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「我が『純粋』を貫くこと」
 川崎富作が語る仕事-1
写真
臨床で遭遇した見知らぬ病

小児科はまさに
学びの現場である

 医学の世界に入ったのは、母の願いがあったからでした。7人の子供のうち一人くらいは医者になってほしいというその気持ちに応えて、あまり勉強が得意でもないのに医者を目指すことになり、当時の戦時下で、軍医を速成するために作られた千葉医科大学附属医学専門部に何とか滑り込みました。

 しかし卒業する前に終戦を迎え、私は軍医になる宿命から解放され、千葉医大の小児科へ入局することになります。専門を選ぶのもハッキリした意志があったわけではなく、インターンとして内科、外科、小児科、産婦人科、眼科、耳鼻科、精神科などほとんどすべての科を回り、血を見るのは苦手だから外科はやめようなどと消去法で小児科医に決めました。恐らく自分をよく分からない若い時の選択というのは、そのようなものではないでしょうか。

 少しでも早く収入を得たかった私は、その翌年の1950年に日本赤十字中央病院に勤務します。戦中戦後のひどい栄養状態が子供たちの体にもさまざまな悪影響を与えていて、本当に多くの患者さんが訪れていました。それでも先輩医師たちが入れ代わり立ち代わり指導してくれる中で私も診療経験を積み重ねていきましたが、医学の教科書にも載っていないような病に出合うことはありませんでした。

 ところがある日、百日咳(ぜき)脳症で男の子が入院してきます。けいれんを伴い、呼吸が困難になるほどの咳(せ)き込みをするのです。乳児なら命にかかわるほどなのですが、その男の子は何とか危機を脱しました。しかし百日咳が良くなったのに血液の状態がノーマルにならない。おかしいと思い、上司の小久保裕先生に血液検査標本を見せると「ペルガー氏家族性白血球核異常」と即断された。教科書でも知らない病に始めて遭遇した瞬間でした。

診断できない病が
さらに存在する

 この時まで私はその病名さえ知りませんでした。まったくの偶然ですが、この小久保先生こそ「ペルガー氏家族性白血球核異常」の症例を日本で初めて診断した方だったのです。実に幸運でした。

 私は大きな驚きを感じましたが、それと同時に、臨床の現場で日々注意深く、粘り強く、一つひとつの症例と接することの大切さも身に染みました。ささいなことも見逃してはならない。そして正しい診断をすることこそ医師の仕事であると改めて肝に銘じたのです。

 そして61年1月、私は別の新たな病に出合います。小児科医になって10年が過ぎ、ほとんどの病気を経験してきたのに、その4歳の男の子の病名が特定できないのです。症状は小児科では比較的ポピュラーである猩紅(しょうこう)熱によく似ていましたが、猩紅熱に特有の発疹がないのです。男の子は回復はしたのですが、私は「診断不明」という診断名を付して退院させました。

 忘れもしないその翌年、当直の夜です。急患で来た子供の症状を見て、思わず「あっ!」と声をあげました。一年前にどうしても分からなかったあの男の子と同じではないか。私はこの時に、今までの医学書には書かれていない病気の可能性があると確信したのです。それが、後に私の名をつけていただくことになった「川崎病」との運命的な出会いでした。(談)

かわさき・とみさく ●特定非営利活動法人 日本川崎病研究センター理事長。1925年東京都・浅草生まれ。48年千葉医科大学付属医学専門部卒業。千葉医科大学小児科に入局後、50年日赤中央病院(現在の日赤医療センター)小児科、73年日赤医療センター小児科部長。90年日赤医療センターを定年退職後現職。67年雑誌『アレルギー』に「指趾(しし)の特異的落屑(らくせつ)を伴う小児の急性熱性皮膚粘膜琳巴(りんぱ)腺症候群」(MCLS)50例を報告。79年『ネルソンの小児科学書』が独立病と記載。この疾患の最初の報告者である川崎富作の名前を取って「川崎病」と呼ぶようになる。現在も川崎病の治療、原因究明に取り組み続けており、講演のため全国及び海外を飛び回り、毎週3日間川崎病に関する電話相談に応じている。日本医師会賞、朝日賞、日本学士院賞、第1回小児科学会賞など数多くの医学賞を受賞。日本川崎病研究センター(電話 03・5256・1121)

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