2010-07-12 00:32
投票箱の前で(2)
議会が地方、党の利害追求のアリーナと化すことに疑問を呈した古参議員もいました。
特に日露戦後の財政窮乏をめぐっては、
島田三郎が利害最優先の方法では国家が傾くとして、
個々の利害を超えた公正な議論を求めました。
いわば治者の論理の再現でした。
票読みに限定されない、議員個人としての信念。
利益誘導に限定されない、有権者個人としての信念。
1票を投じ、受けるに必要な基礎が問われました。
議員のことを、議院内閣制の現在では「政治家」とも言います。
「政治」はもともと治者の執る「治」に根を持つもつものですが、
それは利害追求の徹底排除を意味するもので、
今日的な意味とはおよそ正反対のものです。
議会を通じて利益追求が「治」を飲み込んだものが、
「政治」と呼ばれるようになりました。
利害代表の選出=選挙とした仕組みが組み上がるにつれて、
政党自らも、公正さを主張することに腐心するようになりました。
利益誘導を肯定しそれを公平に行うというのが、
政党政治の代表格として上げられる原敬の政治でした。
横一線に諸勢力を統合する方法は、
その後の政治のあり方に多大な影響を与えましたが、
利益誘導に供する財源が不況によって枯渇するなか、
「政治とカネ」にまつわる問題も噴出し、
政党政治は崩壊していきます。
振り返られたのは、少数の治者が治める公平な「治」。
明治維新は道半ばであるとして、
昭和期の軍人将校たちは「昭和維新」を唱え、
政党政治の腐敗を断ち切る新勢力として台頭してきます。
自分たちが治者に就き、利害対立の病弊を払うという自負は、
地方を抑える師団、在郷軍人会といった地域軍事組織が基礎となって、形を現していきます。
結果、治者は戦争を牽引し、内部分裂を起こしながら瓦解、
敗戦とともにそれは乗り越えられるべき過去にされ、
今度は「治」が捨てられ、もう一度、政党と議会の機能が復活されました。
そして、大正期の政党政治同様の二大政党制と、腐敗の問題、そして財政窮乏が展開していきました。
最近、民主党が「地域主権」や「政治家主導」を政界再編のキーワードに挙げる一方、学者は公共性や市民論を再び叫んでいます。
日本の課題と言われ続けてきた「治」と「議」の不整合は、今また財政危機に直面して問われ直しています。
参院選の投票用紙に書き込みながら、
これが100年間翻弄され続けた行為だと思うと、
もう何度もしてきたことなのに、
今回ばかりは緊張しました。
タレント議員が短時間の選挙活動で大量得票して当選していく様子を見て、維新期の人たちはどう思うかなと思ってしまいます。
選挙を寄席のように盛り上げる特番を観ながら、
選挙の危うさを、感じずにはいられません。
国を失い、国を創った治者の切迫感を思うと、
自分の投じた1票に、1票分の価値があったのかも、
考えてしまいます。
自分が投じたものが、無数の票に埋もれるものだとしても、
過去を背負って票を投じる行為を、レシートを捨てるようにしてもいいとは思えません。
自身、もっとよく考えるべきだったかもしれません。
維新は今も流れる時間なのかなって、
そう思います。
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