2010年5月13日
荘保さんとこどもたち。プレールームの柱には、巣立っていった子たちの身長を記した跡がある=大阪市西成区萩之茶屋2丁目、高木写す
日本有数の日雇い労働者の街、大阪・釜ケ崎。そのど真ん中にある民間の児童館「こどもの里」が5日、30歳を迎えた。貧困や虐待、家庭内暴力(DV)といった厳しい境遇の子たちにとって、ある時は遊び場、ある時は逃げ場になってきた。館長の荘保(しょうほ)共子さん(63)のもとを巣立ったこどもは900人以上になる。
日雇いの労働者らの「簡易宿泊所」が立ち並ぶ一角は、放課後になると、こどもたちの元気な声が響く。1階はプレールーム、2階は食堂や図書室、3階は居室スペース。〈でめ〉。顔がでめきんに似ているからと、荘保さんは愛情を込めてこう呼ばれる。
大学卒業後、22歳のとき教会のボランティア活動で初めて釜ケ崎に足を運んだ。目に飛び込んできたのは、たくましさの一方、寝るところ、食べるものを心配するこどもたちの姿だった。
いったんは保育所や幼稚園に勤めたが、30歳で釜ケ崎へ。30年前のこどもの日、カトリック団体の学童保育を前身に発足した「里」に、初めからかかわってきた。館長は11年前から。7人のスタッフと一緒に、近所から集まる約30人のこどもらに寄り添う。
里でいろんな子と出会った。父親が建設現場を転々として学校に行けない子、「飛び降りたい。帰りたくない」と親の暴力におびえる子……。暴力をふるう夫から逃げてきた母子もいた。
つらい思い出もある。3年前に大阪・南港で見つかった水死体。携帯電話の発信履歴の最後が里の番号だった。20年前に里を出た「男の子」。別れの言葉なのか、助けを求めたのか。だれもその電話は受けていなかった。
施設の費用は寄付やバザー、市からの補助などでまかなってきた。荘保さんは2000年に市から里親に認定され、虐待を受けた子らの受け入れも始めた。「こどもには希望がある。釜ケ崎のこどもに寄り添いたいと飛び込んだけれど、私が生かされていた」。30年をこう振り返る。
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里のアルバイトスタッフ、大谷純さん(37)も里に救われた一人だ。
11歳まで学校に行ったことがなかった。両親の事情で出生届が出されず、戸籍もなかった。同じ年頃の子が学校に行く間は図書館で本を読み、絵を描いた。放課後のベルの合図で里に出かけ、学校に行っているふりをした。
転機はその年の秋。「運動会、いつ? 応援に行くから」。遊んでいたら、荘保さんが言う。学校に行ったことがないとは打ち明けたことがなかった。ドキッとした。
運動会の日。荘保さんはグラウンドで捜し回った。「そんな子いませんよ」。その晩、母親と荘保さんが向き合った。3日後、三つ離れた弟と初めて学校へ。初登校は小学校5年の秋だった。
「学校に行ってへんから、先生になりたい」。夢はあったけれど、高卒後に就職した。荘保さんは短大の学費を準備するためカンパを呼びかけた。大谷さんは教員免許をとり、教壇にも立った。
「相談できる大人は〈でめ〉しかいなかった。里に出会わなかったら、いまごろどこで何をしているか」
大阪市の介護現場で働く女性(42)も、里で居場所を得た。両親との3人家族。父は日雇い労働者で、早朝から土木現場で働き、泥だらけで帰ってきた。雨がふれば仕事はない。3食が2食に減った。
里は、癒やしの場だった。「晩ご飯、食べたか?」。友達に聞こえないようにさりげなく声をかけてくれる荘保さんの心遣いがうれしかった。
中学を卒業し、工場で働きだした。16歳で妊娠。家族には相談しづらかった。「しんどいときには、いつでもおいで」。妊娠6カ月を過ぎたころ、荘保さんを思い出し連絡をとった。肌着やタオルといった出産準備をしてくれ、出生届の出し方も教わった。
赤ちゃんを自分の父に預けて飲みに行き、「しんどい」と愚痴を吐いた。「あんただけがしんどいんと違うよ」。時には厳しい言葉も投げかけてくれた。「〈でめ〉に相談して、いつも一歩踏み出せた。母親代わりなんですよ」
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〈釜ケ崎〉 大阪市西成区にある日雇い労働者らが集う国内最大規模の街。長年、土木・建設現場に働き手を送り出してきた。高齢化が進んだうえ、最近は不況で求人が激減。路上生活者や生活保護受給者が増えている。