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(朝鮮日報日本語版) 【萬物相】対南工作員「カンス教授」、波乱の人生

朝鮮日報日本語版 5月13日(日)9時42分配信

(朝鮮日報日本語版) 【萬物相】対南工作員「カンス教授」、波乱の人生
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(写真:朝鮮日報日本語版)
 1996年の初夏、韓国国民は国家安全企画部(現・国家情報院。以下、安企部)の発表に驚きを隠せなかった。本格的な暑さが始まった同年7月、安企部は「檀国大学のムハマド・カンス教授をスパイ容疑で逮捕した」と発表したのだ。同教授は、その数年前からメディアの脚光を一身に浴びてきた、いわばスターのような学者だった。「レバノン出身」の歴史学者で、書籍『新羅−西域交流史』を刊行し、学界にセンセーションを巻き起こした。学界は、カンス教授が「アラブ人学者」の目で「韓半島(朝鮮半島)とイスラムの交流」を本格的に研究し始めたことに拍手を送った。

 しかし、「フィリピン生まれ」「アラブ人学者」という本人の説明は、初めから偽りだった。もともとの名前は鄭守一(チョン・スイル)で、現・北朝鮮の咸鏡道から北間島(豆満江以北の中国東北部にある朝鮮民族居住地)に渡った流民の息子として、中国の延辺で生まれた。中国で25年、北朝鮮で15年間暮らした後、10年にわたり別の国に滞在し、国籍をごまかした後、1984年に韓国に入国した。対南(韓国)工作を行うスパイとして韓国入りした同氏は、総選挙情勢の分析、軍事装備についての状況などを主にホテルのファクスを利用して北朝鮮に報告した。朝鮮労働党対外情報調査部の指示を受けて行っていたという。

 国家保安法違反罪で拘束された同氏は翌年、ソウル高裁で懲役12年、資格停止12年を宣告された。しかし、2000年夏に刑の執行停止で釈放され、03年には赦免となり復権が認められ、大韓民国の国籍までも取得した。さらに07年には保護観察処分がなくなった。裁判所は「自由民主主義体制での生活を経験し、転向の意向をはっきりとさせ、過ちを悔やんでいる点」「出所後の諸般の義務をしっかりと履行し、安定的な生活を維持している点」などを認めた。

 そんな鄭守一氏もいつの間にか80歳近い老人になった。韓国文明交流研究所を設立した同氏は、翻訳に解説を添えた書籍『オドリックの東方紀行』を刊行した。数日前には、質素な記念パーティーも行った。オドリックは14世紀にアジアをくまなく旅行して本を書いたイタリアの修道僧だ。この本は『往五天竺国伝』、『旅行記』(イブン・バットゥータ)、『東方見聞録』と共に世界4大旅行記として知られている。文明交流を専攻した学者らしく、これら4冊の翻訳を手掛けたいとの意向を示していた鄭守一氏は、これまですでに3冊の翻訳を終え、今では『東方見聞録』を残すのみとなった。

 16年前、鄭守一氏が逮捕されたとき、何年もの歳月を共に過ごしてきた妻は、それまで夫が対南工作を行うスパイだという事実を一切知らず、大きなショックを受けた。鄭守一氏は、刑務所で暇さえあれば妻に「私のことを忘れてほしい」と手紙を書いた。これに対し、妻は「あなたを待っています」と返し、愛で包み込んだ。この獄中の手紙も2004年に書籍『牛歩で千里を行く』というタイトルで発刊されている。「スパイ・カンス教授」は断罪に値するが「学者としての鄭守一氏」を評価する人は多い。日本の植民地時代と、分断・悲劇の民族史を生き抜いてきた鄭守一氏の波乱万丈の一代記は、小説よりもリアルに感じられる。

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最終更新:5月13日(日)11時28分

朝鮮日報日本語版

 

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