「そのお話はダメ。あなたはお部屋へ上がってなさい」――当時「お妃選び取材班」だった元朝日新聞記者の佐伯晋さん(81)は、美智子さまとの初の対面取材に成功したが、肝心の質問は、母の正田冨美さんにさえぎられてしまった。
佐伯さんに聞く第6回は、佐伯さんが美智子さまに初めて取材したときの印象を紹介する。
――前回、1958年5月に「美智子さん有力」情報を聞きつけた佐伯さんが、美智子さんの実家、正田家との初接触に成功し、美智子さんの父、英三郎さんに取材した話を伺いました。父親への取材ではほとんど情報を得られなかった一方、英三郎さんの秘書から話を聞きたいと声をかけられた話も出ました。
佐伯 秘書の岩城晴一さんと会って話を聞くうちに、「美智子さん問題」の「キーパーソン」は母、冨美さんだなということが分かった。正田家は、英三郎さんは寡黙な人で、どうも「婦唱夫随」といった風情があった。そこでどうしても、母冨美さんに会いたい、と岩城さんにお願いしていたんだ。
6月26日に会えることになり、五反田の高台にある正田家にお邪魔し、1階の応接間に通された。立派な家ではあったけど、周囲は高級住宅街で、周りと比べて特別すごい、という感じではなかった。
冨美さんは口が堅くて「金城鉄壁とはこういうことを言うのか」と感じたほど、何も教えてくれなかった。逆に冨美さんが、宮内庁によるお妃選びの状況についての質問をぼくにたくさんしてきた。あとで「今後も話を聞きたい」という趣旨も伝えられた。
――そのときは美智子さまとはお会いできなかったのですか。初めて美智子さまと話ができたのはいつですか。
佐伯 ずっと後になって8月31日、五反田の自宅で、だね。正田家が恒例通りしばらく軽井沢へ行っていたうちの8月13日に正田家別荘にぼくが「遊びに」行き、そこで冨美さんから「東京に帰ったら美智子と会う機会をつくりましょう」と言ってもらっていた。
当時、皇太子さまも夏に軽井沢に滞在していた。それで先輩たちと交代で「軽井沢警戒」として出張していて、ぼくも2週間ほど軽井沢に泊まり込んでいた。
その夏、軽井沢でテニスをする皇太子さまの周囲でテニスをする若い女性たちには、各マスコミから注目が集まっており、美智子さまもそのうちの1人だった。特別に2人が親しそう、という雰囲気はまったくなくて、周りにいる多くの女性の1人という感じだった。そういう意味で何度も美智子さんを目にはしていたが、現地で声をかけるという雰囲気ではなかったな。
――8月31日の美智子さま初取材のときの印象はどうでしたか。
佐伯 当時の取材ノートには「○(まる)正 会見」としか書いていないが、よく覚えている。1番印象的だったのは、「こんなきれいな目をしていたのか」ということだった。「富士額(ふじびたい)」、富士山のような額も目についたし、華奢という感じではなく、「健康美」という印象だった。夏に屋外でテニスをしていた割には日焼けしてなくて、お化粧もほとんどしていなかった。いわゆる「白粉(おしろい)」は日頃も使っていないと後で分かった。
ソファに座るぼくの正面に美智子さんが1人用のいすに座り、美智子さんの左手少し後ろの方に冨美さんが座った。ぼくと美智子さんの間にテーブルはなかったな。美智子さんのそろえた両足がはっきり見えた記憶がある。
――どんな質問をしたのですか。
佐伯 いきなりお妃選びの本題、というわけにもいかず、大学の卒論は何をおやりになったのですか、と当たり障りなく切り出した。大学を卒業して間もない頃だし。すると、英文学のジョン・ゴールズワージーをやったという。1932年にノーベル賞を取った人だ。日本ではあまり知られている作家ではなかったが、たまたまぼくは文学好きの伯父の家で、彼の「フォーサイト家年代記」を読んだことがあって、それで話が少し盛り上がった。
5分ぐらいの雑談の後、ズバリ聞いてみた。「軽井沢だけでなく、東京のテニスクラブでも皇太子さまとテニスを一緒にしていると聞いているが、皇太子さまとはどういう……」と切り出すと、ここで「そのお話はダメ」と、冨美さんが右手を美智子さんの顔に近付けるようにして制止した。「あなたはもう失礼してお部屋へ上がりなさい」と。まるでヒナをかばう親鳥だな、という感じだよ。美智子さんはニッコリして立ち上がり、おじぎをして静かに出て行ってしまった。
――厳しい展開ですね。佐伯さんはその後、追い出されたのですか。
佐伯 いやいや、その後冨美さんと1時間ばかり話し込むことになった。実は、美智子さんに会わせてもらえることが決まった8月13日からその日(31日)までの2週間強の間に、大きな状況の変化が起きていたんだ。冨美さんは、新聞記者に聞きたいことがたくさんある様子だった。
<編集部注:佐伯さんが当時のことを語る際、「民間」時代の美智子さまのことは「美智子さん」と表現しています>
(佐伯晋さんプロフィール)
1931年、東京生まれ。一橋大学経済学部卒。1953年、朝日新聞社入社、社会部員、社会部長などを経て、同社取締役(電波・ニューメディア担当)、専務(編集担当)を歴任した。95年の退任後も同社顧問を務め、99年に顧問を退いた。
昭和天皇と美智子妃その危機に―「田島道治日記」を読む (文春新書) 加藤 恭子 田島 恭二 by G-Tools |
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