不思議なことに、
絵を書かなくなり、音楽を楽しまなくなり、
感覚を鈍化し、生きるために仕事をし、
仕事をするために生きるという毎日を送ると
生への執着が消えていきます。
あれほど「死」を恐れ、衰えを恐れ、
幼少期から生に執着しつづけたのは
結局なんだったのか。
今このまま死ねない、才能があるから生かさなくては、
後世に作品を残さなくては、とばかみたいに自惚れて
気負っていたころは、絶対に死にたくなかった。
一分一秒が、絵に、芸術に、作品に費やされないことが
惜しくてたまらなかった。
その執着心がないのだ。日々なくなって、鈍くなって、
日本的にいえば
執着しないウツクシイ生きかたとやらに(少なくとも見かけは)なっていくのが
わかる。いつ死んでもまあ、諦めがつくというか、
楽チンだ。
いままでからは考えられないほど楽チンなのだ。
いいこととは思えないけど、ただ、生きるということに時間を無駄に費やす
(無駄と断言します。納税奴隷だしね)のは
なんという、心理的には楽なことだろう。
東京に残してきた作品への執着、あれほど強かった失えない恐怖さえ
薄れていく。どうせみんな死ぬんだ。ベクレちゃったしね。
じゃ、今死んでもよくね?という程度に
モード変更しようとおもえばできそうな勢いだ。
一日一日を生きるのはとても危険で奇跡なことだと神経を尖らせる必要もない、
ただ鈍く、平凡に、ウツクシク(笑)淡々と日々を送る。
生む機械のひとつとしてイキル。息をするだけのイキル。
ああ、すばらしい!
こんな楽な生き方があったなんて。
2012 / 04 / 30
執着が無くなっていく
posted by mutsumi mori at 20:59
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