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文藝春秋の橋下徹座談会 - 政治評論家となった湯浅誠
文藝春秋の6月号が橋下徹の特集を組んでいる。その中に、『平成「世直し一揆」は成功するか』と題した湯浅誠と御厨貴と福田一也の3人による座談会が載っている。このところ、雑誌は橋下徹へのフォーカスが際立っていて、橋下徹について書くと出版物が多く売れるという市場の実態がある。空前の橋下徹ブームであり、活字を紙に刷って商売している者たちが、バスに乗り遅れまいと目の色を変えてこのブームに殺到している。文藝春秋を買って読むのは久しぶりで、税込840円の支出は無駄な浪費だったが、湯浅誠が何を論じているかに食指が動いた。ほぼ予想したとおりの浅薄な内容が並んでいたが、率直な感想として、ここまで堕ちてしまったかと愕然とさせられる。この座談会で発言している湯浅誠は、まさしく一人のマスコミ文化人で、底の浅い政治評論家なのだ。湯浅誠について何も知らない人間、例えば、外国で日本語を勉強して来日した外国人がこれを読んで、この論者が貧困問題の活動家として名を上げた者とは到底思えないだろう。議論の中にそうした要素や視角が全く登場しない。この座談会の記事の湯浅誠という文字を津田大介や古市憲寿に変え、中身はそのままで出しても、誰も違和感を覚えないのではないか。言葉がとても軽く、十分な考察や検証が加えられた分析ではない。単なる床屋政談である。


湯浅誠は、厚労行政の方面はよく勉強していて、福祉や労務の関係の制度や実態や理論に詳しく、専門家としての確かな識見と技量を持っている。だが、政治については素人で、政治学の基礎もあまり修学しておらず、橋下徹の政治をよく分析できる観察眼の持ち主として期待できない。本来、こうした商業雑誌の床屋政談に登場して、どうでもいい話を並べるのは、薄っぺらな政治学者の肩書きを持つ姜尚中あたりが適任だ。ここでの湯浅誠の発言を追いかけると、橋下徹の政治現象に強い興味を持っていること、前回の「世界」での論文以来の問題意識があり、ポピュリズムと「強いリーダーシップ」について否定的に捉え、そのことを世間に訴えようとしている姿勢と動機は分かる。しかし、逆に、現在の湯浅誠は政治以外に関心がないようであり、どうやら反貧困の課題に集中した日常を送ってはいないのだ。反貧困の活動家としての具体的なメッセージがなく、最近は、きわめて抽象的な説教である「角のないオセロ」の比喩の一般論ばかりをマスコミで繰り返している。今の具体的な関心事は橋下徹の政治らしい。2年半前、2009年11月に出版された『岩盤を穿つ』を読むと、そこには何度も何度も、「自分は活動家だ」と書いてある。「ぼくは活動家」というアイデンティティに拘る本人の意識が強く伝わる。が、この座談会の湯浅誠は、どこから見ても活動家ではなく評論家だ。

座談会の内容は、右の福田和也、左の湯浅誠、中立の御厨貴が橋下徹を論じるという仕様と企画になっている。文藝春秋のスタンスは保守の御厨貴にあり、御厨貴に橋下徹を積極的に評価させ、同時に注文をつけている。文藝春秋社は、昨年の大阪市長選のときは橋下徹へのバッシングに回って牽制する対立関係だったが、今年に入って態度を変え、逆に橋下徹の応援団の一員となった。最近の週刊文春でも橋下徹ブームを煽る編集に徹している。昨年、橋下徹を叩いたところ、逆にネット右翼の反発を呼びる結果となり、分が悪いと悟って踵を返した。応援団の一員とまで言うのは言い過ぎかもしれないが、明らかに現在の橋下徹ブームに迎合し、市場における多数派と目される橋下徹の支持層に媚を売り、橋下徹ブームを増幅させながら商売で稼ぐ編集方針になっている点は間違いない。右の福田和也と左の湯浅誠が、橋下徹にネガティブな議論を提出すると、御厨貴が反論し、それは橋下徹の短所ではなく長所だなどと問題をスリ変え、橋下徹を正当化する場面が幾度もある。例えば、湯浅誠が、橋下徹の政策は新自由主義の教科書から書き抜いたようだと批判すると、すかさず御厨貴が、「おそらく竹中平蔵さんのような新自由主義者では、橋下さんはない」(P.125)と弁護の手を入れている。新自由主義という悪性シンボルを竹中平蔵で固定化し、橋下徹をそれとは分離して巧妙に擁護する情報操作だ。

座談会の結論は御厨貴の言葉が示している。曰く、「橋下さんがやっていることの本質は、歴史でいうなら、幕末の世直し一揆や打ちこわしのようなものだと思うんです」「幕末の世直しも、不当に富んでいる奴らを打ち壊そうという破壊のエネルギーで広まっていった」(P.122)。御厨貴はこの国の政治における官僚と保守の論理を代表した位置にあり、霞ヶ関権力の代理人の立場で喋っている。御厨貴の話を聞きながら、なるほどと思ったのは、官僚が橋下徹に期待し、橋下徹に接近して通信回路を接続するポーリングを試みていて、御厨貴の発言は、その懐柔工作であると同時に官僚の本音の吐露だということだ。官僚自身も、実は「政策を決められない」政治にストレスになっていて、小泉純一郎的なポピュリストの出現を求めている。消費税、TPP、再稼働、社会保障削減、全てを官僚の思惑どおりに決定し遂行してくれる強力な政治家を求めている。座談会での御厨貴は、その官僚の真意を橋下徹に発信しているのであり、霞ヶ関と橋下徹をブリッジするインタフェースの役割に立候補して、自分自身を橋下徹に売り込んでいるのだ。官僚は、常にポピュリストに自分を叩かせ、国民から嫌われる悪の表象を被りながら、実はポピュリストと狡猾に癒着して、官僚の政策をポピュリスト権力に断行させるのである。橋下龍太郎も、小泉純一郎もそうだった。喜んで「抵抗勢力」の悪役を擬態し、政治家に叩かれる演技をするのだ。

座談会での湯浅誠の議論は、初歩的な誤謬が目立つ粗雑なものだった。例えば、小沢一郎を批判した次の部分がある。「小沢さんは、国費の仕組みを変えれば二十兆円くらいの削減はできる、と言い続けています。では仕組みを変えるとは何か、というと、国の機能を地方自治体に渡す、アウトソーシングして、サービスのダウンサイジングを行えばお金は浮いてくるんだ、というわけです。これは橋下さんが唱えている地方分権とすごく似ているのですが、たしかにそうすれば国の財政は好転する。しかし、そのツケはそのまま地方自治体やサービスが低下した個人に回る」(P.122)。この主張は、民主党の2009年マニフェストを全く無視したものだ。マニフェストには、「国の総予算207兆円を全面組み替え」「税金のムダづかいと天下りを根絶します」「特別会計を徹底的に見直します」と書いている。国と地方の二重行政の見直しや国の出先機関の原則廃止についても言っているが、そこから20兆円の削減をするとは書いていない。「国民の生活が第一」の政策財源である16.8兆円は、あくまで特別会計の予算精査から捻出されるものだ。このことは国民の常識事項だろう。この湯浅誠の指摘は、初歩的なミスでなければ悪質なスリカエであり、小沢一郎とマニフェストの財源捻出策を貶め、官僚に都合のいいように捏造して、特別会計の問題を隠蔽する情報工作だ。湯浅誠の信者が読めば、簡単に納得して誘導されてしまう。

また、次のような件がある。「橋下さん自身にとっては、国政に打って出るまでのプロセスは、いわば必然的なものだったと思います。府知事になってみたら議会がいろいろ反対してきて調整がうまくいかない。では、維新の会を作って、議会でも与党となればいいのではないかと、とやってみたら(略)今度は大阪市がなかなか言うことを聞かない。そこで大阪市に乗り込んで、いよいよ大阪都構想や教育基本条例をやろうとすると、国の制度が邪魔になってくる。すると、次は国政に打って出るしかない、という具合に、目の前の問題を解決しおうとして、物事を進めてきただけだと」(P.123-124)。この事実認識も基本的に間違っている。3年前の今頃、総選挙の直前の時期だが、まさに橋下新党が政治の焦点になっていた。橋下徹と東国原英夫は国政への野心を隠そうとせず、マスコミが醸成した「人気」を武器に選挙に殴り込みをかけよようと構えていたし、今と同じく自民党と民主党の二党が橋下詣でをして、自分たちと手を組んでくれと頭を下げる構図があった。4月から6月にかけて、私も何本も「橋下新党」のタイトルの記事を上げている。このとき、麻生太郞は徹底的に不人気で、経団連(御手洗富士雄)は民主党に政権を渡さないためのカードとして、真剣に橋下新党のラウンチを検討していたはずだ。だが、民主党がマニフェストを発表して選挙が現実に迫ると、勝負は二大政党の激突となって橋下新党は機を逸し、橋下徹は政局から姿を消す。

一つの理由として、橋下徹とコンビを組んで人気を二分していた東国原英夫が、最後まで自民党に執着して本気で総裁になろうと思い上がった失敗があり、化けの皮が剥がれて人気が地に堕ち、橋下新党の構想が躓いたという経緯があった。2009年の時点で、府政2年目だったが、すでに橋下徹は国政進出に意欲満々であり、西松事件の余波で混乱する政局の台風の目の勢いだった事実がある。2009年後半から2010年前半の間は雌伏の期間であり、ダブル選から衆院選への戦略を練って待機していたにすぎない。今回の橋下徹のブームは、言わば第2次ブームと言うことができる。湯浅誠が説明しているような、府知事に専念しようとしていたのが、政策上の必然や偶然や弾みで次々と別の政治目標ができたという過程ではない。これはミスでなければデマだ。最後に、「君が代」斉唱の問題についても、湯浅誠は奇妙なことを言っている。「橋下さんは面従腹背でかまわない、腹でどう思っていようと、決まりだから守ってくれ、という立場。つまり、純粋な手続き論なんですね」(P.125)。「君が代」の斉唱について、口元をチェックされるとき、「面従腹背」という立場や態度があるだろうか。これは、江戸期のキリシタン弾圧における踏み絵の問題と同じだ。この橋下徹の強制を「手続き論」の問題だと簡単に言い流し、問題の深刻さを拭い隠す湯浅誠の議論は、思想信条の自由とか、あるいはその強制や弾圧ということの本当の意味が分かっているとは思えない。歌を人前で歌うという行為は、まさに人格的な問題であり、内面と感情を動員する行為ではないか。

心を折られる強制である。だからこそ、反対する者は歌わないという拒絶の態度を貫き、逆に、歌った者はそこから内面が決壊して敗北し、転向と改宗に向かうのである。歌うことは屈辱であり屈服なのだ。湯浅誠は、思想的人格的に重い問題を事務的表面的に軽い問題のように済ませている。それは、橋下徹の合理化と正当化の手に乗ることだ。問題が分かってないとしか言いようがない。


by thessalonike5 | 2012-05-14 23:30 | Trackback | Comments(0)
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