「日光にあたれない……」
皇太子さまと美智子さまのご婚約発表を直前に控え、情報をかぎつけた報道陣が、美智子さまの写真を撮ろうと自宅正面に陣取る中、美智子さまのご実家、正田家ではカーテンをたえず下ろすようになっていた。
一方、「お妃選び取材班」だった元朝日新聞記者の佐伯晋さん(81)は当時、美智子さまと同じ部屋にいて、「日光にあたれない……」という美智子さまのぼやきに耳を傾け、カメラも持ち込み、時折、邸内で美智子さまを撮影していた。多くの取材陣がいる中、どうやって家に入ったのだろうか。佐伯さんに聞く第9回は、「正田邸への秘密のルート」に焦点をあてる。
――前回で1958年11月3日、美智子さまのご実家、正田家の家族会議が箱根のホテルであったと伺いました。父や兄からの反対姿勢は変わらなかったが、美智子さまは結婚の意思を固めていたようだと。
佐伯 その2日後、11月5日夜に宮内庁の黒木従達侍従がまた正田邸を訪れ、皇太子さまとの結婚を申し込んだ。夜に来たというのは明らかに、説得するターゲットは父英三郎さんと兄巌さんだ。皇太子さまの誠意に満ちたお言葉が直々に伝えられ、巌さんらも得心して、正田家は事実上の承諾を決めた。
このことは11月7日、英三郎さんの秘書、岩城さんから聞いた。詳細な話ではなかったが、あうんの呼吸で概要は分かった。正田家の了承が天皇陛下に報告された11月8日の夜あたりからは、皇太子さまと美智子さんの学友、友人らからご婚約の話が各マスコミへ流れ始める。学友らを「口止め」していた黒木侍従あたりから「話してよい」というゴーサインが出たのだろう。マスコミに対しても黒木侍従が口を開き始める。
――その頃から、正田邸の正門前には次第に多数の報道陣が集まるようになったようですが、インタビュー第1回に何度か出てきた「正田邸への秘密のルート」とは何だったのですか。
佐伯 ぼくは以前から正田邸へ入れてもらっていたが、多数の取材陣を前に、さすがに「朝日の佐伯だけ家の中へ正面から入っていくのはまずい」という状況になってきた。
日付ははっきりしないが、「もう今までのようには正田邸へは入れませんよ」と会社で報告すると、デスクだったかキャップだったかが、社会部の疋田桂一郎記者の実家が正田邸の近くだから、そこを通じて潜り込め、と指令を出してきた。知恵者が誰か進言したんだろうね。疋田さんは後に、朝日新聞1面の「天声人語」を担当するのだけれど、当時は30代半ばくらいかな、その頃から「文章がうまい」と言われていた。
で、現地に行ってみると、五反田の高台にある正田邸の正門に向かって2、3軒左隣が疋田さんの実家だった。疋田家の裏口を出るとZ字形の狭い路地があり、正田邸の生け垣に行き当たる形で続いていた。そこに正田邸の裏木戸があった。正門からは完全に死角だけど、当然カギがかかっている。
疋田家に戻って正田邸にいる美智子さんの母、冨美さんに電話をして、「裏木戸を開けて下さい」って頼んだら、冨美さんは笑いながら「いいわよ」と言ってくれた。行くとお手伝いさんが裏木戸を開けて入れてくれた。最初に裏木戸から入った日の時間帯は遅い夕方だったかな。あとはこのパターンの繰り返し。
――他社の記者による「潜入」はなかったのですか。また、佐伯さんの「秘密のルート」は他社にバレなかったのですか。
佐伯 11月上旬以降、正田邸近くの民家で電話を借りて冨美さんに「お嬢さんの写真を撮らせてほしい。いま隣にいるから」という電話をかける社も出てきた。冨美さんは撮影には応じず、手持ちの美智子さんの写真を渡すなどの対応を取っていた。深夜に正田邸の塀にのぼった記者もいたようだが、中に入ったという話は聞かなかったな。
もっとも、ある全国紙の記者が「牛乳配達」に化けて正田邸の門内に侵入したらしい、という話などを後になって聞いた。ぼくが「秘密のルート」で邸内に入っていたことはバレていなかったようだ。
――そうした積み重ねが、第1回で出てきた11月26日の「号外特ダネ写真で美智子さまが泣き崩れた」話につながるのですね。
佐伯 そして、いよいよ11月27日のご婚約発表、そして27日夕刊の各社一斉報道、という運びになる。
<編集部注:佐伯さんが当時のことを語る際、「民間」時代の美智子さまのことは「美智子さん」と表現しています>
<佐伯晋さんプロフィール>
1931年、東京生まれ。一橋大学経済学部卒。1953年、朝日新聞社入社、社会部員、社会部長などを経て、同社取締役(電波・ニューメディア担当)、専務(編集担当)を歴任した。95年の退任後も同社顧問を務め、99年に顧問を退いた。
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