http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html
(回答先: NEW「大化の改新」近代史の盲点。 投稿者 manase8775 日時 2011 年 9 月 22 日 18:56:44)
弥生人の特徴は、縄文人と比較すると、顔立ちは、面長で、眼窩は鼻の付け根が扁平で上下に長く丸みを帯びていて、のっぺりとしている。また、平均身長も162〜163センチぐらいで、縄文人よりも数センチ高い。これらの人骨資料のほとんどは、北部九州・山口・島根県の日本海沿岸にかけての遺跡から発掘されたものである。
近年、福岡県糸島半島の新町遺跡で大陸墓制である支石墓から発見された人骨は縄文的習俗である抜歯が施されていた。長崎県大友遺跡の支石墓群から多くの縄文的な人骨が発見されている。さらに瀬戸内地方の神戸市新方遺跡からの人骨も縄文的形質を備えているという。ただ、福岡市の雀居(ささい)遺跡や奈良盆地の唐古・鍵遺跡の前期弥生人は、渡来系の人骨だと判定されている。
つまり、最初に渡来人が来たと考えられている北部九州や大陸系渡来人が移住した可能性のある瀬戸内・近畿地方でさえ、弥生時代初期の遺跡からは渡来系の人と判定される人骨の出土数は少ない。 水田稲作の先進地帯でも、渡来系の人々ではなく、縄文人が水稲耕作を行ったのではないか。絶対多数の縄文人と少数の大陸系渡来人との協同のうちに農耕社会へと移行したと考えられる。
鈴木尚は、縄文時代から現代までの南関東の人骨を比較研究して、縄文人から弥生人への体質変化を生活環境の変化と考えた。狩猟・漁労生活から農耕生活へと生活環境を一変させた変革こそ形質を変えることになったと理解した。しかし、南関東の人骨比較のみによって、日本全体へ広げて当てはめて理解しようとすることには疑問が残る。
一方、金関丈夫は、西日本の弥生人骨の研究から、縄文人とは違った人間が大陸からやってきて、縄文人と混血して弥生人になったと考えている。この想定は、山口県土井ヶ浜遺跡、福岡平野の前・中期の弥生人骨の研究から導かれた。
混血が起きた地域を西日本と限定し、東日本では、鈴木尚がいうように在来の縄文人が弥生人になったと考えている。福岡平野・佐賀平野などの北九州の一部で、縄文人が渡来人と混血した結果弥生文化を形成して東に進み、混血しながら名古屋と丹後半島とを結ぶ線まで進み、水稲耕作が定着した。そして、西北九州・東日本では、縄文人が弥生人を受け入れたと考えている。 両説対立するというよりも両説両立するといえる。金関の成果を受け継いで前進させている永井昌文は、混血の可能性が大きいと考えている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3
もし、弥生人が稲作を日本列島に持ち込んだ民族(従来の歴史ではそのようにしてある)であるとするのなら、弥生人の故郷は、朝鮮半島ではなく、中国の南部であるという。
これは最近の科学的ミトコンドリアDNA鑑定によって、稲および弥生人のDNAが中国南部のそれと一致するからである。
1999年(平成11年)3月23日、中日共同調査団が発表、 「弥生人」の起源は江南地方か
共同通信によると、日本に稲作を伝えたとされる渡来系弥生人の人骨と、長江
(揚子江)下流域の江蘇省で発掘されたほぼ同時期の人骨の特徴がよく似ており、
DNA分析で配列の一部が一致する個体もあることが、18日までの中日共同調
査団の調査で分かった。
渡来系弥生人は、朝鮮半島や華北地方から来たという説が有力と考えられてい
たが、稲作の起源地とされる長江下流域を含む江南地方からも渡来した可能性が
高くなり、弥生人の起源を探る上で注目されそうだ。
同日、東京で記者会見した日本側山口団長らによると、調査団は1996年か
ら3年計画で、江蘇省で出土した新石器時代から前漢時代(紀元前202−紀元
後3年)にかけての人骨と、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人や縄文人の
人骨を比較した。
その結果、弥生時代の直前に当たる春秋時代(紀元前8―同5世紀)から前漢
時代にかけての江蘇省の人骨と、渡来系弥生人の人骨には、頭や四肢の骨の形に
共通点が多かった。
また日本列島では縄文時代から弥生時代にかけて前歯の一部を抜く風習があっ
たが、江蘇省の人骨二体にも抜歯の跡があった。
江蘇省の人骨三十六体からDNAを抽出し分析した結果、春秋時代の三体でD
NAの塩基配列の一部が弥生人のものと一致したという。
中国側団長の鄒厚本南京博物院考古研究所所長は「弥生人と江南人骨の特徴が
極めて似ていることが分かり、弥生人渡来の江南ルート説に科学的根拠が与えら
れた。今後も多方面から研究を進め、弥生人渡来の実態を解明したい」と話して
いる。
江蘇省ではこれまで春秋戦国時代から前漢時代までの人骨がほとんど出土せず、
渡来系弥生人との関連を探る研究は進んでいなかった。
「文化的にも江南から影響有」という記事も見られる。
吉野ヶ里で発見された絹は、遺伝子分析により前2世紀頃中国江南に飼われていた四眠蚕の絹であることが分かった。当時の中国は蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じており、世界で最初に国外に持ち出された場所が、日本の北部九州であり、考古学的に証明された。
中国江蘇省無錫市の越時代の貴族墓から出土した鐸(共同)右日本の銅鐸(弥生時代)
『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、原始的な磁器の鐸が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。中国側研究者からは「日本の銅鐸は越から伝わった可能性があるのでは」との声が出ている。鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12〜18センチの鐘型。肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。
同博物院などの説明では、黄河流域を中心に中国各地で出土してきた鐸は上部に手で持って鳴らすための細長い柄が付いたものばかり。日本の銅鐸と似たつり手の付いた鐸が、長江(揚子江)下流域の呉(?〜紀元前473)と越(?〜紀元前334)に存在していたことが歴史書にあるが、実際に中国で出土したのは今回がはじめて。楚に滅ぼされた越から日本に逃げた人がいるとされることもあり、日本の銅鐸との関連性を指摘する声が出ている。』2006年3月7日付の朝日新聞
現在の日本文化の特色となっている神社の原初的形態、しめ縄、鳥居なども中国江南の文化・風俗・風習そのものだと言える事が、考古学的に明らかになっている。
そのほか「抜歯、イレズミ」の風俗、そして大社造の高床式の建物など、DNA鑑定とあわせると、弥生人の出自は中国南部といえそうだ。
ただし中国南部とは、地図上でそういうのであって、その民族は中国人(漢民族)ではない。今も残る中国の少数民族と、すでに消えてしまった民族が混血して出来たものであろう。
春秋戦国時代の呉越の時代の中国、東南アジア、東インド諸島まで視野に入れるべきであろう。
http://sawyer.exblog.jp/7178292/
◇弥生人はどこから来たか?そのルーツを中国江南に探る
第1章 弥生人が見えてきた
@なぜいま江南人骨なのか
我々日本人の祖先はどこから来たか?このテーマは、日本古代史に残された大きな課題の一つである。と同時に、日本人(特に渡来系弥生人)のルーツを探ることは、現代日本人が最も関心を持っている浪漫の一つであろう。
なぜなら、この渡来系弥生人が現代日本人の形質に一番大きな影響を与えているといわれており、学問的なテーマでありながら身近な問題であり、今日的意義も大きいからである。
渡来系弥生人とは、中国大陸からイネを運んできた渡来民のことである。そこで、共同調査団としては、イネの故郷と思われる中国・江南地方にターゲットを絞った。しかし、今まで江南地方からは日本の弥生時代に相当期(中国の春秋戦国時代〜前漢時代)の古人骨はまったく出土していなかった。このため江南人骨との対比調査は未知の分野であった。
ところが、昨秋(1998年11月)の第3回訪中調査で3ヵ年にわたる共同調査を終了したが、予期せざる大きな成果をあげることができた。それは中国側の絶大なる協力と南京博物院の精力的な努力によって提供された未研究の江南人骨数体の中に、日本の渡来系弥生人に極めて類似する固体が数多くあることを確認できたのである。
A衝撃的な成果を上がる
南京博物院の調査研究室にずらりと並んだ江南人骨をまず、頭骨、続いて四肢骨と入念な計測作業が続く。この日は計測を始めて3日目であった。
日ごろ、慎重そのものの3人の学者(山口敏・国立科学博物館名誉研究員、中橋孝博・九州大学教授・分部哲秋・長崎大学講師)が「江南人骨の多くは渡来系弥生人にそっくりである」と自信に満ちた言葉で言われた。
「まだサンプル数が少なく、多少の固体変質はあるが……」との注釈は付いたが、「江南に弥生人の原郷があった」という発見は、人類学上も衝撃的な成果であった。
「日本の渡来系弥生人にそっくり」の古人骨を江南地方で発見し、分析研究できたことは、日本はもちろん、中国でも今回が初めての画期的な成果であった。
この成果が1999年3月18日、東京国立博物館で、日中共同調査団(日本側団長=山口敏)からマスコミに正式発表され、各報道機関から全国に詳しく報道されている。 この発見は人類学会だけでなく、考古学・農学などの周辺諸分野の研究者にも反響が大きく、また、国民的な話題と関心を読んだ。
http://www.asukanet.gr.jp/tataki/yayoizin.html
弥生人のルーツは江南か〜江南人骨の計測と観察〜
@渡来系弥生人そっくりの江南人骨
頭骨の計測=中橋孝博・九州大学教授
(a)特徴をどう対比する
「渡来系弥生人」の特徴は、縄文人に比べて「高顔」つまり顔が「面長」であり、しかも平面的な点である。そこで「江南人骨」と対比する場合、まずこれらの点を観察してみると、両者は基本的に共通していることがまず確認できる。
頭骨の顔面には多くの情報が潜んでいる。そこでまず顔面の計測に入る。 顔の高さ、顔の幅、鼻の高さ・幅、眼窩の形・広さなどである。計測の結果,個体差はあるが平均値としては渡来系弥生人に良く似たデータが得られた。
弥生人と縄文人との決定的な差異は、渡来系弥生人の鼻根部、つまり鼻の「つけ根」がぺチャッとしている平坦な点である。これが渡来系弥生人の顔の最大の特徴である。江南人骨との対比調査で一番大事なポイントはここである。
江南人骨も、渡来系弥生人に似て、鼻の「つけ根」が平坦である。また、「鼻骨つけ根と前歯の間の長さ」を計測すると、ほとんどの江南人骨の数値が、北部九州の渡来系弥生人の数値(平均値)である「74ミリ」に非常に近い。縄文人の数値は67〜68ミリである。
これらの数字は渡来系弥生人と江南人の共通性を決定づける、重要なデーターの1部である。多数の数値(平均値)が一致すれば、「よく似ている」と判断を下せるわけである。
(b)中国で弥生タイプ人骨の出現〜変化はすでに春秋時代〜
今回日中共同調査で渡来系弥生人にそっくりの江南人骨の発見も驚ききであったが、実は江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代、紀元前5〜6世紀)から、すでに渡来系弥生人に似た人骨が出土していたことはさらなる驚きであった。
日中共同調査団による5年前(199?年)の調査で、中国の新石器時代人(4000年〜5000年前)は日本の縄文人、弥生人いずれにも似ていないことが明らかになっていたが、今回(199?年)の研究で、紀元前約500年の春秋時代末期に、弥生人タイプの「春秋時代人」がすでに出現していたことが明らかになったのは、予期せぬ大きな発見であった。
中国の新石器人の形質がなぜ変化したのか?この問題には、日中共同調査団の考古学者の中国側メンバーばかりでなく、この調査に協力いただいた日本の考古学者(菅谷文則<滋賀県立大学教授>東アジア考古学専攻)も注目している。
しかも、この春秋時代人骨は骨の形質が渡来系弥生人にそっくりであると同時に歯も渡来系弥生人のように大きく、抜歯風習も弥生時代の形式と一致している。梁王城遺跡の春秋時代の2体(いずれも男性)に見られた「上顎の側切歯を左右対称に抜く」という「抜歯の形式」は、弥生時代に流行していた抜歯の形式とまったく同じものであった。これは今回の重要な発見の一つであり、今後の重要な研究課題であると、中橋教授も注目している。
今後、この梁王城遺跡一帯は渡来系弥生人の起源を探る重要な鍵となるかも知れない。
http://www.asukanet.gr.jp/tataki/yayoizin2.html
A江南人のほうがスマート
四肢骨の計測=分部哲秋・長崎大医学部講師
(a)四肢骨
北部九州の渡来系弥生人は、江南の春秋〜前漢時代人よりも下肢骨が太く、江南人のほうがややスマートであるが、骨幹の横断面形など、共通性は多い。
また縄文人の大腿骨は前方に「彎曲」しているが、江南人、渡来系弥生人ともに「彎曲」は弱く、この点も重要な共通点である。
(b)推定身長
大腿骨の長さから算出した推定身長は、ひ県劉林の新石器時代人(男2例、平均168.2cm)は黄河流域の新石器時代人に似て著しく高身であるが、常州ウトンの新石器時代人(男6例、平均152.6cm)と春秋〜前漢時代人(男9例、平均165.5cm/女5例、平均152.5cm)はやや低く、北部九州弥生時代人の平均(男162.6cm/女151.3cm)に比較的近い値を示している。
B歯は弥生人のほうが大きい
歯の形態と計測=松村博文・国立科学博物館研究官
縄文人に比べて弥生人の歯は大きい。江南人骨の歯も1部の資料(ひ県梁王城、揚州胡場)では、歯の大きさとの比例が渡来系弥生人に著しく似ている例があったが、現状のサンプルの平均値では弥生人に比べて小さいようである。
今回調査できた江南人骨の頭骨には残念ながら歯の保存されている例が少なかったので、今後サンプル数を増やさねば正確な対比はまだ望むべくもないが、ただ前歯の裏側がシャベル型にえぐれている点などは、渡来系弥生人と共通する特徴がある。
C弥生人と春秋人が同じ祖先
DNA解析=篠田謙一・佐賀医大助教授
江南人骨35体の歯の試料から12体のDNAを抽出し、PCR法で増幅することに成功、解析したデータの塩基配列を「近隣結合法」で比較したのが図2の比較グラフ(系統樹)である。
そのグラフを見ると江南人骨(揚州市−胡場、連運港市−網田童庄など)と北部九州の渡来系弥生人骨(福岡県−隈・西小田)との位置関係は、縄文人に比較すると近い距離にあるように見える。
古人骨DNA分析は国際的にも研究がスタートしてまだ5年程度の歴史であり、日本側・中国側のサンプル数が少ないので、篠田助教授はまだ「作業仮説」であると言っているが、今後サンプル数が増加し、もっと深く分析が進めば、なぜ古人骨の間にこのような変化や共通性が生じた理由(例えばヒトの移動による混血とか)が、DNAの解析から結論が出せるかもしれない……と語っていた。
ここで特記すべきことは、前記した梁王城遺跡の春秋時代末期(紀元前5〜6世紀)の江南人骨2体が、すでに渡来系弥生人と共通の塩基配列を持っていたことであろう。
これは梁王城の人と渡来形の弥生人の先祖が共通である可能性をデータが物語っており、今後の大きな研究課題として注目される貴重な発見である。
D山口調査団長に聞く
(a)共同調査対象の江南人骨
新石器時代 22体 ウトン
春秋戦国時代 11体 梁王城10 儀征1
前漢時代 15体 網田童庄5 陶湾1 胡場7 他2
(b)調査成果の要点
(1)未知の江南地方で調査対象の古人骨が始めて発見された。
(2)江南人骨が頭骨、推定身長などの計測の結果でも、渡来系弥生人に「よく似ている」ことを確認できた。しかもDNA解析、抜歯の風習でも「弥生的要素」の類似が始めて発見されたことである。
(3)これも予期せぬことであったが、すでに弥生人タイプの春秋人が春秋時代末期に誕生していた。これは画期的な発見であった。
(c)稲作民の渡来
稲作民は中国大陸のどこからきたのか?その源郷はどこか?これが私たちの調査団の最大の関心事であった。そのためには「イネのふるさと」である江南地方の古人骨の調査に的を絞ってきた。今回稲作の渡来民の源郷を江南で発見し、その宿題を果たし得たことは学問的にも大きな意義があると思う。
さて、その稲作を日本にもたらした渡来ルートにについては、渡来民の源郷の候補地が黄海をとりまく山東、江南、朝鮮半島の地域に絞られてきたので、これからは考古学、農学など関連部門との学際的研究にまつべき時期に来たと思う。
この稲作民がなぜ故郷を離れねばならなかったか?というテーマも興味深い。これも学際的な課題である。
http://www.asukanet.gr.jp/tataki/yayoizin3.html
第3章 前漢墓の遺跡−巨大な木槨〜中国江蘇省の網田童庄〜
昨年(199?年)の秋、訪中した共同調査団は江南人骨が出土した江蘇省連雲港市の海州地区網田童庄(田がヘンで造りが童で,田童で1字です) の前漢墓の発掘跡を訪れた。
この遺跡からは前漢時代の人骨5体(男3体、女2体が出土していた。この遺跡は前漢時代の海州邑の豪商、豪農の広大な墓域であったとのことで、小高い丘陵の山麓にあり、地下深く10メートル掘って埋めていた巨大な「木槨」の中に夫妻の「木棺」2基が納められ、その木棺の中に古人骨は眠っていた。
「魏志倭人伝」に「魏の墓には棺ありて槨なし」と記述されているが、始めてみる巨大な「木槨」には調査団も目を丸くしたものである。
http://www.asukanet.gr.jp/tataki/yayoizin4.html
江蘇省の主な人骨出土遺跡■印
http://www.asukanet.gr.jp/tataki/yayoizin5.html
今の朝鮮半島の住人と、三韓時代の半島の住人は民族学的には全く別の民族です。
韓国(北朝鮮)人の先祖は百済人でも新羅人でもありません。 同じ地域に住んでいるという事だけが共通点です。
弥生人と呼ばれる文化を持つグループは今でいう中国南部からの移民(難民)だと思われます。 三国志の世界の前(前〜後漢)期あたりでしょう。
その後に北方系の民族が半島に文化を咲かせながら 日本列島にやってきます。
勿論、今の朝鮮半島の人たちとの先祖ではない人たちです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1425303274
稲作の起源とその考古学的分析
日本人の渡来ルートを知るために稲作の渡来ルートを考える研究があり、いくつかの説が存在している。
かつて、佐々木高明らによる照葉樹林文化論は、稲作が中国雲南省などの山間部における陸稲を発祥としていると主張していたが、近年、長江文明の全貌が明らかにされるにつれ、稲作は長江下流域の水稲耕作を発祥とする説が有力視されつつある。
従来、稲作は弥生時代に朝鮮半島を南下、もしくは半島南部を経由して来たとされてきたが、2005年、岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲のプラント・オパールが見つかっており、縄文中期には稲作(陸稲)をしていたとする学説が多数出た。
それに加え、
遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと、
朝鮮半島で確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり、畑作米の確認しか取れず、日本より遡れないこと、
極東アジアにおけるジャポニカ種の稲の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部からジャポニカ種の遺伝子の一部が確認されないこと
などの複数の証拠から、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート)による伝来である学説が見直され、日本から朝鮮半島へ伝わった可能性を指摘する佐藤洋一郎の説もある。
一方、これらに対して農学者の池橋宏は、従来の「縄文稲作農耕」説は農学的に見ても疑わしく、日本の稲作は江南を起源とし、北九州に持ち込まれた可能性が高いと主張している[38]。しかしながら、最近の遺伝子解析技術の進歩はめざましく、こういった学説では
日本での水田跡が紀元前まで遡るのに比べて、
朝鮮半島では水田耕作の遺跡が約1500年前くらいまでしか遡れない事実
と符合するものでもある。
現在、炭素14による日本最古の水田稲作遺跡は約2800 - 3000年前とされている。
日本の神典によると、稲の起源は神代の時代で、保食神(伊勢外宮のご祭神・豊宇気姫神)によってその原種が生み成されたとされています。そして天熊人(あまくまのうし)がそれを高天原へ持ち帰ったところ、天照大御神が「この物は、すなはち顕見(うつしき)蒼生(あおひとくさ)の食ひて活(い)くべきものぞ」という神勅を発せられ(「顕見蒼生」とは人類のこと)、人間の主食であることが定め
られました。
その後、高天原で稲を培養する道が開かれ、また品種改良も行われて、天孫降臨の際、邇々芸命(ににぎのみこと)に最上級とされる米種が授けられたことが伝えられています。
わたしが学校で習った頃は、確か「稲作は朝鮮半島から日本に伝わった」という説でしたが、テクノロジーの発達によって様々なことが判明してきますね。
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/230809.htm
縄文の視点からみた台湾と朝鮮 From tokumaru
縄文専門家に台湾と朝鮮の話を伺いました。短いですが、ご参考まで
1台湾は旧石器時代から、スンダ文明圏にありました。台湾はスンダ原住民の国です。海底には神殿遺跡があります。三百年前大陸から中華大陸から三百人ほどわたってきて、さんざ悪さをしました。そして将介石が台湾に逃げてきて占領しました。独立派はいれなくなりした(今は大丈夫になりました)。
また、台湾では縄文土器が発掘されていることです。是非、原住民資料展示館、及び考古博物館に足を運び館の人と話すとよいです。
2ソウルの韓国国立博物館にも縄文土器が展示してますよ。九州の縄文土器と同じだとちゃんと解説してあります。また、ピョンヤンの国立博物館にも7千年前の縄文土器が展示されていた。
朝鮮半島も縄文文化圏だったのです。
台湾の博物館で特別に発掘土器を見せて貰ったのですが、日本語を話す館長は、それら土器を縄文土器と言っていました。沖縄では縄文土器がないとされていたのですが、空港工事で縄文土器がでてきたので、歴史年表が書き換えられています。
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/220813.htm
■チョーセン人・カンコク人が認めたくない歴史的事実の例
・弥生人が長江流域から稲作とともにやってきた百越系民族であること(稲のDNAによる証明)
・半島南部の先住民が倭人(日本人)(弥生人=百越系民族)であること(半島南部考古学的遺物=九州北部遺物)
・新羅の建国時の宰相(瓢公)が倭人(日本人)であり、王家の一つ昔氏が倭人系統であること、また始祖の朴赫居世についても倭人(日本人)説があること(瓢=ひさご・ひょうたん=朴=半島南部古語)
・百済、新羅が日本の大和朝廷に対し従属的地位にあったこと
・大和朝廷(日本)による伽耶地域の支配(半島南部における多数の前方後円墳の存在)
・半島における文化的独自性の欠落(あらゆる分野での古典の不在)→事実のねつ造,文化の掠奪
・常に日本、中国、モンゴルなどの属国として歩んできた歴史
・姓が漢族のものであること
・朝鮮征伐が日本と明との戦争であったこと(李朝の軍は明の将の指揮下に入り、和平交渉も日本と明の間で行われている)
・朝鮮通信使が実質的に日本への朝貢使節であったこと(琉球の江戸上りと同じ)
・李成桂が女真人=満州人であること
・固有語の語彙が乏しく、また日本のように字訓という制度的保証がない状態ですでに語彙のおよそ7割が日本漢語であること(学術的語彙は9割が日本漢語
http://shadow-city.blogzine.jp/net/2011/02/post_6c46.html#more
■中国の史料『東夷伝』の記述
「新羅も百済も日本を大国として敬い、仰ぎ、通商していた」
■中国の史料『三国志』の記述
「朝鮮半島南部は倭人が支配していた」
■高句麗の史料『広開土王碑』の記述
「日本が新羅と百済を属国にした」
※韓国人が石碑の改竄を主張するが、昔の拓本が2枚、中国で見つかり、中国人学者に否定される
■日本の史料『日本書紀』の記述
「新羅と百済は日本の属国」
「渡来」は飛鳥時代にも奈良時代にも続いている。大移動は無くなったが、始祖の地からの文化・血脈の移入は続行していたのである。
大和朝廷における「渡来人」は、そのもたらした価値故に高い身分につき、絶えず政(まつりごと)の中心にいた。やがて血脈の移動は途絶えるが、見方によっては「渡来人」達が今日の日本を造ったとも言える。
『日本書紀』には百済の歴史書が多く引用され(『百済記』『百済新撰』などが引用されているが遺失した歴史書である)、百済から輸入された文物は多い。
有名な文化財には、軍事的援助の礼として、中国より伝来したとの説もあるが、百済から倭に送られた奈良県の石上神宮に伝わる七支刀がある。
百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む百済人が倭国に亡命し一部が朝廷に仕えた。豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った。百済王氏は8世紀に敬福(きょうふく)が陸奥守として黄金を発見し東大寺大仏造立に貢献するなど日本の貴族として活躍した。大阪府枚方市の百済王神社は百済王氏の氏神を祭る神社である。
この他にも、5世紀に渡来した昆伎王を祀る延喜式内社飛鳥戸神社など百済にまつわる延喜式内社がある。また、奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔が残る。
また、兵庫県神戸市には扶余系にちなんで唐柩の地名が残る。なお百済王氏ではないが、光仁天皇の妻の一人であり、桓武天皇の生母である高野新笠は百済武寧王を遠祖とする渡来人和氏の出身という記述が『続日本紀』にあるものの、実際に武寧王の子孫であったかどうかは朝鮮側の資料から見ても不明瞭であるため疑問視する学説もある(詳細は高野新笠の項目を参照)。
そもそも、百済は唐・新羅連合軍によって、完全に断絶させられており、今の韓国人とは関係のない国家とする見方もある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88
大和政権の発展のために働いた渡来人(渡来人研究会)
秦氏・・・秦の始皇帝の末裔を自称していたと伝えられる。
蘇我氏の元で、諸外国の技術・知識を調べ出すことを、当時の政権のため、あるいは氏族自身の朝廷での優位性をたもつために、熱心におこなっていただろうことが想像される。
蘇我氏の仏教導入のための造寺、儀式導入など。
養蚕から絹織物との関わりも考える説もある。
大蔵・内蔵官人職との関わりが強く、文筆業・算術などにも長けていたものとおもわれる。
長岡・平安遷都には、山城に拠点をもった秦氏とその土木技術が大きく影響を及ぼしている。
東漢氏・・・韓半島でもカヤ地域から河内に渡来してきた氏族。
漢帝国に属した帯方郡から渡来したという伝承に由来して「漢」と称することとなったと考えられている。
伝承面では東漢氏の渡来伝承には、神牛の導きに従い、中国漢末の戦乱から逃れ、朝鮮に渡ったこと、皆才芸に優れ重宝されたこと、さらに聖王が日本におり、このままでは滅ぼされてしまうとして、渡来してきたと伝えられている。
蘇我氏の兵士として奉仕していたが、壬申の乱では、蘇我氏を見捨てることもあった。
その後天武天皇にそれら推古天皇以来の武力の技をとがめられている。
西漢氏・・・物部氏と結びつきが深かったとの説がある。東漢氏に準ずる形で組織が成立していったらしい。
文氏・・・王仁の後裔氏族。文筆業を主としたことから、その呼称・氏族名が生じたものと考えられている。
今来漢人・・・遅れて渡来した漢人。外交関係に従事。
陸系先進技術を通して、王権に奉仕していったものと考えられている。
奈良時代にはその一部は雑戸・品部として、官営工房などに配属されたようだ。
吉士集団・・・6世紀ごろに渡来した新羅系の渡来人集団。
7世紀以降の渡来人・・・百済・高句麗が滅んだときに亡命してきた、百済王氏・高麗王氏らの亡命渡来人や、朝鮮三国の官職をもって渡来した氏族とその子孫、唐から遣唐使などを通して渡来した唐人などがある。
また、7世紀ころになるとペルシアやインド方面からの渡来人も記録されている。
これらの渡来人は、当時最先端の大陸系の知識・文化を身につけていたことから、時に重宝されることがあったものと考えられている。
http://tott.blog68.fc2.com/blog-entry-99.html
一般には、日本では神代(かみよ)の昔から、方言はあるものの、すべての人が同じ言語を話していたということになっています。日本書紀も古事記もそういう前提で話が進んでいるので、疑う人も問題にする人もいません。
しかし、歴史学者の岡田英弘氏は、日本にも実際は多くの言語があり、しかも、その人たちは、他の言語をしゃべる人たちとは商売以外の交流はほとんどなかっただろうと述べています。
引用開始
それでは、668年に天智天皇が日本を建国する前、7世紀後半の韓半島の人口構成はどうだったでしょうか。
636年に唐が編纂した『隋書』の「東夷列伝」によると
百済の国人は、新羅人・高句麗人・倭人の混合であり、また中国人もいる。
新羅の国人も中国人・高句麗人・百済人の混合である、
と書いています。この記事では百済には倭人がいるのに新羅には倭人がいないのが目立ちます。これは新羅が、倭から百済をへて南朝にいたる貿易ルートを外れているのが原因だと思います。
それでは日本列島ではどうだったか。ここで、同じ『隋書』に伝えられる、609年に隋使・裴世清が立ち寄った秦王国のことを思い出していただきたい。
博多の竹斯のすぐ次が秦王国であり、しかもその先十余国をえてから倭国の難波の津に到着することから考えれば、秦王国は瀬戸内海の西部沿岸の下関付近だろうと思いますが、そこに中国人だけの秦王国という国が実際にあったことは、疑う余地がありません。そうして見ると、韓半島だけでなく、日本列島も人口構成は似たようなもので、倭人以外の種族が混じって住んでいたことになります。
(『日本史の誕生』より引用)
引用終了
つまり600年頃、倭には中国人(秦人と漢人)・新羅人・高句麗人・倭人がいたことになります。彼らの何が違うのかといえば、風習もありますが、主に言語です。ちょっと長いですが、『倭国の時代』から引用します。
引用開始
たびたび説明したように、漢人・百済人の言語は楽浪群・帯方郡で土着化した中国人と中国化したわい人・朝鮮人・真番郡の土着民とかが使った河北・山東方言系の中国語の基礎の上に、後漢・魏・晋の河南方言と南朝の南京方言と、475年の百済の南下によって中国化した馬韓人の言語との影響が加わって出来た言語であり、倭国の首都の難波から河内・大和にかけて話されていた。
秦人・新羅人の言語は、それよりも古く倭国に入ったもので、辰韓・弁韓の都市国家郡を建設した華僑が話した前漢の陝西方言系の中国語を基礎とし、それに辰韓人・弁韓人の土語の影響が加わったものであったが、大和・河内では新しく侵入した漢人・百済人の言語に圧倒されて影が薄くなり、奥地の山城・近江を中心として話されていた。
倭人の言語は3つの中では一番古いが、畿内の諸国では、平野部に入植して来た帰化人の言語の影響で語彙も文法もひどく変わってしまっていた。
以上の3つの言語はそれぞれ話される場がちがう。それぞれの言語を話す人々は、別々の社会を構成していて、コミュニケーションの必要があれば、ブロークンな中国語と倭語をちゃんぽんに使って、やっと用を弁じたのである。
(『倭国の時代』から引用)
引用終了
主に分ければ、倭には3種類の言語、つまり漢人(あやびと)・百済人の言語、秦人(はたびと)・新羅人の言語、倭人の言語があったわけです。そして彼らは「別々の社会を構成していて、コミュニケーションの必要があれば、ブロークンな中国語と倭語をちゃんぽんに使って、やっと用を弁じ」ていました。
さて、これらは違う言語ですが、特にちがうのが発音あるいは発声です。これは現代の我々の漢字の読み方にも残っています。
例えば「行」という漢字。これは「ぎょう」とも「こう」とも「あん」とも読めます。「ぎょう」を呉音、「こう」を漢音(かんおん)、「あん」を唐音(とうおん・とういん)といいます。また、他にも、呉音が入る前の古い読み方である古音というのもあります。
例えば「妙法蓮華経」は、呉音では「みょうほうれんげきょう」ですが、漢音では「びょうほうれんがけい」になります。唐音では「びょうはれんがきん」だそうです。
呉音は、名前からいってどうやら南方系の発音のようですから、先ほどの百済人・漢人の系統の言語でしょう。
一方、長安などの唐の中国語の発音が漢音です。また漢音の発音、発声、読み方を含めて切韻(せついん)といいます。後で述べるように新羅人・秦人の言語はこれに近いようです。
ちなみに唐音というは、名前と違って、もっと新しい発音で、明から清の頃の発音をいうそうです。
日本には、この切韻の発音をするための「音博士」という制度がありました。どうやら、当時、日本では呉音の発音が主流であり、漢音は特別な人しか使えなかったようです。
なぜ、最澄(伝教大師)は長安にいけなかったのか?
最澄は804年に中国に渡っています。同じ年に空海も渡っています。空海は長安、今の西安(シーアン)にまで行っています。1年半ぐらいしか行っていません。
それに対して、最澄に至っては1年も行ってないのではないかと思います。最澄はどこへ行ったかというと、天台寺から行っています。日本の留学僧が必ず渡ったところは寧波(ニンポウ、ネイハ)という町で、上海からずっと南のほうへ行って、かなり大きな湾がある杭州(こうしゅう)の側(そば)です。中国人はみんな白酒という強い酒を飲みますが、日本人は紹興酒(しょうこうしゅ)が大好きです。その紹興という町に近いと思いますが、この寧波という町に日本人の留学生は何があろうがたどり着くわけです。
そこよりさらに南のところに天台山というのがあって、ここが天台宗の総本山です。そこから、お経やら戒律やらをもらってきたわけで、大したことはありません。本当は長安まで行かなければなりませんでした。
なぜ、最澄は長安に行かなかった、あるいは行けなかったのでしょうか?
その答えは、当時の唐の標準の発音である、いわゆる「切韻(せついん)」が彼はできなかったからというのが、私の考えです。
実は、最澄の母親は漢人(あやびと)です。上記で言えば、百済・漢人系の呉音の発音をしていた人たちです。ですから、基本的に中国南東部のことばしか理解せず、また切韻もできなかったということになります。
通訳(義真という人)がいたというから、切韻ができる人間をつれていったのだと思います。
「いや、そんなこと言っても、中国に行けば、発音を覚えてなんとかなるでしょう」と思う方もおられるとおもいます。そこで、空海といっしょに西安に修行にいった橘逸勢(たちばなのはやなり)という人の文章があるので引用しておきます。
引用開始
空海と対照的なのが、入唐も帰国の一緒だった逸勢である。空海は唐で逸勢の代筆をした。
中国とわが国では言葉が違っています。私逸勢はまだ中国の言葉が不自由で、学校で勉学に励むことができません、仕方がないので、以前学んだものを復習しています。また、琴や書を学んでいます。
(『古代日本人と外国語』から引用)
引用終了
「私逸勢はまだ中国の言葉が不自由で、学校で勉学に励むことができません」と正直に書いています。したがって、長安に行っても中国語(ここでは切韻)がわからなければ、「以前学んだものを復習する」しかないわけです。
いずれにしても、空海といっしょに長安に行った逸勢の手紙は、長安に行かなかった最澄の選択が正しかったことを如実に物語ってくれています。
さて、それでは、なぜ一方の空海は切韻ができたのか?という話になります。
さきほど、倭では3種類の言語に分けられるという話をしましたが、この中で、特に重要なのが、秦人が話していた言語です。609年に隋使・裴世清が立ち寄った秦王国では、「その人華夏と同じ」であったと述べています。この華夏というのは「華(はな)のような中国の中心部」という意味で、当時の長安と同じということです。
つまり、倭にいた人の中でも、秦人であれば切韻をなんとか理解できたことになります。ただし、668年の日本誕生以来、秦人・新羅人は必死に日本人として同化していったそうですから、800年のころに話せた人は、そうたくさんはいなかったでしょう。
そして日本人で長安に留学して活躍できた僧や留学生は、この秦人の系統の人たちだと思います。例えば、弘法大師の出身は多度津というところの近くですが、この多度津も明らかに秦人の町です。また吉備真備(きびのまきび)は吉備下道の人です。この下道の古い人は吉備上道と呼ばれていますが、彼らは秦人であったということがわかっています。
この秦人は、今では秦氏とよばれ、なにかあやしい民族のように思われています。しかし、言語が当時の中国の中心部と同じだったのだから、彼らこそが、隋・唐からの最先端の土木・工芸・医療技術の担い手だったのでしょう。今の日本で、英語ができると最新の社会科学が学べるのと全く同じです。
http://www.snsi.jp/bbs/page/1/
現在日本語と朝鮮語は、文法構造がよく似ており、発音構造の一部にも共通点がある。そのため、双方ともツングース諸語・モンゴル諸語・チュルク諸語を含むアルタイ語族に含まれるという見方がある。しかし研究者の見解が一致したわけではない。また、日本語と朝鮮語の近縁関係も、証明されたわけではない。
中国語(実質的には別言語と見なせる諸方言)は、シナ・チベット語族に分類され、日本語や韓国語とは別系統。シナ・チベット語族に含まれる言語は、中国語、チベット語、ビルマ語など。
ただし、「中国語は、(上古において)それぞれ別の言語を話していた商人が中原地帯で取り引きを行う片言(かたこと)から生まれた人工的な言語。しかも、漢末期からの混乱期に、本来の漢族は実質的に絶滅。その後の歴史で、大量に流入した北方民族が改めて中国語を形成した。つまり、古代中国語と現代中国語には断絶がある。
古くから続く漢文(文章中国語)は本来、片言を記録するための記号列であり、そのため品詞の区別や時制など文法の本質的要件を備えていない。当初から言語(話し言葉)とは別の、通信・記録の手段。現代中国語の古語ではない」(歴史学者の岡田英弘氏)との説もある。
継体天皇は、先代の武烈天皇が崩御した後、越前にいた応神天皇五世の子孫を迎えたとされる。出自に不明な点も多く、日本でも戦後になり「新王朝の始祖」とする説が発表された。(編集担当:如月隼人)
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0723&f=national_0723_034.shtml
ブレイスのアイヌ−サムライ説
1989年に、ミシガン大のローリング・ブレイス教授らは「Reflections on the Face of Japan」という論文をAmerican Journal of Physical Anthropologyに発表した。この論文で、ブレイスらは、鎌倉の材木座・極楽寺付近から出土した1333年の鎌倉攻めの犠牲者人骨の歯のサイズと頭蓋骨計測データを用いて、鎌倉武士はアイヌと近縁であるという説を唱え、アメリカで注目を集めた。
鎌倉・由比が浜で見つかった、多数の関東武士の頭骨を調べたら、長頭で彫りが深かった。
ブレイス博士の武士=縄文系の視点はなかなか興味深いものです。
鎌倉時代に由比ガ浜だったですか、大量の関東武士の骨が出てきて学者が調べると、現代日本人と頭骨が著しく異なることがわかりました。 つまり、現代人が中頭〜短頭なのに、これらの武士は長頭だったのです。 いままで、日本人の小進化だと思ってましたが、これが縄文系だとすると合点がいきます。
武士道とは弓馬の道で、弓の技術が尊ばれ、刀が武士の命となったのは、江戸時代
でした。弓といえばアイヌが弓の名手として有名です。
幕末から明治にかけて来日した欧米人が日本人には2種類の人々がいて、武士階級
は名誉を重んじ、威風堂々として礼儀正しい人々だと書き残している。
また、一般の人々とは容姿も異なり、武士は背が高く、中高の精悍な顔をしている
と言っている。 絵巻物を見ても騎馬武者と兵卒では容姿が異なっている。
縄文人が、実は武士団に血統を色濃く残していたと考えると、ブレイス博士の言ってることは、新鮮で興味深い。
何時だったか鎌倉時代の人骨が鎌倉から大量に掘り出されたが、ほとんど縄文人と区別つかなかったそうだ。 つまり、14世紀になっても関東の大部分は、まだ縄文人の系統が、マジョリティーだった。
関東の武士団は、土着の地方豪族たちで、土着の地方豪族たちは、土着の農民たちを兵としていたから、関東武士の骨が、縄文人の骨と区別が、つきがたいほど似ていた、ということは彼らが居住していたであろう関東は、14世紀になっても縄文人系が多かった。
関東人は長頭、朝鮮人は短頭。
とくに鎌倉から発見された頭骨900体あまりは白人並に長頭。
鎌倉市材木座の八幡宮参道沿いで、一の鳥居のすぐ東隣から、鎌倉時代の関東武士と推定される人骨が、1953年から1956年にわたる三回の発掘によって、少なくとも910体も発見された。
しかし、北部九州や畿内や山陰の古墳に埋葬されてる骨の多くは、短頭から中頭。
それは何故か解るだろ?
朝鮮半島や中国からの渡来人だからさ。
http://logsoku.com/thread/academy4.2ch.net/history/1149868119/
日本人は「本土型」と「琉球型」・・・遺伝解析で明らかに
日本人は、遺伝的に「本土型」と「琉球型」に大別できることが、理化学研究所が約7000人を対象にした遺伝解析で明らかになった。日本人の起源を知る手がかりになるもので、26日の米科学誌(電子版)に掲載される。
理研の鎌谷直之チームリーダーらが、全国の病院から患者の遺伝情報データを収集。14万か所のDNAの個人差(SNP)を手がかりに分類したところ、「本土型」「琉球型」の大きく二つのグループに分けられた。
両者を分ける最も大きな違いは「髪の毛の太さ」と「耳あかのタイプ」に関係するSNPで、
「本土型」の方が髪の毛が硬く、乾いた耳あかができる傾向にあった。
「本土型」の方が、中国人と遺伝的により近かった。
http://scienceplus2ch.blog108.fc2.com/blog-entry-285.html
今回の研究では、国際ハップマッププロジェクト※6の4つの集団(西・北欧系ユタ州住民60人、ナイジェリアのヨルバ族60人、東京在住の日本人45人、北京在住の中国人漢民族45人の合計210人)のSNPのデータに加えて、バイオバンクジャパン※7の日本人7,003人の、常染色体※8上にある1人あたり140,387個所のSNPを解析に用いました。この日本人7,003人は、心筋梗塞、糖尿病、関節リウマチなど35種類の疾患のいずれかの患者であり(バイオバンクジャパンでは47種類の対象疾患があります)、病院の所在地により、7つの地域(北海道、東北、関東甲信越、東海北陸、近畿、九州、沖縄)にグループ分けされています。
研究チームは、これらの人々からの常染色体上のSNPの遺伝子型データを用いて、主成分分析を基礎にした解析手法により、個人間の遺伝子型の相関を基に個人間の近縁関係を解析しました(図2)。まず、欧米人、アフリカ人を含んだ解析により、日本人7,003人のほぼ全員が東アジア人のグループに属することを確かめました。
次に、この内の7,001人を中国人45人のサンプルと共に解析した結果、7,001人は本土クラスターと琉球クラスターの2つの主なクラスターに大別されることがわかりました(図3)。
つまり、前者には本土の6つの地域で採血された大部分の人が含まれ、後者には沖縄で採血された人の大部分が含まれていました。本土クラスターと琉球クラスターの遺伝的分化の程度は非常に小さく、そのためSNPの頻度の違いは大部分についてはわずかでしたが、約14万個所という数多くのSNPを用いたために、2つのクラスターを観察できたと考えられます。さらに、本土の中でも遺伝的な地域差があることが明確にわかりました(図4)。今回の結果は、従来から提唱されている日本人集団の「ニ重構造」説と矛盾しないものです。
本土クラスターと琉球クラスターの違いが、どのSNPでもっとも顕著であるかを調べたところ、6番染色体のHLA領域※9に見つかりました。また、アミノ酸を変化させるSNPの頻度の違いを比較したところ、髪の毛の太さと関連のあるEDAR遺伝子※10のSNP、耳垢のタイプと関連のあるABCC11遺伝子※11のSNPの頻度がもっとも大きい違いを示しました。
さらに研究グループは、日本人の集団構造が疾患関連遺伝子探索のケース・コントロール解析にどの程度影響するかを調べるために、2つのクラスターや地域を分集団として、個人をランダムにサンプル抽出し、シミュレーションを行いました。その一つとして、本土クラスターのケース集団(200人)とコントロール集団(200人)を基に、ケース集団における琉球クラスターからの人の割合を増やしていき、ゲノム全体のSNPの遺伝子型頻度の違いの統計量がどのように増大するかを調べました。その結果、ケース集団における琉球クラスターからの人の割合が23%になると、偽陽性の結果を得る率の増大が無視できなくなることを明らかにしました。この結果は、ケース・コントロール解析では、患者の住む地域や遺伝的背景を考慮した解析デザインが必要であることを示しています。
渡来した弥生人は男性中心で、先住の縄文人女性との間に、日本列島で子孫を残した
母親から子供にそのまま受け継がれる遺伝子「ミトコンドリア(mt)DNA」の型の分布から、母方のルーツが「縄文系」の人と「弥生(渡来)系」の人の構成比を求める計算式を、住斉(すみ・ひとし)・筑波大名誉教授(生物物理学)が考案したというニュースを見つけた。7地域、約3000人を対象にしたデータによると、日本全国から人を集める首都圏では弥生系が約7割と多数派を占めていて、東北や南九州などかつて遠い昔に縄文社会が発達した地域では、縄文系が7〜6割と多かったと記事に書かれている。つまり父親は動いたけれど、母親は動いていないと言うことだね。「女たちのスピリットが大地に残っているかぎり、(先住民の)国は滅ぼされない」というネイティブ・アメリカンの言い伝えを思い出した。日本列島にも先住民の国が依然として影のごとく残されているのだ。
各地域集団の計算結果は表の通り。日本人の平均的集団と考えられる首都圏の弥生人の比率(71%)で、別の調査の歯の形態から割り出された現代関東人での弥生系の比率(75%)とほぼ同じだった。
逆に、縄文系の比率が高かったのが東北や南九州で、三内丸山(青森県)や上野原(鹿児島県)などの大規模遺跡に象徴される縄文社会の発達を改めて裏付けた。のちの時代、大和王権(朝廷)に抵抗した東北と南九州も縄文的な容姿や文化を色濃く持っていたとされているが、今回の調査でその遺伝子が現代まで濃厚に残っていることが裏付けられた。現代人にも縄文系の特徴が色濃く残るとされる沖縄は、遺伝子解析でも縄文系の割合が最高だった。
縄文系が約半数だった北九州は、弥生人流入の中心地の一つだけに意外な数字だが、母方のルーツでみた数字であり、「渡来した弥生人は男性中心で、先住の縄文人女性との間に子孫を残した」と考える説と矛盾しない。
各地域集団の計算結果は表の通り。日本人の平均的集団と考えられる首都圏の弥生人の比率(71%)で、別の調査の歯の形態から割り出された現代関東人での弥生系の比率(75%)とほぼ同じだった。
逆に、縄文系の比率が高かったのが東北や南九州で、三内丸山(青森県)や上野原(鹿児島県)などの大規模遺跡に象徴される縄文社会の発達を改めて裏付けた。のちの時代、大和王権(朝廷)に抵抗した東北と南九州も縄文的な容姿や文化を色濃く持っていたとされているが、今回の調査でその遺伝子が現代まで濃厚に残っていることが裏付けられた。現代人にも縄文系の特徴が色濃く残るとされる沖縄は、遺伝子解析でも縄文系の割合が最高だった。
縄文系が約半数だった北九州は、弥生人流入の中心地の一つだけに意外な数字だが、母方のルーツでみた数字であり、
「渡来した弥生人は男性中心で、先住の縄文人女性との間に子孫を残した」
と考える説と矛盾しない。
http://www.riken.jp/r-world/info/release/press/2008/080926/detail.html
崎谷満先生の父系Y染色体による系統分析、の要約と補足
「日本人の出自から見たDNAの平均値 」
約38% D2型、日本にしか残されていないシベリア経由で入ってきた縄文人の血
約34% O2b型、ジャポニカ米と共に揚子江から海路渡ってきた弥生人(長江文明人、百越人)の血
約18% O3型、山東半島〜朝鮮半島〜日本と渡って来た漢族の血
約 5% C1型、インド経由、南方系海人族の血
約 1% N型、フィリピンに顕著に残り、ツングースも保有する血筋
約 1% C3型、樺太から北海道に、アイヌに残るバイカル湖経由のツングース系の血
朝鮮半島から九州に、扶余の血? ルート違いのバイカル湖経由のツングース系の血
その他 1%以下、D1、D3型、チベットに残るテュルク系?の血
O1型、台湾経由の大陸系の血
O2a型、渡来時期、ルートの異なる長江文明人の血
(出身地域により特定血筋を多く持つ者も、全く持たない者もいます)
(アイヌより縄文人のほうが渡来が早いとの説もあります)
(扶余の祖、東胡も民族系列は謎、ツングースか、テュルクとの混血ともいわれます)
(扶余が天皇家とは限りません。蘇我氏説もあります。皇統断絶説、二回説もありますしね)
(朝鮮人はO2b型5割、O3型4割、C3型1割、O1型数%です)
(日本人は10種類もの血筋が入り混じった稀有な民族なんだそうです。負け犬の吹き溜まりとも、冒険野郎の終着点ともいえるでしょう)
日本人のDNAと日本人のルーツ
世界の人々は35人の母親から生まれてきた子供達です。
35人の母親達もアフリカ大陸に住んでいた1人の偉大なる母から生まれています。人類は35通りの民族的DNAから構成されています。ほとんどの民族は35種の内、5種前後を保有しているに過ぎません。
しかし、大和民族は16種を保有する多様性な民族で有ります。簡単に言うと混血もいいとこなんですよ。おそらく、世界一の混血民族が大和民族なんですね。
縄文人は3万年前ぐらいから日本に渡来してきました。しかし、縄文人が渡来する以前から日本には人が住んでいました。約12万年前の石器が発見されています。
縄文人は僅か3万年前にやってきた新参者なんですよ。その新参者の縄文人が日本を支配した。なぜ?支配したと分かるのか?
それはY染色体遺伝子を辿ることで明白になります。Y染色体遺伝子は父親から男の子へ受け継がれる遺伝子です。つまり日本における支配階級のDNAは何か分かるのです。
縄文人の保有するD系統YAP型が40%から50%も現在日本人に保有している。これが縄文人が日本を支配していた証明になると思われます。アイヌの人はD系が80%も保有しているそうです。限りなく縄文人に近いと思います。
http://robasan.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/dna-7ca9.html
東アジアの民族の遺伝子の近似値
日本人は特殊なタイプなことがわかる。韓国人のほうが漢族に近い。
ttp://maokapostamt.img.jugem.jp/20071222_71597.gif
日本の本州に住む男性の43%がYAP+を保有
アイヌ人男性の98%がYAP+を保有。韓国人のYAPは1%しか存在しない
http://photoimg.enjoyjapan.naver.com/view/enjoybbs/viewphoto/phistory/89000/20070729118570733493125400.gif
日本人は基本的に共通して、アイヌ人〜本土日本人〜沖縄人までD系統(北方古モンゴロイド)がベースになっており、日本人3集団が持つD系統を持たない韓国人は赤の他人と結論できる。
日本は島国だったせいか、チベット人や中東の人間しか持たない遺伝子を日本人も持っているらしい。
韓国人に一番近いのは中国の漢民族なんだよね。
★近畿人は日本人ではありません。
★近畿人は遺伝的にも朝鮮人であると完全に証明されています。
▼手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との遺伝的距離
(山口敏『日本人の顔と身体』より)
0.000…朝鮮半島
0.007…近畿地方
- - - - - - - - - - -
0.012…中部地方
0.035…中国地方
0.035…九州地方
0.038…四国地方
0.048…関東地方
0.068…東北地方
0.092…南西諸島
▼各地の男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)※数値が高いほど朝鮮に近い
+2.12…畿内 ←★チョン★
+1.08…四国
+0.76…東中国
+0.70…西中国、北東九州
+0.51…関東、東北
+0.40…北陸
-0.87…西九州、南東九州 ←★天皇家★
▼身体的特徴から求めた朝鮮人との遺伝的近似性(小浜基次・阪大教授による)
頭示数 比肩峰幅 比上肢長 比下肢長
蝦夷人 76.55 23.65 44.60 55.14(小顔・足長の美しい日本人DNA)
東北人 80.16 23.07 44.46 54.33(小顔・足長の美しい日本人DNA)
畿内人 84.98 22.67 43.99 54.23(顔デカ・胴長短足の醜い朝鮮人DNA)
朝鮮人 85.16 22.35 43.30 53.48(顔デカ・胴長短足の醜い朝鮮人DNA)
▼解剖学者・松村博文先生の常識的見解
http://www.frpac.or.jp/rst/sem/sem1721.pdf
『近畿人は胴長短足、朝鮮人も胴長短足』
『近畿人は短頭、朝鮮人も短頭』
『近畿人は乾燥耳垢、朝鮮人も乾燥耳垢』
『近畿人は耳たぶが痩せている、朝鮮人も耳たぶが痩せている』
『近畿人は髭が薄い、朝鮮人も髭が薄い』
『近畿人は一重まぶた、朝鮮人も一重まぶた』
『近畿人は蒙古襞、朝鮮人も蒙古襞』
『近畿人と朝鮮人は歯の形が同じ』
扶余(ふよ、プヨ、〔朝:buyeo〕、扶余〔中:fu'yu'〕)は、中国三国時代に満州に住んでいた民族で、万里の長城より北、南は高句麗(こうくり)に、東は?婁(ゆうろう)に、西は鮮卑(せんぴ)接する、方約二千里(三国時代の一里は、約450m)の範囲に住んでいた。 夫余、扶餘、夫餘とも表記される(「餘」は「余」の旧字体)。
穀物は余り良く育たない土地に定住したが、好戦的であり、歌舞飲酒を好み、風俗は淫乱であったと記録される。
元々前漢の玄菟郡に属し、その後、三国時代に入ると遼東半島の公孫氏の配下に入った。しばしば鮮卑の攻撃を受けて衰亡し、最後はツングース系の勿吉によって滅ぼされた。
この扶余族には、沃沮(よくそ)・?(わい)・高句麗なども含まれ、朝鮮半島北部を中心に広く分布していた。
他に百済王家も扶余系とみられ、南扶余と国号を自称していた時代がある。また、百済王の姓も扶余または余と名乗っている。
大韓民国忠清南道の郡、扶余郡(プヨぐん、ふよぐん)は、百済最後の都があった。面積634.9平方キロ、総人口82,546人(2005年4月現在)。過疎化で若干減少気味となっている。1邑(町)15面(村)からなる。郡庁所在地は扶余邑。(Wikipedia)
百済の始祖温祚王というのは、まだ原始部族国家のひとだが、韓民族ではなく、朝鮮の歴代の王朝の始祖がつねにそうであるように北方の満州あたりから南下してきた扶余族の出身であった。
扶余族というのは南満州や鴨緑江の山谷を駆けまわって狩猟していた連中であり、
やがては北朝鮮を中心に高句麗国をつくり、南朝鮮諸国を圧迫した。
その一派が南朝鮮の韓民族地帯に入って征服王となり百済国をつくったのであろう。従って、百済の始祖温祚王というのは、背が高く、目に蒙古襞をもち、ほお骨の秀でた北朝鮮型の容姿をもっていたであろう。頭はまわりを剃って髪の一部をながくのばし、それを編んでいわゆる辮髪であったにちがいなく、その服装は北方騎馬民族の特徴であるズボンをはいていたに相違ない。(司馬遼太郎)
実在する最古の天皇14代応神の墓、誉田山古墳の陪塚丸山古墳から出土した国宝の「金銅製透彫鞍金具」は中国遼寧省喇嘛洞UM101号墓で最近出土した鮮卑族の鞍と細部に至るまでほとんどまったく同一。
百済→王族は扶余族、民衆は長江文明遺臣の倭人(弥生人、百越人ともいう)
新羅→王族は扶余族、三王家のふたつに大和出自伝説あり、民衆は倭人と、始皇帝から逃げてきた秦人(漢族)
任那→王族は扶余族、大和の直轄地、民衆風俗は新羅に似る
東胡→ツングース系? テュルクと混血とも、BC200年頃、匈奴に破れ四散
オロチョン→もっともツングースDNAが濃い。>ブリヤート>エヴェンキ>蒙古>満州>北朝鮮人>韓国人>日本人
扶余→東胡の末、穢族から分岐(日本に相撲、胡服を伝えた?)
穢族→(ワイ族、さんずいでカイ族とも)、東胡の末、穢四族(高句麗、扶余、沃沮、穢)に分裂
高句麗→コリョ族(高麗族、大和呼称はコマ族)、 東胡の末、穢族から分岐
高麗→高句麗は便宜上の呼称、高句麗が前高麗、高麗が後高麗、どちらもコリョ族
渤海→東胡の末、建国時高句麗遺臣も参画
蒙古→東胡の末、東胡→室韋(しつい)→蒙古
鮮卑→東胡の末
契丹→東胡の末
柔然→東胡の末
女真→東胡の末、満州族のこと、コリョ、渤海に近いともいう
突厥→テュルク系といわれる
匈奴→??人 、フン族説強し(民族大移動)、東胡を四散させた。
日本人は南から移住か 遺伝情報でルート推定 (共同通信 他)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/238.html
東アジア、東南アジア、南アジアの住民のゲノム(全遺伝情報)の分析によって、日本人の多くは、アフリカからインドに入り、タイなどを経て北に向かった集団の流れをくむと推定されるとする研究結果を国際チームがまとめ、11日付の米科学誌サイエンスに発表した。
東アジアの人は、主に南から来たという説と、少なくとも北からと南からの2ルートはあったという二つの仮説があり、今回は前者をより強く支持する結果という。
http://www.excite.co.jp/News/society/20091211/Kyodo_OT_CO2009121001000829.html
日本人におけるミトコンドリアゲノム多様性
○田中雅嗣(岐阜県国際バイオ研究所)
【背景】ミトコンドリアDNA (mtDNA)の全塩基配列に基づいた世界人類のミトコンドリアDNAの多様性に関する最近の分析は、ヒトのアフリカ起源説を支持する確固たる証拠を提供している(Ingmanら、2000)。100,000年前以降に、少なくとも2つのmtDNA人間血統が、急速にアフリカから旧世界に広がり始めた(Maca-Meyerら、2001)。
考古学的記録は約30,000年前に人間が極東アジアの日本に到着したことを示している。(Gloverら、1980)。
その頃、日本は北と南の陸橋によってアジア大陸とつながっており2つの移入ルートが可能であった。13,000年前に日本とシベリアにおいて世界で初めての土器
が出現した(Shiraishi 2002)。その後の技術的な改良は、日本の新石器時代の縄文文化をもたらし、かなりの人口成長が見られた。その後大陸の人々が朝鮮半島から
の日本に到着し弥生時代が始まり、約2000年前に人口の流入は最大となったと推定されている。
【研究方法】東アジアのmtDNAの系統樹を構築するために、私たちは日本人672個体のミトコンドリアゲノムの全塩基配列を決定した。これにより、アジア人942個体の全塩基配列を使って系統発生を分析することが可能になった。
日本人mtDNAの全塩基配列データから新しい分岐および小分岐が同定された。
この明白な系統樹に基づいて、私たちはアジア人4,713個体のmtDNAの部分的塩基配列を10%未満の誤差で分類した。
【結果および考察】人口および系統地理学的な方法を適用して、日本列島におけるヒトの定住の歴史において論争の的になっている問題を明確にするために、
mtDNAの部分配列を利用した。人口に基づいた比較によって、現代の日本人が北アジア人、特に韓国人に最も近い遺伝類似性を持っていることを確認した。
このことは、弥生時代以降に中国大陸から日本へ遺伝子の拡散が生じたとする従来の説と一致する。
一方、この系統地理学的なアプローチによって旧石器時代の日本人が高度に分化していたことが明らかになった。琉球人とアイヌ人において基礎的なMおよびN系統
が存在することから、古代において南方と北方からの移住があったと推定された。さらに、日本人とチベット人との間の直接的な関係も明確になった。
これはY染色体の研究結果と一致した結果である。更に、いくつかの小分岐が日本において最も高い多様性を示したことから、日本がアジア大陸への移住拡大していった地域の一つであると推定された。
【結論】ミトコンドリアゲノム多型から描き出されたこの複雑な像は、日本への定住の歴史を説明するために提案されてきた従来の理論では十分に説明できない。
http://www.nms.ac.jp/nms/jmito/NENKAI03/DAI3Y41-50.html
古代朝鮮・韓民族の形成とニッポン 【ニッポン民俗学】
▼朝鮮人と日本人
朝鮮人というのも、日本人と同じくらい形成過程に不明な点が多い謎の民族である。ともに、北方的なるものと南方的なるものとの狭間で、両者のせめぎ合いと融合の末に出来上がった国である。
日本にも今でも東西(あるいは南北)で民俗や生活様式などに相違が残るが、朝鮮ではそれどころか南北は国境線で分かたれている。この「北緯38度線」は、古代の形勢、すなわち北の高句麗と南の韓族の三国家を彷彿とさせるものである。喩えて言えばだが、今なお北方的なるもの(旧ソ連と中国)と南方的なるもの(日本と「南蛮」米)との狭間にあるかのようだ。
朝鮮半島では「南北統一」がいま盛んに語られているが、これは新羅による七世紀の国土統一以降、一千年以上唱えられてきた「国土・民族・主権の統合や自己回復」の民族的スローガンの一変種との見方もできる。朝鮮史は、ツングース系契丹族の遼やモンゴル族の元など北方異民族の侵入や支配、そうでないときは宗主国・中国への臣従と、南方からの倭寇や秀吉の侵略、とどめに日韓併合と朝鮮戦争などと、幾多の「自己喪失」で満たされている。
日本は今でこそ東西に分かたれてはいないが、古代には畿内の西日本政権に対し、東日本は「蝦夷」であり「日本」ではなかった。鎌倉幕府は当初、東日本政権だったし、江戸幕府も関東基盤の政権であった。東西の自然環境の違いが双方の農耕や産業のスタイルをたがえ、そこに適応した生活様式が生まれ、方言や民俗そして感性や思考の違いを生じさせたのであろう。しかしそれだけだろうか。現に、日本化が最も遅れた地域の「日本人」である北海道のアイヌ人と沖縄の琉球人には、本州日本人との文化的差異ばかりではなく、遺伝学的な微妙な差異すら指摘されている。
朝鮮人形成の解明は、日本人にとって他山の石、いや鏡である。話を先取りしてその違いだけを述べれば、朝鮮人には北方的なるものが、日本人には南方的なるものがより多く残ったということであろう。古代においては、半島南端と列島西端で共有されていた南方的なる「倭」は、その名とともに後ちの日本に引き取られた。後世においては、朱子学の受容にその相違がよく表れている。前者は本家よりも厳格な北方的儒学を打ち立て、後者は南方道教的な人間学へ変質させて怪しむことがなかった。なお、本論では話を古代にとどめることをお断りしておく。
▼南アジア人と北アジア人
初めにも述べたように、朝鮮半島と日本列島の民族や文化は南北からの渡来で出来ている。正確には知りようもないのだが、幾度にもわたる「交通」(戦争や征服から共存・混血などの人的交流、また文化・物資だけの交易までを含む全交流)の往来があったのだろう。最初に半島や列島に住んだのは、東南アジア方面から北上した原アジア人(古モンゴロイド:南アジア人)である。人口的にはそう多くを想定しなくてもよいだろう。ただし、この南方「交通」ルート(東南アジア−中国・華南−朝鮮西南部・日本西北部)は常にオープンであった。
次に渡来したのは、北方で長らく氷雪に閉じ込められていた新アジア人(新モンゴロイド:北アジア人)である。彼らは寒さで体質を変化させていたが、同時に文化も寒中で集約的に磨いていたはずだ。およそ一万年前の雪解け(温暖化)とともに、彼らは南進し始める。原アジア人よりも精力的で人口も多かったように思われる。やがて半島や列島に押し寄せたのは、その中のアルタイ・ツングース族系の者たちである。彼らは採集・狩猟・漁撈の民であった。
朝鮮半島に最初に入ったツングースは、ワイ(カイ)族や貊(ぱく)族と呼ばれる者たちである。彼らは南方から来たアジア人とも「交通」しながら、ほぼ半島全体に拡がったものと思われる。これが朝鮮語の礎を作ったのであろう。一方、考慮しておかねばならないのは、南方ルートからの絶え間ない「交通」である。人の渡来も文化・物資の交易もあった。とりわけ、後ちには南方の焼畑耕作文化が移植されていただろうことは強調しておきたい。
▼半島北部の「中国人」支配
東アジアの歴史記録は中国に頼らざるを得ない。それによれば、初めて「朝鮮」を名乗ったのは当時の「中国人」である。それは春秋・戦国時代の燕(現北京に都した周の分封国)に隣した「箕氏朝鮮」である。もちろん、半島と中国文明との「交通」はそれ以前からあっただろう。黄河文明のアワを中心作物とした畑作文化が、北西回りで半島に移入されていたことは間違いない。その箕氏朝鮮とは半島北西部までを領土としていたものと思われる。
実は、箕氏朝鮮がその存在とともに、歴史年代が明白となってくるのは滅亡に関しての記録においてである(『後漢書』)。哀れなものである。戦国末期の燕、秦帝国、そして前漢、と強者が変転する動乱がうち続く中で、旧燕からの亡命者・衛満という者によって箕氏は滅ぶ。紀元前194年ごろ、替わって立ったのは衛氏朝鮮である。しかしこの衛氏も漢の武帝によって滅ぼされ、そこには直轄植民地として楽浪郡などの四郡が置かれる。同108年のことであった。
このように半島北西部には長らく「中国人」が住み、その文化を持ち込んだ。これは紀元後313年、高句麗が楽浪郡を滅ぼすまで継続した。箕氏の到来から数えると、およそ一千年と見てよいだろう。そういう意味で、東日本と同じく、半島北部は「朝鮮人」ではない「異民族」の地であった。その後の高句麗(ツングース族)支配を考えれば、それはさらに続くとも言える。しかし同時にこれは、「では韓民族とは何だ?」という問題を提起し、さらに「民族」というものの歴史性にまで思いを至らせてくれるものでもある。
▼韓民族の「辰国」と「倭人」の登場
次に、南方からの渡来にもう一度、目を向けたい。南方ルートの出発地は長江やその北の淮河の河口域で、北に山東半島を伝い、やがて朝鮮半島西岸や南岸(それに日本・九州北岸も)に及んでいる。前述のように絶え間ない渡来があっただろうが、春秋・戦国時代の華南での闘争、すなわち呉(南アジア人)と楚(北アジア人)、呉と越(南アジア人)、越と楚、それに小国家も巻き込んだ戦乱は一挙に大流民を生んだ。それは、呉が滅亡した紀元前五世紀の前半から加速したと思われる。
彼らは半島西岸や南岸にたどり着き、そこで「韓」と呼ばれるまとまりを成した。これを辰国と言う。彼らは稲作と漁撈の民である。内陸と北東部にはワイ族や貊族が居住していた。そして北西部には箕子朝鮮があった。韓族は西南部に集住したが、これが後ちの馬韓となる。弁韓と辰韓は、馬韓地域から海岸伝いの移民によって拡張された「韓」である。辰王は大王として、この三韓地域を支配する馬韓の王であった。
同四世紀後半、長江河口域での最後の「南アジア人」の国・越が楚に滅ぼされる。おそらくこれを契機に、再び半島に流民が押し寄せる。これが「倭人」である。倭人は弁韓南部と対馬と九州北端を強奪する。黥面文身(入れ墨)した最も海人的要素を残した民として、黄海、山東半島、日韓海峡、それに東シナ海を故地・長江河口まで自由に行き来しただろう。遅れてきた韓人こそが倭人に他ならない。そしてこれが『後漢書』や『魏志』に描かれた「楽浪海中の倭人」であり「馬韓や弁韓の南にいた倭人」である。
「韓」人や「倭」人とは何か。華南の「越」人である。これは国名ではない。主に長江河口域に住み、稲作と漁撈を生業とし、高床式の住居文化をもつ「越」と呼ばれた諸族である。中華は彼らを「百越」と総称した。「越智」を今でも「おち」と読むが、これは「越」を「wo:ヲ」とかつて発音したことの残滓である。「倭」もまた元は「wo」と発音した。つまり、「越族」とは「倭族」である。日本・北陸地方を「越」というが、もちろんこれもただの偶然ではない。
▼「倭国」王の朝貢と三韓の成立
紀元前二世紀初め、衛満によって国を追われた箕子最後の準王は、南方へ逃れて馬韓に攻め込み、韓(=辰)王となった。しかしそれは一代で終わり、再び韓人が復位した。半島北西部には箕子のあと衛氏が建国したが、前漢がこれを滅ぼし、楽浪郡が設置されたことは前述の通りだ。そこへ「倭奴国」が朝貢し、蛇の取っ手が付いた金印の下賜を受けたことは有名だ(紀元後57年)。さらに「倭国王帥升」も朝貢している(107年)。
この頃、すなわち紀元後一世紀ごろ、高句麗が南進し、楽浪郡を圧迫し始める。その東部にはワイ族と貊族がいた。二世紀後半、中国・後漢政権の衰弱に伴い、楽浪郡も衰える。辰国は、馬韓王を共同王として頂きながらも、馬韓・弁韓・辰韓の三韓体制となる。中華帝国の綻びは、周辺国に動揺を与えるのだ。『後漢書』には「倭国で大乱」とも記録されている。後漢末期、楽浪郡南部を帯方郡とし、植民地再建をはかるが、後漢は滅び、魏がその後を継ぐ。その帯方郡へ使節を派遣し「親魏倭王」と信認されたのが卑弥呼である(239年)。
▼百済と高句麗
さて、半島北方に拡がる満州平原(中国東北部)に目を向けよう。ここも元々は古モンゴロイドが先住していたが、南下した北アジア人に呑み込まれ、混血してツングース諸部族となっていた。ツングースの西方には、遊牧狩猟民のモンゴル諸部族がいた。扶余族はそのモンゴルの一部族で、紀元前二世紀末、満州平原に進み、そこにいたツングース諸族を征服し混血する。北方系の畑作を学んで半農半猟民となり、やがて扶余国を建てた。
この国は高句麗や鮮卑の圧迫を受けて紀元後四世紀前半に滅亡するが、一王子が逃れて東扶余国を建てる。しかし今度は王位継承問題がこじれて、王子は朝鮮半島に逃れた末、華南に移った東晋の支持をおそらく受けながら、馬韓に攻め込み、同世紀半ば過ぎ、馬韓を制圧してしまう。これが百済の建国である。すなわち、百済とはその王族は扶余族、その住民は馬韓人(倭族)という「二層構造」の国家だったのである。このとき、辰国は解体する。
次に高句麗だが、この国は紀元前一世紀末、ツングースのワイ族系の部族が建てた国である。徐々に勢力を拡大し、四世紀には現中朝国境の鴨緑江を中心に、扶余国からは満州平原南部を、楽浪郡と先住ツングース部族からは朝鮮北部を奪って、その地を領有するに至る。高句麗には二つの宿命があった。一つはツングース族の「名門」扶余族の影である。高句麗は扶余の後裔と僭称する。もう一つは旧楽浪郡の文化である。華北中国文化を引き継ぎ、半島へ導入する役割を担うことになる。
▼新羅と加羅
古代朝鮮「三国」のあと一国・新羅は、以上述べてきた通り、韓族主導でツングース族が混血した国である。王族も住民も韓人である。新羅の成立は六世紀初め(503年か)と見られる。同国は辰韓の三氏族の統合体である。すなわち、朴(パク)・昔(ソク)・金の三氏族が辰国の解体以降、並立していたが、それを王統譜22代の金氏・智證王が統一し、この時、国号を新羅としたと見られる。
後ちに新羅に併呑される加羅(伽耶)であるが、ここは統一領土国家ではなく、都市国家連合的な「連邦」を成した。これは「倭人」が「韓」による統合を拒んだためと思われる。特に、「任那日本府」があったとされる南岸の金官加羅は、中華に「狗邪韓国」とも呼ばれていたように、「韓」と「倭」の二重国家であった。すなわち、韓の加羅連合の一国であると同時に、倭の一国でもあった。この状態は新羅成立前ごろまで続いた。(実はこのあたりに、わが倭国王権の秘密が隠されているのだが、これは別論として述べたい。)
その後の半島情勢については以前にも記したので簡略にとどめるが、六世紀半ば過ぎに新羅は加羅を併合した後、七世紀後半、唐と連合して百済(および倭国)を破り、唐に討たれた高句麗の半島内領をも掌中に収めて、半島全土を統一支配する(676年)。
▼朝鮮人形成の方向性
改めて考えたいのだが、これで「朝鮮人」が成立したわけではないことは自明だろう。ここで同時代の日本を想起されたい。壬申の乱(672年)直後の天武天皇の時代であるが、朝鮮と同様に、この頃にはまだ「日本人」は成立していないのである。「民族」という概念の限界を強調しておきたい。
朝鮮人は、北のツングース族と南の韓族(倭族)の結合として熟成していったことはお分かりだろう。統合は新羅王権によって進められたので、新羅王権の性格が朝鮮人形成の方向性を示唆してくれるはずだ。統一以前の三国時代は、中国の南北朝時代とほぼ並行してあったが、朝鮮情勢はその代理戦争の面もあった。諍いもあったが北朝系文化を担ったのが高句麗であり、南朝系文化を積極的に移入し南朝と友好をはかったのが百済であった。
地図を広げてもらえれば分かりやすいのだが、南朝に最も近いのは百済であり、言うまでもなくこれは伝統的な「南方ルート」でもあった。では、新羅はどうか。いまや宿敵となった百済に中国への陸路も海路も阻まれ、大陸から見れば最遠の地にあった新羅は、高句麗の強圧もあって高句麗経由で北朝中国文化を受け容れた。中国仏教も二伝あって、それはインドとつながる西域に開いた北魏(モンゴル系鮮卑族の国)の北朝仏教と、閉じて中国化の道を辿る南朝仏教であった。
つまり新羅は、三国の中では最も韓民族らしい国であったが、その文化は強くツングース・モンゴル系の中国化を蒙った国と言える。因みに百済は、ツングース系王権が支配する韓民族の国であったが、建国時にも後押しがあっただろう南転した中華中国人(漢人)系の中国化が進んだ。(自らも北アジア人である「漢人」は、より北方のアルタイ・モンゴル系北アジア人に絶えず圧迫されて南進し、そこでは南アジア人を圧迫・吸収しつつ、次に北進して北方民族を呑み込むという運動を繰り返して「中国人」となった。)
実際、新羅王権は、韓人の源流である南アジア人の色を最も濃く残した「倭人」を南海峡に追い落として、倭国に切り捨てる一方、漢人が再び北進して中華の定位置である北方の中原に立った大唐帝国の諸制度・文化(律令・礼式、仏教・儒教など)を忠実に、いや中華以上の精確さで受容していくことで「小中華」たる朝鮮と朝鮮人を練り上げていった(注)。ここに朝鮮人の「北方ルート」の重視、南北バランスの北方優位性が固定されたのだ。
(注)新羅・高麗時代には仏教が国教扱いで、李氏時代になって儒教が国教となった。中華志向は、統一までは便宜的な要素もあったが、後になるほど高まり、中国が北方異民族に支配されたときなぞには、朝鮮こそ中華帝国の後裔と意識された。
http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/mjf/mjf-52.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/235.html
- 弥生人の起源2 中川隆 2011/10/02 19:16:05
(0)
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用もとを表示することを強制いたしません。
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 近代史02掲示板