誰でも恐れていることと
願っていることを,やすやすと信じる フランスの詩人 ラ・フォンテーヌの言葉です。 インターネットというコミュニケーションツールは、時代だけでなく、投稿者の人間性を赤裸々な映し出す鏡でもあると私は思います。 自分にとって「魅惑的」で気になる存在がいるからこそ、心がわきあがり 言葉(文字)で表現したくなるのではないでしょうか。お互いが影響し合う事で「なにか」が見えてきます。 主に創価学会系ネットワークでのやりとりを通じて、 阿部日(あべひ)ケ~ンが係わってきた人々のネット上の連携行動や 書き込みなどを元に、私が感じた事を書き連ねていきたいと思い公開ブログをつくってみました。 過去に私が公開した資料は以下です。 ◎大石寺納骨被害者を嘲笑う日蓮正宗法華講員 http://abenikke-n.shukubou.com/remains/record.php ◎JR福知山線事故を嘲笑う 日蓮正宗 法華講 http://abenikke-n.shukubou.com/jrf/record.php ◎しばくよおまち(日蓮正宗門徒・黒川和雄氏関連のログ) http://abenikke-n.shukubou.com/heresy/ (いただきもの) ◎模擬店 “帝釈・天邪鬼”掲示板記録 (れいな=黒川和雄氏の過去ログ集) http://abenichi.php0h.com/tai&ama/ ◎お世話になった 「ふうふうさんのwebナビ」 http://who-who.freehostia.com/webnavigation/shortmain.html ◎ふうふう雑記帳 http://who-who.freehostia.com/webnavigation/diary2/nik.cgi ///////////////////////////////// なおこちらのブログのコメント欄は非公開にしております。 こちらの記事を見て阿部日ケ~ンと対話や討論をしてみたいという人は 10年間お世話になっている「富士宮ボーイ掲示板」へどうぞ。 →http://fboybbs.dip.jp 「富士宮ボーイ掲示板」はアクセスipが表示される掲示板ですので、 ネット上で自分のホストを漏らしたくない人は書き込みはされないように ご注意ください。 にほんブログ村 昨日公開した記事は創価カテゴリーでもアクセスがあったようで
おかげさまで人気記事最高5位までランクアップされました。 5/11 14:00現在、創価カテ9位、仏教カテ1位です。 http://captivated.exblog.jp/15264997/ まとまりのない文章なのに大変に恐縮です。 しかしタイトルの「僭聖の意義」が菊川(吉川)さんへのメッセージと混ざって しまったので、以前公開した記事を手直しして今一度「僭聖」の意義を説明してみます。 御書の「法華初心成仏抄」を引用して三類の強敵を立て分けてみましょう。 (勧持品に説かれる法華経の敵人三類) 一には在家の俗男俗女 二には出家の人なり 三には阿練若の僧なり ↓ ↓ ↓ △一般門徒 ▲在家を統括する職業坊主 ☆職業坊主を統括する 最上位坊主 ////////////////////////////////// (法華経の行者に相対する役割) ○在家の敵人 ※ 法華経の行者を憎み罵り打ちはりきり殺し所を追ひ出だし或は上へ讒奏して ↓ 事実上の実行犯。後二つの「出家」や「阿練若の僧」からすれば無関係と 主張できるため盾にもなる。便利な鉄砲玉、捨て駒の立場。 「上へ讒奏」とは国家権力への告げ口を指します。 --- ○出家の敵人 ※ 物も知らざれども智者げにもてなして世間の人に学匠と思はれて 法華経の行者を見ては怨み嫉み軽しめ・・ ↓ 有識者という立場をもって「実行犯」を扇動する立場。いわば教唆犯。 共謀の立場であっても直接の実行犯にはなかなかならない。 扇動した在家や民衆が罪を犯しても責任は取らない。 --- ○阿練若の僧 ※ 此の僧は極めて貴き相を形に顕し三衣一鉢を帯して山林の閑かなる所に 篭り居て在世の羅漢の如く諸人に貴まれ・・・ ↓ 在家・出家を束ねる立場であり、一般大衆・門徒や末寺の坊主からは 聖僧と言われ世間の評判は悪くない。 裁判などの公場で世間の目にさらされたり、本性がバレる事を一番恐れている。 また自分の付加価値を高めるために、 おいそれと人の前にでてこない。 また在家・出家にはどうすることもできない絶対的地位にある。 /////////// ※ 法華経を説の如くに読み持ち奉らん僧を見ては憎み嫉んで云く 「大愚癡の者大邪見の者なり総て慈悲なき者外道の法を説く」なんど云わん ↓ 僭聖は在家と出家の前で、法華経の行者を責める為の「教義的な根拠」を提供する。 弟子に行者へ圧力をかけさせる為の動機付けをする演出者であり主犯格。 細かい直接の指示は配下の「出家」が出しているため、「阿練若の僧」の関与を 証明する根拠は、かろうじて「発言」や「文書」に隠語や含みのある言い回しを施し ’痕跡’ だけしか残らないように、あらかじめ配慮されている。 /////////////////////////////////// つまり正法を阻むために「組織的」に蠢いている団体であることが 法華経の行者を責めたてる・三類の敵人・の必須の条件だといえます。 現在の裁判でも 実行犯 と 教唆犯 がいるならば 主犯格を疑わなければ いけないですよね。 つまり三類強敵が現れたのならば責める本丸は、阿練若の僧。 僭聖の者だといえます。 これを日蓮大聖人が迫害された鎌倉時代に当てはめれば、極楽寺良寛や建長寺道隆 が僭聖なので、よく御書に出てきます。 俗衆増上慢は 「無智」 道門増上慢は 「邪智」 僭聖増上慢は 「悪心」 と覚えておくと良いとおもいます。 菊川(吉川)さんが主張した「ある掲示板が現代の僭聖」などという意義付けは 教学的に、本来の三類の強敵からみても、かなり的外れなのです。 ↓ よろしければご協力お願いいたします。 にほんブログ村 創価の森の小さな家・月下の騎士を主宰する菊川(吉川)さんが私について
現代の「僭聖増上慢」ではないかとの批判をしているようです。 http://megalodon.jp/2012-0509-2347-40/sokaknight.exblog.jp/18265639/ ※良観は「僣聖増上慢」である。この「僣聖」とは「聖者のふりをしている」と いう意味である。 法華経勧持品に、「人里離れた静かなところで、人を軽んじ賤(いや)しめる 者あり」とある。手の届かないインターネットサイトで、大威張に他を批判する 者は、この経文に符合するのではないだろうか。 他の学会員の行動を監視しては、未熟だとか幼稚だとか、あるいは法律違反と 馬鹿にする正体不明の自称学会員。 このような連中が集まる掲示板は、“現代版「極楽寺良観」系サイト”と 私は命名したい。 (現代版「極楽寺良観」系サイトに要注意 2012年 05月 09日) 三猿運動とやらで「有害サイト」に認定し、菊川(吉川)さんの記事を批判するものが 集まる掲示板を「現代版極楽寺良寛」だとラベリングされたいようです。 事実誤認に基づいた主張だと私はおもいますので、少々菊川(吉川)さんの 主張を読み解いてみましょう。 まず インターネットは決して手の届かない聖地ではありませんし、静かな所でもありません。 法に触れ裁判ともなればネットの書き込みは証拠として採用されますし、「つぶやき」の ような短文であっても炎上の元になり、個人情報まで晒されるのが現状です。 つい最近でもとあるお寺でアルバイトしていた大学生が不謹慎な画像をツイッターを 通じて掲載していた事でバイト先の寺に苦情や罵詈雑言が殺到したり、大学で所属して いた部活動が無期限停止になるなど、目立ちたいだけの軽いノリが関係者に大迷惑を 被らせる結果になったことが話題になっています。 (参考リンク:甲南大生“下半身露出”余波…苦悩する神戸の古刹) http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20120505/dms1205050900001-n1.htm 尻を出した学生がこれだけ叩かれているのですから、まして不法行為の助長や 自他共の個人情報の漏洩他を肯定する自称創価学会員が増えるのは是認される ような事ではありません。 先日の公明新聞にも「勝手に個人情報をネットで公開される事」を不快と感じている 人が9割以上にも及ぶことが指摘されていました。記事のソースは以下です。 //////////////// ※■ユーザの9割以上がfacebookへの 勝手な情報公開に不快感を示す 回答者全体に、友人・知人が勝手に自分の情報や 写真をfacebookで公開していた場合にどのように感じるかを聞いたところ、 全く気にしないとしたユーザは9.4%にとどまり、全体の9割以上がfacebook上で 自分の情報が知らないうちに扱われることに、不快感を示しています。 また、「非常に不快」が46.9%を占め、勝手に情報公開された際にはトラブルに発展 する恐れがあります。 (参照リンク:-SNSと携帯電話の利用におけるプライバシー意識調査-) http://jp.trendmicro.com/jp/about/news/pr/article/20120410035738.html /////////////// これは実名主義のFacebookに限らず、ネット上で自分以外の誰かが勝手に情報 を公開されることへの危機感が高まっている事を示唆しているとおもいます。 自分が良いと思うから他人の代わりに行動をネットで公開するなどというのは傲慢 ではないでしょうか。 また菊川(吉川)さんがリンクを貼りことある事に紹介し、賞賛のコメントを入れ そそのかし共闘して私を攻撃しているブログの内容は人を軽賤せしめていないのでしょうか。 菊川(吉川)さんは「僭聖」について下記の文言を引用しています。 「偽善者にとって恐ろしいのは、自分たちの実像が暴かれること」 この指導の趣旨は、名聞名利に生きる人は、実は虚飾の上に成り立っている事 を認識しているからこそ実像を暴かれることを忌み嫌っているという事に尽きる とおもいます。 そっくりそのまま菊川(吉川)さんが今実行している事にあてはまるのではない でしょうか。 またブログのランキング等も菊川(吉川)さんのほうが断然人気がありますよね。 私のHNはいままで貴殿らが散々批判をしてきていたのではなかったでしょうか。 私は決して聖者だとはおもっていませんし批判されるようなHNをもって自画自賛 する意味がありません。 僭聖のたてわけについても菊川(吉川)さんは御書を何度も通して拝読されている との事ですが、内容を理解されているとは考えにくいです。 極楽寺良観は鎌倉幕府の本来すべき公共事業や慈善事業を行うことで幕府に地位を 認めて貰い、利権を得て坊主の身で財宝を蓄え造った道の通行料などを徴収したり 銭を利息を取って貸したり、関米(せきまい:通行税)を取ったりして人々を 困らせていた事を日蓮大聖人が「聖愚問答抄」などで記されている事を御存知の はずです。 いったい私やお世話になっている公開掲示板のどこが極楽寺良観のような「僭聖」 なのでしょうか。まったく理解に苦しみます。 世法にも則った指摘をされた事を「自分が恥をかかされた」と逆恨みして ネットで親しくなった人たちをも巻き込んで「僭聖増上慢」「有害サイト」と一方的に罵り 「「人間"失格"」」「日顕のクズ・あべひ」「 創価学会を僭称する寄生害虫・あべひ」等々 悪口雑言を書き連ねる主宰者とリンクをさせている 菊川(吉川)さん。 [いかなる乞食にはなるとも法華経にきずをつけ給うべからず](四条金吾殿御返事) これみよがしな扇動によって貴殿がコツコツ築いてきた普通の学会員のイメージを自ら壊し 普通でない創価学会員をイメージさせている事に早く気がつくべきではないでしょうか。 ↓ 菊川(吉川)さんの「僭聖」イメージ操作は少々大げさだと思われるかた ↓ ご協力お願いします。 にほんブログ村 菊川(吉川)さんが法華経の六難九易の解説を試みられているようです。
http://megalodon.jp/2012-0509-1551-57/sokanomori.exblog.jp/17932426/ 私は菊川(吉川)さんの説明よりも、タニケンさんの説明のほうが上手だとおもいます。 http://taniken3.blog114.fc2.com/blog-entry-12.html 末法において法華経受持し弘めることが、不可能に見える「九易」よりも 難しいという事だとおもいますが、では現代においての法華経「六難」の 修行とはなにか?という部分を付けるともっと良い感じになるとおもいます。 でもこのように仏法を自分なりに言葉にしてあらわそうとされる事は素晴らしい 事だとおもいます。 しかし残念ながら、ブログ村創価のカテゴリー内では「教学」の内容の正確性よりも 「その人の人気」でランキングがしめられてしまいます。私がお勧めしたタニケンさんの 記事は上位には入りませんでした。 なにを書かれているかよりも、誰が書いたかで小さなカテゴリー内での順位が ついているのが現状です。 時をおかずに返答をしたり相手の所へ書き込んだりする「マメ」さが人気を左右します。 内容がほとんどない短文の「更新予告」ですら一位になったりするのはその証拠でしょう。 さて、少々話がそれましたが現代の「六難」の修行とは、「南無妙法蓮華経」を 唱え他に弘めることにつきると思います。 残念ながら、ごく普通にお題目を唱える事ができ同志と仏法を話す事が日常に なっている学会員さんはともすれば「ありがたみ」が薄れてしまう事がままある のではないでしょうか。 あたりまえのように御本尊に向かいお題目を唱え、学会活動ができる。 私は六難九易を論じる時に、いつも「一眼の亀」の説話を思い出します。 末法において法華経と出会う「希少性」、またその法華経を受持している同志に 出会う「希少性」、そしてその同志と法華経のエッセンスであるお題目。 南無妙法蓮華経を唱え研鑽し弘めていく事ができる「希少性」に気がつか なければなかなか感謝の心は湧いてこないと思うのです。 なぜ信心をしているのか?と問われて、親が信心をしていたからと言う人も中には いますが、なぜそんな親の所に自分は生まれてきたのでしょう。 とんでもない確率であることは間違い在りません。でもそれに気がつかない。 恩を知らなければ感謝できようがありませんよね。 では、「感謝の心」とは他人が見ることができるのでしょうか? 人間は媚びへつらう意図があれば感謝の言葉は出せます。 学会や学会員に対して感謝の言葉はさっと口に出せても、本当にそうおもって いるのかどうかは言葉だけでなく、むしろ「振舞い」(行動)に顕れます。 青年部時代に人材グループ等で、学会活動は「している」(してやっている)では なく「させていただいている」という心構えが大事だと指導されましたが この根幹になければならないものが知恩・報恩感謝の心ではないでしょうか。 勤行の祈念文で毎日「報恩感謝」の語句を黙読していても、活動報告等で創価学会や 三代会長を賞賛できていても、実際には仕事・家族・信仰との間でいつのまにか “自分本位の”優先順位ができてはいないでしょうか。 仕事が忙しいから学会活動はおもうようにできない 家族が大事だから信心は二の次 信心が大事だから家族や仕事は適当にする このいずれの考えも報恩感謝がまだまだできていない証左ではないでしょうか。 ましてネットコミュニケーションを優先して現場をおろそかにしていれば 本末転倒です。 ちょうど5月の座談会御書は「開目抄」の有名な部分。 「我並びに我が弟子諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、 天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、 我が弟子に 朝夕教えしかども疑いををこして皆すてけん つたなき者のならひは約束せし事をまことの時はわするるなるべし] (開目抄) 仏法(法華経)では、自らが過去世、仏(師匠)に報恩感謝し「末法に正法」を弘める為に 進んで現在の乱れきった世の中に生まれたという因縁が説かれています。 正法を疑う心、捨てる心、嘆く心。 これらは過去世の約束を忘れてしまって いるのではないかと日蓮大聖人は問われているのです。 「まことの時」とは苦難に遭っている時こそが、究極の目的である成仏へと 境涯を開くチャンスだと言われているのではないでしょうか。 ついつい忘れてしまう事を責めておられるのではなく、「なんの為の信心か」を 明確にしないと、六難九易の九易のたとえに、たやすいこととして説かれた とてつもない難事よりも、もっと些細な事を理由にして学会活動を休んだり やめてしまったりしてしまうものだと指摘されているのです。 ちょうど大白蓮華5月号の76ページにも「自らの誓願が破れる」と表現されている のは、私たちが末法で普通に南無妙法蓮華経を唱える事ができている「原因」は 師匠への報恩の誓願の「結果」であるという事が全く別であるように考えている 様子を示しているのだと思います。 口先だけではなく「本当の報恩感謝」を体現している人は、 『我日本の柱とならむ 我日本の眼目とならむ 我日本の大船とならむ等と ちかいし願(ねがい)』 (開目抄) 日蓮大聖人のように、だれでもない「私」が日本の人々救ってみせるという気迫 が感じられます。 この大誓願に生きる人は「やらない理由」「できない理由」を毎日朝夕に考えて お題目をあげているはずがありません。 信心をやめさせようと苦難が襲いかかってきている時こそ「まことの時」境涯を あげるチャンスであることを信仰体験を通じ身をもって会得されているからです。 ○○さんがどうだとか学会の組織がどうだとか、仕事がどうだとか、信心できない 理由ばかりを探している愚痴の心を持った人や、ちっぽけな名聞名利に生きて満足 している人を、いくらおだてたところで苦難と立ち向かう「大誓願」をおもい だしてくれはしません。むしろ逆効果です。 一人一人が怠惰や我欲を制しどこまで純粋に弘教に邁進できる人になれるか 一番難しい。 だからこそ、手本となる師匠や現場で影の闘いに徹している同志との心の距離を 縮めることが肝要になってくるのではないでしょうか。 法華経六難九易の譬え・開目抄は共に、一見するとたやすいと思えるような心がけ にも実は「末法広宣流布」の成否を左右する要があるとの意義があるように思えます。 どこまで、一人たつ精神を自分に刻み込めるか。 創価学会は「癒やし」を求める人の休憩所ではありません。 また感謝に裏付けられた行動(振る舞い)に愚痴や嘆きはありません。 あらゆる苦難に怖じず立ち向かう。 より多くの一人一人がこの誓願に本当に目覚めたとき、日本を覆い尽くす不安の闇は 消え去ることでしょう。 ↓ ご協力お願いします。 にほんブログ村
先月初旬に全国的な被害を出した「爆弾低気圧」の被害が、日蓮正宗が鳴り物入りで
建築した佐渡の塚原三昧堂跡地公園に及んでいる事を「創価新報」が報じると よほど腹に据えかねたのか日蓮正宗門徒の機関誌「慧妙」一面で反論がされていました。 佐渡には日蓮大聖人が流罪されたという塚原三昧堂跡と伝承がある寺院(根本寺)も ありますが正確にはわからず、日蓮正宗はそれを逆手にとり “『立正安国論』正義顕揚750年記念事業”と位置づけと佐渡市目黒町の土地の一角を 購入。 浄罪を投入して付近を公園のように整備したようです。 その模様は日蓮正宗の公式HPやパンフYOUTUBEにも法要の次第を見ることができます。 http://www.nichirenshoshu.or.jp/page/jpn/topix/20080521_j.htm http://megalodon.jp/2012-0505-1631-35/orange.zero.jp/zbk87110.olive/Contents/Tsukahara.html (パンフレットの内容) http://youtu.be/GOPgn1bkC00(開眼法要の動画) さて今回問題になったのは、整備された塚原跡地碑の奥にある題目塔を囲む杉の木が 強風で数本根こそぎ倒れてしまった事を「創価新報」が報じた事に端を発しています。 日蓮正宗門徒機関誌「慧妙」の編集部はよほどこの事実を矮小化したかったのでしょう。 創価学会側がオウワク報道をし、「題目塔は無事だった」と誌面を使って反論したのです。 以下その「すりかえ」変化部分 /////////////// 学会報道を盲信する学会員達なら、記事の大見出しや写真を見た時点で思うだろう、 “なるほどこの間の爆弾低気圧で吹き倒された杉の木が「題目碑」を直撃したのか”と。 しかし、『新報』のトリック記事に騙されぬようよくよく注意して見ていただきたい。 (中略) その内数本は「まるで題目碑をめがけるように倒れた」と書かれているが、 その木が「題目碑を直撃した」とは書かれていないのである。 (中略) しかし、このような光景も、ひとたび創価学会の手にかかると、まるで“強風が題目碑を 直撃して被害が出た”かのごとき記事になってしまうのだから恐ろしい。 (慧妙 2012/5/1付け一面 これが学会報道の呆れた実態だ!~抜粋) (参照画像) //////////////// 慧妙の編集者は最初から学会員が記事をみて「題目碑に杉の木が直撃した」とおもって いるとミスリードを試みようとしているのです(大笑) さらに滑稽なのは、創価新報の見出しが実は「杉の木が直撃した」と一切書いていない 事を編集者が自ら証明しています。 そしてシメの部分では創価新報に正確に表現されていた @強風が題目碑を直撃。周辺の杉の木に被害がでた@という説明を無視。 自分たちの論理に合うように強引に「題目碑に被害が出た」かのごとき記事とすり替えて いるのです。 当然慧妙を鵜呑みにした門徒は「慧妙」の記事を元に、さらに適当なウソを入れ込んだ 下記のような記事しか書けません。 ※写真入りでいかにも罰の現証と言わんばかりに報道したが、よく見れ ば題目碑そのものには直撃していないことが誰にでもわかる。巧妙に当たったように 見せかける角度からの写真を掲載したに過ぎないものだった。 http://megalodon.jp/2012-0502-1936-46/blog.goo.ne.jp/gakkaia-z/e/dba636cdce421b49e5889c9e1fbbb30b 慧妙の洗脳は大成功というわけです(笑) とかく、日顕宗が買い付けた土地に造った公園に実害がでたことを、ことさら 題目碑への直接被害として矮小化しようとしているのですから見苦しいったらありゃ しません。 動画をみても解るように、強風がマトモにあたるように周囲の木を切り倒したのが 遠因だとおもわれます。ご当地の気象を無視した乱開発の結果ではないでしょうか。 ほとんどだれも参詣することのない独りよがりな公園に、門徒の浄財をつぎ込んで整備 しなおすしかありません。 門徒にすれば、「今までの負担を継続され強いられるかもしれない・・」その不安と憤りを 真実を伝えた創価学会の新聞に対してぶつけられても迷惑ですね。 怒りの矛先を創価学会に向けて、宗内のガスを抜く目的が慧妙にはあるようにおもえてなりません。 ↓ 倒れた杉の木をどうするのかな?と思われる方ご協力おねがいします。 にほんブログ村
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