保管者のために使える有償の民間臍帯血バンク
リハビリ病院を退院して約半年後の2005年10月。車いす生活となった埼玉県の又野亜希子さん(36)は「あれ、生理が来ていない」と思った。普段なら気にしないくらいの遅れなのに、なんとなく気になった。自宅にあった妊娠検査薬で調べたら、「陽性」。頸椎(けいつい)を手術した病院の産婦人科にすぐに行くと、妊娠5週目と分かった。
「え~! 自分のことさえ自分でできないのに、妊娠が続けられるのだろうか。出産できるのだろうか」と心配になったが、そんな不安を大きく上回る喜びがあった。
「私なんて生きる意味がないと思ったこともあるけど、自分にお母さんとして生きる道があるんだ、と思えた。主人のために何かができたということも、とても幸せ」
妊娠の吉報は親族に瞬く間に伝わった。義母の知り合いに、へその緒や胎盤から取った臍帯血(さいたいけつ)を凍結保管する「民間臍帯血バンク」の関係者がいた。義母から「保管をしておいたらどうか」と勧められた。
臍帯血は、白血球などの血球成分になる造血幹細胞が豊富に含まれている。造血幹細胞を白血病患者らに移植して治すための「公的臍帯血バンク」が運営されている。これは、臍帯血を無償で提供し凍結保管しておく組織だ。白血病などの病気になり、「臍帯血移植」が必要になった患者に対し、患者に適合した臍帯血を供給する。ただし、臍帯血を提供した人が病気になったからと言って、その臍帯血をもらうことはできない。
そこで、自分の子供らのために、有償で臍帯血を凍結保存する「民間臍帯血バンク」がある。母親と赤ちゃんをつなぐへその緒などの臍帯血は、母親の血液ではなく、赤ちゃんの血液だ。当然、赤ちゃんの血液と臍帯血では白血球の型(HLA)が一致するため、移植しても免疫拒絶反応が起きない。また、兄弟姉妹間でHLAが一致する確率は4分の1と高いので、使える可能性が高い。
また、臍帯血には、様々な細胞に成長したり、免疫に関係する物質などを放出したりする「間葉系幹細胞」も含まれていると言われ、将来、再生医療に使われるかもしれない。
亜希子さんは、民間臍帯血バンクのパンフレットを読んで思った。
「家族、友人に守られて、私は生きることができ、そして、赤ちゃんができた。将来、この子が万が一、生命の危険にさらされることがあった時、親として後悔したくない。臍帯血採取ができるのは、この子にとって一生に一度しかないですし」。バンクでの保管を決断した。10年間保管の費用は20万円以上になるが、義母が出してくれることになった。
妊娠5か月の2006年1月に病院に入院した。切迫早産の疑いがあることが分かった。入院が1週間遅かったら危なかった。命の危険がある妊婦のための「母子集中治療室(MFICU)」に入った。障害のために胎動が感じられないが、おなかに手をあてると胎動が分かり、手に伝わる感触がうれしかった。
妊娠9か月で帝王切開によって出産することが決まった。病院側に「民間臍帯血バンクに臍帯血を保管したい」と伝え、了解を得た。バンクに連絡をすると、出産1か月前に、臍帯血を採取するためのキットが病院に送られてきた。
2006年5月2日午後2時39分。「おぎゃー」という元気な産声を聞き、心配や緊張が吹っ飛び、幸せと感動を感じた。体重2309グラムの娘に対し「ありがとう」と言葉をかけた。
一方、産婦人科の医師が専用の器具を使い、へその緒と胎盤から臍帯血を採取し、血液バックに詰めた。採取にかかった時間は数分ほどだった。バンク関係者が、それを病院まで取りに来て、東京都内のバンクに運び込んだ。細胞の洗浄や分離などが行われた後、マイナス196度に保たれた液体窒素の保管タンクの中で保管された。
娘の名前は「杏子(ももこ)」。リハビリ病院を退院した2005年4月、玄関前で咲く杏(あんず)の花が亜希子さんを励ましてくれた。杏の花のようにかわいらしく、人を癒やせる優しい子に育ってほしい。薬としても使われる杏の実のように、人の役に立つ賢い女性に育ってほしい。そんな思いを込めて名付けた。
「事故当時、あと4、5時間しかもたないと言われた命をつなぎ留めたのは、家族の愛と、医学の力。保管した臍帯血が医学の力で、将来、娘を守ってくれるかも知れません」
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有効性や副作用が明らかではない再生医療・幹細胞投与が世界で行われている一方、この治療に希望を託す患者もいる。再生医療の深層を探る。 =この「再生医療」ルネサンスは毎週木曜日更新予定です= 再生医療・幹細胞治療についてのご意見・情報は |
(2012年5月10日 読売新聞)
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