2010年2月20日12時41分
リレハンメル冬季五輪大会のスキージャンプ団体戦で惜しくも銀メダルになり、日の丸の旗を持って観客席に手を振る日本チーム。左から、西方仁也選手、原田雅彦選手、葛西紀明選手、岡部孝信選手=1994年2月22日
バンクーバー五輪のジャンプ個人ラージヒル予選が行われた19日(日本時間20日)、予選トップの142.5メートルを飛んだ葛西紀明選手(37)ら、日本人選手の活躍を東京から見守る男性がいた。長野五輪で日本の大逆転金メダルに陰で貢献した元ジャンプ選手だ。
「これまでの国内大会を見ていても葛西君はオリンピックにピークがくるように集中していた。プレッシャーの中、安定した自分のジャンプができている」。東京の自宅でテレビ観戦した西方仁也さん(41)はそう感じた。20日に決勝、そして22日に団体戦と戦いは続く。
1994年のリレハンメル冬季五輪。西方さんはジャンプ団体メンバーだった。一緒に飛んだのは、今大会、日本選手団主将を務める岡部孝信選手(39)、葛西選手、そして雪印スキー部でコーチを務める原田雅彦さん(41)。
金メダルをほぼ手中にしたかにみえたが、最後のジャンパー、原田さんが失速。ドイツに逆転を許した。頭を抱えてしゃがみこむ原田さんに3人で駆け寄り声をかけた。「やった、銀メダルだぜ」。それが自分たちの実力だと納得できた。
次こそと狙った4年後の長野五輪。西方さんはけがで出遅れ、選考からもれた。与えられた舞台はジャンプ会場・白馬でのテストジャンパー。ジャンプ台の状況を確認する役割で、テストジャンプの結果によって審判団がスタート位置の変更や、競技続行の可否を判断する。
岡部選手、原田さんが出場した団体戦の日、白馬は試合前から大雪だった。日本は1回目を終えて4位。ところがその後、試合は雪で中断した。
雪はやまず、テストジャンパーが飛べるかどうかで、試合続行の可否が決まる状況になった。そんな中、西方さんは視界がほとんどきかないジャンプ台から何度も飛び、鮮やかなジャンプを決めた。試合は再開され、日本は大逆転の金メダルをつかんだ。
その夜、岡部選手がテストジャンパーたちの宿舎に金メダルを持ってきた。「みんなのおかげで飛ぶことができた」。原田さんが自分のアンダーシャツを着て飛んだとも聞いた。自分もメダリストになれた気がした。
西方さんは3年後の2001年3月、現役を引退。今は家族を札幌市に残して東京に単身赴任し、企業の広報部で働く。
今も忘れられないジャンプは、リレハンメル五輪団体戦の2回目だ。体全体が翼になったようにふわっと浮いた。
「1本でいい。ずば抜けたジャンプを飛んでほしい」。大ジャンプの着地を決める仲間たちの姿を脳裏に描きながら、声援を送っている。(宮嶋加菜子)
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(日本時間)03月01日(月)07時58分現在
順位 | 国 | |||
---|---|---|---|---|
1 | 14 | 7 | 5 | |
2 | 10 | 13 | 7 | |
3 | 9 | 15 | 13 | |
4 | 9 | 8 | 6 | |
5 | 6 | 6 | 2 | |
20 | 0 | 3 | 2 |
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