「まあ、お懐かしい」。30年近くたった後も、美智子さまは記者の顔を覚えていて、声をかけてくれた――。
当時「お妃選び取材班」だった元朝日新聞記者の佐伯晋さん(81)に聞く第10回は、ご婚約発表当日の様子や報道協定について、そして美智子さまとの後日談に焦点をあてる。
――ご婚約発表(と報道解禁)当日の1958年11月27日昼過ぎに、美智子さまが正田邸を正面から出られる際には、取材ヘリコプターも飛び、当時の写真などから判断すると少なくとも60~70人以上は報道陣がいて写真撮影をしていたようです。そんな中、佐伯さんは正田邸の部屋の中から美智子さまを見送ったそうですね。
佐伯 他社の人たちに見られてはまずかろうと、奧に引っ込んでいましたけどね。前日の11月26日夜にも遅くまで正田邸内にいたし、27日も朝早くから邸内にいました。その間、会社や自宅に戻って寝た記憶はないから、近くに待たせていた会社の車の中で仮眠したのかもしれない。
11月27日の発表当日の朝は天気もよく、美智子さんは「よく眠れた」とすっきりした表情で話していた。美智子さんは7時すぎから入浴したり、父の英三郎さんと2人だけで食事したりして過ごした。宮内庁から派遣された男性も正田邸へ朝から来ていたが、正田家の人から聞いたのか、ぼくが新聞記者だとは気付いていたようだった。「何で記者がこんな所にいるのか」とは思ったろうが、外へ追い出すわけにもいかず、何となく見て見ぬふり、という感じだった。
――発表当日、美智子さまは自宅を出られる前に何か佐伯さんに話されましたか。
佐伯 出かける前に笑顔で「行ってきます」と。その時に着ていたのが、(第1回に話が出た)号外写真のあのドレスだ。きれいだったな。生地代が当時3000円と言ってたかな。1958年ごろといえば、大卒平均初任給が1万3000円か1万4000円ぐらい。生地は、そんなに特別高い値段ではなかった。
――新聞各社は11月26日夕刊で「皇太子妃あす決まる」と、美智子さまの名前には触れず、27日の皇室会議の予告を載せます。そして27日夕刊でご婚約決定の記事が一斉解禁となり、お相手として「正田美智子さん」の名前が初めて伝えられました。1面から社会面、写真特設面などと大展開しました。
一方、11月27日の正式発表直前に「週刊明星」(11月23日号)が「内定した!?皇太子妃」と題して、美智子さまのお名前と写真を報じました。11月上旬にニューズウィーク誌が匿名ながらお妃内定を報じたことを指摘し、「新聞社どうしの申合せ(原文ママ)」と、「内定」を報じない報道協定へ皮肉を浴びせました。
佐伯 報道協定問題は、ぼくら遊軍のお妃選び班ではなく、宮内庁クラブの先輩が担当していたから細かい話はよく分からない。1958年11月にご婚約が発表されることになるけど、その年の5月ごろから協定の話が出始め、7月24日に協定が成立した。新聞・テレビ以外にも雑誌の協会も後から協定に入ったと記憶しているが、どうだったかな。11月28日のご婚約発表について、事前に通告がいつあったのかもぼくは分からない。ぼくの正田家取材の過去の経緯の記事は、解禁数日前には準備はできていた。
先輩記者の牧さんは報道協定の話を聞いたとき、えらく怒っていた。他社より早く特ダネを書くつもりで1955年からこつこつ3年もやってきたのに、「そんなの許せん」と機嫌が悪かった。ぼくは、「途中の話が次々新聞に出れば、まとまる話もまとまらんだろう。まあいいんじゃないか」とそんなに深く考えてなかったな。
――11月27日のご婚約発表後、佐伯さんは翌59年4月のご成婚取材にも関わったのですか。
佐伯 いや、自分でも意識的に正田家と距離を取るようにした。ご婚約発表後、お妃選び班で5回ほど連載をやり、あとは翌年の正月特別版の取材のために少し会った程度。以降は正田家とは年賀状のやりとりをしたくらい。
ぼくの記事を読めば朝日と正田家は近いと思った人は多いだろうから、その関係が続くと考えられるのは、美智子さんにも正田家にも良くないことだと考えたんだ。正田家ルートで朝日に話がもれる、なんて思われると迷惑をかけることになる。
お妃選び班になって約9か月間、正田家と初接触してから半年間やってきたが、自分でも、別の仕事をしたくなってきてもいた。ご婚約から年が明けて1959年2月からは東京の裁判担当になった。
――美智子さまとはその後会われていないのですか。
佐伯 ご婚約発表から30年近くたった1987年の秋、朝日新聞主催の催しに皇太子ご夫妻がお出ましになり、社長以下役員が2階のコンコースに並んで送迎した。役員になったばかりで50代半ばのぼくは、端っこの方でお見送りしていた。
美智子さまは通りすがりにぼくの顔に気付き、つと立ち止まって「まあ、お懐かしい」と、しばらくの間、感慨深げにぼくの目を見つめておられたから、お付きの人を含めたご一行の流れが止まってしまい、ご先導役が慌てている様が見えた。ぼくは、感動しながら「ご無沙汰しております」とお答えしました。お元気そうで安心したのを覚えています。
<編集部注:佐伯さんが当時のことを語る際、「民間」時代の美智子さまのことは「美智子さん」と表現しています>
<第1部完::第2部へ続く。2部初回は、5月10日(木曜)の予定です>
(佐伯晋さんプロフィール)
1931年、東京生まれ。一橋大学経済学部卒。1953年、朝日新聞社入社、社会部員、社会部長などを経て、同社取締役(電波・ニューメディア担当)、専務(編集担当)を歴任した。95年の退任後も同社顧問を務め、99年に顧問を退いた。
美智子皇后「みのりの秋(とき)」 (文春文庫) 渡辺 みどり by G-Tools |
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