系弥生人」の特徴は、縄文人に比べて「高顔」つまり顔が「面長」であり、しかも平面的な点である。そこで「江南人骨」と対比する場合、まずこれらの点を観察してみると、両者は基本的に共通していることがまず確認できる。

頭骨の顔面には多くの情報が潜んでいる。そこでまず顔面の計測に入る。 顔の高さ、顔の幅、鼻の高さ・幅、眼窩の形・広さなどである。計測の結果,個体差はあるが平均値としては渡来系弥生人に良く似たデータが得られた。

弥生人と縄文人との決定的な差異は、渡来系弥生人の鼻根部、つまり鼻の「つけ根」がぺチャッとしている平坦な点である。これが渡来系弥生人の顔の最大の特徴である。江南人骨との対比調査で一番大事なポイントはここである。

江南人骨も、渡来系弥生人に似て、鼻の「つけ根」が平坦である。また、「鼻骨つけ根と前歯の間の長さ」を計測すると、ほとんどの江南人骨の数値が、北部九州の渡来系弥生人の数値(平均値)である「74ミリ」に非常に近い。縄文人の数値は67〜68ミリである。

これらの数字は渡来系弥生人と江南人の共通性を決定づける、重要なデーターの1部である。多数の数値(平均値)が一致すれば、「よく似ている」と判断を下せるわけである。

(b)中国で弥生タイプ人骨の出現〜変化はすでに春秋時代〜

今回日中共同調査で渡来系弥生人にそっくりの江南人骨の発見も驚ききであったが、実は江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代、紀元前5〜6世紀)から、すでに渡来系弥生人に似た人骨が出土していたことはさらなる驚きであった。

日中共同調査団による5年前(199?年)の調査で、中国の新石器時代人(4000年〜5000年前)は日本の縄文人、弥生人いずれにも似ていないことが明らかになっていたが、今回(199?年)の研究で、紀元前約500年の春秋時代末期に、弥生人タイプの「春秋時代人」がすでに出現していたことが明らかになったのは、予期せぬ大きな発見であった。

中国の新石器人の形質がなぜ変化したのか?この問題には、日中共同調査団の考古学者の中国側メンバーばかりでなく、この調査に協力いただいた日本の考古学者(菅谷文則<滋賀県立大学教授>東アジア考古学専攻)も注目している。

しかも、この春秋時代人骨は骨の形質が渡来系弥生人にそっくりであると同時に歯も渡来系弥生人のように大きく、抜歯風習も弥生時代の形式と一致している。梁王城遺跡の春秋時代の2体(いずれも男性)に見られた「上顎の側切歯を左右対称に抜く」という「抜歯の形式」は、弥生時代に流行していた抜歯の形式とまったく同じものであった。これは今回の重要な発見の一つであり、今後の重要な研究課題であると、中橋教授も注目している。

今後、この梁王城遺跡一帯は渡来系弥生人の起源を探る重要な鍵となるかも知れない。

http://www.asukanet.gr.jp/tataki/yayoizin2.html

A江南人のほうがスマート

四肢骨の計測=分部哲秋・長崎大医学部講師

(a)四肢骨

北部九州の渡来系弥生人は、江南の春秋〜前漢時代人よりも下肢骨が太く、江南人のほうがややスマートであるが、骨幹の横断面形など、共通性は多い。

また縄文人の大腿骨は前方に「彎曲」しているが、江南人、渡来系弥生人ともに「彎曲」は弱く、この点も重要な共通点である。

(b)推定身長

大腿骨の長さから算出した推定身長は、ひ県劉林の新石器時代人(男2例、平均168.2cm)は黄河流域の新石器時代人に似て著しく高身であるが、常州ウトンの新石器時代人(男6例、平均152.6cm)と春秋〜前漢時代人(男9例、平均165.5cm/女5例、平均152.5cm)はやや低く、北部九州弥生時代人の平均(男162.6cm/女151.3cm)に比較的近い値を示している。

B歯は弥生人のほうが大きい

歯の形態と計測=松村博文・国立科学博物館研究官
縄文人に比べて弥生人の歯は大きい。江南人骨の歯も1部の資料(ひ県梁王城、揚州胡場)では、歯の大きさとの比例が渡来系弥生人に著しく似ている例があったが、現状のサンプルの平均値では弥生人に比べて小さいようである。

今回調査できた江南人骨の頭骨には残念ながら歯の保存されている例が少なかったので、今後サンプル数を増やさねば正確な対比はまだ望むべくもないが、ただ前歯の裏側がシャベル型にえぐれている点などは、渡来系弥生人と共通する特徴がある。

C弥生人と春秋人が同じ祖先

DNA解析=篠田謙一・佐賀医大助教授

江南人骨35体の歯の試料から12体のDNAを抽出し、PCR法で増幅することに成功、解析したデータの塩基配列を「近隣結合法」で比較したのが図2の比較グラフ(系統樹)である。

そのグラフを見ると江南人骨(揚州市−胡場、連運港市−網田童庄など)と北部九州の渡来系弥生人骨(福岡県−隈・西小田)との位置関係は、縄文人に比較すると近い距離にあるように見える。

古人骨DNA分析は国際的にも研究がスタートしてまだ5年程度の歴史であり、日本側・中国側のサンプル数が少ないので、篠田助教授はまだ「作業仮説」であると言っているが、今後サンプル数が増加し、もっと深く分析が進めば、なぜ古人骨の間にこのような変化や共通性が生じた理由(例えばヒトの移動による混血とか)が、DNAの解析から結論が出せるかもしれない……と語っていた。

ここで特記すべきことは、前記した梁王城遺跡の春秋時代末期(紀元前5〜6世紀)の江南人骨2体が、すでに渡来系弥生人と共通の塩基配列を持っていたことであろう。

これは梁王城の人と渡来形の弥生人の先祖が共通である可能性をデータが物語っており、今後の大きな研究課題として注目される貴重な発見である。


D山口調査団長に聞く

(a)共同調査対象の江南人骨

新石器時代 22体 ウトン
春秋戦国時代 11体 梁王城10 儀征1
前漢時代 15体 網田童庄5 陶湾1 胡場7 他2


(b)調査成果の要点

(1)未知の江南地方で調査対象の古人骨が始めて発見された。

(2)江南人骨が頭骨、推定身長などの計測の結果でも、渡来系弥生人に「よく似ている」ことを確認できた。しかもDNA解析、抜歯の風習でも「弥生的要素」の類似が始めて発見されたことである。

(3)これも予期せぬことであったが、すでに弥生人タイプの春秋人が春秋時代末期に誕生していた。これは画期的な発見であった。

(c)稲作民の渡来

稲作民は中国大陸のどこからきたのか?その源郷はどこか?これが私たちの調査団の最大の関心事であった。そのためには「イネのふるさと」である江南地方の古人骨の調査に的を絞ってきた。今回稲作の渡来民の源郷を江南で発見し、その宿題を果たし得たことは学問的にも大きな意義があると思う。

さて、その稲作を日本にもたらした渡来ルートにについては、渡来民の源郷の候補地が黄海をとりまく山東、江南、朝鮮半島の地域に絞られてきたので、これからは考古学、農学など関連部門との学際的研究にまつべき時期に来たと思う。

この稲作民がなぜ故郷を離れねばならなかったか?というテーマも興味深い。これも学際的な課題である。

http://www.asukanet.gr.jp/tataki/yayoizin3.html

第3章 前漢墓の遺跡−巨大な木槨〜中国江蘇省の網田童庄〜


昨年(199?年)の秋、訪中した共同調査団は江南人骨が出土した江蘇省連雲港市の海州地区網田童庄(田がヘンで造りが童で,田童で1字です) の前漢墓の発掘跡を訪れた。

この遺跡からは前漢時代の人骨5体(男3体、女2体が出土していた。この遺跡は前漢時代の海州邑の豪商、豪農の広大な墓域であったとのことで、小高い丘陵の山麓にあり、地下深く10メートル掘って埋めていた巨大な「木槨」の中に夫妻の「木棺」2基が納められ、その木棺の中に古人骨は眠っていた。

「魏志倭人伝」に「魏の墓には棺ありて槨なし」と記述されているが、始めてみる巨大な「木槨」には調査団も目を丸くしたものである。

http://www.asukanet.gr.jp/tataki/yayoizin4.html


江蘇省の主な人骨出土遺跡■印
http://www.asukanet.gr.jp/tataki/yayoizin5.html

今の朝鮮半島の住人と、三韓時代の半島の住人は民族学的には全く別の民族です。

韓国(北朝鮮)人の先祖は百済人でも新羅人でもありません。 同じ地域に住んでいるという事だけが共通点です。

弥生人と呼ばれる文化を持つグループは今でいう中国南部からの移民(難民)だと思われます。 三国志の世界の前(前〜後漢)期あたりでしょう。

その後に北方系の民族が半島に文化を咲かせながら 日本列島にやってきます。

勿論、今の朝鮮半島の人たちとの先祖ではない人たちです。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1425303274

稲作の起源とその考古学的分析


日本人の渡来ルートを知るために稲作の渡来ルートを考える研究があり、いくつかの説が存在している。

かつて、佐々木高明らによる照葉樹林文化論は、稲作が中国雲南省などの山間部における陸稲を発祥としていると主張していたが、近年、長江文明の全貌が明らかにされるにつれ、稲作は長江下流域の水稲耕作を発祥とする説が有力視されつつある。

従来、稲作は弥生時代に朝鮮半島を南下、もしくは半島南部を経由して来たとされてきたが、2005年、岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲のプラント・オパールが見つかっており、縄文中期には稲作(陸稲)をしていたとする学説が多数出た。


それに加え、

遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと、

朝鮮半島で確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり、畑作米の確認しか取れず、日本より遡れないこと、

極東アジアにおけるジャポニカ種の稲の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部からジャポニカ種の遺伝子の一部が確認されないこと


などの複数の証拠から、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート)による伝来である学説が見直され、日本から朝鮮半島へ伝わった可能性を指摘する佐藤洋一郎の説もある。


一方、これらに対して農学者の池橋宏は、従来の「縄文稲作農耕」説は農学的に見ても疑わしく、日本の稲作は江南を起源とし、北九州に持ち込まれた可能性が高いと主張している[38]。しかしながら、最近の遺伝子解析技術の進歩はめざましく、こういった学説では


日本での水田跡が紀元前まで遡るのに比べて、

朝鮮半島では水田耕作の遺跡が約1500年前くらいまでしか遡れない事実


と符合するものでもある。

現在、炭素14による日本最古の水田稲作遺跡は約2800 - 3000年前とされている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA#.E3.80.8C.E5.80.AD.E6.97.8F.E3.80.8D.E8.AB.96


日本の神典によると、稲の起源は神代の時代で、保食神(伊勢外宮のご祭神・豊宇気姫神)によってその原種が生み成されたとされています。そして天熊人(あまくまのうし)がそれを高天原へ持ち帰ったところ、天照大御神が「この物は、すなはち顕見(うつしき)蒼生(あおひとくさ)の食ひて活(い)くべきものぞ」という神勅を発せられ(「顕見蒼生」とは人類のこと)、人間の主食であることが定め
られました。

その後、高天原で稲を培養する道が開かれ、また品種改良も行われて、天孫降臨の際、邇々芸命(ににぎのみこと)に最上級とされる米種が授けられたことが伝えられています。


わたしが学校で習った頃は、確か「稲作は朝鮮半島から日本に伝わった」という説でしたが、テクノロジーの発達によって様々なことが判明してきますね。

http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/230809.htm

縄文の視点からみた台湾と朝鮮 From tokumaru

縄文専門家に台湾と朝鮮の話を伺いました。短いですが、ご参考まで

1台湾は旧石器時代から、スンダ文明圏にありました。台湾はスンダ原住民の国です。海底には神殿遺跡があります。三百年前大陸から中華大陸から三百人ほどわたってきて、さんざ悪さをしました。そして将介石が台湾に逃げてきて占領しました。独立派はいれなくなりした(今は大丈夫になりました)。

また、台湾では縄文土器が発掘されていることです。是非、原住民資料展示館、及び考古博物館に足を運び館の人と話すとよいです。

2ソウルの韓国国立博物館にも縄文土器が展示してますよ。九州の縄文土器と同じだとちゃんと解説してあります。また、ピョンヤンの国立博物館にも7千年前の縄文土器が展示されていた。

朝鮮半島も縄文文化圏だったのです。

台湾の博物館で特別に発掘土器を見せて貰ったのですが、日本語を話す館長は、それら土器を縄文土器と言っていました。沖縄では縄文土器がないとされていたのですが、空港工事で縄文土器がでてきたので、歴史年表が書き換えられています。

http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/220813.htm


■チョーセン人・カンコク人が認めたくない歴史的事実の例


・弥生人が長江流域から稲作とともにやってきた百越系民族であること(稲のDNAによる証明)

・半島南部の先住民が倭人(日本人)(弥生人=百越系民族)であること(半島南部考古学的遺物=九州北部遺物)

・新羅の建国時の宰相(瓢公)が倭人(日本人)であり、王家の一つ昔氏が倭人系統であること、また始祖の朴赫居世についても倭人(日本人)説があること(瓢=ひさご・ひょうたん=朴=半島南部古語)

・百済、新羅が日本の大和朝廷に対し従属的地位にあったこと

・大和朝廷(日本)による伽耶地域の支配(半島南部における多数の前方後円墳の存在)

・半島における文化的独自性の欠落(あらゆる分野での古典の不在)→事実のねつ造,文化の掠奪

・常に日本、中国、モンゴルなどの属国として歩んできた歴史

・姓が漢族のものであること

・朝鮮征伐が日本と明との戦争であったこと(李朝の軍は明の将の指揮下に入り、和平交渉も日本と明の間で行われている)

・朝鮮通信使が実質的に日本への朝貢使節であったこと(琉球の江戸上りと同じ)

・李成桂が女真人=満州人であること

・固有語の語彙が乏しく、また日本のように字訓という制度的保証がない状態ですでに語彙のおよそ7割が日本漢語であること(学術的語彙は9割が日本漢語

http://shadow-city.blogzine.jp/net/2011/02/post_6c46.html#more


■中国の史料『東夷伝』の記述

「新羅も百済も日本を大国として敬い、仰ぎ、通商していた」

■中国の史料『三国志』の記述
「朝鮮半島南部は倭人が支配していた」

■高句麗の史料『広開土王碑』の記述
「日本が新羅と百済を属国にした」

※韓国人が石碑の改竄を主張するが、昔の拓本が2枚、中国で見つかり、中国人学者に否定される

■日本の史料『日本書紀』の記述
「新羅と百済は日本の属国」

「渡来」は飛鳥時代にも奈良時代にも続いている。大移動は無くなったが、始祖の地からの文化・血脈の移入は続行していたのである。

大和朝廷における「渡来人」は、そのもたらした価値故に高い身分につき、絶えず政(まつりごと)の中心にいた。やがて血脈の移動は途絶えるが、見方によっては「渡来人」達が今日の日本を造ったとも言える。

『日本書紀』には百済の歴史書が多く引用され(『百済記』『百済新撰』などが引用されているが遺失した歴史書である)、百済から輸入された文物は多い。

有名な文化財には、軍事的援助の礼として、中国より伝来したとの説もあるが、百済から倭に送られた奈良県の石上神宮に伝わる七支刀がある。

百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む百済人が倭国に亡命し一部が朝廷に仕えた。豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った。百済王氏は8世紀に敬福(きょうふく)が陸奥守として黄金を発見し東大寺大仏造立に貢献するなど日本の貴族として活躍した。大阪府枚方市の百済王神社は百済王氏の氏神を祭る神社である。

この他にも、5世紀に渡来した昆伎王を祀る延喜式内社飛鳥戸神社など百済にまつわる延喜式内社がある。また、奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔が残る。

また、兵庫県神戸市には扶余系にちなんで唐柩の地名が残る。なお百済王氏ではないが、光仁天皇の妻の一人であり、桓武天皇の生母である高野新笠は百済武寧王を遠祖とする渡来人和氏の出身という記述が『続日本紀』にあるものの、実際に武寧王の子孫であったかどうかは朝鮮側の資料から見ても不明瞭であるため疑問視する学説もある(詳細は高野新笠の項目を参照)。

そもそも、百済は唐・新羅連合軍によって、完全に断絶させられており、今の韓国人とは関係のない国家とする見方もある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88


大和政権の発展のために働いた渡来人(渡来人研究会)

秦氏・・・秦の始皇帝の末裔を自称していたと伝えられる。

蘇我氏の元で、諸外国の技術・知識を調べ出すことを、当時の政権のため、あるいは氏族自身の朝廷での優位性をたもつために、熱心におこなっていただろうことが想像される。

蘇我氏の仏教導入のための造寺、儀式導入など。
養蚕から絹織物との関わりも考える説もある。
大蔵・内蔵官人職との関わりが強く、文筆業・算術などにも長けていたものとおもわれる。

長岡・平安遷都には、山城に拠点をもった秦氏とその土木技術が大きく影響を及ぼしている。

東漢氏・・・韓半島でもカヤ地域から河内に渡来してきた氏族。

漢帝国に属した帯方郡から渡来したという伝承に由来して「漢」と称することとなったと考えられている。

伝承面では東漢氏の渡来伝承には、神牛の導きに従い、中国漢末の戦乱から逃れ、朝鮮に渡ったこと、皆才芸に優れ重宝されたこと、さらに聖王が日本におり、このままでは滅ぼされてしまうとして、渡来してきたと伝えられている。 
蘇我氏の兵士として奉仕していたが、壬申の乱では、蘇我氏を見捨てることもあった。
その後天武天皇にそれら推古天皇以来の武力の技をとがめられている。


西漢氏・・・物部氏と結びつきが深かったとの説がある。東漢氏に準ずる形で組織が成立していったらしい。


文氏・・・王仁の後裔氏族。文筆業を主としたことから、その呼称・氏族名が生じたものと考えられている。


今来漢人・・・遅れて渡来した漢人。外交関係に従事。

陸系先進技術を通して、王権に奉仕していったものと考えられている。
奈良時代にはその一部は雑戸・品部として、官営工房などに配属されたようだ。


吉士集団・・・6世紀ごろに渡来した新羅系の渡来人集団。

7世紀以降の渡来人・・・百済・高句麗が滅んだときに亡命してきた、百済王氏・高麗王氏らの亡命渡来人や、朝鮮三国の官職をもって渡来した氏族とその子孫、唐から遣唐使などを通して渡来した唐人などがある。

また、7世紀ころになるとペルシアやインド方面からの渡来人も記録されている。
これらの渡来人は、当時最先端の大陸系の知識・文化を身につけていたことから、時に重宝されることがあったものと考えられている。

http://tott.blog68.fc2.com/blog-entry-99.html


一般には、日本では神代(かみよ)の昔から、方言はあるものの、すべての人が同じ言語を話していたということになっています。日本書紀も古事記もそういう前提で話が進んでいるので、疑う人も問題にする人もいません。

しかし、歴史学者の岡田英弘氏は、日本にも実際は多くの言語があり、しかも、その人たちは、他の言語をしゃべる人たちとは商売以外の交流はほとんどなかっただろうと述べています。

引用開始

それでは、668年に天智天皇が日本を建国する前、7世紀後半の韓半島の人口構成はどうだったでしょうか。

636年に唐が編纂した『隋書』の「東夷列伝」によると


百済の国人は、新羅人・高句麗人・倭人の混合であり、また中国人もいる。

新羅の国人も中国人・高句麗人・百済人の混合である、


と書いています。この記事では百済には倭人がいるのに新羅には倭人がいないのが目立ちます。これは新羅が、倭から百済をへて南朝にいたる貿易ルートを外れているのが原因だと思います。


それでは日本列島ではどうだったか。ここで、同じ『隋書』に伝えられる、609年に隋使・裴世清が立ち寄った秦王国のことを思い出していただきたい。

博多の竹斯のすぐ次が秦王国であり、しかもその先十余国をえてから倭国の難波の津に到着することから考えれば、秦王国は瀬戸内海の西部沿岸の下関付近だろうと思いますが、そこに中国人だけの秦王国という国が実際にあったことは、疑う余地がありません。そうして見ると、韓半島だけでなく、日本列島も人口構成は似たようなもので、倭人以外の種族が混じって住んでいたことになります。

(『日本史の誕生』より引用)


引用終了

つまり600年頃、倭には中国人(秦人と漢人)・新羅人・高句麗人・倭人がいたことになります。彼らの何が違うのかといえば、風習もありますが、主に言語です。ちょっと長いですが、『倭国の時代』から引用します。


引用開始


たびたび説明したように、漢人・百済人の言語は楽浪群・帯方郡で土着化した中国人と中国化したわい人・朝鮮人・真番郡の土着民とかが使った河北・山東方言系の中国語の基礎の上に、後漢・魏・晋の河南方言と南朝の南京方言と、475年の百済の南下によって中国化した馬韓人の言語との影響が加わって出来た言語であり、倭国の首都の難波から河内・大和にかけて話されていた。


秦人・新羅人の言語は、それよりも古く倭国に入ったもので、辰韓・弁韓の都市国家郡を建設した華僑が話した前漢の陝西方言系の中国語を基礎とし、それに辰韓人・弁韓人の土語の影響が加わったものであったが、大和・河内では新しく侵入した漢人・百済人の言語に圧倒されて影が薄くなり、奥地の山城・近江を中心として話されていた。


倭人の言語は3つの中では一番古いが、畿内の諸国では、平野部に入植して来た帰化人の言語の影響で語彙も文法もひどく変わってしまっていた。

以上の3つの言語はそれぞれ話される場がちがう。それぞれの言語を話す人々は、別々の社会を構成していて、コミュニケーションの必要があれば、ブロークンな中国語と倭語をちゃんぽんに使って、やっと用を弁じたのである。


(『倭国の時代』から引用)

引用終了

主に分ければ、倭には3種類の言語、つまり漢人(あやびと)・百済人の言語、秦人(はたびと)・新羅人の言語、倭人の言語があったわけです。そして彼らは「別々の社会を構成していて、コミュニケーションの必要があれば、ブロークンな中国語と倭語をちゃんぽんに使って、やっと用を弁じ」ていました。

さて、これらは違う言語ですが、特にちがうのが発音あるいは発声です。これは現代の我々の漢字の読み方にも残っています。

例えば「行」という漢字。これは「ぎょう」とも「こう」とも「あん」とも読めます。「ぎょう」を呉音、「こう」を漢音(かんおん)、「あん」を唐音(とうおん・とういん)といいます。また、他にも、呉音が入る前の古い読み方である古音というのもあります。

例えば「妙法蓮華経」は、呉音では「みょうほうれんげきょう」ですが、漢音では「びょうほうれんがけい」になります。唐音では「びょうはれんがきん」だそうです。

呉音は、名前からいってどうやら南方系の発音のようですから、先ほどの百済人・漢人の系統の言語でしょう。

一方、長安などの唐の中国語の発音が漢音です。また漢音の発音、発声、読み方を含めて切韻(せついん)といいます。後で述べるように新羅人・秦人の言語はこれに近いようです。

ちなみに唐音というは、名前と違って、もっと新しい発音で、明から清の頃の発音をいうそうです。

日本には、この切韻の発音をするための「音博士」という制度がありました。どうやら、当時、日本では呉音の発音が主流であり、漢音は特別な人しか使えなかったようです。


なぜ、最澄(伝教大師)は長安にいけなかったのか?


最澄は804年に中国に渡っています。同じ年に空海も渡っています。空海は長安、今の西安(シーアン)にまで行っています。1年半ぐらいしか行っていません。

それに対して、最澄に至っては1年も行ってないのではないかと思います。最澄はどこへ行ったかというと、天台寺から行っています。日本の留学僧が必ず渡ったところは寧波(ニンポウ、ネイハ)という町で、上海からずっと南のほうへ行って、かなり大きな湾がある杭州(こうしゅう)の側(そば)です。中国人はみんな白酒という強い酒を飲みますが、日本人は紹興酒(しょうこうしゅ)が大好きです。その紹興という町に近いと思いますが、この寧波という町に日本人の留学生は何があろうがたどり着くわけです。

そこよりさらに南のところに天台山というのがあって、ここが天台宗の総本山です。そこから、お経やら戒律やらをもらってきたわけで、大したことはありません。本当は長安まで行かなければなりませんでした。

なぜ、最澄は長安に行かなかった、あるいは行けなかったのでしょうか?

その答えは、当時の唐の標準の発音である、いわゆる「切韻(せついん)」が彼はできなかったからというのが、私の考えです。


実は、最澄の母親は漢人(あやびと)です。上記で言えば、百済・漢人系の呉音の発音をしていた人たちです。ですから、基本的に中国南東部のことばしか理解せず、また切韻もできなかったということになります。

通訳(義真という人)がいたというから、切韻ができる人間をつれていったのだと思います。

「いや、そんなこと言っても、中国に行けば、発音を覚えてなんとかなるでしょう」と思う方もおられるとおもいます。そこで、空海といっしょに西安に修行にいった橘逸勢(たちばなのはやなり)という人の文章があるので引用しておきます。


引用開始


空海と対照的なのが、入唐も帰国の一緒だった逸勢である。空海は唐で逸勢の代筆をした。


中国とわが国では言葉が違っています。私逸勢はまだ中国の言葉が不自由で、学校で勉学に励むことができません、仕方がないので、以前学んだものを復習しています。また、琴や書を学んでいます。
(『古代日本人と外国語』から引用)

引用終了


「私逸勢はまだ中国の言葉が不自由で、学校で勉学に励むことができません」と正直に書いています。したがって、長安に行っても中国語(ここでは切韻)がわからなければ、「以前学んだものを復習する」しかないわけです。

いずれにしても、空海といっしょに長安に行った逸勢の手紙は、長安に行かなかった最澄の選択が正しかったことを如実に物語ってくれています。

さて、それでは、なぜ一方の空海は切韻ができたのか?という話になります。

さきほど、倭では3種類の言語に分けられるという話をしましたが、この中で、特に重要なのが、秦人が話していた言語です。609年に隋使・裴世清が立ち寄った秦王国では、「その人華夏と同じ」であったと述べています。この華夏というのは「華(はな)のような中国の中心部」という意味で、当時の長安と同じということです。

つまり、倭にいた人の中でも、秦人であれば切韻をなんとか理解できたことになります。ただし、668年の日本誕生以来、秦人・新羅人は必死に日本人として同化していったそうですから、800年のころに話せた人は、そうたくさんはいなかったでしょう。

そして日本人で長安に留学して活躍できた僧や留学生は、この秦人の系統の人たちだと思います。例えば、弘法大師の出身は多度津というところの近くですが、この多度津も明らかに秦人の町です。また吉備真備(きびのまきび)は吉備下道の人です。この下道の古い人は吉備上道と呼ばれていますが、彼らは秦人であったということがわかっています。

この秦人は、今では秦氏とよばれ、なにかあやしい民族のように思われています。しかし、言語が当時の中国の中心部と同じだったのだから、彼らこそが、隋・唐からの最先端の土木・工芸・医療技術の担い手だったのでしょう。今の日本で、英語ができると最新の社会科学が学べるのと全く同じです。

http://www.snsi.jp/bbs/page/1/


 現在日本語と朝鮮語は、文法構造がよく似ており、発音構造の一部にも共通点がある。そのため、双方ともツングース諸語・モンゴル諸語・チュルク諸語を含むアルタイ語族に含まれるという見方がある。しかし研究者の見解が一致したわけではない。また、日本語と朝鮮語の近縁関係も、証明されたわけではない。

  中国語(実質的には別言語と見なせる諸方言)は、シナ・チベット語族に分類され、日本語や韓国語とは別系統。シナ・チベット語族に含まれる言語は、中国語、チベット語、ビルマ語など。

  ただし、「中国語は、(上古において)それぞれ別の言語を話していた商人が中原地帯で取り引きを行う片言(かたこと)から生まれた人工的な言語。しかも、漢末期からの混乱期に、本来の漢族は実質的に絶滅。その後の歴史で、大量に流入した北方民族が改めて中国語を形成した。つまり、古代中国語と現代中国語には断絶がある。

古くから続く漢文(文章中国語)は本来、片言を記録するための記号列であり、そのため品詞の区別や時制など文法の本質的要件を備えていない。当初から言語(話し言葉)とは別の、通信・記録の手段。現代中国語の古語ではない」(歴史学者の岡田英弘氏)との説もある。

  継体天皇は、先代の武烈天皇が崩御した後、越前にいた応神天皇五世の子孫を迎えたとされる。出自に不明な点も多く、日本でも戦後になり「新王朝の始祖」とする説が発表された。(編集担当:如月隼人)

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0723&f=national_0723_034.shtml


ブレイスのアイヌ−サムライ説


1989年に、ミシガン大のローリング・ブレイス教授らは「Reflections on the Face of Japan」という論文をAmerican Journal of Physical Anthropologyに発表した。この論文で、ブレイスらは、鎌倉の材木座・極楽寺付近から出土した1333年の鎌倉攻めの犠牲者人骨の歯のサイズと頭蓋骨計測データを用いて、鎌倉武士はアイヌと近縁であるという説を唱え、アメリカで注目を集めた。

鎌倉・由比が浜で見つかった、多数の関東武士の頭骨を調べたら、長頭で彫りが深かった。


ブレイス博士の武士=縄文系の視点はなかなか興味深いものです。

鎌倉時代に由比ガ浜だったですか、大量の関東武士の骨が出てきて学者が調べると、現代日本人と頭骨が著しく異なることがわかりました。 つまり、現代人が中頭〜短頭なのに、これらの武士は長頭だったのです。 いままで、日本人の小進化だと思ってましたが、これが縄文系だとすると合点がいきます。

武士道とは弓馬の道で、弓の技術が尊ばれ、刀が武士の命となったのは、江戸時代
でした。弓といえばアイヌが弓の名手として有名です。

幕末から明治にかけて来日した欧米人が日本人には2種類の人々がいて、武士階級
は名誉を重んじ、威風堂々として礼儀正しい人々だと書き残している。

また、一般の人々とは容姿も異なり、武士は背が高く、中高の精悍な顔をしている
と言っている。 絵巻物を見ても騎馬武者と兵卒では容姿が異なっている。

縄文人が、実は武士団に血統を色濃く残していたと考えると、ブレイス博士の言ってることは、新鮮で興味深い。

何時だったか鎌倉時代の人骨が鎌倉から大量に掘り出されたが、ほとんど縄文人と区別つかなかったそうだ。 つまり、14世紀になっても関東の大部分は、まだ縄文人の系統が、マジョリティーだった。

関東の武士団は、土着の地方豪族たちで、土着の地方豪族たちは、土着の農民たちを兵としていたから、関東武士の骨が、縄文人の骨と区別が、つきがたいほど似ていた、ということは彼らが居住していたであろう関東は、14世紀になっても縄文人系が多かった。


関東人は長頭、朝鮮人は短頭。


とくに鎌倉から発見された頭骨900体あまりは白人並に長頭。

鎌倉市材木座の八幡宮参道沿いで、一の鳥居のすぐ東隣から、鎌倉時代の関東武士と推定される人骨が、1953年から1956年にわたる三回の発掘によって、少なくとも910体も発見された。

しかし、北部九州や畿内や山陰の古墳に埋葬されてる骨の多くは、短頭から中頭。


それは何故か解るだろ?

朝鮮半島や中国からの渡来人だからさ。

http://logsoku.com/thread/academy4.2ch.net/history/1149868119/

日本人は「本土型」と「琉球型」・・・遺伝解析で明らかに


日本人は、遺伝的に「本土型」と「琉球型」に大別できることが、理化学研究所が約7000人を対象にした遺伝解析で明らかになった。日本人の起源を知る手がかりになるもので、26日の米科学誌(電子版)に掲載される。


 理研の鎌谷直之チームリーダーらが、全国の病院から患者の遺伝情報データを収集。14万か所のDNAの個人差(SNP)を手がかりに分類したところ、「本土型」「琉球型」の大きく二つのグループに分けられた。


 両者を分ける最も大きな違いは「髪の毛の太さ」と「耳あかのタイプ」に関係するSNPで、

「本土型」の方が髪の毛が硬く、乾いた耳あかができる傾向にあった。

「本土型」の方が、中国人と遺伝的により近かった。

http://scienceplus2ch.blog108.fc2.com/blog-entry-285.html


今回の研究では、国際ハップマッププロジェクト※6の4つの集団(西・北欧系ユタ州住民60人、ナイジェリアのヨルバ族60人、東京在住の日本人45人、北京在住の中国人漢民族45人の合計210人)のSNPのデータに加えて、バイオバンクジャパン※7の日本人7,003人の、常染色体※8上にある1人あたり140,387個所のSNPを解析に用いました。この日本人7,003人は、心筋梗塞、糖尿病、関節リウマチなど35種類の疾患のいずれかの患者であり(バイオバンクジャパンでは47種類の対象疾患があります)、病院の所在地により、7つの地域(北海道、東北、関東甲信越、東海北陸、近畿、九州、沖縄)にグループ分けされています。

 研究チームは、これらの人々からの常染色体上のSNPの遺伝子型データを用いて、主成分分析を基礎にした解析手法により、個人間の遺伝子型の相関を基に個人間の近縁関係を解析しました(図2)。まず、欧米人、アフリカ人を含んだ解析により、日本人7,003人のほぼ全員が東アジア人のグループに属することを確かめました。

次に、この内の7,001人を中国人45人のサンプルと共に解析した結果、7,001人は本土クラスターと琉球クラスターの2つの主なクラスターに大別されることがわかりました(図3)。

つまり、前者には本土の6つの地域で採血された大部分の人が含まれ、後者には沖縄で採血された人の大部分が含まれていました。本土クラスターと琉球クラスターの遺伝的分化の程度は非常に小さく、そのためSNPの頻度の違いは大部分についてはわずかでしたが、約14万個所という数多くのSNPを用いたために、2つのクラスターを観察できたと考えられます。さらに、本土の中でも遺伝的な地域差があることが明確にわかりました(図4)。今回の結果は、従来から提唱されている日本人集団の「ニ重構造」説と矛盾しないものです。

 本土クラスターと琉球クラスターの違いが、どのSNPでもっとも顕著であるかを調べたところ、6番染色体のHLA領域※9に見つかりました。また、アミノ酸を変化させるSNPの頻度の違いを比較したところ、髪の毛の太さと関連のあるEDAR遺伝子※10のSNP、耳垢のタイプと関連のあるABCC11遺伝子※11のSNPの頻度がもっとも大きい違いを示しました。

 さらに研究グループは、日本人の集団構造が疾患関連遺伝子探索のケース・コントロール解析にどの程度影響するかを調べるために、2つのクラスターや地域を分集団として、個人をランダムにサンプル抽出し、シミュレーションを行いました。その一つとして、本土クラスターのケース集団(200人)とコントロール集団(200人)を基に、ケース集団における琉球クラスターからの人の割合を増やしていき、ゲノム全体のSNPの遺伝子型頻度の違いの統計量がどのように増大するかを調べました。その結果、ケース集団における琉球クラスターからの人の割合が23%になると、偽陽性の結果を得る率の増大が無視できなくなることを明らかにしました。この結果は、ケース・コントロール解析では、患者の住む地域や遺伝的背景を考慮した解析デザインが必要であることを示しています。


渡来した弥生人は男性中心で、先住の縄文人女性との間に、日本列島で子孫を残した

母親から子供にそのまま受け継がれる遺伝子「ミトコンドリア(mt)DNA」の型の分布から、母方のルーツが「縄文系」の人と「弥生(渡来)系」の人の構成比を求める計算式を、住斉(すみ・ひとし)・筑波大名誉教授(生物物理学)が考案したというニュースを見つけた。7地域、約3000人を対象にしたデータによると、日本全国から人を集める首都圏では弥生系が約7割と多数派を占めていて、東北や南九州などかつて遠い昔に縄文社会が発達した地域では、縄文系が7〜6割と多かったと記事に書かれている。つまり父親は動いたけれど、母親は動いていないと言うことだね。「女たちのスピリットが大地に残っているかぎり、(先住民の)国は滅ぼされない」というネイティブ・アメリカンの言い伝えを思い出した。日本列島にも先住民の国が依然として影のごとく残されているのだ。

各地域集団の計算結果は表の通り。日本人の平均的集団と考えられる首都圏の弥生人の比率(71%)で、別の調査の歯の形態から割り出された現代関東人での弥生系の比率(75%)とほぼ同じだった。

逆に、縄文系の比率が高かったのが東北や南九州で、三内丸山(青森県)や上野原(鹿児島県)などの大規模遺跡に象徴される縄文社会の発達を改めて裏付けた。のちの時代、大和王権(朝廷)に抵抗した東北と南九州も縄文的な容姿や文化を色濃く持っていたとされているが、今回の調査でその遺伝子が現代まで濃厚に残っていることが裏付けられた。現代人にも縄文系の特徴が色濃く残るとされる沖縄は、遺伝子解析でも縄文系の割合が最高だった。

縄文系が約半数だった北九州は、弥生人流入の中心地の一つだけに意外な数字だが、母方のルーツでみた数字であり、「渡来した弥生人は男性中心で、先住の縄文人女性との間に子孫を残した」と考える説と矛盾しない。

各地域集団の計算結果は表の通り。日本人の平均的集団と考えられる首都圏の弥生人の比率(71%)で、別の調査の歯の形態から割り出された現代関東人での弥生系の比率(75%)とほぼ同じだった。

逆に、縄文系の比率が高かったのが東北や南九州で、三内丸山(青森県)や上野原(鹿児島県)などの大規模遺跡に象徴される縄文社会の発達を改めて裏付けた。のちの時代、大和王権(朝廷)に抵抗した東北と南九州も縄文的な容姿や文化を色濃く持っていたとされているが、今回の調査でその遺伝子が現代まで濃厚に残っていることが裏付けられた。現代人にも縄文系の特徴が色濃く残るとされる沖縄は、遺伝子解析でも縄文系の割合が最高だった。

縄文系が約半数だった北九州は、弥生人流入の中心地の一つだけに意外な数字だが、母方のルーツでみた数字であり、

「渡来した弥生人は男性中心で、先住の縄文人女性との間に子孫を残した」

と考える説と矛盾しない。

http://www.riken.jp/r-world/info/release/press/2008/080926/detail.html

崎谷満先生の父系Y染色体による系統分析、の要約と補足


「日本人の出自から見たDNAの平均値 」


約38% D2型、日本にしか残されていないシベリア経由で入ってきた縄文人の血

約34% O2b型、ジャポニカ米と共に揚子江から海路渡ってきた弥生人(長江文明人、百越人)の血

約18% O3型、山東半島〜朝鮮半島〜日本と渡って来た漢族の血

約 5% C1型、インド経由、南方系海人族の血

約 1% N型、フィリピンに顕著に残り、ツングースも保有する血筋

約 1% C3型、樺太から北海道に、アイヌに残るバイカル湖経由のツングース系の血
     朝鮮半島から九州に、扶余の血? ルート違いのバイカル湖経由のツングース系の血

その他 1%以下、D1、D3型、チベットに残るテュルク系?の血
     O1型、台湾経由の大陸系の血


     O2a型、渡来時期、ルートの異なる長江文明人の血

(出身地域により特定血筋を多く持つ者も、全く持たない者もいます)

(アイヌより縄文人のほうが渡来が早いとの説もあります)

(扶余の祖、東胡も民族系列は謎、ツングースか、テュルクとの混血ともいわれます)

(扶余が天皇家とは限りません。蘇我氏説もあります。皇統断絶説、二回説もありますしね)

(朝鮮人はO2b型5割、O3型4割、C3型1割、O1型数%です)

(日本人は10種類もの血筋が入り混じった稀有な民族なんだそうです。負け犬の吹き溜まりとも、冒険野郎の終着点ともいえるでしょう)


日本人のDNAと日本人のルーツ


世界の人々は35人の母親から生まれてきた子供達です。

35人の母親達もアフリカ大陸に住んでいた1人の偉大なる母から生まれています。人類は35通りの民族的DNAから構成されています。ほとんどの民族は35種の内、5種前後を保有しているに過ぎません。

しかし、大和民族は16種を保有する多様性な民族で有ります。簡単に言うと混血もいいとこなんですよ。おそらく、世界一の混血民族が大和民族なんですね。


縄文人は3万年前ぐらいから日本に渡来してきました。しかし、縄文人が渡来する以前から日本には人が住んでいました。約12万年前の石器が発見されています。

縄文人は僅か3万年前にやってきた新参者なんですよ。その新参者の縄文人が日本を支配した。なぜ?支配したと分かるのか?

それはY染色体遺伝子を辿ることで明白になります。Y染色体遺伝子は父親から男の子へ受け継がれる遺伝子です。つまり日本における支配階級のDNAは何か分かるのです。


縄文人の保有するD系統YAP型が40%から50%も現在日本人に保有している。これが縄文人が日本を支配していた証明になると思われます。アイヌの人はD系が80%も保有しているそうです。限りなく縄文人に近いと思います。

http://robasan.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/dna-7ca9.html


東アジアの民族の遺伝子の近似値

日本人は特殊なタイプなことがわかる。韓国人のほうが漢族に近い。
ttp://maokapostamt.img.jugem.jp/20071222_71597.gif


日本の本州に住む男性の43%がYAP+を保有
アイヌ人男性の98%がYAP+を保有。韓国人のYAPは1%しか存在しない
http://photoimg.enjoyjapan.naver.com/view/enjoybbs/viewphoto/phistory/89000/20070729118570733493125400.gif


日本人は基本的に共通して、アイヌ人〜本土日本人〜沖縄人までD系統(北方古モンゴロイド)がベースになっており、日本人3集団が持つD系統を持たない韓国人は赤の他人と結論できる。

日本は島国だったせいか、チベット人や中東の人間しか持たない遺伝子を日本人も持っているらしい。

韓国人に一番近いのは中国の漢民族なんだよね。


★近畿人は日本人ではありません。

★近畿人は遺伝的にも朝鮮人であると完全に証明されています。


▼手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との遺伝的距離

(山口敏『日本人の顔と身体』より)

0.000…朝鮮半島
0.007…近畿地方
- - - - - - - - - - -
0.012…中部地方
0.035…中国地方
0.035…九州地方
0.038…四国地方
0.048…関東地方
0.068…東北地方
0.092…南西諸島


▼各地の男性頭骨の弥生・縄文判別関数値

(池田次郎・京都大学名誉教授による)※数値が高いほど朝鮮に近い

+2.12…畿内 ←★チョン★
+1.08…四国
+0.76…東中国
+0.70…西中国、北東九州
+0.51…関東、東北
+0.40…北陸
-0.87…西九州、南東九州 ←★天皇家★

▼身体的特徴から求めた朝鮮人との遺伝的近似性(小浜基次・阪大教授による)
     頭示数 比肩峰幅 比上肢長 比下肢長
蝦夷人  76.55   23.65   44.60   55.14(小顔・足長の美しい日本人DNA)
東北人  80.16   23.07   44.46   54.33(小顔・足長の美しい日本人DNA)
畿内人  84.98   22.67   43.99   54.23(顔デカ・胴長短足の醜い朝鮮人DNA)
朝鮮人  85.16   22.35   43.30   53.48(顔デカ・胴長短足の醜い朝鮮人DNA)

▼解剖学者・松村博文先生の常識的見解
http://www.frpac.or.jp/rst/sem/sem1721.pdf

『近畿人は胴長短足、朝鮮人も胴長短足』
『近畿人は短頭、朝鮮人も短頭』
『近畿人は乾燥耳垢、朝鮮人も乾燥耳垢』
『近畿人は耳たぶが痩せている、朝鮮人も耳たぶが痩せている』
『近畿人は髭が薄い、朝鮮人も髭が薄い』
『近畿人は一重まぶた、朝鮮人も一重まぶた』
『近畿人は蒙古襞、朝鮮人も蒙古襞』
『近畿人と朝鮮人は歯の形が同じ』


扶余(ふよ、プヨ、〔朝:buyeo〕、扶余〔中:fu'yu'〕)は、中国三国時代に満州に住んでいた民族で、万里の長城より北、南は高句麗(こうくり)に、東は?婁(ゆうろう)に、西は鮮卑(せんぴ)接する、方約二千里(三国時代の一里は、約450m)の範囲に住んでいた。 夫余、扶餘、夫餘とも表記される(「餘」は「余」の旧字体)。

穀物は余り良く育たない土地に定住したが、好戦的であり、歌舞飲酒を好み、風俗は淫乱であったと記録される。

元々前漢の玄菟郡に属し、その後、三国時代に入ると遼東半島の公孫氏の配下に入った。しばしば鮮卑の攻撃を受けて衰亡し、最後はツングース系の勿吉によって滅ぼされた。

この扶余族には、沃沮(よくそ)・?(わい)・高句麗なども含まれ、朝鮮半島北部を中心に広く分布していた。

他に百済王家も扶余系とみられ、南扶余と国号を自称していた時代がある。また、百済王の姓も扶余または余と名乗っている。


大韓民国忠清南道の郡、扶余郡(プヨぐん、ふよぐん)は、百済最後の都があった。面積634.9平方キロ、総人口82,546人(2005年4月現在)。過疎化で若干減少気味となっている。1邑(町)15面(村)からなる。郡庁所在地は扶余邑。(Wikipedia)

百済の始祖温祚王というのは、まだ原始部族国家のひとだが、韓民族ではなく、朝鮮の歴代の王朝の始祖がつねにそうであるように北方の満州あたりから南下してきた扶余族の出身であった。

扶余族というのは南満州や鴨緑江の山谷を駆けまわって狩猟していた連中であり、
やがては北朝鮮を中心に高句麗国をつくり、南朝鮮諸国を圧迫した。

その一派が南朝鮮の韓民族地帯に入って征服王となり百済国をつくったのであろう。従って、百済の始祖温祚王というのは、背が高く、目に蒙古襞をもち、ほお骨の秀でた北朝鮮型の容姿をもっていたであろう。頭はまわりを剃って髪の一部をながくのばし、それを編んでいわゆる辮髪であったにちがいなく、その服装は北方騎馬民族の特徴であるズボンをはいていたに相違ない。(司馬遼太郎)

実在する最古の天皇14代応神の墓、誉田山古墳の陪塚丸山古墳から出土した国宝の「金銅製透彫鞍金具」は中国遼寧省喇嘛洞UM101号墓で最近出土した鮮卑族の鞍と細部に至るまでほとんどまったく同一。


百済→王族は扶余族、民衆は長江文明遺臣の倭人(弥生人、百越人ともいう)

新羅→王族は扶余族、三王家のふたつに大和出自伝説あり、民衆は倭人と、始皇帝から逃げてきた秦人(漢族)

任那→王族は扶余族、大和の直轄地、民衆風俗は新羅に似る

東胡→ツングース系? テュルクと混血とも、BC200年頃、匈奴に破れ四散

オロチョン→もっともツングースDNAが濃い。>ブリヤート>エヴェンキ>蒙古>満州>北朝鮮人>韓国人>日本人

扶余→東胡の末、穢族から分岐(日本に相撲、胡服を伝えた?)

穢族→(ワイ族、さんずいでカイ族とも)、東胡の末、穢四族(高句麗、扶余、沃沮、穢)に分裂

高句麗→コリョ族(高麗族、大和呼称はコマ族)、 東胡の末、穢族から分岐

高麗→高句麗は便宜上の呼称、高句麗が前高麗、高麗が後高麗、どちらもコリョ族

渤海→東胡の末、建国時高句麗遺臣も参画

蒙古→東胡の末、東胡→室韋(しつい)→蒙古

鮮卑→東胡の末

契丹→東胡の末

柔然→東胡の末

女真→東胡の末、満州族のこと、コリョ、渤海に近いともいう

突厥→テュルク系といわれる

匈奴→??人 、フン族説強し(民族大移動)、東胡を四散させた。

日本人は南から移住か 遺伝情報でルート推定 (共同通信 他)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/238.html


 東アジア、東南アジア、南アジアの住民のゲノム(全遺伝情報)の分析によって、日本人の多くは、アフリカからインドに入り、タイなどを経て北に向かった集団の流れをくむと推定されるとする研究結果を国際チームがまとめ、11日付の米科学誌サイエンスに発表した。

 東アジアの人は、主に南から来たという説と、少なくとも北からと南からの2ルートはあったという二つの仮説があり、今回は前者をより強く支持する結果という。

http://www.excite.co.jp/News/society/20091211/Kyodo_OT_CO2009121001000829.html


日本人におけるミトコンドリアゲノム多様性

○田中雅嗣(岐阜県国際バイオ研究所)

【背景】ミトコンドリアDNA (mtDNA)の全塩基配列に基づいた世界人類のミトコンドリアDNAの多様性に関する最近の分析は、ヒトのアフリカ起源説を支持する確固たる証拠を提供している(Ingmanら、2000)。100,000年前以降に、少なくとも2つのmtDNA人間血統が、急速にアフリカから旧世界に広がり始めた(Maca-Meyerら、2001)。

考古学的記録は約30,000年前に人間が極東アジアの日本に到着したことを示している。(Gloverら、1980)。

 その頃、日本は北と南の陸橋によってアジア大陸とつながっており2つの移入ルートが可能であった。13,000年前に日本とシベリアにおいて世界で初めての土器
が出現した(Shiraishi 2002)。その後の技術的な改良は、日本の新石器時代の縄文文化をもたらし、かなりの人口成長が見られた。その後大陸の人々が朝鮮半島から
の日本に到着し弥生時代が始まり、約2000年前に人口の流入は最大となったと推定されている。


【研究方法】東アジアのmtDNAの系統樹を構築するために、私たちは日本人672個体のミトコンドリアゲノムの全塩基配列を決定した。これにより、アジア人942個体の全塩基配列を使って系統発生を分析することが可能になった。

日本人mtDNAの全塩基配列データから新しい分岐および小分岐が同定された。
この明白な系統樹に基づいて、私たちはアジア人4,713個体のmtDNAの部分的塩基配列を10%未満の誤差で分類した。


【結果および考察】人口および系統地理学的な方法を適用して、日本列島におけるヒトの定住の歴史において論争の的になっている問題を明確にするために、
mtDNAの部分配列を利用した。人口に基づいた比較によって、現代の日本人が北アジア人、特に韓国人に最も近い遺伝類似性を持っていることを確認した。

このことは、弥生時代以降に中国大陸から日本へ遺伝子の拡散が生じたとする従来の説と一致する。

一方、この系統地理学的なアプローチによって旧石器時代の日本人が高度に分化していたことが明らかになった。琉球人とアイヌ人において基礎的なMおよびN系統
が存在することから、古代において南方と北方からの移住があったと推定された。さらに、日本人とチベット人との間の直接的な関係も明確になった。

これはY染色体の研究結果と一致した結果である。更に、いくつかの小分岐が日本において最も高い多様性を示したことから、日本がアジア大陸への移住拡大していった地域の一つであると推定された。


【結論】ミトコンドリアゲノム多型から描き出されたこの複雑な像は、日本への定住の歴史を説明するために提案されてきた従来の理論では十分に説明できない。

http://www.nms.ac.jp/nms/jmito/NENKAI03/DAI3Y41-50.html

古代朝鮮・韓民族の形成とニッポン  【ニッポン民俗学】

▼朝鮮人と日本人


 朝鮮人というのも、日本人と同じくらい形成過程に不明な点が多い謎の民族である。ともに、北方的なるものと南方的なるものとの狭間で、両者のせめぎ合いと融合の末に出来上がった国である。

日本にも今でも東西(あるいは南北)で民俗や生活様式などに相違が残るが、朝鮮ではそれどころか南北は国境線で分かたれている。この「北緯38度線」は、古代の形勢、すなわち北の高句麗と南の韓族の三国家を彷彿とさせるものである。喩えて言えばだが、今なお北方的なるもの(旧ソ連と中国)と南方的なるもの(日本と「南蛮」米)との狭間にあるかのようだ。

 朝鮮半島では「南北統一」がいま盛んに語られているが、これは新羅による七世紀の国土統一以降、一千年以上唱えられてきた「国土・民族・主権の統合や自己回復」の民族的スローガンの一変種との見方もできる。朝鮮史は、ツングース系契丹族の遼やモンゴル族の元など北方異民族の侵入や支配、そうでないときは宗主国・中国への臣従と、南方からの倭寇や秀吉の侵略、とどめに日韓併合と朝鮮戦争などと、幾多の「自己喪失」で満たされている。

 日本は今でこそ東西に分かたれてはいないが、古代には畿内の西日本政権に対し、東日本は「蝦夷」であり「日本」ではなかった。鎌倉幕府は当初、東日本政権だったし、江戸幕府も関東基盤の政権であった。東西の自然環境の違いが双方の農耕や産業のスタイルをたがえ、そこに適応した生活様式が生まれ、方言や民俗そして感性や思考の違いを生じさせたのであろう。しかしそれだけだろうか。現に、日本化が最も遅れた地域の「日本人」である北海道のアイヌ人と沖縄の琉球人には、本州日本人との文化的差異ばかりではなく、遺伝学的な微妙な差異すら指摘されている。

 朝鮮人形成の解明は、日本人にとって他山の石、いや鏡である。話を先取りしてその違いだけを述べれば、朝鮮人には北方的なるものが、日本人には南方的なるものがより多く残ったということであろう。古代においては、半島南端と列島西端で共有されていた南方的なる「倭」は、その名とともに後ちの日本に引き取られた。後世においては、朱子学の受容にその相違がよく表れている。前者は本家よりも厳格な北方的儒学を打ち立て、後者は南方道教的な人間学へ変質させて怪しむことがなかった。なお、本論では話を古代にとどめることをお断りしておく。

▼南アジア人と北アジア人

 初めにも述べたように、朝鮮半島と日本列島の民族や文化は南北からの渡来で出来ている。正確には知りようもないのだが、幾度にもわたる「交通」(戦争や征服から共存・混血などの人的交流、また文化・物資だけの交易までを含む全交流)の往来があったのだろう。最初に半島や列島に住んだのは、東南アジア方面から北上した原アジア人(古モンゴロイド:南アジア人)である。人口的にはそう多くを想定しなくてもよいだろう。ただし、この南方「交通」ルート(東南アジア−中国・華南−朝鮮西南部・日本西北部)は常にオープンであった。

 次に渡来したのは、北方で長らく氷雪に閉じ込められていた新アジア人(新モンゴロイド:北アジア人)である。彼らは寒さで体質を変化させていたが、同時に文化も寒中で集約的に磨いていたはずだ。およそ一万年前の雪解け(温暖化)とともに、彼らは南進し始める。原アジア人よりも精力的で人口も多かったように思われる。やがて半島や列島に押し寄せたのは、その中のアルタイ・ツングース族系の者たちである。彼らは採集・狩猟・漁撈の民であった。

 朝鮮半島に最初に入ったツングースは、ワイ(カイ)族や貊(ぱく)族と呼ばれる者たちである。彼らは南方から来たアジア人とも「交通」しながら、ほぼ半島全体に拡がったものと思われる。これが朝鮮語の礎を作ったのであろう。一方、考慮しておかねばならないのは、南方ルートからの絶え間ない「交通」である。人の渡来も文化・物資の交易もあった。とりわけ、後ちには南方の焼畑耕作文化が移植されていただろうことは強調しておきたい。


▼半島北部の「中国人」支配

 東アジアの歴史記録は中国に頼らざるを得ない。それによれば、初めて「朝鮮」を名乗ったのは当時の「中国人」である。それは春秋・戦国時代の燕(現北京に都した周の分封国)に隣した「箕氏朝鮮」である。もちろん、半島と中国文明との「交通」はそれ以前からあっただろう。黄河文明のアワを中心作物とした畑作文化が、北西回りで半島に移入されていたことは間違いない。その箕氏朝鮮とは半島北西部までを領土としていたものと思われる。

 実は、箕氏朝鮮がその存在とともに、歴史年代が明白となってくるのは滅亡に関しての記録においてである(『後漢書』)。哀れなものである。戦国末期の燕、秦帝国、そして前漢、と強者が変転する動乱がうち続く中で、旧燕からの亡命者・衛満という者によって箕氏は滅ぶ。紀元前194年ごろ、替わって立ったのは衛氏朝鮮である。しかしこの衛氏も漢の武帝によって滅ぼされ、そこには直轄植民地として楽浪郡などの四郡が置かれる。同108年のことであった。


このように半島北西部には長らく「中国人」が住み、その文化を持ち込んだ。これは紀元後313年、高句麗が楽浪郡を滅ぼすまで継続した。箕氏の到来から数えると、およそ一千年と見てよいだろう。そういう意味で、東日本と同じく、半島北部は「朝鮮人」ではない「異民族」の地であった。その後の高句麗(ツングース族)支配を考えれば、それはさらに続くとも言える。しかし同時にこれは、「では韓民族とは何だ?」という問題を提起し、さらに「民族」というものの歴史性にまで思いを至らせてくれるものでもある。


▼韓民族の「辰国」と「倭人」の登場

 次に、南方からの渡来にもう一度、目を向けたい。南方ルートの出発地は長江やその北の淮河の河口域で、北に山東半島を伝い、やがて朝鮮半島西岸や南岸(それに日本・九州北岸も)に及んでいる。前述のように絶え間ない渡来があっただろうが、春秋・戦国時代の華南での闘争、すなわち呉(南アジア人)と楚(北アジア人)、呉と越(南アジア人)、越と楚、それに小国家も巻き込んだ戦乱は一挙に大流民を生んだ。それは、呉が滅亡した紀元前五世紀の前半から加速したと思われる。

 彼らは半島西岸や南岸にたどり着き、そこで「韓」と呼ばれるまとまりを成した。これを辰国と言う。彼らは稲作と漁撈の民である。内陸と北東部にはワイ族や貊族が居住していた。そして北西部には箕子朝鮮があった。韓族は西南部に集住したが、これが後ちの馬韓となる。弁韓と辰韓は、馬韓地域から海岸伝いの移民によって拡張された「韓」である。辰王は大王として、この三韓地域を支配する馬韓の王であった。

 同四世紀後半、長江河口域での最後の「南アジア人」の国・越が楚に滅ぼされる。おそらくこれを契機に、再び半島に流民が押し寄せる。これが「倭人」である。倭人は弁韓南部と対馬と九州北端を強奪する。黥面文身(入れ墨)した最も海人的要素を残した民として、黄海、山東半島、日韓海峡、それに東シナ海を故地・長江河口まで自由に行き来しただろう。遅れてきた韓人こそが倭人に他ならない。そしてこれが『後漢書』や『魏志』に描かれた「楽浪海中の倭人」であり「馬韓や弁韓の南にいた倭人」である。

 「韓」人や「倭」人とは何か。華南の「越」人である。これは国名ではない。主に長江河口域に住み、稲作と漁撈を生業とし、高床式の住居文化をもつ「越」と呼ばれた諸族である。中華は彼らを「百越」と総称した。「越智」を今でも「おち」と読むが、これは「越」を「wo:ヲ」とかつて発音したことの残滓である。「倭」もまた元は「wo」と発音した。つまり、「越族」とは「倭族」である。日本・北陸地方を「越」というが、もちろんこれもただの偶然ではない。


▼「倭国」王の朝貢と三韓の成立

 紀元前二世紀初め、衛満によって国を追われた箕子最後の準王は、南方へ逃れて馬韓に攻め込み、韓(=辰)王となった。しかしそれは一代で終わり、再び韓人が復位した。半島北西部には箕子のあと衛氏が建国したが、前漢がこれを滅ぼし、楽浪郡が設置されたことは前述の通りだ。そこへ「倭奴国」が朝貢し、蛇の取っ手が付いた金印の下賜を受けたことは有名だ(紀元後57年)。さらに「倭国王帥升」も朝貢している(107年)。

 この頃、すなわち紀元後一世紀ごろ、高句麗が南進し、楽浪郡を圧迫し始める。その東部にはワイ族と貊族がいた。二世紀後半、中国・後漢政権の衰弱に伴い、楽浪郡も衰える。辰国は、馬韓王を共同王として頂きながらも、馬韓・弁韓・辰韓の三韓体制となる。中華帝国の綻びは、周辺国に動揺を与えるのだ。『後漢書』には「倭国で大乱」とも記録されている。後漢末期、楽浪郡南部を帯方郡とし、植民地再建をはかるが、後漢は滅び、魏がその後を継ぐ。その帯方郡へ使節を派遣し「親魏倭王」と信認されたのが卑弥呼である(239年)。

▼百済と高句麗

 さて、半島北方に拡がる満州平原(中国東北部)に目を向けよう。ここも元々は古モンゴロイドが先住していたが、南下した北アジア人に呑み込まれ、混血してツングース諸部族となっていた。ツングースの西方には、遊牧狩猟民のモンゴル諸部族がいた。扶余族はそのモンゴルの一部族で、紀元前二世紀末、満州平原に進み、そこにいたツングース諸族を征服し混血する。北方系の畑作を学んで半農半猟民となり、やがて扶余国を建てた。

 この国は高句麗や鮮卑の圧迫を受けて紀元後四世紀前半に滅亡するが、一王子が逃れて東扶余国を建てる。しかし今度は王位継承問題がこじれて、王子は朝鮮半島に逃れた末、華南に移った東晋の支持をおそらく受けながら、馬韓に攻め込み、同世紀半ば過ぎ、馬韓を制圧してしまう。これが百済の建国である。すなわち、百済とはその王族は扶余族、その住民は馬韓人(倭族)という「二層構造」の国家だったのである。このとき、辰国は解体する。

 次に高句麗だが、この国は紀元前一世紀末、ツングースのワイ族系の部族が建てた国である。徐々に勢力を拡大し、四世紀には現中朝国境の鴨緑江を中心に、扶余国からは満州平原南部を、楽浪郡と先住ツングース部族からは朝鮮北部を奪って、その地を領有するに至る。高句麗には二つの宿命があった。一つはツングース族の「名門」扶余族の影である。高句麗は扶余の後裔と僭称する。もう一つは旧楽浪郡の文化である。華北中国文化を引き継ぎ、半島へ導入する役割を担うことになる。


▼新羅と加羅

 古代朝鮮「三国」のあと一国・新羅は、以上述べてきた通り、韓族主導でツングース族が混血した国である。王族も住民も韓人である。新羅の成立は六世紀初め(503年か)と見られる。同国は辰韓の三氏族の統合体である。すなわち、朴(パク)・昔(ソク)・金の三氏族が辰国の解体以降、並立していたが、それを王統譜22代の金氏・智證王が統一し、この時、国号を新羅としたと見られる。

 後ちに新羅に併呑される加羅(伽耶)であるが、ここは統一領土国家ではなく、都市国家連合的な「連邦」を成した。これは「倭人」が「韓」による統合を拒んだためと思われる。特に、「任那日本府」があったとされる南岸の金官加羅は、中華に「狗邪韓国」とも呼ばれていたように、「韓」と「倭」の二重国家であった。すなわち、韓の加羅連合の一国であると同時に、倭の一国でもあった。この状態は新羅成立前ごろまで続いた。(実はこのあたりに、わが倭国王権の秘密が隠されているのだが、これは別論として述べたい。)

 その後の半島情勢については以前にも記したので簡略にとどめるが、六世紀半ば過ぎに新羅は加羅を併合した後、七世紀後半、唐と連合して百済(および倭国)を破り、唐に討たれた高句麗の半島内領をも掌中に収めて、半島全土を統一支配する(676年)。

▼朝鮮人形成の方向性

 改めて考えたいのだが、これで「朝鮮人」が成立したわけではないことは自明だろう。ここで同時代の日本を想起されたい。壬申の乱(672年)直後の天武天皇の時代であるが、朝鮮と同様に、この頃にはまだ「日本人」は成立していないのである。「民族」という概念の限界を強調しておきたい。

 朝鮮人は、北のツングース族と南の韓族(倭族)の結合として熟成していったことはお分かりだろう。統合は新羅王権によって進められたので、新羅王権の性格が朝鮮人形成の方向性を示唆してくれるはずだ。統一以前の三国時代は、中国の南北朝時代とほぼ並行してあったが、朝鮮情勢はその代理戦争の面もあった。諍いもあったが北朝系文化を担ったのが高句麗であり、南朝系文化を積極的に移入し南朝と友好をはかったのが百済であった。

 地図を広げてもらえれば分かりやすいのだが、南朝に最も近いのは百済であり、言うまでもなくこれは伝統的な「南方ルート」でもあった。では、新羅はどうか。いまや宿敵となった百済に中国への陸路も海路も阻まれ、大陸から見れば最遠の地にあった新羅は、高句麗の強圧もあって高句麗経由で北朝中国文化を受け容れた。中国仏教も二伝あって、それはインドとつながる西域に開いた北魏(モンゴル系鮮卑族の国)の北朝仏教と、閉じて中国化の道を辿る南朝仏教であった。

 つまり新羅は、三国の中では最も韓民族らしい国であったが、その文化は強くツングース・モンゴル系の中国化を蒙った国と言える。因みに百済は、ツングース系王権が支配する韓民族の国であったが、建国時にも後押しがあっただろう南転した中華中国人(漢人)系の中国化が進んだ。(自らも北アジア人である「漢人」は、より北方のアルタイ・モンゴル系北アジア人に絶えず圧迫されて南進し、そこでは南アジア人を圧迫・吸収しつつ、次に北進して北方民族を呑み込むという運動を繰り返して「中国人」となった。)

 実際、新羅王権は、韓人の源流である南アジア人の色を最も濃く残した「倭人」を南海峡に追い落として、倭国に切り捨てる一方、漢人が再び北進して中華の定位置である北方の中原に立った大唐帝国の諸制度・文化(律令・礼式、仏教・儒教など)を忠実に、いや中華以上の精確さで受容していくことで「小中華」たる朝鮮と朝鮮人を練り上げていった(注)。ここに朝鮮人の「北方ルート」の重視、南北バランスの北方優位性が固定されたのだ。

(注)新羅・高麗時代には仏教が国教扱いで、李氏時代になって儒教が国教となった。中華志向は、統一までは便宜的な要素もあったが、後になるほど高まり、中国が北方異民族に支配されたときなぞには、朝鮮こそ中華帝国の後裔と意識された。

http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/mjf/mjf-52.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/235.html
 

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コメント
 
01. 2011年10月02日 10:41:46: MiKEdq2F3Q

古代中国には、北方の畑作・牧畜地帯の龍を信仰する龍族と、南方の稲作・漁撈地帯の太陽や鳥それに蛇を信仰する太陽族・鳥族・蛇族が明白にすみわけて存在していた。南方の長江流域の稲作・漁撈民は、太陽こそ稲の豊穣をもたらすものと考えた。そして、鳥はその太陽の運行を助けるものであった。太陽は朝生まれ、夜に死ぬ。その永劫の再生と循環を支えているのが鳥であった。

 その南北構造のルーツは7千年前までさかのぼることができる。中国東北部の内モンゴル自治区から遼寧りょうねい省にかけて、新石器時代に高い文化が発展した。その代表が6千年前の紅山こうざん文化であり、龍が信仰されていた。

ところが、寒冷・乾燥化が進行した5千年前に紅山文化が衰退し、4千年前には崩壊する。北方の中原で生活していた畑作・牧畜の民は南下して、長江中流域の江漢平原から長江文明を担った稲作・漁撈の民を追い出し、雲南省や貴州省の山岳地帯へ追放した。青銅器の武器を持った「家畜の民」が、青銅器の武器を持たない「森の民」を征服することはやさしかったであろう。

こうして、4千年前以降、北方から何回にもわたって征服する波がおしよせた。とりわけ3千年前は、著しい気候の寒冷・乾燥期であった。北方の中原から「家畜の民」が大挙して長江流域に南下した。長江流域に生活していた「森の民」は、森の多い山岳地帯に退去せざるをえなくなった。この時、長江文明の担い手の苗ミャオ族を含む長江流域の人々が、長江文明の崩壊とともに台湾や日本列島へと移動した可能性が高くなってきた。

 中国大陸においては太陽族・蛇族は龍族に追われたのであるが、海上難民となって日本列島に到着した太陽族・蛇族は、これまであった縄文時代の太陽信仰・蛇信仰に出会うことになる。縄文時代以来の太陽と蛇を信仰する再生と循環の世界観に、この稲作・漁撈民の太陽信仰と鳥信仰・蛇信仰はすんなりと受け入れられたのである。

神武天皇はヤタガラスの道案内によって、熊野から奈良盆地南部の橿原かしはらの地に宮をかまえる。天津神あまつかみ系の子孫である神武天皇が、対決しなければならなかったのが、その東北に位置する三輪山を中心とする国津神くにつかみ系の神々であったが、再生と循環の世界観を共有していたため、スムーズな国譲りが行われた。

 日本の神話に出てくる天皇のルーツをみていくと、アマテラスは田で稲を作る太陽神であった。神武天皇が初代天皇になり奈良盆地を支配する時に、その案内をしたのはヤタガラスという鳥だった。そしてトヨタマヒメはワニだった。稲、太陽、鳥それに揚子江ワニ、これらはすべて長江文明を代表するものである。高天原から日本列島へやってきたニニギノミコトは、鹿児島県の笠沙かささの地についた。長江文明の新しい文化や技術を持った人々がやって来た。長江下流域から、船で東シナ海に出ると、対馬暖流に乗って真っ先に行きつくところが、鹿児島の南端である。そこから対馬暖流が行きつくところが、出雲でありその先が富山の越の国なのだ。

 神武天皇にはじまる日本の天皇は、雄略天皇、武烈天皇という二代の暴虐によって、皇統は断絶の危機に直面する。その時、天皇の血を受け継いだ人としてさがしだされてきたのが、越の国出身の継体天皇であった。越の国のルーツは、長江流域からの越人の国の意味あいが強かった。継体天皇の墓地といわれる高槻市今城塚古墳や埴輪を製造した高槻市新池遺跡からは、船を線刻した円筒埴輪が百個以上も出土している。これは継体天皇と九州の水軍と強い関係を暗示している。そして九州の水軍の背景には江南の水軍がひかえている。

 天武天皇が唐帝国の覇権主義に対抗し、倭国を独立した国として維持するために注目したハードは律令体制であったが、ソフトは太陽信仰だった。天武天皇は長江文明以来の太陽信仰を体系づけ、「日の御子」として天皇を中心する「日本国の心の形」を作り上げた。天武天皇は太陽王であった。日本列島における「太陽の文明」はこの天武天皇によって名実とも完成した。天武天皇は長江文明を継承し、その長江文明の世界観を天皇を中心とする日本国の建国の柱にすえたのである。長江文明は日本文明となって甦ったのである。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/hon/ryutotaiyou.htm

古代史の鍵・丹後 籠神社

太陽信仰もつ海人集団の拠点

「元伊勢」、伊勢神宮の成立に関与?

 京都府の丹後(かつての丹波)地方は、天女伝説や浦島伝説で知られる。近年、古代海部(あまべ)氏の系図が公表されたり、考古学的にも注目すべき遺物が出るなど、漁労や航海を生業とした海人集団による独自の歴史性が明らかにされつつある。
 丹後半島の東側、日本三景の一つ「天の橋立」の付け根に、「元伊勢」といわれる籠 (この)神社が鎮座する。祭神はホアカリノミコト(火明命)で、丹波国造が祖神として祭った。

 籠神社の宮司家は海部直といい、宮司家が長く秘蔵してきた二つの系図、通称「海部氏系図」「勘注系図」は、現存する最古の系図として、昭和五十一年に国宝に指定された。

 これら系図によれば、海部直氏の始祖、ホアカリノミコトをオシホミミの第三子とする。

 オシホミミは『古事記』によれば、天照大神の子である。一方、『新撰姓氏録』(九世紀成立)によれば、ホアカリノミコトは愛知県の濃尾平野に勢力を築いた雄族・尾張氏の祖神である。尾張氏の配下にあった有力な海部集団が、ホアカリノミコトを自らの祖神としたものらしい。

浦島伝説にちなんで名前の付けられた丹後半島の亀島

 籠神社にはまた、二枚の中国製の銅鏡も伝えられてきた。それぞれ前漢時代、後漢時代のもので、系図中にも「息津鏡」(おきつかがみ)「辺津鏡」(へつかがみ)と記されている。昭和六十二年に初めて公表され、弥生時代に招来されて以来、二千年にわたって伝世されたということで、大きな反響をよんだ。息は沖、辺は岸辺のことで、航海の安全に呪力をもつ鏡として祭られたものだ。

 銅鏡といえば、平成六年には、竹野郡弥栄町の墳墓から、邪馬台国の卑弥呼の晩年に相当する「青龍三年」(紀元二三五年)の年号がある銅鏡が発見され、卑弥呼とのかかわりも取り沙汰された。

 弥生時代の近畿地方には、銅鏡文化はほとんどなく、丹後の特殊性がうかがわれる。太陽信仰をもっていた海人集団の幅広い活動を示すといえよう。

 ホアカリノミコトは太陽神で、各地に鎮座するアマテル(天照)神社の祭神である。神話学の松前健氏は、もともとあった「アマテル」という神が、その格があげられて皇祖神である「アマテラス」となったのだと説く(『日本神話の形成』)。

 当時の海人集団の習俗をパノラマ的に描いたらしい土器がある。鳥取県西伯郡淀江町から出土した壷(弥生時代中期後半)だ。神殿建築のような高床式の建物があり、その右側の船には、鳥の装束の人物が乗っており、船の上には太陽らしい渦巻き(同心円)紋がある。

 さらに、左側の木には、瓜のようなものが二つぶら下がっている。金関恕・天理大教授 によれば、銅鐸であるという。千田稔・国際日本文化研究センター教授は、このパノラマ図について銅鐸をともなった弥生時代の太陽信仰を描いたものとし、アマテル信仰の 源流とみている。


息津鏡=籠神社・海部宮司家所蔵

 しかしこれがアマテラス信仰の源流であるかについては、さらに検討の必要がある。ホアカリノミコトは、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこほあかりくしたまにぎはやひのみこと)のように、ニギハヤヒと複合で称されることがしばしばで(丹後の天照玉命神社もその一つ)、ニギハヤヒは物部氏の祖神の名であるからだ。

 物部氏は銅鐸を奉祭した氏族とみられ、実際、丹後には銅鐸が多く出土する。天ノ橋立に囲まれた阿蘇海に流入する野田川右岸の加悦町から、銅鐸形土製品が発見され、籠神社の東の由良川の上流には、阿陀岡神社が鎮座し、付近から二個の銅鐸が出ている。

 郷土史家の金久与市氏によれば「銅鐸出土地には必ずといっていいほど古社がある。海洋民の集団が由良川をさかのぼり、上流地点に銅鐸を祭祀し、祠を建立、拠点としたのではないか」(『古代海部氏の系図』)という。

 丹後町から西に向かう網野町の函石浜遺跡からは、中国の新時代の王莽によって鋳造された「貨泉」が発見されている。中国とかかわる交流を物語るものだ。

 平成十年には、王墓とみなされる墳墓(弥生後期〜末期)が籠神社から約三キロ西南で見つかった。美しい透明の青色ガラス製の釧で話題を呼んだ。他に、貝輪系の銅釧(く しろ)(腕輪)十三点、鉄剣十四本などが出土したが、これらは九州系の文化遺物である。

 銅鐸氏族・物部氏には、天磐舟(あまのいわふね)による降臨神話があり、先の壷のパノラマ図をほうふつとさせる。物部氏は航海、交易によって栄えた氏族だったといえよう。

 さて、この地を「元伊勢」というのは、天照大神が大和から伊勢に遷座する途中、最初に立ち寄ったのが、この籠神社だったとする伝承が、伊勢神宮に伝わる「倭姫命世記」(やまとひめのみことせき)(七六六年の成立という)にあるからだ。また、伊勢神宮外宮の豊受大神ももと籠神社奥宮の祭神で、八世紀に、丹後から遷座したと伝えられる。

 このように、丹後は大陸・韓半島に近いがゆえに、物部氏や海部氏をはじめとする海人集団の幅広い活動の舞台となり、アマテラスの伊勢への遷宮ともかかわりをもったと思われる。まさに古代史を解くカギが潜む地といえる。

http://tamagaki.exblog.jp/2992078/

京都府北部、丹後半島の付け根にある天橋立は、日本三景の一つに数えられる観光の名所ですが、天橋立を渡ったところにある丹後一の宮、籠(この)神社はまた、古代史ファンにはよく知られた神社です。

 1975年、神社に代々極秘で伝えられていた系図が公表され、関係者の大きな注目を集めました。現存する日本最古の系図として、また、従来にない古代史の新史料として、思いがけないものだったからです。翌年にはさっそく国宝の指定を受けたのも異例のスピードでした。

 この系図には、なんと邪馬台国の女王、卑弥呼と思われる名前が記されています。最近、卑弥呼の墓の最有力候補として注目されている奈良県・纏向遺跡にある箸墓古墳、その被葬者とされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の名が載っているのです。

 系図によると、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫のところに、「日女命(ひめのみこと)」と出てきます。この「日女命」の脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」などと記されています。

 「日神」とは、すごい呼び方です。太陽神のような扱いを受けた女性ということでしょうか。なんとなく卑弥呼を思わせるといってもいいでしょう。
 それに、「神大市姫命」の「大市」。これは『日本書紀』のなかで箸墓について、「倭迹迹日百襲姫が死んで、大市に葬る。時の人はこの墓を名づけて箸墓という」とある記述に完全に一致します。宮内庁による箸墓の呼び名「倭迹迹日百襲姫の大市墓」の「大市」です。

 どうやら、箸墓に葬られた百襲姫という女性は、丹後の籠神社の系図にある「日女命」と同一人物で、彼女が卑弥呼であるらしい。つまり、卑弥呼は「日女命」と考えてよいようです。

 この系図は、5世紀に丹波国造となった海部氏が、籠神社の神主となって代々伝えてきたものです。主祭神の彦火明命を丹波国造の祖として、以後、今日まで海部氏が代々続いており、現在は82代目の海部光彦さんです。

 「海部氏系図」と呼ばれるこの系図には、始祖の彦火明命についての驚くべき伝承も伝えています。

 彦火明命は、「天火明命(あまのほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、いくつかの名前がありますが、天皇家の祖先と同じ天照大神の孫で、やはり天孫として天降っている。しかも、丹後に天降っているというのです。

 天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。

 籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。


息津鏡(下)と辺津鏡(上) (c)gakken

 ひとつ(辺津鏡)は、紀元前1世紀後半の前漢鏡(内行花文昭明鏡)、もうひとつ(息津鏡)は、紀元後1世紀の後漢鏡(長宜子孫内行花文鏡)です。

 前漢鏡の方は、近畿地方では出土例がまったくない貴重なものですし、後漢鏡の方も、近畿地方では破片で出ることはあっても、完全な形で出土したことはなく、やはり貴重な鏡といえます。

 驚くべき鏡が、代々神社の神宝(かんだから)として伝えられていたわけです。
 では、なぜ卑弥呼の名が籠神社の系図のなかに残っているのでしょうか。それが謎です。

古代丹後の鉄とガラス


 籠神社のある丹後半島周辺は、不思議な伝説が多いところでもあります。

 『丹後国風土記逸文』には、このあたりの漁師の若者が竜宮城を訪れる話、つまり、有名な浦島太郎の伝説が残っています。ほかにも、羽衣を奪われた天女が天に帰れなくなるという羽衣伝説、さらに、天橋立はもともとイザナギ命が天から通ってくる梯子でしたが、神が地上で寝ている間に倒れて天橋立になった、という伝説もあります。いずれも、天上界や海の彼方にある別世界と交渉する内容をもっているのが特徴といえます。

 籠神社の名前の由来も、神代に彦火火出見命(ひこほほでみのみこと・彦火明命の別名)が籠船で龍宮に行ったとの伝説があり、そのために昔は籠宮(このみや)といったようです。

   


 丹後はこのように、どこか神話的な世界の残る地方でもあります。籠神社のある宮津市の「宮津」とは、大きな宮のそばにある港という意味です。むろん籠神社を指してのことです。天橋立はもともと籠神社の参道だったからです。

 なお、丹後という呼び名は比較的新しいもので、古代には、現在の京都府と兵庫県の中部北部合わせた全部を丹波と呼んでいました。ところが、684年(天武13年)に丹波国から但馬国(兵庫県北部)が分けられ、713年(和銅6年)、丹波国の北部5郡が分けられて丹後国となったという経緯があります。

 弥生時代には、この丹後地方は列島のなかでもかなり特別な地域だったようです。何が特別かというと、弥生時代からなんとガラスや鉄製品が作られていたのです。それを物語る考古学の発掘が、この10年ほどの間に相次いでいます。
 特徴的なものをいくつかピックアップしてみると…

 まず、丹後半島中央部の弥栄(やさか)町、奈具岡(なぐおか)遺跡では、紀元前1世紀頃ごろ(弥生時代中期後半)の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっています。水晶やガラスを使って勾玉(まがたま)や管玉(くがたま)などを生産していた工房です。そのための道具としてノミのような鉄製品が作られていたようです。
 この遺跡の場合、出土した鉄屑だけでも数キログラムになるといわれ、大和や河内など近畿地方の中心部と比べると、「鉄の量としては桁違いの多さ」だといわれます。ましてや、鉄製品そのものが残されていたら、どれほどの量だったのでしょうか。

 驚くべきことに、このような玉造りが丹後半島では紀元前2世紀ごろから始まっていました。玉造りの工房のある遺跡が、丹後半島だけで十数か所見つかっています。

 当然、この地域の遺跡から大量のガラス玉が出土するケースも多く、大宮町の三坂神社墳墓群や左坂墳墓群など、ガラス玉の総数は1万点にも及ぶということです。全国の弥生時代のガラス玉のほぼ10分の1が、丹後から出土しているといわれます。

もう一つの先進地域


 次は、墓です。平成13年5月、宮津市の隣、加悦町の日吉ヶ丘遺跡からやはり弥生時代中期後半の大きな墳丘墓があらわれました。紀元前1世紀ごろのものです。30メートル×20メートルほどの方形貼石墓といわれるスタイルで、当時としては異例の大きさでした。

  墓のなかには大量の水銀朱がまかれ、頭飾りと見られる管玉430個も見つかりました。水銀朱は当時としては貴重なもので、魔よけの意味があるといわれます。それがふんだんに使われていました。しかも、大量の管玉。墓に接するように環濠集落があるようです。

 この墓は、他の地域と比べてみると、あの吉野ヶ里遺跡の墳丘墓とほぼ同じ時代です。墓の大きさも、吉野ヶ里よりわずかに小さいだけで、しかも、吉野ヶ里の墳丘墓には十数体が埋葬されていましたが、日吉ヶ丘遺跡の場合はただ一人のための墓です。当然、王の墓という性格が考えられ、「丹後初の王墓か」と新聞などでは話題になりました。

 全国的に見ても、この時代にはまだ九州以外では王はいなかったと考えられていますが、丹後では王といってもよい人物が登場してきたわけです。

丹後半島の古墳公園(加悦町)

倭国大乱の原因となる鉄

 丹後地方は、弥生時代の終わりごろになってくると、今度は鉄製の武器を大量に保有するようになります。
 平成10年9月、携帯電話の中継塔を立てる目的で、籠神社から数キロはなれた岩滝町の天橋立を見下ろす丘陵の中腹を調査したところ、驚くべき出土品が多数見つかりました。これは大風呂南遺跡と呼ばれる墳墓群ですが、その中心的な墓(1号墓)から11本の鉄剣と、美しい青色のガラスの腕輪が出土したのです。墓の年代は西暦200年前後。

 ほかにも、銅の腕輪(銅釧・どうくしろ)が13個、大量の鉄製品や管玉、朱など、弥生時代の墳墓の常識を超えるものでした。
 なかでもガラスの腕輪は、国内ではこれまでに3例しかないうえに(福岡県で2例、丹後で1例)、どれも原形をとどめていませんでしたが、ここでは完全な形で出土し、透明感のあるコバルトブルーの輝きを放っています。被葬者が左手につけていたもので、権威の象徴です。

 11本の鉄剣も、墓の副葬品としては異例の多さです。弥生時代の墓に副葬される鉄剣は通常1〜2本ですが、11本というのは被葬者がいかに大きな権力を持っていたかをよく物語っています。しかも、時代は西暦200年前後、まさに邪馬台国が誕生した直後です。

 この墓の被葬者は、奈良県・纏向遺跡の石塚や、岡山県・楯突墳丘墓に葬られた人物と同じ時代に生きていたことになります。

 この時代の丹後の墓からは、鉄剣が大量に出土します。特別な立場にあるような人の墓ではなく、家長クラスの墓からも当たり前のように鉄剣が出てくるのです。おそらく軍事集団のようなものが存在していたのではないか、と考えられています。そうなると当然、軍事集団を束ねるリーダーがいたはずです。大風呂南遺跡の墓の被葬者は、そのような人物だったのではないか、と考えられています。


ガラス釧(腕輪)と銅釧 丹後郷土資料館蔵

 このように倭国大乱期から邪馬台国時代にかけて、列島のなかでどこよりも鉄を保有していたのが丹後です。その多くが鉄剣や鉄鏃(てつぞく・矢の先端部)など、武器として出土しています。

 弥生時代はかつて平和な農村社会と考えられていましたが、案外、戦いが多かった時代だと今では考えられています。各地の戦いで武器の主力が鉄器になってくるのは、1世紀ごろからです。そのころから、丹後の墓からも鉄剣が出始める。ちょうど1世紀ごろの王墓と見られる三坂神社3号墓からは、大陸製の鉄刀やりっぱな弓矢、豪華な玉飾りなど、経済的な権力を持った王の姿があらわれてきます。

 その後、2世紀後半から3世紀前半にかけては、上に述べたような状況で鉄剣がポンポン出てくきます。この時期に丹後の勢力がもっていた鉄は、キャスティング・ボードになったのではないでしょうか。これほどの突出した武力が、あの倭国大乱を引き起こしたのではないか、とさえ思えるのです。

  そう考えると、丹後(古代丹波)の勢力は、女王卑弥呼の誕生にも重要な立場を取ったに違いありません。邪馬台国の女王に卑弥呼を共立していく主要なメンバーに、古代丹波が入っていたのはほぼ間違いないでしょう。しかも、海部氏の系図に残る「日女命」の名は、卑弥呼がじつは古代丹波出身だったのではないか、と思えてきます。

 先進の技術によって蓄えられた力が、数百年をかけてピークに達したとき、そういう時代に合わせるように、ひとりの飛びぬけて神秘的な能力をもった女性が丹波にあらわれたのではないでしょうか。もちろん、その女性こそが卑弥呼です。

http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/index.html

十種神宝


十種神宝(とくさのかんだから、じっしゅしんぽう)とは、物部氏の祖神である饒速日命が伝えたとされる十種の神宝である。

『先代旧事本紀』の「天孫本紀」の記載によるもので、饒速日命が天神御祖(あまつかみみおや)から授けられたとする。『先代旧事本紀』には「天璽瑞宝十種(あまつしるし みずたから とくさ)」と書かれている。

分類すれば、鏡2種、剣1種、玉4種、比礼(女性が、首に掛けて、結ばずに、左右から同じ長さで前に垂らすスカーフ様のもの)3種となる。これを三種の神器に対応させて、鏡は八咫鏡、剣と比礼は草薙剣、玉は八尺瓊勾玉であるとする説もある。

十種神宝の内容は以下の通りである。

沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
蜂比礼(はちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
品物之比礼(くさぐさのもののひれ)



布瑠の言

布瑠の言(ふるのこと)とは、「ひふみ祓詞」・「ひふみ神言」ともいい、死者蘇生の言霊といわれる。

『先代旧事本紀』の記述によれば、「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。

「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと。
「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す。

饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種神宝を使って神武天皇と皇后の心身安鎮を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源であると『先代旧事本紀』には記載されている。



十種神宝の行方

石上神宮の祭神である布留御魂神は十種神宝のことであるとする説もある。石上神宮に伝わる鎮魂法では「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱える。いずれにしても、十種神宝は現存していない。

本物か不明であるが、大阪市平野区喜連6丁目にある楯原神社内の神寶十種之宮に、偶然、町の古道具屋で発見されたという十種神宝が祀られている。石上神宮側から返還要請があったにもかかわらず、返していないという。

江戸時代、山崎闇斎は、垂加神道においては神秘的な意義の有るものとして、さまざまな口伝的著述を残した。

籠神社には、息津鏡・辺津鏡という2面の鏡が伝世している。十種神宝の沖津鏡・辺津鏡との関係は不明で、籠神社も特に見解は出していない。

秋田県大仙市の唐松神社には古史古伝のひとつである『物部文書』とともに奥津鏡、辺津鏡、十握の剣、生玉、足玉とされる物が所蔵されているという。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%A8%AE%E7%A5%9E%E5%AE%9D

浦島伝説の起源


このたびは、古くからの友人であり 中国伝承文学の権威、君島久子さんにご一緒 していただき、改めて丹後半島を旅しながら、中国の浦島についてお話を伺うことにいたしました。



富山 三分間スピーチで、君島さんは中国の浦島太郎の話をして下さいましたね。あのお話、とても面白くて印象に残っていて、いつかもっと詳しくうかがいたいと思ってましたの。

  

 京都から由良川をくだり、大江山など訪ねたのち、丹後半島を歩いて、ここが古墳地帯であること、そして浦島伝説の地であることも知りました。

 郷土資料館も私の予想通り対岸との関係が想像できる資料がいっぱい、忘れられないですし、宇良神社(浦嶋神社)で重文の絵巻物も見ていただいた。その絵巻物では、普通私たちが聞かされる浦島物語(注4)とは少し話が違っていた。それを思い出したのです。

  そこで、今回の対談で、どうせ浦島の話をうかがうなら、ご一緒に宇良神社にお参りし、絵巻物も見て、それから対談、ということなら素敵だなと思いましたの。


君島 以前にも何度か来ましたが浦嶋神社の絵巻物は中国的で面白いですね。全体の雰囲気が中国的で、完全に神仙思想(注5)が絵になっている。五色の亀とかが描かれていて道教(注6)の影響も明らかに見られるし、とても面白かった。『風土記』(注7)の世界によく似ていますからね。


富山 以前、君島さんは「中国の浦島は日本とずいぶんと違っている」とおっしゃったと思うのですが、まずはその辺りからからお話いただけますか。

君島 両方あります。日本の浦島とよく似ている方は、洞庭湖(注8)のほとりの伝承なの ですが、


ある漁夫が、嵐の洞庭湖で水に落ちた乙女を助けるのです。すると、乙女が

「私は洞庭湖の竜女です。お礼に竜宮城へお招きしましょう」

と言う。竜女というのは乙姫様 ですよね。その男が

「竜宮の中に入っていくことができない」

と言うと、竜女が水を分ける珠「分水珠」をくれるのです。後日、彼がその珠を持って湖に行くと、さっと水が二つ に分かれて竜宮城へ着きます。すると乙姫様が出てきて、歓待され、結婚して幸せに暮らすのですが、ふと母親を思い出し、故郷に帰りたいと言い出す。乙姫様は宝の手箱を渡し て

「私に会いたくなったら、いつでもこの箱に向かって私の名を呼びなさい。でも、この手箱を開けてはいけませんよ」

と言われるのですね。故郷に帰ってきてみると、村の様子 もすっかり変わり、村人たちも知らない顔ばかり。それもそのはず、竜宮での一日は、人間界の十年にあたるので何百年もたっていたわけ。彼は動転して、竜女に聞こうと思わず 手箱を開けてしまうのです。すると、ひとすじの白い煙が立ち上り、若い漁夫は、白髪のおじいさんに変わり、湖のほとりにぱったり倒れて死んでしまう。

でも、彼は死後も目を 閉じることなく、じっと洞庭湖を見つめ続けているのです。すると突然湖の水が満ちてきた。それは竜女が悲しみのあまりほっと長いため息をついたからなのです。その長いため 息が、洞庭湖の水位の変化だと伝えています。 (注9)


富山 彼女はまだ竜宮にいるわけですね。だいたい日本と同じですね。


君島 そうですね。古代中国の文明というと、以前から黄河文明が代表的なものでしたが、今は長江文明が考古遺物の発掘、発見などで次第に明らかになってきたのです。ちょっとした長江文明ブームかな。そのため、洞庭湖や陽湖など長江文明に属する地域からの日本への伝播の問題も、ずいぶん分かりやすくなってきたと思います。

  浦島の話も洞庭湖には古くからありました。六朝時代の『拾遺記』(注10)に、洞庭山(洞庭湖の中にあるという説があります)の薬草を取りにいった男が洞窟に迷い込み、しばらく行くと別天地が開け、楽の響きや美女たちの歓待に酔いしれ、この世のものとも思われぬ夢のような暮らしをおくった話です。男は、やがてふと故郷が恋しくなり、帰郷を思いたつ。共に暮らした美女が別れを惜しみ、贈り物をくれる。洞窟の出口までおくられ、故郷に帰ってみると、知る人は一人もなく、家も何もない。村人にたずねると、三百年前に薬草を取りに行った男がそのまま帰ってこないという。男は行方不明となる。まさに山の浦島ですね。洞庭湖には、山にも湖にもこの話があるということです。

浦嶋神絵巻


面白いと思うのは、今の洞庭湖のお話も、竜宮の一日が現世の十年というように、時間の差がはっきりあるのです。けれども中国には「玉手箱を開けたらおじいさんになった」という話よりも、「もらった宝の箱から乙姫様が現れて、ずっと現世で幸せに……」という民話の方が多いですね。

富山 中国にはほかにも浦島伝説があるのですか。


君島 いろいろな地域にあります。私は、この竜宮へ訪問する話を、最後に異常な時間の差異によって破滅する「浦島型」と「現世型」(注11)とに分けたのですが、中国では乙姫を連れてきてしまう現世型が結構多いのです。

 現世型は竜宮での一日が現世の一年というように、竜宮との時間の差が少なく、三日間竜宮で過ごして帰ってきたら「三年間もどこに行っていたか」と聞かれる程度です。そしていい女房をもらって幸せになる。時間の異常な経過がなければ、完全に現世型ですね。もらって帰ったら宝物が乙姫様だったりして。

富山 浦島伝説は中国のどの地域に多いのですか。

君島 長江から南の方が多いですね。竜は雨を司るものですから、北の畑作地帯も南の水田地帯も干ばつが怖いので、竜神に雨乞いはしますが、特に稲作文化との関係は深いようです。

富山 長江と聞けば、やはり稲と、稲の伝播とを思わないわけにはいかないですね。最近では稲作の起源も、雲南の奥地からずっと下流に下りてきました。アジア最古の稲が出た河姆渡(かぼと)遺跡(注12)もあります。それにしても、浦島太郎というと普通私たちは、海が舞台で、「釣りに出たがなかなか魚がつれなくて・・・」という話が頭にありますから、海の神、魚の神様かと思いますけれど、ここ丹後半島では、浦島伝説は稲作の神様の話ということですね。

http://www.mizu.gr.jp/kenkyu/toyama2/t_rep2_1.html


乙姫様は誰でしょう


 乙姫様は元々は亀姫で他に何なんだと言われるかも知れませんが、あえて考えてみましょう。


(1)西王母

   ・蓬莱山を背中に背負っているのが亀で、蓬莱山の上に居るのが西王母とくれば、亀と蓬莱山と西王母は1セットということでどうでしょうか。

   西王母とすると、西王母の役割が微妙になりますが、西王母のいる場所は、この世の果ての昆崙の山の上だったり、洞穴の奥だったり、地底だったりするようですので、元来は死者の国と関係があって、蛇穴や龍穴の話とつながっているのかも知れませんね。

  ....探せばあるもので、藤田友治さんという方が「古代日本と神仙思想」という本の中で浦島伝説と亀と蓬莱山と西王母の関係について書いておられます。


(2)苗族の王女

   ・洞庭湖附近には、舜の2人の妻(堯の娘)が溺れて死んだ話もありますが、許漢陽が洞庭湖で水竜王の娘に人間の生き血の酒を飲まされた話の場合、書生に漢字を書いてもらうのが目的で近づいたようですので、水竜王の娘は非漢民族のような気がします。

    洞庭湖付近は長江文明圏で、元々は三苗と呼ばれる人達のものでした。三苗と苗(ミャオ)族が全くイコールではないと思いますが、5世紀には未だ苗族の人達も漢人に完全には追い払われていなかったでしょうから、水竜王の娘は、征服者側の堯の娘ではなく、追い払われた側の苗族と考えるのが妥当だと思います。

  ....異民族間の結婚で悲劇が起こったのでしょうか?

http://www.urahamafuzei.sakura.ne.jp/urasima/nazo.htm


丹後地方には「不思議な時間」に関係する伝説として、「浦嶋伝説」の他に「八百比丘尼」の伝説と「羽衣伝説」があります。

「羽衣伝説」については、雲南省から東南アジアにかけての少数民族(苗(ミャオ)族や哈尼(ハニ)族、泰(タイ)族その他)の間に広く分布しているようですので、大林先生の言われるユーラシア大陸を西から東に流れる大きな文化の流れの1つの道(亀井貫一郎さんの言われる第1東胡のヒマラヤ迂回派のルート)があったことが窺われます。


 春秋戦国時代の戦乱の時期から斉や呉や越が滅んだ時に、逝江省から山東半島にかけての地域から大勢の人達が日本列島に渡ってきたようです。

この時に既に不思議な時間の話が逝江省付近にあったかのかも知れませんが、アメリカ大陸や太平洋諸島域に不思議な時間の話が無いということは、不思議な時間の伝搬は紀元前1,000年(3千年前)より遅い時期と考えられますし、中国の話は西域との交流が確立した漢代の遅い時期から後に出来た話のようですので、もっと後の、大和国家成立過程の時期に大陸と往復した人達がもたらした(神仙思想と一緒にかどうかは判りませんが)ということにしておきましょう。

http://www.urahamafuzei.sakura.ne.jp/urasima/ama-densetsu.htm


02. 2011年10月03日 21:46:38: MiKEdq2F3Q

タイ山岳民族は日本の弥生人と同系の民族

http://wee.kir.jp/thailand/tai_people.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/4525/introduction.html

三輪隆文集・「黄金の三角地帯から」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/1850/essays.html

タイの山岳民族(三輪隆)
http://column.chaocnx.com/?eid=22870

タイのアカ族と日本との不思議な共通点


遠い昔にどこかで見たような懐かしい風景が広がっています。

アカ族はこの国の先住民族ではなく、リス族同様に中国やビルマからこの国に移住してきた民族です。この国に入植した歴史は新しく、まだ100年ほどしか経過していないそうです。この民族は他の民族同様に、中国の雲南省、ビルマ、ラオス、及びタイ北部にまたがって広く分布している。

現在、北部タイの山岳地帯には300余のアカ族の村があり、約5万人が暮らしている。焼畑農業によって主食の米を作っているのは他の山岳民族と同じです。

伝統的にすべてものに精霊が宿り、精霊が人を幸せにも不幸にもするとしたアニミズムの信仰を続けているが、近年、キリスト教の布教活動によって改宗した者も多い。


パトォー・ピー(精霊の門)

山頂に築かれたアカ族の村。


アカ族の村の入口には、パトォー・ピー(精霊の門)と呼ばれる日本各地の神社にある鳥居にそっくりの門が建っています。この門は必ず村の入口2ヵ所以上に築かれ、悪霊が村に侵入しないように結界の役目を果たしています。峻険なドイ・メーサロンの山中は山岳民族の宝庫なのですが、もっとも多くこの地に居住しているのはアカ族です。

アカ族の中では、もっとも早く北部タイの地に移住してきたのは、ウロ・アカ族だと言われている。この国では、ウロ・アカ族とロミ・アカ族がもっとも多く、他にはパミ・アカ族という支族がわずかにビルマとの国境周辺に集落を築いて住みついている。

右側の女性は、杵でもち米をついてもちを作っていました。


アカ族は、精霊と共に生きる民族と言われるぐらい、精霊との関わりの強い民族である。

アニミズムの信仰を続けているアカ族の村の入口には、上の写真のように必ずパトォー・ピー(精霊の門)が設置されています。いまでは迷信扱いされ、村人からも忘れ去られようとしている存在のこの門ですが、昔は村を訪れたすべての人がこの門を潜って村に入らなければいけないとされていた。

その人について来た悪霊が村に侵入して悪さをするのを防ぐためである。

アカ族の伝統的な宗教の根幹とも言えるパトォー・ピーには、木製の鳥が数羽止まっていたり、支柱に幾何学模様が刻まれていたり、竹で作った風車のようなものが取り付けられたりしています。

そして門の脇には、悪霊に対する強力な武器として、鉈や弓矢が置かれていることもあります。


アカ族の村のモー・ピー(祈祷師)。

モー・ピーは山岳のどの村にもいて、さまざまな行事を執り行なったり、病人を治癒したりします。

病人が重い病気の時には、よりパワーの強い祈祷師を他の村から呼び寄せたりするのですが、基本的にその村のモー・ピーが祈祷によって村人の治療にあたります。

病人のいる家の床下で祈祷を行なうのが、より効果的だと言われています。

この時には、犬とアヒルが生贄とされていました。

器の中には、精霊の大好きな酒が満たされています。


アカ族は自由恋愛の民族と言われていて、どの村にも若い男女が集まって愛を交わす場所というものがあるそうです。

アカ族はリス族のように社交的ではなく、どちらかと言えば閉鎖的な民族だが、一度仲間と認めるとどんなことがあっても相手を裏切らない、実に律儀な民族です。

http://maesai.main.jp/page068.html


アカ族はタイ、ラオス、ミャンマー、中国雲南省にかけて住む少数民族です。

タイへは20世紀初め頃から、雲南省より南下し、現在海抜800m以上の山岳地帯に住んでいます。焼畑を中心とした農耕生活を営み、質素な暮らしをしています。

信仰はアニミズムであらゆる物や自然現象に霊が宿ると考えます。自然崇拝に加えて祖霊崇拝を重要視しており、驚く事に、系譜をたどり初祖にいたるまで60以上もの先祖の名前を暗唱できます。

アカ族の社会が父系制で、名付け方法が「父子連結名」のため、これを可能にしています。

「父子連結名」とは子供に父親の名前の一部を付けることです。

「我が父、家康。家康の父、秀吉。秀吉の父、信長。信長の父・・・」と続けるととても覚えきれませんが、

「我が父、家康。家康の父、吉家。吉家の父、秀吉。秀吉の父、長秀。長秀の父、信長・・・」

となれば多少覚えやすくなります。

名前と同じようにしてアカ族は自分の祖先がどこからやってきて、どこに住んでいたかを暗記しており、彼らの移住経路をたどることができます。

特別な儀式や葬式などでこれらは朗唱されます。またアカ族のある2人がお互いの関係を知りたいと思ったら、彼らは自分の系譜を唱えます。祖父の代から始め、曾祖父、曾々祖父・・・と繰り返し、お互いの共通の先祖が現れるまで続けられます。

アカ族は文字を持たない民族ですが、文字の代わりに語り継ぐことによって民族の歴史、伝説を記憶に保存しているのです。


アカ族の風習には日本と不思議な共通点があります。

アカ族では、稲の種まきの始まる毎年4月に、村の出入り口に木造の「門」を作ります。この「門」は日本人なら誰でも知っている見慣れた「門」です。垂直に立てられた2本の木。その上に水平に乗せた木は垂直の2本の木の間隔よりもやや長く、両端が少し反っています。これらの門には縄が張られています。

そう、神社で必ず見かける「鳥居」と「しめ縄」にそっくりなのです。この「門」には、木製の鳥が数羽載せられています。日本の「鳥居」は「鳥の居る場所」と書きます。現在の日本の鳥居には鳥はみかけませんが、「鳥居」の文字で分かるように、そのルーツには鳥が関係していることがわかります。

大阪和泉市の弥生時代の遺構から、アカ族の村の門に置く鳥とまったく同じ形の木彫りの鳥が見つかっています。古代日本の鳥居には恐らく、鳥が据えられていたのでしょう。アカ族のこの鳥居に似た「門」は神聖なもので、村人以外の人間は触れてはなりません。村人たちは門が完成すると儀礼を執り行ない、その後この門をくぐり、村の中に入ります。

天の神が鳥に乗って降りてきて、邪霊や悪鬼を祓い、村人たちを守ってくれると信じられています。

なぜ幾千キロも離れた日本とアカ族に共通点があるのか?
誰しも疑問に思うはずです。

この謎を調べて行くと興味深い事実と歴史が浮かび上がってきます。
それは日本人のルーツにもつながっていきます。

http://www.cromagnon.net/blog/2004/07/post_85.php

倭族と鳥居

神社にある鳥居の起源って?これは昔から不思議に思っていたのだけれど、どうも東南アジアから東アジアに広がる“倭族”に共通した信仰・風習を起源としているようです。


「鳥居論---ニッポン人の鳥信仰とその出自」

鳥越憲三郎氏は「倭族」という概念で、中国南部や東南アジア、それから朝鮮南部および日本に共通して残る習俗を括る。

その氏によって、雲南省やそこに隣接する東南アジア北部の山岳地帯に棲むタイ系諸族(アカ・ハニ族など)に「鳥居」が見出されている。それは左右二本の柱の上に笠木(横に渡す木)を載せたものだ。ただし、これは「社(やしろ)の門」ではなく「村の門」(「ロコーン」と言う)だ。

「鳥居」の起源は、共同体(村)へ侵入する悪霊を防ぐ結界門だったのである
(「締め縄」とはそういう意味だ)。

 そして、果たしてその門の笠木には木製の鳥が止まっていた。

実は、吉野ヶ里遺跡を始め、わが国の弥生時代の遺跡からは木製の鳥が頻出している。だが「鳥居」は残っておらず、どこにどう止まっていたのかは分からない。

「村の門」には左右の自然木に「締め縄」が渡されただけのものもある。それらにはしばしば「鬼の目」がぶら下がっている。鬼の目とは竹で編まれた悪霊を追い払う呪具(「籠目」もその一つ)で、現代の日本の締め縄にも吊されている。(中略)


再び中国大陸に戻ろう。

南部に住む苗(ミャオ)族の村の中心には芦笙(ろしょう)柱というものが立ててある。苗族の神樹・楓香樹で出来ている。

てっぺんに木製の鳥が止まるのだが、その柱には竜が巻き付いている。しかも柱の上部には牛の角が左右ににょきと突き出している。

ここに正月(苗年)祭りのときには、一対の神聖な銅鼓(どうこ)が下がられていたはずだ(というのも今ではもうほとんどの銅鼓が失われている)。

 実は朝鮮のソッテでも一本柱の場合、鳥杆に竜に見立てた綱が巻かれる。

芦笙柱、そしてソッテとはもう明らかだろう。神話的世界の中心にそびえる「世界樹」である。文字通り、木である場合も、山である場合もある。そして、それは聖林となり、社となった。

天に向かいそびえるもの、すなわち、神を呼ぶもの、依り代が世界樹の本質である(注)。

そして、鳥は神を運ぶ神使であり、依り代でもある。

http://www.kodai-bunmei.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=191832


112 :出土地不明:2009/06/18(木) 23:22:16 ID:H5jIqf+0

中国少数民族には、太陽は鳥が引っ張ってくると言ういい伝えがある。

だから、太陽を引っ張ってもらう鳥に止まってもらうために鳥居がある。
鳥が太陽を引っぱってくれないと朝があけない。

実際に、鳥の模型を止まらせた鳥居もある。
少数民族の鳥居には、鳥の模型を止まらせたものもある。


113 :出土地不明:2009/06/19(金) 01:43:48 ID:9/5gRbpN
太陽の船には鳥がとまってるよ


タイの山岳少数部族「アカ族」について


 「アカ族」はタイ北部の山岳地帯に暮らす少数民族で、日本と同じ稲作文化、精霊信仰を持ち草木染めなどカラフルな色の民族衣装を着て生活しています。

 顔などは日本人そっくりで、村の入口には鳥居を思わせる門があり、お歯黒の習慣を持っているなど日本と共通のルーツを思わせます。

一方で、婚姻制度は父系制で、代々父親の名の一部をとって子供に命名していく「父子連名法」により、各自が50代以上にわたる祖先の系譜を暗記しているなど、母系制度が色濃く残っていた日本の農村とは異なる文化も見られます。 


■アカ族の村 

 人口約50,000人。メーサイを中心としたチェンラーイ県にほぼ集中して約120の村がある。標高1,000m以上の高地の山頂近くの斜面にへばりつくようにして集落を形成する。高床式の家に住み、男女の部屋が別々なのが特徴。

 女性の民族衣装は、銀貨や銀細工、ビーズ等をあしらったカブトの様な重い帽子を被り、黒いミニスカートに脚絆という出で立ちで、帽子は作業中もおろか就寝時もこのままだ。帽子を脱ぐと悪霊が頭から入ってしまうそうだ。

アカ族の女性は温和で素朴、優しくてサービス精神に富み、働き者で知られる。
   
 アカ族は最も奇妙な習慣をもつ山の民で、あらゆる物に精霊が宿ると信じている典型的なアミニズムである。村の霊、山の霊、光や風にも霊が宿るという。水の霊を恐れるために水浴をも嫌う。
   
 村の入口には、日本の鳥居と同様の門が築かれ、木製の男根と女性器の偶像が村の神様として祀られている。これは悪霊や疫病から村人を守り、子孫の繁栄や穀物の豊作を祈願するものである。

奇祭として知られる村の大ブランコ乗りの儀礼は、豊作を祈って稲穂が風に揺れるブランコにイメージさせる 「親感呪術」 という説と、身体を振ることで体内に住む悪霊を振り払う説と、昔アカ族の村に女の子が生まれなかった頃、森の中でブランコに乗った妖精を見つけて村に連れてきたことをお祝いするという説があり、祈祷とお清めの場でブタを殺して4日間儀礼を行う。
   
 アカ族はいわゆるフリーセックスで、自由恋愛の民族で、どの村にも男が娘を抱く広場、ハントする場所がある。若い男女は毎日ここに集まり、黄昏の刻から親交を深め、目出度く成立したカップルは闇に包まれた森の茂みの中に消えて行く。

ただし、双生児が生まれた場合は悲惨で、その赤ん坊は不吉なものとして殺さねばならない。生んだカップルも村を追い出され、出産した家は焼き払われる。


■アカ族の家族 

 アカ族は普通、男性で十七歳から二十歳、女性は十四歳から十七歳ぐらいまでの間に結婚する。集落の中には若者が集まる広場があり、竹や木で作ったベンチがしつらえられ、夜になると若い男女が集まってきて自由に語り合う。

特に農閑期や祭礼時には、夜更けまで騒いだり、愛を語り合ったりして、それが結婚相手をみつける絶好の機会となる。アカ族の恋愛は比較的自由で、結婚前に複数の異性と婚前交渉を重ねることもまれではなく、恋を語る少女たちも実にオープンで、屈託がない。結婚に際しても、特に親の同意を必要とせず、本人同士の合意によって決定される。


  父系制のアカ族とって、男子が生まれることは必要不可欠である。
生まれてきた子供が女児ばかりの場合、家系がとだえることになり、恥ずべきこととされる。私の知り合いのアカ族のおじさんは六人の子供がいるが、みな女の子ばかりなので、世間の視線は冷たく、内心肩身の狭い思いをしている。アカ族では、男児に恵まれない場合、妻に原因があるとされ、亭主は第二夫人を娶る権利があるとされる。

そうでなくてもアカ族では、財力のある男性は第一夫人の同意が得られた場合に限り、複数の妻をもつことができる。しかし、アカ族の社会でも、第一夫人以下のヒエラルキーは厳然としてあり、夫の愛情の質量とは無関係に、母屋に居住を許されるのは第一夫人だけである。第二夫人以下は仮小屋などを建てて別居することになる。

第一夫人のみが正式な妻として社会的に認知され、その妻の同意がない限り、離婚も容易ではない。第一夫人の権利と威厳はこうして保たれる。

結婚前の恋愛は自由だが、家庭をもち、一人前の成人として認められるようになれば、共同体の社会的秩序と体面を維持しなければならないのである。これを犯したものは、それなりの制裁が待っている。


 精霊信仰、おおらかな性意識という農耕民族的な暮らしぶりと、父系制という遊牧民族的な風習が融合したアカ族の文化は彼らの出自にその秘密がありそうです。
 
 アカ族がタイにやってきたのはそれほど昔のことではなく、20世紀初めころとされています。中国雲南省から、ビルマ、シャン州を経由して、タイ北方の山岳部へやって来たらしい。彼らの起源は中国で羌(チャン族)と呼ばれた遊牧民族というのが有力です。

長く漢族、チベット族という二大部族の支配下にあり、一時期「西夏国」という国を建てたりしましたが1227年に滅亡、二大民族に同化していったようです。その後一部の集団は同化を逃れ、南下していった末裔がアカ族なのではないでしょうか。

当初は遊牧部族的な風習を持っていた彼らが、次第に農耕へと生活手段を変化させてゆく中で、精霊信仰を獲得していったが、父系制だけは残存させたという推察ができます。

 父系制が残った理由として、(これは私の想像ですが)南下逃亡して来たチャン族の生き残りは男ばかりの集団で、周辺部族からの略奪婚によって集団を維持してきた時期があったからではないでしょうか。

http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/05/000593.html

『稲と鳥と太陽の道』
http://www.amazon.co.jp/%E7%A8%B2%E3%81%A8%E9%B3%A5%E3%81%A8%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E9%81%93%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%82%B9%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%86-%E8%90%A9%E5%8E%9F-%E7%A7%80%E4%B8%89%E9%83%8E/dp/4469231274

 日本の神社には鳥居が立っている。なぜ鳥居というのか。組んだ木のてっぺんに鳥が居るからだ。この鳥は他界から鳥の姿をした祖霊が幸福や豊饒をもたらすためにやってきたシンボルである。日本神話では「天の鳥船」といって、そうした祖霊や幸福や豊饒を天空で運ぶ船さえ想定されていた。

 一方、竪穴式住居を脱した古代の家々は、それでも吉野ケ里遺跡や三内円山遺跡に見るごとく掘っ建て柱に屋根をかぶせたようなもので、つねに柱が目立っている。そうした家々のある集落では、その入口に1本あるいは2本の柱をゲート状に立てて、その上に木彫りの鳥を止まらせる風習をもっていた。いや、最初から鳥を置いたのではなくて、そんな高い柱や組み柱にはたいていどこかから鳥がやってきて止まった。その鳥の来し方行く末は、古代集落にとっては祖先や未来の国である。そこで木に鳥を彫って、それを柱のてっぺんにつけた。

 このような柱と鳥の関係を総称して「鳥竿」(とりざお)とよぶとして、この鳥竿をつかった祭は日本にも韓国にもいっぱいある。韓国ではソッテとかチントベキといって、やはり鳥を止まらせている。ソッテは蘇塗とも綴るのだが、そのテはシンテ(神竿)やナッカリテ(禾竿)のテのことをさした。その鳥竿のルーツをさらに追っていくと、中国に行きつく。萩原さんはさらに追いかけて、それがミャオ族の習俗に出所していたことをつきとめた。ここまでが第1段の前段になる。

 ところで、関西ではオコナイ、関東ではオビシャとよばれる行事が広まっている。

 オコナイとは祈年行事のことで、神社でやるときはミヤオコナイ、寺院でやるときはテラオコナイといった。リーダーとなるのはその年の頭屋(とうや)で、鏡餅づくりをするか、茅の輪を編んでみんなでこれをくぐるか、丸い的をつくってこれに矢を射るかした。関東のオビシャは御奉射のことで、三本足の烏や三つ目の兎を描いた的を弓で射ることが多い。これでわかるように、関西のオコナイ・関東のオビシャのどちらにも弓神事なるものが絡んでいる。

 これらに共通するのは、鏡餅にしても茅の輪にしても丸い的にしても円形の標的があることで、そこに矢を射ることやそこに烏や兎が描かれることが加わっている。いったいこれらは何を示しているのか。オコナイやオビシャより古いかたちを見る必要がある。たとえば神楽だ。

 日本の神楽はおおむね天地創成神話を背景としている。舞庭(まいにわ)あるいは神庭(こうにわ)を一つの異界として創出するのが演目になる。このとき野外なら柱や竿から、室内なら天井から綱や紐や糸を垂らして、そこに三本足の烏を描いた日輪と三つ目の兎を描いた月輪を吊るした。のちにはそれが左右の幡(旗)になった。

 この舞庭・神庭で新しくは「岩戸」「五行」が、古くは「将軍」という神楽曲が舞われた。鹿児島県薩摩の大宮神社の「将軍」を例にすると、将軍は弓に矢をつがえて五方を射る所作をする。なぜ、こんなことをするかといえば、この所作には物語がある。太古、太陽が7つ、月が7つあったのだが、スイという鬼が太陽を6つ、月を6つ呑みこんだ。さらにもう1つ呑みこんだらこの国は真っ暗になるので、選ばれた将軍が五方に弓矢を射て鬼を退治して、その片方の目を日輪に、もう片方の目を月輪とあらわして、未来永劫の万象を祈願したというのだ。

 これはイザナギの左の目からアマテラスが、右の目からツクヨミが生まれたことと対応する。が、それとともにこの物語は、中国の天地創成神話にある弓の名人のゲイが9つの太陽を射落とした話や、太陽に住んでいた烏を9羽射落とした話に似ている。済州島にも太陽を落とした神話がある。朱蒙(ジゥモング)という弓の名人もいる。

 つまりここにはいわゆる招日神話・射日神話があったのだ。そこで、その分布を調べてみると、アムール川流域からインドネシアまで広まっている。ミャオ族にもまったく同じ伝説がある。

 以上のことから類推できるのは、鳥と太陽の話はどこかでつながっているということである。そこに弓矢神事が出入りしていた。これが第2段の前提になる。そこで、これらの話のすべてをもっているミャオ族のことを知っておく必要があるということになる。


三本足の烏を描いた的(沼南町高柳)


 ミャオ族は中国江南に居住する民族で、中国では古くから三苗とよばれた。3つの言語集団がいた。その後はタイ北部にまで広がった。移動した連中はまとめて「百越」とよばれた集団である。

 民族上は少数山岳民族グループに分類されているが、いまでも150万人か200万人くらいがいる。しかし古代中世のミャオ族は文字をもっていなかった。移動の記録や歴史の記録は古歌や伝説や習俗にしか残っていない。

 そのミャオ族では、新年になるとジーユイニャオという鳳凰に似た木彫の鳥をとまらせる柱あるいは竿を立てる。芦笙柱(ろしょうばしら=トン・カー)という。楓香樹であることが多い。その上のほうに牛の角のような横木をつけた(写真を見るとすぐわかるが、鳥居の原形に近い)。新年、その芦笙柱を左まわりで踊る。

 なぜそのようになったかという伝説が「跋山渉水」という古歌にあって、カササギあるいはツバメの先導でこの地にやってきたことをあらわしているのだという。この到着地はのちのちまで神聖な場所になり、カー・ニンとよばれる。カーは芦笙のこと、ニンは場所である。村の“へそ”にあたる。

 この神聖な場所は東西軸を重視する。そもそも中国では純潔チャイニーズの漢民族は天空の中心の北極星(太極)を信仰して、そのため南北軸を重視する。風水も、天子や宮殿が北を背に南面することを基本とする。一方、江南のノン・チャイニーズの少数民族は繁茂する植物の象徴である太陽を信仰して、太陽の昇降する東西軸を重視する。

 これでわかるように、ノン・チャイニーズのミャオ族の村の“へそ”に立つ芦笙柱は、太陽が依り坐す柱なのである。太陽のトーテム・ポールなのだ。

 太陽は季節や時間とともにコースを動くので、その季節や時間を感じることが大切になる。そこで暦のようなものが生まれるのだが、文字をもたないミャオ族は、この季節と時間の“しるし”を鳥の去来で学習していった。また、それを教える者を鳥官といった。

 さらに、このような太陽信仰を支える鳥の存在と去来を忘れないように、芦笙柱を寿ぐ数々の祭では、男はニワトリの羽根や茅萱(ちがや)の輪を差し、女は鳥の羽根の衣裳で身を飾った。これが鳥装である。いいかえれば、村のシャーマンたちは鳥装によって鳥霊になり、太陽の行方と合体するわけである。たちまち日本の鷺舞や鶴の舞といった各地の祭りがおもいあわされよう。

 ここまでが第3段で、話の前提があらかた出揃ってきた。太陽と鳥と弓はひとつのものなのだ。では、これらの前提の話がどうして日本のコメ文化と結びつくかということである。ここからが本題になる。その前にちょっとおさらいをしておく。

 コメはムギにくらべて一本当たりの収穫量が格段に多い作物である。ヨーロッパの麦作の播種量が5倍〜6倍であるのに対して、日本の米作はざっと30倍〜40倍になる。何千年でも連作もできる。

 コメは稲からとれる。稲は籾に包まれていて、その籾殻をとったものが玄米、それを精米すると白米になる。ようするに稲の種実がコメなのである。その稲種を学名ではオリザ・サチバという。もともとは野生の稲種オリザ・ペレニス一種が起源だとされている。それがいろいろ分かれていった。

 その稲種には大きく分けてジャポニカ種とインディカ種がある。アフリカ種も現在まで伝わっているが、ごく少量だ。

 中国南部を原産地とするジャポニカは短粒でやや粘り気があり、インドを原産地とするインディカは長粒でぱさぱさしている。今日ではDNA分析によって、二つはまったく異なる遺伝子をもっていて、それぞれ独自の祖先型があることがわかっている。

 日本人のコメ文化はほぼ100パーセントがジャポニカで成り立っている。タイ米やカリフォルニア米は炒めたチャーハンやピラフにするならともかく、それらはとうてい“ごはん”にはならない。以前はこれを「外米」(がいまい)といった。



日本へ稲が伝わったころのジャポニカとインディカの出土地
(『九州歴史大学講座』第2期No.3より)

 日本に到来した稲には最近流行の黒米・赤米で知られるように、ジャポニカにも熱帯ジャポニカや温帯ジャポニカなどいくつもの種類があった。インディカも入ってきた。何がいつ入ってきたかはまだ正確に確定できないのだが、だいたい縄文後期から弥生前期にかけての時期、2500年くらい前には稲が渡来していた。

 なかで熱帯ジャポニカはいわゆるモチ米に近いもので、中粒で粘り気が強い。そのためモチ性の弱い普通のコメをウルチ米とよぶようになった。ただし、このモチ米のモチは漢字で書くと「餅」ではなくて、本来は「糯」と書く。日本ではこれをモチと読むが、もともとはダである。ちなみに中国では、いまでも餅(ピン)といえば小麦粉食品のことをいう。だから月餅などという菓子もある。

 ともかくも総じていえば、日本はウルチ米とモチ米を含むジャポニカを何世代にもわたって品種改良して、日本の食文化の中心にすえてきたということだ。稲作にあたってはウルチ米でもモチ米でも、ともに陸稲と水稲があるのだが、日本はもっぱら水稲によって水田で育てた。このときいったん稲苗をつくって、それを田植えで移植するという独特の方法をとった。おそらく紀元前5世紀から3世紀にはこの方法が確立しはじめた。

 この「苗」と「田植え」が日本の社会や文化に大きな影響を与えたのである。これは、湿度の高い日本では直播きの陸稲では稲とともにすぐに雑草が繁茂して、どうにもならない。そこでいったん苗をつくり、それを移植する。そうすればすでに一尺ほどの貯金があるのだから、稲はなんとか雑草と対抗できる。つまり「株立ち」をしておくことが日本の稲作の基本であって、それが春に種蒔きをし、5〜6月に田植えをし、秋に収穫するという、日本の稲作生活の大きなリズムと特色をつくることになったわけである。

 この稲作とほぼそっくりの原型をもっていたのが、実はミャオ族だったのである。



ミャオ族は稲刈りした稲を高倉に収める。梯子は丸太を刻んだもので日本の弥生時代のものに酷似している。

 ミャオ族にはイネ文化もモチ文化もトウモロコシ文化も雑穀文化もある。しかし、そのうちのいくつかは日本の社会文化によく似たものをもっている。稲を保存する高倉、高床式の住居、チガヤを稲に見立てる田植え行事、正月のモチ月、羽根つき、竹馬、おこわ、チマキ(粽)、なれズシ、糯稲の麹でつくる酒、鯉や鮒の水田飼育、鵜飼いなどである。

 そのほか、正月料理を男主人がつくり、最初の3日間は女性は家事をしない風習、その料理を家の者たちが10日ほど食べつづけること、新年の辰の日(元旦)に2個の丸餅を台状の脚の低い椅子にのせて大地に酒をそそぐ儀礼なども、どこか日本の正月に通じるものがある。

 萩原さんはこうしたミャオ族の儀礼や生活をつぶさに観察して、しだいに中国原産のジャポニカを日本に運んだのはミャオ族ではないかと考えるようになった。おそらく中国江南地方の稲作の技能をもったミャオ族の一部が、なんらかの事情で長江から山東半島と朝鮮半島をへて日本に来たのではないか。

 なんらかの事情についても考えてみた。それはきっと中国の戦乱事情と関係があって、たとえば紀元前473年に越王が呉を滅ぼしたこと、その越が楚に滅ぼされて、楚が山東地方にまで勢力を拡大していったことなどと関係があるのではないか、というふうに。

 ただし、このときちょっとした選抜がおこったのではないかということを萩原さんは考えた。それというのも古代日本の中国側の記述には、例の『魏志』倭人伝をはじめ、倭人が入れ墨をしていたということがしばしば書かれているのだが、しかも日本の海人伝承にはしばしば黥面や入れ墨をしていることが語られているのだが、その海人が日本に来たとすると、いろいろ辻褄があわないことがあるからだ。

 従来、倭人の勃興と海人伝承は重ねて仮説されてきた。ということは漁労と入れ墨と倭人の勃興はひとつの出来事とみなされてきたということだ。

 しかし、考古学史料や植物学や遺伝学による調査が進んでくると、日本列島に稲作が入ってきたとおぼしい時期がしだいに早まって、紀元前3世紀にはかなりの水田耕作が広まりつつあったと見るしかないことがわかってきた。

 そうだとすると、文身(入れ墨)の習俗をもった漁労民が稲作を定着させたというような奇妙なことになる。これはちょっとおかしいのではないか。その後の日本文化を見ても、田植えの民が文身をもっているということはほとんどないし、そういう祭りもほとんど見ない。しかし他方、鏡餅にアワビやコンブを飾ったり、田植え行事にワカメ採りが重なっているような例はある。

 では、この辻褄があわない脈絡を説明するにはどうするか。新たな解答を与える仮説はなかなか出なかったのだ。こうして萩原さんの仮説が浮上した。先に水田民が定着して、それに漁労文化が集合していったのではないか。

 結論をいえば、萩原さんは中国南部からタイ北部の少数民族(チベット族・リス族・リー族・タイ族・シャン族・ワ族・カレン族・イ族など)をほぼすべて調査した結果、ミャオ族だけが入れ墨の習慣をもっていないことをつきとめたのである。

 そうであれば、文身をもたないミャオ族が春秋戦国期の内乱に押し出されるようにして、山東半島や朝鮮半島をへて日本にやってきて稲作技術を伝えたとしてもおかしくないことになる。少なくともそう考えれば、日本の正月儀礼や食物文化に似るミャオ族の儀礼や習慣との関連も説明がつく。しかし、ほんとうにそんなふうに言えるのか。萩原さんは傍証をあげていく。

 本書や、その前著の『稲を伝えた民族』で萩原さんが掲げている傍証はたくさんある。それをいまは絞って紹介する。

 まず第1には、稲魂(いなだま)信仰がある。稲魂とは稲に宿る精霊のようなものを信仰する習慣がもたらした観念で、稲穂が稔ることを期待した観念である。日本にはこの稲魂を重視する行事や祭がかなりある。その最も代表的なものは新嘗祭である。近いものが日本の西南や南島にある。これはミャオ族にもあって、初穂を捧げる儀礼になっている。

第2には、種蒔き・田植え・刈り入れというリズムによって、農村生活がハレとケを重視していることだ。稲作にとってハレはなんといっても豊作と収穫にある。そこにむかって農民は予祝をし、雨が涸れたり稲が枯れることを恐れ、そのための行事や占いをする。これはケ(枯)をしっかり感得することによってハレを招きよせるという考え方を生む。また、それを1年のサイクルにする生活様式をつくっていく。

ここで重要になってくるのが、晴れ着で着飾る新年がいつだったかということである。実は調べていけばいくほどに、もともと新年は収穫期の直後にあったのだということがわかってくる。いまでも西表島では8月や9月に節祭をおこなって稲や粟などの五穀の収穫を祝う。そこで一年が切り替わるとみなしている。このような例はいくらもあるのだが、このことから、第3の生と死の観念に関する問題が特色されてくる。

すなわち第3に、稲も人も「生と死」をもっていて、そこにはいったん「籠もる」という出来事が挟まって、それによって稲は稔り、人は充実を迎えるのではないかという考え方である。これは民俗学では「擬死再生」というふうによばれてきたことだが、日本にもミャオ族にもこの擬死再生をあらわす儀礼や祭礼がきわめて多いということだ。

しかも第4に、そのような稲や人の擬死再生には、その「籠もり」が終わったことを告げる神がたいてい出てくる。いわゆる春を告げる来訪神、折口信夫がマレビトと名付けた来訪神である。来訪神が蓑笠をつけて、いったん隠れた場所から出現してくるという所作をともなうことも看過できない。

すなわち第5に、稲の成長がもたらした藁束は神の似姿の衣裳となって、ケを破ったハレを告げるわけなのだ。
このような来訪神の習俗はミャオ族にもいまなお続行されている。異装のマンガオがやってきて、ツァイライ(長老)の家で鍋墨などをなすりつけ、そのあとで芦笙柱を派手にまわって人々を驚かせ、また笑わせる。モウコウという来訪神もいる。おどろおどろしい異装のモウコウが5人・7人・9人といった奇数が集まって、ウォーウォーと唸り声をあげて子供を寿ぐ。まさにナマハゲだ。 

5つの傍証をあげただけだが、これでも十分に推測がつくように、ミャオ族の村落儀礼と日本の稲作儀礼をつなぐ紐帯はけっして浅くない。それどころか、すでにいくつかの前段でのべたように、ここには太陽信仰と鳥信仰がさまざまに重なってくる。

萩原さんは、こうした「太陽と鳥と稲」の相互関係からは、おそらく日本人の祖霊をめぐる観念の形態がいろいろ読みとれるのではないかというふうに、本書を結んでいく。

日本の祖霊信仰は基本的に正月と盆を、また春分と秋分を行ったり来たりすることで成立しているのだが、それは稲作の儀礼ともぴったり重なっている。だいたい種蒔きと刈り入れが春分と秋分の幅をもっている。そこには太陽の道が劇的に通過する。ここにはしかも日本人の彼岸と此岸の観念も重なってくる。また、もしも新年が収穫期と深い関係をもっていたとするのなら、「魂があらたまる」という日本人の感覚は田植えの夏至から冬籠もりの冬至に向かってドラマをつくっているといえるのだ。

千葉県沼南では天道念仏という行事がくりかえしおこなわれている。いまでは3月15日におこなわれているが、おそらくは春分行事であったおもわれる。かつてはたんに「天祭り」とよんだ。ここではボンデンという竹で編んだ丸い籠に半紙を貼って鳥の目を描きこみ、これを「カラス」とか「シラサギ」とよんで竹串で射る。まさにオビシャである。このボンデンを折口は「髭籍」(ひげこ)と認識して、光を放つ太陽だとみなした。

これでだいたいの話はつながったはずである。萩原さんは遠い地の話をしたわけではなかったのだ。われわれも正月や春分や冬至を、アジアとともに感じるべきだと言いたかったのである。



秋分の朝、真東の太陽を迎える芦笙柱上の鳥

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1141.html


03. 2011年10月04日 21:58:54: MiKEdq2F3Q


「北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁撈民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこでテン(シ+眞)王国を作った。

同じように、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。テン文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。


 この仮説は百年も前に鳥居龍蔵(とりい・りゅうぞう)が台湾の生番族と苗族の文化的共通性からすでに着想していたことである。それから百年後、その鳥居の仮説がようやく一歩近づいたのである。」

安田喜憲『龍の文明 太陽の文明』PHP新書170 2001
http://www.amazon.co.jp/%E9%BE%8D%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E%E3%83%BB%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%AE%89%E7%94%B0-%E5%96%9C%E6%86%B2/dp/4569617352

「『古事記』が選録されたその年には、唐では玄宗皇帝が即位し、唐文化は爛熟の時代をむかえつつあった。「家畜の民」「畑作・牧畜民」の漢民族の巨大王国の世界支配が貫徹した時代に、「森の民」「稲作・漁撈民」としての日本民族のアイデンティティーをいかに記録にとどめるかに、元明天皇も太安万侶も腐心したはずである」


テンと日本の共通性は


「コメと肉を食べ、太陽や蛇や鳥を長らく神として信仰し母権制を軸とする共通の伝統があるからである」

それを「中尾佐助氏や佐々木高明氏は照葉樹林文化と名づけた。」


この著者は北方畑作・牧畜文化を龍の文明とし、一方南方文化を太陽、蛇、鳥の文明としている。日本が藤原氏以後、天皇を女帝とし、神を太陽神・アマテラスにしたのは、追いやられてゆく南方系文明をこの国の正統な王朝としようとしたためだとする。そして天皇家が今でも北方系のシンボル龍よりも南方稲作民のシンボル太陽神を象徴としていると言うのである。

http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/45768819.html


安田喜憲氏の新著『龍の文明・太陽の文明』(PHP新書、二〇〇一年九月刊)で著者が江上波夫氏による「騎馬民族征服王朝」を意識して提唱した「稲作・漁労民征服王朝説」を立ち入って検証してみたい。

一、龍族の南下と縄文文化


今から約八千年前、中国東北部の遼寧省から内モンゴル自治区にかけて、龍信仰の原形となる猪龍や鹿龍などをトーテムとする牧畜民が興り、七千年前には現在の龍に近いものが玉器とともに信仰され、六千年前には龍と玉それに女神がセットなって、一つの宗教体系を形成するに至った。

著者はおよそ十年間にわたって、中国各地の先史遺跡をひろく踏査し、「龍は森と草原のはざまに生息する猪や鹿、それに森の中を流れる川にすむ魚そして草原の馬をモデルにして誕生していた」(P.98)と突きとめ、龍は長江(揚子江)流域の蛇か鰐をモデルにした架空動物だとみなす従来の通説を覆した。

龍信仰を定着させた紅山文化は、内モンゴル自治区から遼寧省・吉林省にかけて発達したが、五千年前に寒冷化と乾燥化とが顕著になってくるにつれて、しだいに衰弱し、そして四千年前には完全に崩壊してしまった。

それと時期を同じくして、長江流域の各地において約五千年前に、巨大都市に象徴される王権が突如として出現した。五千年前の良渚文化の遺跡では、角と耳のついた玉龍が見つかり、龍に対する信仰があらたに現われてきたことを物語る。

こうした長江流域に見られるの新しい文化的要素について、著者は「玉への信仰は長江流域と内モンゴルがほぼ同じか、あるいは内モンゴルが若干早く出現した可能性が高い」または「長江流域で最古の龍が出現するのは五千年前なので、内モンゴルの方が二千年近く早いことになる」と指摘し、さらに「こうした玉と龍への信仰は長江流域の稲作地帯で独自に誕生したのではなく、北方の畑作地帯でもほぼ同時に、あるいは北方の畑作・農耕地帯で誕生し、それが南方の稲作・漁労地帯へ伝播したとみなす必要が出てきた」と論じる(P.31)。

ここでも、長江文明を特徴づける「玉」への強い信仰の南方起源説という「通念」は、あっけなく論破されたのである。

著者が中国の遺跡を調査する際には、つねに日本文明の起源という問題を意識していることは、本書の随所にそれをうかがうことができる。たとえば、遼寧省西部の査海遺跡から、約七千年前と推定される玉玦や玉匕などといった中国最古の玉製品が出土していることに関連して、著者はすぐに縄文時代の遺跡に目をむけ、次のように述べる。

「この査海遺跡の玉玦や玉匕は、福井県金津町の縄文時代早期末〜前期の桑野遺跡から出土した玦状耳飾りや玉匕とよく似ている。さらに類似した玦状耳飾りは滋賀県守山市赤野井湾遺跡、京都府舞鶴市浦入遺跡、兵庫県淡路町まるやま遺跡、新潟県堀之内町清水上遺跡、大分県本耶馬渓町枌洞窟遺跡などで発見されていることが明らかとなっている。」(P.30)

このような出土品の類似によって、著者は「七千年前頃からすでに日本海をわたって中国東北部との交流があった」(P.30)と大胆に推論する。さらに、気象の寒冷化と紅山文化の崩壊にともなって、龍族の南下が始まったが、その影響が長江流域の文明にあらたな転機を来したのみならず、縄文時代中期の文化的発展にも波及したと論を進めていく。

気候の寒冷化により紅山文化の担い手たち、あるいはその文化的影響を受けた北方の人々が南下したり日本列島に渡来することによって、長江文明発展の契機や縄文時代中期の文化的発展の契機を作ったのではあるまいか。

「いうまでもなく縄文時代中期以降、土偶と翡翠そして蛇信仰がきわだったものになってくる。そうした縄文時代中期文化の画期には、龍を信仰し、玉を持ち、女神を信仰していた大陸の紅山文化の影響があるのではあるまいか。」(P.35)

ところが、龍と玉それに女神を信仰する北方系の「紅山文化の担い手たち」が縄文文化に影響を及ぼしたという推論は、本書の骨格をなす「稲作・漁労民征服王朝」の仮説と噛み合わないものがある。

つまり、著者は再三にわたって「日本において龍とみなされるものが出現してくるのは、弥生時代後期以降のことである」と強調し、その背景として「王権の誕生が中国に比べて遅かったこと」(P.50)を指摘し、龍信仰が稲作とともに日本に伝わらなかったと断言する。

このことは、初期の稲作伝播の径路と龍をもたらした人々の渡来径路を考える上でも重要な意味を持っている。すくなくとも初期の稲作をもたらした人々は、龍信仰を持っていなかった。おそらく彼らは龍よりは太陽と鳥を崇拝する長江流域の人々であった可能性がきわめて大きいことを示唆している。

龍の造形は、古墳時代より以降の遺跡では中国龍に近い形で見られるようになるのだが、弥生時代の後期では大阪府の池上曾根遺跡、恩智遺跡、船橋遺跡、下池田遺跡、兵庫県の玉津田中遺跡、奈良県の唐古遺跡、岡山県の天瀬遺跡など、近畿地方から瀬戸内海沿岸にかけて、足のついた龍らしき動物を描いた土器片が出土している。 この意味で、龍信仰の将来者は縄文末期から東シナ海をわたってきた稲作民ではないとする見解はうなずける。


二、鳥から鳳凰そして朱雀へ


北方の森と草原のはざまで生息していた龍族は、約五千年前から寒冷化にともなって南下すると、長江流域において太陽信仰を持つ鳳凰族らの異文明と遭遇する。この異文明とは、南方の森と湿地のはざまで発達したもので、本書のキーワードでもある「長江文明」にほかならない。

「その森と湿地の周辺で、稲作・漁撈民が一万年以上も前から畑作・牧畜民とはまったく異質の暮しを続けていたのである。そして六千年前には、城壁都市を構築し、五千年前には本格的な都市文明の段階へと突入し、四千年前にはメソポタミアのウルクなどに匹敵する巨大な都市を作りあげていたのである。」(P.55)

著者によれば、「太陽の運行は稲作を行なう上で実りの光を与え、稲作の行事にリズムを与えてくれる」ため、稲作民と漁撈民は太陽を崇拝し、また太陽は鳥によって運ばれると信じているという。(P.55)そして、鳥を神格化したのが鳳凰であり、鳳凰はすなわち太陽の化身とみなされる。

鳳凰信仰の原型である鳥崇拝は、長江各地では異なった様相を呈する。たとえば、長江中流域にある湖南省の高廟遺跡からは、太陽を両羽にかかえる怪鳥の姿が造形されていた七千年前の土器が出土しており、その鳥は立派なトサカを持ち、鶏の面影をとどめている。そして長江下流域では、七千年前と推定される浙江省の河姆渡遺跡に、二羽の鳥が太陽を真ん中に向かい合う象牙の彫刻が発見され、その姿はどうやら水鳥に似ている。時代はくだるが、長江上流域の四川省三星堆遺跡から、青銅製の扶桑木といわれるものが発見され、その枝にとまっている九羽の鳥は、明らかにカラスをモデルにしている。

このような地域差のある個性的な鳥崇拝は、長い歴史のなかで互いに融合して、鳳凰という空想の神鳥信仰に吸収されていく。『山海経』には、鳳凰の頭は徳をあらわし、翼は順を、腹は仁、背中は義を、それぞれ象徴しているとあるのは、鳳凰の組み合わせ動物としての多様性を想像させる。

著者の唱える鳳凰の南方起源説、鳳凰信仰を鳥崇拝の進化とみなす説、鳳凰が太陽信仰の根幹をなしているとの説などは、いずれも中国でも早くから指摘されており、おそらく疑問をいれる余地はなかろう。ただし問題となるのは、稲作民と漁労民がなぜ鳥を崇拝し、鳳凰信仰を持つようになったかをめぐっての説明である。

これに対して、著者は「稲作・漁撈民が定住生活を開始した湖沼地帯には、たくさん水鳥がいたから」(P.60)と説明しているが、こう簡単に片づけられては困る。著者のもう少し詳しい解釈を引用しよう。

「太陽の運行は稲作・農耕民にとっては、きわめて重要な生産のメルクマーク(指標)であった。いつ種もみを播き、いつ苗床を作り、いつ田植えをし、いつ田の草を取り、いつ収穫するかという稲作の農作業は、畑に水をやる必要もない天水農業の麦作に比べると、はるかに複雑な作業であり、綿密さと緻密さ・計画性を要求された。その綿密の根幹を司るのが太陽の運行であった。そして鳥はその太陽の運行を助けるものであった。太陽は朝生まれて、夕方には死ぬ。その永劫の再生と循環を支えているのが鳥であった。」(P.62)

右文はもっぱら稲作民と太陽および鳥との深い関連を述べているが、漁労民との関連についてはまったく言及していない。漁労民とは漁業を生計とする人々をさし、長江下流域の沿岸地帯では漁業をいとなむ漁民が生息していたと思われるが、中流域の湖南省と上流域の四川省では漁労で生計を立てる民族集団がいたかどうか疑わしい。つまり、漁労民と鳥崇拝との間に、必然的な関連が見出せないということである。

たとえ水鳥と漁労民の間になんらかの接点があったとしても、それはあくまでも長江下流域の河姆渡遺跡などに限られ、高廟遺跡の鶏崇拝と三星堆遺跡のカラス崇拝には当てはまらない。したがって、鳥を崇拝するのは漁労民ではなく、稲作民とみなした方が無難であろう。というのは、鳥崇拝の遺物が発見された地域は大抵、早くから稲作が盛んなところだったからである。

湖南省については、玉蟾岩遺跡から一万六千五百年前と推定される稲籾が四粒見つかり、現時点では中国最古の稲作の証拠とされている。また七千年前の河姆渡遺跡からは大量の米粒と稲殻そして農具などが出土し、太陽と鳥を造形した象牙彫刻も同じ遺跡から出ており、鳥崇拝と稲作民との深いつながりを思わせる。

鳥崇拝が稲作農耕から生まれたとすれば、農業に密接な関係を持つ太陽信仰に鳥がなぜ登場してくるかを「稲作・漁撈民が定住生活を開始した湖沼地帯には、たくさん水鳥がいたから」では説明できなくなる。

ここで思い出されるのは、長江下流域に生息していた越人の「鳥田」に関する伝承である。『論衡』(巻四)によれば、「禹葬會稽、鳥為之田。蓋以聖コ所致、天使鳥獸報祐之也」とあり、つまり夏王朝を創った禹が亡くなって会稽山に葬られたとき、天はその聖徳を嘉みし、鳥を遣わして田を耕させたという。

中国の文献、たとえば『越絶書』と『論衡』はこの故事をしばしば「鳥田」と約して称しているが、それは「鳥の田」という意味ではなく、「鳥が田を耕す」と理解すべきことは、『墨子』(佚文)の「禹葬於会稽、鳥為之耘」、『呉越春秋』(無余外伝)の「天美禹コ、而労其功、使百鳥還為民田」などによっても裏書きされる。

鳥が人力のかわりに田を耕すことは後世の伝承にすぎないが、しかし原始農業のころ、鳥は稲作民によってありがたい存在に違いない。禹が葬られた会稽山は今の紹興にあり、そこに「大禹陵」と呼ばれる墓が現存している。『論衡』はさらに「会稽衆鳥所居」といい、「鳥自食苹」とも伝えている。「苹」は「草」の意味で、『水経注』(四十)は「鳥為之耘、春拔草根、秋啄其穢」と説明している。

 このように、鳥は稲の種を運び、土を柔らかくし、害虫や雑草を除去してくれることで、稲作民から崇拝され、さらに鳳凰信仰と発展し、同じく農耕から生まれた太陽信仰に融合していく。鳳凰信仰と太陽信仰との結合は、南方の稲作民において、独自な宗教世界あるいは宇宙像がついに体系をととのえたことを物語る。鳳凰族の誕生である。

三、苗族と越族と長江文明


第二章「鳳凰と太陽」において、著者は鳳凰信仰の源流をたどってのち、中国西南部にひろく分布している苗族を調査した成果を披露し、ついでに長江文明を創った栄冠を苗族に贈ったのである。

苗族は中国に五十六ある民族の一つであり、人口は一九九〇年の調査によれば、七三九万に達して四番目である。その半数は貴州省に集中し、その他は雲南・湖南・広西・四川・湖北・海南の六省に散在している。

著者はおよそ十年間にわたって湖南省・貴州省・雲南省・四川省・湖北省の各地をかけめぐり、古代の遺跡と苗族の生態を綿密に調査しつづけた。日本人として苗族の調査をはじめて行なったのは、鳥居龍蔵博士である。博士は台湾の生番族の大陸渡来説を提唱し、生番族と類似点の多い苗族の調査を手がけたのである。そして、著者の苗族調査は明らかに鳥居博士の先駆的な仕事を意識したものである。

著者は「鳥居との間に不思議な縁を感じることがある」と述べ、鳥居博士の「私は純粋な考古学者ではなく、先史考古学者である。先史考古学は自然科学に属する」との言葉を引用して、オリジナルな環境考古学も「自然科学の立場から人文社会科学を総合」(P.75)する目標をかかげていると宣言する。

その通り、本書に披露された調査結果は、考古学のデータに民俗学の資料を重ねたものといえる。つまり、湖南省の城頭山遺跡から出土した木材の分析で、この六千年前の古代都市を築くときに、周辺から伐採したフウの木(中国名は楓香樹)を多用したことが判明、つづいて広西省にある苗族の村を踏査した結果、苗族の楓香樹信仰をつきとめ、台湾の生番族と大陸の苗族が同族であろうという鳥居博士の仮説を立証し、さらに弥生時代の倭人のルーツも苗族にあったのではないかと推測する。

「その長江文明の担い手は、苗族であり、苗族を含む長江流域の人々が、長江文明の崩壊とともに台湾や日本列島へと移動する大民族移動があった可能性が高くなってきたのである。」(P.75)

日本人にとって、苗族の村には弥生時代を彷彿させる風景は少なくはない。苗族の村を訪ねたときの第一印象について「一瞬、弥生の村に迷い込んだのかと思った。高床式の倉庫が立ち並ぶ。倉庫にあがる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じだ」(P.77)と心境を語っている。

もっとも著者の視線を釘づけにしたのは、村の要所に立てられた蘆笙柱である。蘆笙柱とは苗族の生命世界の根幹をつかさどる宇宙樹であり、フウの木で作られる。その先端には鳥または太陽を象徴する瓢箪などがつけられている。ここに稲作民の古代信仰とみなされる鳥と太陽のセットが出てきた。

さらに著者の目をひくのは、きまって蘆笙柱の下に置かれていた水牛の角である。苗族では十三年ごとに祖先の霊を祭る牯葬節を催し、そのときに百頭以上の水牛が犠牲になるという。苗族の多く生息している山間部では水牛を飼育しにくい。したがって、水牛は祭りの犠牲に供えるために飼われている場合が多い。これに対して、「苗族がかつて水牛の生育に適した平野部の低湿地地帯で生活していたことの名残り」(P.80)との解釈は妥当であろう。鳥と太陽にくわえて稲作農業に重要な役割を果たす水牛も登場してきた。

著者の目線はまた祭りそのものにも向けている。一万人を超す群衆は一つの村に集まり、若い男性の吹く蘆笙(楽器)の音色にあわせて、「百鳥衣」と呼ばれる衣装を身にまとった女性が蘆笙柱のまわりを踊りながら回る。この百鳥衣はすそに鳥の羽が一面に縫いつけてあることから名づけられ、その由来は「昔、苗族に稲穂をくわえて運んでくれたのが鳥だから、その鳥に感謝するためだ」(P.82)そうである。これは越人にまつわる「鳥田」伝承の類話ではないか。

ここに至って、著者の主張つまり苗族の原郷は長江流域にあり、六千年前に長江文明を創りあげながら、龍族の南下によって南へ追いはらわれたとの仮説に、思わず同調したくなる。

しかし、右の仮説を立証するためには、いくつかの疑問をクリアしなければならない。一つは苗族の起源であり、もう一つは越族との関係である。

まずは苗族の起源について、著者はその先祖を三苗とみなし、古くから洞庭湖周辺の江漢平原に居住していたが、約四千年前に「家畜の民」こと龍族の南下によって貴州省や雲南省などの山岳地帯へ追放され、南蛮へと落ちのびたと論じる。

中国における最近の研究を調べると、苗族の先祖を蚩尤とするのが、ほぼ通説となっている。『山海経』(大荒南経)には「楓木、蚩尤桎梏所棄、是為楓木」とあり、楓木すなわち楓香木は蚩尤の化身である。それは苗族の楓香木信仰の原点に違いない。

蚩尤の率いる九黎族はもと黄河の中下流域に分布し、東方の強族として勢力を張った。五千年前に西の黄帝族と拮抗して敗れ、四千年ほど前に淮河・長江流域にまで逃れ、ここで三苗族として再起したが、秦の始皇帝による統一戦争によってさらに南遷し、ついに中原に鹿を逐う力を失ったのである。

右のごとく五千年前には、苗族の先祖は北方の東部に興り、本書の想定した稲作・漁労民ではなく、また畑作・牧畜民というよりも、畑作をいとなむ農耕民である。それは蚩尤についての文献記録とも合致する。

『龍魚河図』に登場してくる蚩尤は「獣身人語、銅頭鉄額」とあり、また『述異記』は蚩尤の姿を「黾足蛇首」あるいは「人身牛蹄」と記している。「黾」とは蛙の一種である。蚩尤は金属技術を持つ農耕民であるため、牧畜民の黄帝は勝てず、そこで「人首鳥形」の女性から『玄女兵法』を授けられ、ようやく勝利を収めたと『黄帝玄女戦法』が伝える。『山海経』(大荒北経)によれば、蚩尤は風雨を起こして黄帝軍を苦しめたとあり、『春秋繁露』(求雨)には「夏求雨、其神蚩尤」と記され、明らかに農耕民の首領である。

次に苗族と越族の関係について考えてみよう。著者は六千年前に苗族が長江文明を誕生させたと主張しているが、そのとき苗族の先祖は黄河中下流域に生息していたし、五千年前までは長江より北に活躍していたから、長江流域の先住民ではなかったことは明らかである。

一方、越人の先祖とみなされる七千年前の河姆渡人、五千年前の良渚人は稲作をいとなみ、長江下流域において華麗な呉越文明を創りあげたのである。黄帝側に協力して「黾足蛇首」の蚩尤を退治した「人首鳥形」の玄女は、鳥と太陽を信仰する越人の象徴であるかもしれない。三苗は牧畜民に圧迫され、黄河流域から南下し、長江流域の民族と交流を持ったに違いないが、長江文明の創造主ではない。

要するに、第二章後半部の論述は、実地調査を行なった地域の見聞に頼りすぎ、多民族の衝突と融合をくりかえした中国文明史の全体像への目配りは十分とはいえない。日本との関係を苗族に絞りすぎたため、越人と倭人の関連を考察する第四章「稲作・漁労文明の系譜」とも齟齬してしまう恐れがある。


四、鳥族と蛇族と弥生人

第三章「北の龍・南の鳳凰」では、いよいよ日本との関連に考察の重点を移すようになる。まず本章の前提となる論点を整理すると、北方に興った龍族は五千年前から南下し、四千年前に長江文明がその圧力によって衰退し、三千年前には三苗と呼ばれる太陽族・鳥族・蛇族が長江流域を追われて西南部の山岳地帯へ逃れる。

「かくして太陽族・鳥族・蛇族の苗族たちは敗れ、雲南省や貴州省の山岳地帯へとおちのびていく。その一派が海上難民として日本列島にも到達し、太陽信仰、鳥信仰をもたらしたのである。」(P.105)

三苗は龍族との抗争に負けてしまい、一部は陸路から南方へ逃れて苗族となり、一部は海路から日本へ渡って倭人となったという図式は、簡単明瞭ではあるが、にわかに賛同できない点が多々ある。

前にもふれたが、苗族の先祖は黄河流域に居住していた北方東部の農耕民であり、蚩尤の伝承にも象徴されているように、蛇をはじめ牛や蛙などを崇拝していた。つまり、苗族の先祖は蛇族であり、黄帝と手を結んだ鳥族とは仲が悪かったらしい。

中国の統一はまず北方における東西の折衝から始まり、戦争に勝った西の牧畜民は蛇族をも受け入れて龍族として生まれ変わったと考えられる。『爾雅翼』に「龍の角は鹿、頭は駱駝、眼は鬼、うなじは蛇、腹は蛤、鱗は魚、爪は鷹、掌は虎、耳は牛」とあるのは、まさに新生の龍族の姿である。

 龍族の支配に服従しない蛇族は長江中流域にまで南下し、そこの漁民と融合して伏羲と女媧の創世神話を生みだしたのであろう。鱗身の伏羲と蛇体の女媧は兄妹であるが、二人が結婚して人類万物を創ったという。伏羲の出身は河南省とも江蘇省とも伝えられ、南北融合を反映した神話であると見てよかろう。

伏羲と女媧の神話は「黾足蛇首」の蚩尤と重なる部分が見てとれ、苗族はもとより蛇族だった証拠になる。対して、約四千年前に長江下流域を舞台に活躍した禹は「鳥田」伝説に示されるように、鳥信仰を持つ稲作民である。それは七千年前の河姆渡遺跡、五千年前の良渚遺跡によって証明されている。

長江流域において、蛇を崇拝する畑作民の苗族と鳥を崇拝する稲作民の越人は互いに多くの交流を持っていたことと推察される。今の苗族が持っている楓香樹信仰と牛信仰は古来のものであるのに対して、鳥信仰はおそらく稲作をいとなむ越人から受けた影響によるものと推察される。

著者は日本列島にも渡ったであろう太陽族も鳥族も蛇族もすべて「苗族たち」としているが、苗族と信仰も生業も民族も異なる江南の鳥族を視野に納めるべきところであろう。

第三章では苗族と倭人の蛇信仰に多くの紙幅を割いている。雲南省昆明市の滇池周辺に、およそ二千四百年前から、弥生時代とほぼ同じころ、滇王国と呼ばれる王国が繁栄していた。そこの出土品には蛇や蛙それに女性などの造形が際立っており、強烈な蛇信仰と女性信仰を認めることができる。

著者がいう、「女性中心の母権制の社会で蛇信仰を持った社会は、人間を大蛇の犠牲にするという戦慄すべき風習が存在した。女王は同時に蛇巫女であったのであろう」(P.122)と。そして、『古事記』などに語られたヤマタノオロチ退治の話に言及して、「日本ではこのような大蛇はいない。おそらく日本の神話に語られるヤマタノオロチの人身供養の物語などは、こうした雲南省などの長江流域の物語にその起源がもとめられるのであろう」(P.122)と述べる。

このように、著者はつねに日本文化または日本民族の起源を探察する視線を雲南省あたりの奥地に向けている。大胆にも以下のような発言もされている。

「日本の弥生時代の世界史的な位置づけは、同じく漢民族の周辺に位置した雲南省などとの比較の中で、より明らかになってくるのではあるまいか。雲南省では漢民族の国々とは異なり、長らく母権制が維持されていた。日本の弥生時代もまた漢民族からみれば滇王国と同じ少数民族の稲作農耕社会であったとみなされる。」(P.126)

紀元後百年ごろ、滇王国は突然に衰亡する。著者は自然科学者の眼目をもって、その原因を気候の悪化に求める。その影響によって、民族移動が盛んに行なわれ、既成秩序を脅かす新たな不安要素となり、東アジア全域に大動乱を誘発し、滇王国の衰亡から倭国の大乱までは連鎖的に起こった。

これらの政局の激変によって、各地の政治地図が大きく塗り替えられ、漢民族の立てた漢王朝は東アジアに君臨するようになった。漢民族の勢力がいちじるしく伸張しているなかで、著者は滇王国と日本の弥生文化だけがその波及を逃れて、「長江文明の伝統をもっとも色濃く受け継いでいる」(P.132)と断言する。

北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁労民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこで滇王国を作った。同じように長江下流域に生活し、良渚文化などの長江文明を発展させた稲作・漁労民の一派は、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。滇文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。

右は第三章の到達した結論である。この雄大な文明論は、著者の光り輝く知見をキラ星のごとくちりばめ、また自然科学者ならではの的確なデータをフルに活用しており、読者の眼前に斬新な世界を広げてくれる。

ただし、この結論では、著者の雲南省への愛着が隠すことなく現わされ、あたかも滇王国を作ったのも長江下流域の稲作民も台湾へわたった生番族も弥生文化を生み出した倭人も、長江の中・上流域を追われた苗族の一派だったかのような印象を読者に与えてしまう。


五、羽人と越人と征服王朝

本書のクライマックスは、なんといってもこの第四章「稲作・漁労文明の系譜」にほかならない。佐々木高明氏の『照葉林文化の道』(NHKブックス)にちなんで、著者は北方のナラ林文化を龍族、南方の照葉林文化を蛇族にあてて、次のように述べる。

中国大陸では北方のナラ林帯の龍族が、南方の照葉林帯の太陽族・鳳凰族・蛇族を駆逐した。そして中国大陸で龍族に追われた一派が、ボートピープルとなって稲作とともに鳥と深く関わる太陽信仰を中心とする神話体系を日本にもたらし、弥生時代を開幕する原動力となった。

周知のとおり、日本神話には天津神と国津神という系統の異なった神々が登場している。著者は国津神を縄文人、天津神を渡来人とみなし、国津神から天津神への国譲りが平和的に行なわれたと見る。つまり、弥生文化を主導した王権は長江文明を持った稲作・漁労民であり、これを「稲作・漁労民南方征服王朝説」と名づける。

そもそもこの新説の発端は、江上波夫氏の唱える「騎馬民族征服王朝説」へ反省にあった。つまり、「日本人の伝統的な習俗や世界観は、かならずしも騎馬民族征服王朝説を支持しなかった」こと、「日本神話の故郷がなぜ南九州にあるのか」との疑問から、著者は長年の中国調査の成果を生かして、日本神話の見直しに踏み切ったようだ。

考えてみれば、もし朝鮮半島を経由して騎馬民族が征服王朝を作ったとすれば、著者のいうように「天皇のルーツを誇る日本神話の故郷は、北九州にあるのが自然である」(P.138)。しかし、神話の舞台だった高千穂の峰は南九州にあり、天皇の高祖と崇められるニニギノミコトも出雲国を譲られて南九州から上陸するのである。

長江文明の視点から日本神話を見直してみると、驚くほど多くの共通点に遭遇する。たとえば、葦原中国の保食神が死ぬと、頂が牛馬となり、顱の上からは粟、眉の上からは繭、眼の中からは稗、腹の中からは稻、女陰からは麦と豆がそれぞれ生まれ、それを入手したアマテラスは大いに喜び、「粟稗麦豆を以ては、陸田種子とす。稻を以ては水田種子と」して、高天原に稲作と蚕桑を始めたという。(『日本書紀』)

これは稲作民の神話そのものであり、、しかも蚕桑を兼業とする長江下流域の稲作民の神話を想起させる。さらに日本神話のなかに鳥の存在が大きいことも稲作民渡来説を補強する。

神武天皇が熊野から奈良盆地へ向かうときに道先案内をしたのはヤタガラスであり、大国主が出雲国をゆずるときに天鳥船の供給を約束された。そして、弥生遺跡の出土品に鳥の造形が多いことは多言を要しまい。

鳥信仰と関連するものに、羽人の存在も無視できない。岐阜県の荒尾南遺跡、鳥取県の淀江町角田遺跡、高槻市の新池遺跡、奈良県の東殿塚などから、頭上に羽を挿した人々が船を操っている場面を描いた弥生時代の出土品が報告されている。それらと類似したものは雲南省の石寨山遺跡からも見つかり、中国の研究者はそれを「羽人」と呼んでいる。羽人の操る船こそ天鳥船の原型ではなかろうか。

稲作民にとって、鳥信仰はあくまでも太陽信仰の一部である。それも日本神話に反映されている。アマテラスは太陽の化身であり、天皇家の後継者は「日子」と称される。太陽信仰は世界各地に見られるが、ギリシア神話のアポロのように男神が普通であって、アマテラスのような女神はめずらしい。長江下流域の越人地域には、太陽神の性別を中原の男神と違って、女性とする伝承は少なくない。

このように、日本神話を検討した結果、雲南省よりも江南の沿岸地帯の伝承と実情に多くの類似点を持っていることがわかる。著者もこの点を汲み取って「羽人は越人であった」(P.150)と認め、そしてニニギノミコトの来日径路については

「長江下流域から、船で東シナ海に出ると、対馬暖流に乗って真っ先につくところが、鹿児島の南端なのである。さらに、そこから対馬暖流が行きつくところが、出雲でありその先が富士の越の国なのだ。海流に乗れば、漂着する場所が南九州である。」(P.148)

と述べ、「富士を中心とする北陸三県の越の国の起源も、こうした長江下流域にもとめられる」(P.150)とも付け加えている。江南の越人は同じ地域にすむ呉人よりも航海技術に長じており、『淮南子』(斉俗訓)に「胡人は馬に便れ、越人は舟に便る」とあり、『越絶書』(記地伝)にも「(越人は)船を以って車と為し、楫を以って馬と為す」と見える。彼らはいざという時に、東シナ海を横切る航海技術を十分に持っていると考えられよう。


六、呉人と越人の海外移住

考古学の発掘資料を多用し、自然科学者の視点を生かしたのは、本書の特徴であり、意表をつく魅力でもある。ただし、三千五百年前には、日本がまだ原始社会の縄文時代にとどまっていたころ、中国ではすでに文字を使う歴史時代に突入している。したがって、日本神話の検証にも、考古学資料の裏づけにも中国の文献資料をより積極的に用いれば、結論の妥当性が一段と高まるのではないか。

たとえば、『通典』にひかれた『魏略』に「倭人自謂太伯之後」とあり、『資治通鑑』にも「今日本又云呉太伯之後、蓋呉亡、其支庶入海為倭」と記されている。呉国は太伯(泰伯とも)を始祖と崇め、紀元前四七三年、越国に滅ぼされてから、その一派が日本へ渡ったと考えられる。三角縁神獣鏡をめぐっては論争がまだ続きそうだが、王仲殊氏の主張する呉人移民の製作説はかなり有力であろう。また『漢書』(地理志・呉地)に出てくる東鯷人も日本へ移住した呉人だった可能性は指摘されている。日本との関連において、第二章と第三章は苗族のみに照準をあて、第四章は越人を引き立てすぎるといった印象がある。それはおそらく著者の調査した地域との関係があろうが、文献資料を補助的に使えば、こうした偏りをいくらか回避できたかもしれない。

苗族を長江文明の創造者と強調するためか、長江流域に分布していた太陽・蛇・鳥の諸信仰を持ち合わせる南方民族として扱うところも気になる。苗族の先祖は北方民族であり、その首領蚩尤は黄河流域において、東方の農耕民を率いて西方牧畜民の黄帝軍と戦を重ねて中原を争った。私見では、蛇を崇拝する苗族は基本的には龍族の根幹をなし、牧畜民との戦争に敗れて、農耕技術や金属技術とともに蛇信仰も中原を制圧した西方民族に吸収され、龍族という混合民族が生まれたと考えたい。長江流域では、西方部族と東方部族は楚と越のようにしばしば紛争を引き起こし、信仰や生業などでも相違が見られる。要するに、中国の文明発展史を見るかぎり、黄河と淮河それに長江に阻まれて、南北の交流よりも東西の交流がきわめて活発であった。この意味で、本書は東西関係への目配りはいささか不足している気がする。

日本における龍の出現を弥生後期か古墳時代とし、その影響は朝鮮半島から受けているとの指摘にも賛同しがたい。蛇崇拝は黄河下流域の苗族にあり、また長江下流域の越人にも行なわれていたようだ。水または海との関連で、東方の夷族に共有されていると推定される。鳥から進化した朱雀が南方の守護神とされるのと同じように、蛇から進化した青龍は東方の守護神である。したがって、日本へわたった越人が龍信仰を弥生文化にもたらした可能性もある。『魏志』(倭人伝)をひもとくと、「(越人は)断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人も好んで沈没して魚蛤を捕る。文身して、亦以って大魚と水禽を厭う」とあり、蛟龍信仰が九州沿海の漁民に広がっていた証拠となろう。

http://www.geocities.jp/jiangnankejp03/lunwen/jp_lunwen06.htm


日本のルーツ? 長江文明


漢民族の黄河文明より千年以上も前に栄えていた長江文明こそ、日本人のルーツかも知れない。 H15.08.03


■1.再生と循環の長江文明■


 6300年前、中国の長江(揚子江)流域に巨大文明が誕生していた事が近年の発掘調査で明らかになっている。メソポタミア文明やエジプト文明と同時期かさらに古く、黄河文明よりも千年以上も早い。長江の水の循環系を利用して稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であり、自然と共生する「再生と循環の文明」であった。

 4200年前に起こった気候の寒冷化によって、漢民族のルーツにつながる北方の民が南下した。彼らは畑作牧畜を生業とし、自然を切り開く「力と闘争の文明」の民であった。彼らはその武力で長江文明の民を雲南省や貴州省の山岳地帯に追いやった。 これが今日の苗(ミヤオ)族などの少数民族である。

 別の一派はボートピープルとなって、一部は台湾の原住民となり、別の一派は日本に漂着して、稲作農耕の弥生時代をもたらし、大和朝廷を開いた、、、

 日本人の起源に関するこうした壮大な仮説が、考古学や人類学の成果をもとに学問的に検証されつつある。これが完全に立証されれば、日本人のアイデンティティに劇的な影響を与えるだろう。今回はこの仮説に迫ってみよう。



■2.森と川と水田と■


 1996年、国際日本文化センター教授・安田喜憲氏は3年もの交渉期間を経て、長江流域に関する日中共同の発掘調査にこぎつけた。対象としたのは長江の支流・岷江流域、四川省成都市郊外の龍馬古城宝トン(土へんに敦)遺跡である。測量してみると、この遺跡は長辺1100メートル、短辺600メートル、高さ7〜8メートルの長方形の城壁に守られた巨大都市だった。

 城壁の断面から採取した炭片を放射性炭素による年代測定法で調べてみると、4500年前のものであった。エジプトで古王国が誕生し、インダス川流域に都市国家が出現したのと同じ時期だった。

 1998年からは湖南省の城頭山遺跡の学術調査が開始された。 直径360メートル、高さ最大5メートルのほぼ正円の城壁に囲まれた城塞都市で、周囲は環濠に囲まれていた。城壁の最古の部分は今から約6300年前に築造されたことが判明した。また約6500年前のものと思われる世界最古の水田も発見され、豊作を祈る農耕儀礼の祭壇と見なされる楕円形の土壇も見つかった。

 さらに出土した花粉の分析など、環境考古学的調査を行うと、これらの都市が栄えた時代には、常緑広葉樹の深い森であることがわかった。この点はメソポタミア、エジプト、インダス、 黄河の各文明が乾燥地帯を流れる大河の流域に発生したのとは根本的に異なっていた。


 深い森と豊かな川と青々とした水田と、、、長江文明の民が暮らしていた風景は、城壁さえのぞけば、日本の昔ながらのなしかしい風景とそっくりである。



■3.平等な稲作共同体■


 長江文明が稲作農耕をしていたのに対し、他の四大文明が畑作農耕をしていたというのも、決定的な違いである。小麦や大麦は、極端に言えば、秋口に畑に種をまいておけば、あとはたいした手間をかけずに育っていく。そのような単純労働は奴隷に任され、支配者は都市に住んで、農奴の管理をするという階級分化が進みやすい。都市は交易と消費の中心となり、富と武力を蓄える役割を持つ。

 それに対して稲作は複雑で手間がかかる。苗代をつくってイネを育て、水田に植え替えをする。秋に実るまでに水田の水を管理し、田の草も取らねばならない。高度な技術と熟練を要するので、奴隷に任せてはおけず、共同体の中での助け合いを必要とする。そこでの都市は水をコントロールする灌漑のセンターとして成立し、さらに豊穣を祈る祭祀が行われる場所として発展していく。おそらく祭祀を執り行う者がリーダーとなったであろうが、その下で身分の分化は畑作農耕社会ほどには進まなかったであろう。

■4.太陽と鳥の信仰■


 7600年前の浙江省河姆渡遺跡からは、二羽の鳥が五重の円として描かれた太陽を抱きかかえて飛翔する図柄が彫られた象牙製品が出土した。8000年前の湖南省高廟遺跡からは鳥と太陽が描かれた土器が多数出土している。長江文明においては、太陽と鳥が信仰されていたのである。

 種籾をまき、苗床を作り、田植えを行い、刈り取りをする、という季節の移ろいにあわせて、複雑な農作業をしなければならない稲作農耕民にとって、太陽の運行は時を図る基準であった。同時に太陽はイネを育てる恵みの母でもあった。太陽信仰が生まれたのも当然であろう。

 その聖なる太陽を運んでくれるのが鳥であった。太陽は朝に生まれて、夕方に没し、翌朝に再び蘇る。太陽の永遠の再生と循環を手助けするものこそ鳥なのである。

 太陽信仰と鳥信仰は日本神話でも見られる。まず皇室の祖神である天照大神は日の神、すなわち太陽神そのものであった。 神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったのが天から下された「八咫烏(やたがらす)」という大烏であった。

 景行天皇の皇子で九州の熊襲(くまそ)を征し、東国の蝦夷を鎮定した日本武尊は、帰途、伊勢の能褒野(のぼの)で没したが、死後、八尋白智鳥(やひろしろちどり、大きな白鳥)と化して天のかなたへ飛び去ったという。さらに伊勢神宮、熱田神宮など多くの神社では、「神鶏」が日の出を告げる神の使いとして大切にされている。


■5.鳥と龍との戦い■


 約4200年前に気候の寒冷化・乾燥化が起こり、黄河流域の民が南下して長江流域に押し寄せた。司馬遷の「史記」には、漢民族の最古の王朝・夏の堯(ぎょう)・瞬(しゅん)・禹(う)という三代の王が、中原(黄河流域)から江漢平野(長江と漢水が合流する巨大な湿地帯)に進出し、そこで三苗(さんびょう)と戦い、これを攻略したという記事がある。三苗とは今日の苗族の先祖で、長江文明を担った民であると見られる。

 一方、苗族の伝説にも祖先が黄帝の子孫と戦ったという話がある。黄帝とは漢民族の伝説上の帝王である。苗族の祖先は黄帝の子孫と戦って、敗れ、首をはねられたという。

 長江文明の民が逃げ込んだ雲南省では龍を食べる鳥を守護神とする伝説がある。龍は畑作牧畜の漢民族のシンボルであり、鳥と龍との戦いとは、長江文明と漢民族との争いを暗示していると考えられる。

 これは筆者の想像だが、出雲神話に出てくる八岐大蛇(やまたのおろち)も龍なのかもしれない。この頭が8つに分かれた大蛇を天照大神の弟・戔嗚尊(すさのおのみこと)が退治して、人身御供となりかけていた稲田姫(くしなだひめ)を救い、二人は結ばれる、という物語である。大蛇の体内から出てきた天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、後に皇位を象徴する三種の神器の一つとなった。八岐大蛇はこの世の悪の象徴であり、草薙剣はその悪と戦う勇気を表しているとされている。


■6.収奪と侵略の黄河文明に対抗できなかった長江文明■


 馬に乗り、青銅の武器を持って南下してきた畑作牧畜の民にとって、長江文明の民は敵ではなかった。彼らは精巧な玉器を作る高度な技術は持っていたが、金属製の武器は持っていなかったからである。

 金属器は農耕でも使われたが、それ以上に人を殺す武器として発展した。長江文明より遅れて誕生した黄河文明は、金属器を使い始めてから急速に勢力を広げていった。畑作牧畜で階級分化した社会では、支配者階級が金属器による武力をもって下層階級を支配し、また近隣地域を侵略して支配を広げていく。

収奪と侵略の中で、金属器を作る技術はさらに急速に発展し普及したのであろう。また階級分化した社会であれば、大量の奴隷を兵力として動員する事も容易であったろう。

 それに対し、長江の稲作漁撈民は自然の恵みの中で争いを好まない文明を築いていた。インダス文明がまだ細石器を用いていた頃、彼らはすでに精巧な玉器を作る技術を持っていた。しかし平和で豊かな社会の中では、金属器の必要性はあまり感じなかったようだ。また平等な社会では、共同体の中から一時に大量の戦闘員を動員する事にも慣れていなかったと思われる。

 収奪と侵略に長けた北方の民が、馬と金属製武器をもって現れた時、長江の民はとうてい敵し得なかった。平和に慣れた文明が、武力を誇る北方の蛮族に敗れるという図式は、ローマ帝国対ゲルマン民族、さらには後の中華帝国対蒙古・満洲族との戦いにも共通して見られた現象である。


■7.苗族、台湾の先住民、そして弥生時代の日本■


 漢民族の南下によって長江の民は次第に雲南省などの奥地に追いつめられていった。その子孫と見られる苗族は今では中国の少数民族となっているが、その村を訪れると高床式の倉庫が立ち並び、まるで日本の弥生時代にタイムスリップしたような風景だという。倉庫に上がる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じである。かつての水田耕作を山岳地でも続けるために、急勾配の山地に棚田を作っているのも、日本と同様である。

 苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されていた。味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、漆や絹を利用する。主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われている。

 また明治時代に東アジアの人類学調査で先駆的な業績を残した鳥居竜蔵は、実地調査から台湾の先住民族・生番族と雲南省の苗族が同じ祖先を持つ同根の民族であるという仮説を発表している。

 長江文明の民が漢民族に圧迫されて、上流域の民は雲南省などの山岳地帯に逃れて苗族となり、下流域に住む一族は海を渡って台湾や日本に逃れた、とすれば、これらの人類学的発見はすべて合理的に説明しうるのである。


■8.日本列島へ■


 日本書紀では、天照大神の孫にあたる天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は高天原から南九州の高千穂峰に降臨され、そこから住み良い土地を求めて、鹿児島・薩摩半島先端の笠狭崎(かささのみさき)に移り、この地に住んでいた木花之開耶姫(このはなのさくやびめ)を后とする。

 天孫降臨の場所がなぜ日本列島の辺境の南九州であるのか、この質問に真剣に答えようとした研究者は少なかった。どうせ架空の神話だと一蹴されてきたからである。しかしどうにでも創作しうる架空の神話なら、たとえば富士山にでも降臨したとすれば、皇室の権威をもっと高めることができたろう。

 笠狭崎は中国から海を渡って日本列島にやってくる時に漂着する場所として知られている。天平勝宝5(753)年に鑑真が長江を下って、沖縄を経て漂着したのは、笠沙から車で15分ほどの距離にある坊津町秋目浦であった。

 漢民族に追われた長江下流の民の一部は、船で大洋に乗り出し、黒潮に乗って日本列島の最南端、笠狭崎に漂着したのであろう。そこで日本の先住民と宥和した平和な生活を始めた。その笠狭崎の地の記憶は、日本書紀が編纂された時まで強く残っていたのであろう。

 鳥取県の角田遺跡は弥生時代中期のものであるが、羽根飾りをつけた数人の漕ぎ手が乗り込んだ船の絵を描いた土器が出土している。それとそっくりの絵が描かれた青銅器が、同時代の雲南省の遺跡から出土している。さらに弥生時代後期の岐阜県荒尾南遺跡から出土した土器には、百人近い人が乗れる大きな船が描かれている。長江で育った民は、すでに高度な造船と航海の技術を駆使して、日本近海まで渡来していたのであろう。

瓊瓊杵尊の曾孫にあたる神武天皇も、船団を組んで瀬戸内海を渡り、浪速国に上陸されたのである。


■9.幸福なる邂逅■


 当時の日本列島には縄文文明が栄えていた。たとえば青森県の三内丸山遺跡は約5500年前から1500年間栄えた巨大集落跡で、高さ10m以上、長さ最大32mもの巨大木造建築が整然と並び、近くには人工的に栽培されたクリ林が生い茂り、また新潟から日本海を越えて取り寄せたヒスイに穴をあけて、首飾りを作っていた。


 日本の縄文の民は森と海から食物を得て、自然との共生を大切にする文明を持っていた。そこにやってきた長江の民も、稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であった。両者ともに自然との共生を原則とする「再生と循環の文明」であった。

 この両者の出会いは「幸福な邂逅」と言うべきだろう。瓊瓊杵尊が木花之開耶姫を后とされたという事がそれを象徴している。神武天皇が九州から大和の地に移られた時も部族単位の抵抗こそあったが、漢族と苗族の間にあったような異民族間の血で血を洗う抗争という様相は見られない。


 人々がみな幸せに仲良くくらせるようにつとめましょう。天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか。なんと、楽しくうれしいことだろうか。


 神武天皇が即位された時のみことのりである。この平和な宣言こそ、わが国の国家として始まりであった。わが国は縄文文明と長江文明という二つの「再生と循環の文明」の「幸福な邂逅」から生まれたと言えるかもしれない。

 以上は長江文明の発見から生まれた壮大な仮説であり、なお考古学的、人類学的な立証が進められつつある。かつて古代ギリシャの詩人ホメロスの叙事詩に出てくるトロイアの都は伝説上の存在と考えられていたが、子供の時からその実在を信じていたシュリーマンによって遺跡が発掘され、高度な文明をもって実在したことが証明された。長江文明に関する研究が進展して、日本神話の真実性を立証する日も近いかもしれない。(文責:伊勢雅臣)

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog304.html

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