トウモロコシの皮むき会(お休み中) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2010年10月03日 縁もゆかりもない世界 このエントリーを含むブックマーク

 世界ほど広くはないが、かつての自分には世界そのものに感じられていた

場所には、いつだって生きのいい若者のにおい、むせ返るほどの素晴らしい

青春の香りが立ちこめている。大学という場所に足を踏み入れるたび、卒業

から六年以上を経てなおあの日々が続いている気がして、なつかしいような

恥ずかしいような。それは単位を落とすことや留年とは違い、進級もなけれ

卒業もない、いつになっても覚めることのない学生気分とでもいおうか。


 専修大学生田キャンパスを訪れるのは初めてのこと。向ケ丘遊園から線路

に沿ってしばらく歩き、左に折れてゆるい坂道を登ると、教養学問を身に

つける場所としてはいささか大仰な、コンクリート造りのいかめし建物

見えてくる。開演を前に、中庭のベンチに座って芝生の上でリフティング

する学生を眺めていたら、あの日々が今もどこかで続いている感覚が増して

きて、今ここからすぐ学生時代を再開できそうな錯覚におちいるのだった。


 21世紀活字文化プロジェクトの一環として行われた活字文化公開講座

参加。作家川上未映子さんによる「どんどん膨らむ、本の素敵」と題した

基調講演は、自身の生い立ちから今にからめて、本を読むということ、書く

ということはいったい何かと伝えるもの。会場に集まった、広く表現に関連

した仕事に就きたいと考える多くの学生たち、および現にかろうじて就いて

いる自分にも届く、熱と想いの両方がこめられた内容であったように思う。


 人は言葉で物事に名前を与えることで、はじめて世界を知ることができる

ということ。幼少時、祖父の死を受容できなかった体験から、学校教科書

に載っている作品からキーワード抽出し、違和感のようなものを何として

でも言葉で表そうと懸命だったという逸話には、勧善懲悪を描いただけでは

ない、現在の作品にも通貫する善とは何か、悪とは何かを世界に問う姿勢

発端があるのだった。探し続けるべきは、自らが驚嘆する対象なのだろう。


 人生論や苦労話を扱った詩や小説の類ではなく、莫とした大きなものへの

応接を果たすために、やがて思想や哲学に傾倒していった十代後半。物事を

ロジカルに突き詰めるには、相当の時間技術が要ると知り、大阪に暮らし

ながら通信講座で学び、たまに訪れる東京を「知のイメージ」と表現された

ことなどからも、書く以前にどうしたってあってしまう、自らが欲すること

への接近意欲の高さ、知を獲ることに一心であった様子が実によく伝わる。


 価値を揺さぶり、思考停止に抗すためには、現実に対してフィクション

投げ込んで呈示することができる文学である必要があった。慰めでは決して

なく、読んだものの悲しみや苦しみを半減できる救済する力を持った文学

ありたい。最後学生たちに向けて言った、「文体うんぬん以前に、どうか

自らのうちで決着がつかないものに取り組み、それを表現してほしい」との

言葉には、自らを含めた表現者に言い聞かせているような切実さがあって。


 専修大学文学部教授川上隆志氏、同准教授の米村みゆき氏を交えた三人

により、本を読むことに関連して、編集者という仕事、あるいは生きものに

ついて、母と子、文体、川上未映子さんの作品に関するトークセッション

展開。かつてよくいた作家侵食までをともにするタイプ編集者をコバン

ザメと呼び、彼らの存在が作品の熱量を上げていたものだが、今やそういう

人ばかりではないということ。「書く以前」にある、仕事に向き合う姿勢


 母と娘をテーマとした『乳と卵』は、身体性と、感情という罪悪感の二つ

を介した、同性同士のコミュニケーションについて言及した作品であるとの

米村准教授の解説に納得。川上未映子さん曰く、しょせん世の男性が定めた

にすぎない、ある種の幻想化した女性性に抗すべく、自らの母の逸話を散り

ばめつつ、母娘の間の呪縛を解こうとして描いた作品なのだという。「最後

フェミニズムの砦」と称し、叶姉妹のあれやこれやについて挙げるなぞ。


 作家に必要なのは世界を見る角度であり、解像度の高さ。文体を肉とする

なら、骨格であるそれら文体に先立つもの(文体ゼロ)をこそ研磨すべきで

あって、文体はあとからついてくるものにすぎない。自分世界をつかんで

いるのではなく、世界から自分がつかまれている、選ばれているのだという

客観性を持とうという最後の話は、会場の多くの人の世界解釈を変える力

が込められていたと思う。安住を揺さぶられたような心地で会場をあとに。


 通りを挟んで向こうがわに明治大学の校舎があり、周囲には緑も多く残る

など、土曜の夕方の大学は大きな肯定か、あるいは縁もゆかりもない世界

美しさのよう。一つしかない事実に対して、人の数だけ用意されている世界

とは、目の前の光景であり、同様にはるか遠くの芥子粒でもあって、二つの

解離もまた世界以外の何ものでもないのだろう。線路沿いの細い道を向ケ丘

園駅に向かって歩きながら、しばらくそんな文学的な思いにとらわれる。


SasakiTakahiroのブックマーク

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