2012-04-24
偉大なバンドの消長について その2 ジョン・レノン(バンドじゃないけど)
先週金曜の朝、ラジオでザ・バンドの曲が立て続けに流れた。直感した。「誰か死んだんだ」。
ラジオの人が「リヴォン・ヘルムを偲んで…」と言った。やはりそうだった。享年71とか(僕の世代だと“レボン・ヘルム”という表記がなじみ深い)。
きっと遠くないいつか、ラジオでザ・フーやツェッペリンを立て続けに聴く朝が来るのだ。僕はツェッペリンにはあまり馴染みがないけど、フーは大好きだし、残ったメンバーは二人しかいないし、きっとその時はなにがしか泣いてしまうだろう。
会社を辞めてからこっち、音楽を聴くたびに、その音楽家の栄光のその後、バンドの行く末などをつい考えてしまうことが増えた。死んだミュージシャンを算え、活動を停止したバンドがどうしてしまったか調べたりした。ちょうど老眼が昂進する初老期と重なってしまったため、どうも発想が暗い方へ暗い方へ暗い方へ行くのには我ながら困った。
このネガティブな探索は案外と奥が深く、かつ面白く、ハマッてしまった。とくに、音楽家の死はどれも劇的で、魅了されるのだ。
会社を辞めて身の置き所がない不確かさにやっと慣れた頃、考え方がちょっと変わってきた。というか、動かしがたい大きな事実に気づいてしまった。
人は、栄光の時をずっと生きることはできない。誰もが、充実した生を生きたい、と願うが、充実を感じるのはほんの一瞬で、そのあと長い長い退屈な時間を生きなければならない。むしろ、充実した一瞬を得て、その記憶が輝かしければ輝かしいほど、残りの生は一層退屈に感じることだろう。
この「退屈」なるものは、現代人の最大の悩みであり、全力で対処せねばならない喫緊の課題なのだ、ということがだんだんわかってきた。
賢い人はどこにもいるもので、文芸評論家の小谷野敦は2002年の段階で『退屈論』というしっかりした一冊を著している。退屈の文学史・精神史・思想史へとまたがる壮大な試みなので、心ある人は読むべきと思う。
最近では、経済学者(?)の池田信夫が、アゴラの書評「暇つぶしという重要な問題…『暇と退屈の倫理学』」で重要な示唆をしている。そのずっと前にも「退屈」と題したエントリを書いているが、これは非常に短くかつ鋭い文だ。
両者とも、退屈の本質は、「生に意味はあるか」という根源的で過激な問いかけなのだ、という問題意識を持っている。退屈して発する言葉は、「何かいいことないか子猫チャン」だったり「私の人生は何だったんだろうか」だったりといろいろだが、これはどっちも同じくらい重たい言葉だと思ったほうがいい。きちんとした仕事を持ち、忙しく働いている人には理解できないかもしれないが、あなたもいずれ退屈に苦しめられる運命にあるので、他人事ではないと思ってください。
ところで小谷野さんはニーチェ的な退屈への対決姿勢に釘を刺し、「退屈のあまり人を煽動などしてはいけない」ときちんと書いている。一方で池田先生は、無理筋の論争など引き起こすことが多いのはどうしたものか。聡明な人なのに、退屈の毒に当てられてるのではないか。
さておき。音楽家は、曲を書き、歌い、あるいは舞台で演奏することで燃えるような生を生きる(一方で長く続くツアーに退屈したり、レコード会社との契約で曲を書くことに苦しんだりもするわけだが、ひとまず措く)。僕が注目するのは、曲を書いたり歌ったりすることを止めた音楽家は何をしているのか、ということだ。
ザ・フーのピート・タウンゼンドが、ネットの小児ポルノ保持で逮捕された(2003年)。彼は「楽しむつもりではなく児童ポルノを防止する観点からのリサーチだった」と主張しているが、僕には言い訳に聞こえる。ひとつ僕が疑ったのは、「彼は退屈していたのではないか?」ということだ。
多くの成功した音楽家が、薬物やアルコールに苦しめられてきた。ローリング・ストーンズも、元ビートルズのポールも、薬物所持歴あるいは所持現行犯で日本に入国できなかった(多くは70〜80年代。その後彼らはクスリを止め、入管も態度を軟化させ、90年代に続々来日が実現した)。日本の入管は薬物歴のある音楽家のリストを持っているはずだ。FBIはもちろん持っており、それは偉大なロック音楽家リストときれいに一致するらしい。アメリカの保守的な人がロック音楽を忌み嫌うことがあるのは、あながち無根拠なことではない。ある人たちにとって、ロックは薄汚いものなのだ。
今でも突然死する音楽家は多い。マイケル・ジャクソン、ホイットニー・ヒューストンは、いずれも薬物の影響が強く疑われている(前者は睡眠薬・向精神薬、後者はコカインのようだ)。どちらも、身体の不具合を治すための薬物使用ではなく、刺激が欲しいから、退屈でしょうがないから薬を欲したというところだ。マイケルは抗不安薬を使用していたが、鬱病の大きな原因の一つは退屈による抑鬱だ。
彼らは芸術的にも商業的にも大成功して、名誉と富と両方を持っていたはずだ。名誉と富とは、権力と言ってもいい。
権力の定義はいろいろあるだろうが、僕が気に入っているのは軍学者・兵頭二十八のそれで、「飢餓と不慮死からの遠さ、を以て権力とする」というものである。不意に死んでしまうようなことがない、飢えることがないようにする力を、権力とする。とすれば、マイケルもホイットニも、あんなに成功した芸術家なのに、不慮の死を遂げてしまったとは、つまり権力を持っていなかった、ということになろう。
本当に富と名誉を持った人は、身の持ち方を正し、危険を避けようとする。お金持ちが退屈な車メルセデスに乗るのは、事故時に他の車種より生き残る可能性が多少は大きいからだ。そうでなければみんなフェラーリやポルシェに乗るはずだ。スポーツカーはリスクがあり、それは不慮死の可能性に繋がる。豪邸に住むのもそうだ。ほんとうは、目立つ屋敷に住むと他のリスクを呼び込むので、あんまり派手な住まいはお金持ちにはふさわしくない。だが、相応のセキュリティを備えた住まいとなると、ゲーテッドコミュニティとかトーチカみたいに窓の少ない邸宅、有人セキュリティの高層コンドミニアムとかになるのだろう。彼らはしかたなくそういう閉ざされた家に住む。本当に贅沢な人は、田園地帯に農家のような屋敷を構え、犬や馬、羊を飼って農家の真似事をするらしいが、セキュリティにべらぼうな金がかかるのでそんなことができる人は一握りだ。
リスクに敏感なお金持ちは、ロックコンサートにも行かないはずだ。コントロールされたクラシック演奏会や高いチケットのオペラがふさわしい。日本でいえば新宿や渋谷の盛り場も避けるだろう。行くとしても自動車でデパートに乗り付けるのがせいぜいか。若い富裕層が二子玉川や自由が丘に惹き付けられるのは、少なからずリスクの問題がある。彼らははなから池袋や上野には行かないはずだ。そうしたライフスタイルは、趣味の問題だけではなく、リスクを避けようとすると必然的に取らざるを得ない行動様式なのだ。
ロックは、もともとお金のない若者たちが愛好した音楽だから、音楽家がロック音楽産業で成功したとして、正しいお金持ちの態度を取る(=リスクを避けて注意深く生きる)と、ファンから「俺たちを棄てて金持ちの側についた」と罵られる。だからどうしても音楽家たちは、リスクから離れて安楽に生きることができない。また、若いうちにビッグマネーを手にすることでさらに音楽家の周りにリスク要因が集まってくる。なかなか難儀なことだ。
マイケルはネバーランドと名付けられた奇矯な屋敷のことで世間を賑わしたし、ホイットニも着の身着のままで徘徊し奇行をしていたとの報道があった。死者に失礼なことを言うのは申し訳ないが、彼らは自分が得た富と名声にふさわしい生活態度を取ることができず、リスクをうまくコントロールできなかったのだと思う。
ドラッグは本来、若くて命が安いチンピラの玩物だ。偉大な芸術家がドラッグのような安っぽいものに染まるのはおかしなことだ。
ロッカーは比較的若いうちに大成功するため、正しい身の処し方を学ぶ機会がないのかもしれない。また、ロックは社会への異議申し立てという側面が大きいので、反社会的なものを拒絶できないという宿命がある。
大衆音楽は、大衆から遊離できない、大衆であるというリスクから離れられない運命なのかもしれない。人生のリスクについて歌うこともロックだからだ。
これまでいろんな音楽家が亡くなってきたが、最大の悲劇は、1980年のジョン・レノンの死だと思う。生きていれば71歳。先週亡くなったリヴォン・ヘルムと同い年だ。
当時40歳のジョンは、夜更けにスタジオから帰ってきて、自宅マンション(アパート・ダコタというがあんな豪勢な建物だから日本語ではマンションでよかろう)の前で不審な人物から銃撃されてしまった。あまりにも唐突な死だ。狙撃者の異常な振るまい(逃走せず、『ライ麦畑』を読みながら現場に留まった)から、彼は怪しい組織から行動を制御されてレノンを射殺した、という説まで出てきた。僕は1982年くらいの月刊PLAYBOYで読んだ。1981年のレーガン大統領銃撃事件とからめて、CIAなど闇の政府機関が薬物や催眠術で暗殺者を操っている、という説だった。ほんまかいな。だがこんな陰謀説がリアルに聞こえるくらい、レノンは政治的に危険な人物だったのも確からしい。また、FBIはロック音楽にものすごく不寛容なのも伝統らしい。統計的にみると、ロックはいつも犯罪すぐ隣にいる音楽だから、彼らは犯罪を憎むと同様、ロックを警戒するという。
僕は1980年当時、レノンの楽曲を聴いたことがなかった。ビートルズの赤盤は、13歳の誕生日に歳の離れた姉がテープをくれたので擦り切れるまで聴いたが、青盤はおろか他のアルバムも聴く機会がなかったのだから、レノンのソロなど手が届くわけがない。しかも、レノンは直近5年間は育児をしていて作品を発表していなかったのである。FMラジオだけが頼りで、音楽を聴き始めて間もない田舎の中学生が、偉大だけど最近は活動していないミュージシャンの過去の作品など買って聴くわけがない。図書館? うちの町の図書館にレコードあったかなあ。自転車で14キロ走って、市の図書館でワグナーとかは聴いたけどなあ。
そんなわけで、80年に衝撃的な死を遂げたレノンに、僕はさほど思い入れがない。むしろ1983年春のカレン・カーペンターの死のほうがショックだった。あんなに素晴らしい歌い手が、拒食症で痩せ衰えて死んだとは。当時付き合っていた背の高い女の子と地元の商店街を歩きながら、ラジオで訃報を聴いたのだった。そういえば、カーペンターズがカバーした「ヘルプ」「涙の乗車券」はどちらもレノンの楽曲らしいね。
「イマジン」をはじめとする彼のソロ楽曲のほとんどを、彼の死後はじめて聴いた僕にとって、レノンとは、彼の不在を以て巨大な存在感を示す動かしがたい存在、という奇妙な音楽家だった。
レノンの楽曲が否応なく僕の視野(耳の場合は何て言うのか…)に飛びこんで来たのは、1985年に見た映画「キリング・フィールド」だ。ポルポト派が席巻する1975年のカンボジア、追い出される白人ジャーナリスト、残されるカンボジア人インテリ助手。すべてを失い強制収容所に入れられた助手、大量の死体が横たわる荒野を逃げる……というお話。85年時点だと当事者が生きていたり日本人ジャーナリストもほぼ同じ体験(助手を置き去りにして国外退去させられた)をしていたせいで、ひりひりするリアリティを感じる映画だった。そして映画のクライマックス、白人記者とカンボジア人助手が再会を果たすとき、レノンの「イマジン」が流れるのである。
「イマジン」の美しいメロディと、レノンの柔らかい歌声が、それまでの過酷な画面を許すかのように優しく押し包む。観客はよかったよかった、めでたしめでたし、と胸を撫で下ろして映画館を出た。あんまり見事なハッピーエンドだったせいで、「この映画は事実をねじ曲げている」と激しい論争が起きたほどだ(正確にはイマジンが論争を起こしたわけじゃないが、あまりにもぴたりとハマった曲だったために、あの映画に違和感を持つ人たちの反感を燃え上がらせた、のは確かだろう)。
僕も、あんまりできすぎじゃないか、と思って、その不満を素直に口にした。そもそもレノンはこんな状況に「イマジン」が使われることを意図していたのか。たしかに楽曲は美しい、だけどここでそれを流すのは、政治利用じゃないのか、と。
ライブハウスのマスターは言った。「レノンは、こういう状況をも念頭に置いて『イマジン』を歌ったと思うよ。そもそも、あのアルバム写真の雲は、ヨーロッパやアメリカでは見られない雲、インドシナ半島のような低緯度地域の雲だというよ。なぜ彼がその雲をジャケットにしたか、想像してごらん」。
ほんとだろうか? あのアルバムジャケットの雲は、ヨーコの詩の「雲が滴るのを思え…」以上の意味があるのか。いくら検索しても出てこないんだが……。
レノンの歌は、80年代90年代のニュース映像にしばしば登場した。ベルリンの壁崩壊、東欧の民主化革命、引き倒されるレーニン像スターリン像にかぶせて。あるいはボスニアでの死者を悼むローソク集会、「ギブ・ピース・ア・チャンス」がエンドレスで歌われた。年末のそうした映像には「ハッピー・クリスマス」。さすがに食傷するよね。
政治的な映像と併せてくり返し流される楽曲を聴いて、僕は、レノンの歌はそういうものだ、政治的なものなんだと思い込んでしまった。
これは、典型的なレッテル貼り行為、偏見だ。一部を以て全体と思ってはならない。大事なものを見落としてしまう。
レノンの歌は政治的というより、内省的・厭世的・個人的なものが多い、と気づいたのはつい最近だ。アルバム「イマジン」を全曲通して聴いたのは、恥ずかしながら先月のことだ。これは優れて個人的な作品だということが、聴いているとすぐにわかった。他人のために、世界のために大声で歌ったアルバムではなく、自分のことだけを囁くように静かに歌ったアルバムだった。
「ジェラス・ガイ」では自分は嫉妬深い男だ、と告白し、「アイ・ドン・ウォナ・ビー・ア・ソルジャー」や「ギミ・サム・トゥルース」で世界への嫌悪、自分の弱さ、力のなさを赤裸々に歌うレノン。「オー・マイ・ラブ」で流産した子を悼み、「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ」でかつての友人ポールを口汚く罵るレノン。彼はこのアルバムで様々な姿を見せるが、どれ一つとして「公的なレノン」ではなく、「私人レノン」が歌ったものをたまたま僕らが耳にした、というくらい狭い世界ばかりだ。(やや脱線するが戸川純の「いじめ」という曲は「オー・マイ・ラブ」そっくりだ。剽窃とか言ってるのではないよ、抑鬱的なメロデイ、曲のあり様がそっくりなのだ。戸川は鬱も強迫も患っているが、レノンにもその気があるのではないか、と僕は疑う)
最高なのが、最後の曲「オー・ヨーコ」。「ヤフコ」と聞こえるのがご愛嬌だが、これは恐るべき個人的で恥ずかしい、かつ可愛らしいバラードだ。真夜中に、真夜中に、君の名を呼ぶ。風呂の中で、トイレ(?)で、君の名を呼ぶ……。なんて恥ずかしげもなく、こんなことを歌えるか。
たぶん僕は、若い頃にこの曲を聴いたら、まったく意味がわからなかっただろう。
今なら、十分わかる。中年すぎの、心を許したパートナーと一緒に暮らしている人間なら(とくに男性なら)、ここでレノンが何を歌っているか、よっくわかるはずだ。
なんのかんの言って、男性が妻などのパートナーを愛する気持ちは、歌にするとこんな感じだ。女性が相手をどう思っているかは僕にはよくわからないが、男性の気持ちは、他愛ない、ばからしい、だけど深いものだ。依存心が丸出しで。これはたぶん、世界中どんな男性もそうなのだ。そういう、とても大きな大きな事実を、衒いもなく、隠しもせず、飾らず、堂々と歌ったレノンはやはり偉い音楽家だと思う。
芸術は、なんでも若い頃になるべくたくさん、浴びるように体験したほうが良いらしい。音楽に限らず、絵画・演劇・書・工芸・建築などなど。若いうちに、自分がどんな芸術に惹かれるか、自分で認識できていれば、その後の長い人生を楽しく送る助けになる。
だが、鑑賞するのにどうしてもある程度の人生経験が必要なものがある。「オー・ヨーコ」が、聴く度に涙が出るくらい美しい歌だとわかる歳になって聴くことができて、僕はラッキーだったと思う。
レノンは自分のバンドを残すことがなかった。プラスチック・オノ・バンドはテンポラリーなもので“グループ”ですらない。だから彼の軌跡はその死でぷっつりと途絶えるはずだった。が、世界は彼を放っておくことができなかった。
彼の歌は誤解され続けているかもしれないが、その時その時のコンテクストに沿ってつねに読み替えられ、聞き継がれるはずだ。とくに、レノンは特定のシチュエーションを名指しで歌うことをせず、自分の内面に映る世界を歌い続けたものだから、聴く側が自由に解釈できるのだ。彼がいま生きてたら反原発ソングを歌ったかね? 不安や怒りを歌うことはあっても、名指しはどうかな。
あと僕が好きな彼の曲(および、曲が流れる状況)は、SF映画「トゥモロー・ワールド」(2006)だ。この映画はクリムゾンやパープルの歌、またフロイドの豚などがまぶされた素敵な作品だが、とくに「ブリング・オン・ザ・ルーシー(フリーダ・ピーポウ)」が流れるとこが良い。この映画に登場するマイケル・ケイン、元写真家の老ヒッピー役だ。彼の姿が、レノンが生きていたらこんな感じに老けたのでは?と思わせてとても素敵なのだ。彼の姿を見るためだけに、ときどきこの映画を見ることがある。死んだ人間が、こういう形で生き続けているのだ。これは強い。
本人はずっと不在だけど、彼のアイコンは生き生きと生き続けるのだ。
2012-04-16
名作『きのう何食べた?』のシロさんにすすめたい、台所道具のこと
言わずと知れた名作グルメ漫画『きのう何食べた?』だけど、来月下旬6巻が出るそうで、楽しみですね。
僕はこれ、最近まで知らなくて、前に、二十年来の畏友・クドウさんが「いま最高のグルメ漫画はこれだよ」と教えてくれてから何カ月も経ってめぐりあったのだった。
いやー、すごい作品だよね。まず、主人公・筧史郎の手料理のレシピ、素晴らしい。
レシピというと普通「醤油大さじ2、砂糖大さじ1、みりん小さじ1、塩ひとつまみ。これを入れて15分煮る」などと記述されている。しかしこの書き方、実際に作りながら読むと、ちょっとわからないんだよね。たとえば「砂糖とみりんで甘さがかぶってるけど、省くとしたらどっちなのか?」とか「15分とは、何が基準か。じゃが芋が軟らかくなる時間か、肉が硬くなる前なのか、どっちが重要か」とか、迷うポイントが多い。
ところが『きのう何…』のレシピは、往々にして「大さじ1」とかの単位が省かれており、「醤油・砂糖・みりん・塩少々」など非常にテキトーな記述だ。そして、実際に台所に立って読むと、このほうが使いやすいのである。加熱時間も、何分とか書いてないけれど、「トマトの形がなくなるまで炒める」と、実はこのほうが記述が詳しくて正確。
僕の料理の腕は、シロさんには到底及ばないが、シロさんの彼氏・ケンジよりは上だ。1年半も主夫をやっていればこのくらいにはなる。
だが、レシピを読むのが苦手なのが悩みだった。出来上がりをイメージしながら読めないので、どうしても違うモノができてしまう。
しかし、シロさんのレシピは感覚的に理解できる。漫画だから手順が図示されてるせいか。しかもシロさんは、「この間になんとかを刻む」などと複数の副菜を手際よく作る。さすがである。僕も晩ご飯は四品作ることがノルマになっているのだが、手際が悪くてヘタだったのが、シロさんにインスパイアされて段々楽しく手順を組み立てて手短に、美味しく作れるようになってきた(と思う)。
これは、ファンが多いわけだよね。素晴らしい作品だ。
もちろん本作は食べ物漫画としてだけではなく、ゲイの生き方とか、法律事務所や美容院の内幕も素敵にリアルに描写されている。一つ一つで単独の作品が描けそうなくらい緻密なのに、それが組み合わさってたった一つの作品に盛り合わされているのだから、凄い。あまからすっぱいも、タンパク質・炭水化物・野菜類のバランスも、ばっちり取れている。
ちなみに、算えてみると、どうもシロさんは僕と同い年のようだ。いつ弁護士になったのか、今のようなスタンス(仕事はきっちりするが残業はしない)になったのはいつか、とか謎が多いのだが、彼も僕も同じように人生の曲がり角を迎えていることだけははっきりわかる。両親は老いて、孫を楽しみにしていたけどどうやら願いはかなえてやれそうになくて…とか、読むと思わずうーんと唸ってしまう。
ところで、料理の手順をこれほどまでに詳しく描写されてしまうと、どうしても自分のやり方との違いが目についてしまう。そして、「シロさん、なんだかオバサン臭いぞ」と思ってしまうのだ。
それはどういうことかというと、やけに味付けに「めんつゆ」が使われることとか、万能包丁じゃなくて菜切り包丁を使うとことか、あと、道具に凝らないところが、どうにもオバサンぽいというか、今風じゃないんだな。
シロさんは野菜の皮むきを菜切り包丁でやる。でも、どう考えても、ピーラーを使ったほうが楽だと思うのだ。これって常識っしょ?
また、シロさんは野菜の水切りを、専用のきれいな布巾かキッチンペーパーでやる。でも、水切り器を使ったほうがいいと思うのだ。これは大きな籠としても使えるから場所を取らない。値段はピンキリだけどこれくらいで可と思う。
また、最大の疑問が、シロさんは時間がない人なのに、圧力鍋を使わないところだ。ステンレスのメッカ・燕三条品質!
これは僕が使ってるのと同じやつだけど、ホームセンターで2980円とかだった(Amazonでも同じくらいだよ)。外国のブランドものじゃないから安いけど、性能は変わらないよ。これなら締まり屋のシロさんでも抵抗ないでしょ。
圧力鍋はほんと凄い。電子レンジに匹敵する手抜き調理器具だと思う。なにしろ、大根を2回炊いても15分かからないのだ。30分で茹でこぼしから本番までできるということは、1時間あれば十分味の染みたおでんができるということだ。シロさん、これでケンジに美味しい大根食わせてやりなよー。
あと、ブランド調理器具にまったく興味がないシロさん(街の荒物屋で買ったとおぼしきアルミ鍋とか使ってるよね)だから、ティファールやルクルーゼも登場しない。やや、やりすぎ…。
こんな豪華なやつでなくても、サイズ違いの鍋が三つ、重ねて収納できるやつだけでも、料理の効率はぐっとアップする。シロさん、あんたなら僕の十倍くらい使いこなせるだろう。パチもんで可。
そして、言わずと知れたコレ。まあルクルーゼの鍋は、シロさんのようにかなり出来る人が導入しても、際だった進歩は感じられないかもしれない。なにしろ、こいつが凄いのは、テキトーにやっても失敗しない、という点だから。むしろケンジくらいの腕前の人が使うといいだろう。もちろん僕も愛用してる。肉じゃがは、圧力鍋じゃなくてこいつのほうが美味くできる。
でもルクルーゼでおすすめなのは、実は鍋じゃなくてこっち、蒸し器。Amazonですら5000円以上もする高級品だから、シロさんに薦めるのは少しためらうが、これは、良いよ。20cmの鍋ならどこのだって使えるから、ルクルーゼのココットロンド持ってなくても平気。
蒸し器があると、超手軽に野菜を摂れる。シロさんの好きなブロッコリも、僕の好きなニンジンも、じゃが芋・山芋などの根菜、新玉葱、キノコ、葉っぱモノ……なんでも蒸して、蒸し器のまま食卓に出せる。真冬は冷めちゃって美味しくないけど、暖かくなってきたこれからの季節に蒸し野菜はいーと思いますよ。清潔に保つのが難しいかもね…。
まあ、こっちなら三分の一のお値段ですから、シロさん、ぜひご検討ください。
ていうか、ケンジが生クリーム混ぜるのが大変だからって、泡立て器買うくらいなら、まずピーラーを買うべきだと思うんだよ! ケンジにも料理を教えるべきだから。でも、意外と安いのね、ハンドミキサー。欲しくなりました。
ていうかシロさん、立ち読みでいいから、たまでいいから、「Mart (マート)」を見てみるべきだと思うんだよ。
いや、シロさんのような締まり屋には目の毒だとわかってるんだけど、けっこう良いものが載ってるんだよ。シロさんが買わなくてもいいな、ケンジのお店に入れてもらって、夜に借りて帰って読めばいーんだよな。
いつの間にか、シロさんに話しかけるような妄想モードになってしまったけど、この漫画はほんと凄い、人物ひとりひとりに「あんたの話もう少し聞きたい」と思わせる魅力があるんだよな。
今夜は、この漫画に教えてもらった若竹煮と、ネギのコンソメ煮にしよう。牛蒡サラダと胡瓜酢の物、みそ汁はわかめじゃない方がいいよな……。
2012-04-12
なぜ、インターFM「レディオ・ディスコ」はホットなのか?
ご無沙汰しています。
愛聴しているインターFM(東京76.1MHz)、春の番組改編から2週が過ぎ、かなり落ちついてきました。
期待通りの新番組、どうも期待にそってくれない番組、いろいろですが、自分内大ヒット番組があったので、メモしておきます。
それは、午後1時半から始まる、「レディオ・ディスコ」です!
DJは先月まで「グローバル・サテライト」の片割れだった亀井佐代子さんと、DJ OSSHY(音楽プロデューサーの押阪雅彦氏)。オッシーが選んでリアルタイムに繋ぐ曲、リスナのメールとのキャッチボールはサヨコさん、番組ページのプレイリストを見てもらえればわかるけど、ジェイムズ・ブラウン、アーハ、スティービー・ワンダー…と非常に懐かしい曲が目白押し。
ひと目見ると「古っ」と呆れてしまいそうな番組だけど、いざ聴いてみると、これが意外にも、意外にも、気持ち良い。
なんか、見事にハメられた感じがしてくやしいくらい、気持ち良い。
なんでか〜〜!
実は僕は、ディスコミュージックは嫌いだった。80年代に思春期でしたけど、全然聴きませんでした。忌み嫌ってたので。
前にも書いたけど、僕は理屈から入るタイプだったので、感覚に訴える音楽との接点が薄かった。
音楽を「理屈から入る」とはつまり、「見栄で音楽を選んでいた」ということなんですよね。他人からの見た目を気にしていたというか。自分がかっこいいと思った音楽を聴いてたわけで、気持ち良い音楽を聴いてたわけじゃなくて。
たとえばレゲエを聴いてたのも、気持ち良いからじゃなくて、ボブ・マーレーの思想とか、死んで伝説になったこととかがカッコよくて、そのカッコ良さにあやかりたくて、聴いてた。馬鹿な聴き方をしてたと思います。
パンクやニューウェーブに惹かれてたのも、パンクの思想性に憧れてたからだ。スプリングスティーンやレナード・コーエンも、なんかインテリ臭かったから聴いてた、というのが正直なところ。見栄っぱりでした。
でもまあ、良い音楽たちでしたので、聴くと気持ちは良いんですよね。それなりに良い体験はさせてもらいました。
でも、理屈で音楽を選んでると、ものすごくメジャー、庶民に大人気、ってだけで選択肢からこぼれちゃうことがあるんですよね。メジャーな音楽聴いてても見栄は張れませんから。同級生が聴かないようなアーティストを選んで聴くようになる(友だちができないわけだよ)。
だから、ディスコブームのときも、みんなが聴いてるからってだけで、ディスコ音楽は全然聴きませんでした。
同じく、テクノのときも聴かなかったし(その頃はプログレを聴いてた)、メタルからビジュアル系に到る日本のアーティストたちも全然知りません。バイトしてたライブハウスにはけっこう来てたのに、全然耳を傾けなかった。
馬鹿だったよなー、と思う。
そういう、ディスコ音楽にまったく造詣がない僕が聴いても、「レディオ・ディスコ」は楽しい。シンプルではっきりした、ズンドコズンドコのビートが、聴いてると否応なく気持ちを盛り上げてくれる。
なぜか? なぜ私はディスコ音楽を聴くと、こうもHOTに感じてしまうのか?
どうもこれは僕だけの傾向じゃないらしく、インターFMのwebを見ると、「レディオ・ディスコ」は番組webのビュー第1位だし、2ちゃんねるのインターFMスレでも大人気だ。
関係者が、「これは、ウケる」とどんだけ確信してたかわからないけど、自分的にはもう大ヒットっすよ、大ヒット。
平日月〜木は13:30〜15:00の90分だけど、金曜は時間拡大で13:00〜15:00の120分だそうです。もう明日が楽しみで…。
この番組がなぜこれほど突出して良い印象なのか、これはちょっと考えたいテーマだ。
一つには、新番組に期待ほどじゃなかったものがあったので、それとの対比で印象が良い、ということもあろう。朝の「バラカン・モーニング」に替わった「キャッチアップ」は正直、つまらない。パーソナリティの方が頑張ってるのはわかるんだけど、印象は良い人なんだけど、どうも僕的にはダメだ。前番組と比べると、リードしてくれるものがない。比べちゃいかんのだろうけど、ラジオってのはどうしても時間帯における聴取習慣で聴くものだから、「先月までの朝が恋しいよ〜」などと空しいことを思ってしまうのは仕方がない。
そもそも「キャッチアップ」って「追従する」「遅れを取り戻す」ってことだよね!? 全然良い言葉じゃない。リスナーに向かって、お前らついてきなさい、導いてあげますよ、と言ってるようで不愉快だ。この番組タイトルをなんとかしなきゃ、つまらないのは直らないと思います。
平日21時からだった「BAM!」の面々が18時に引っ越して「6時のヤツラ!」になったのは、まあ良い。この時間は台所で食事の仕度しているから、前半は楽しく聴ける。でも後半は、食事タイムになるのでラジオ切らされてしまいます。残念です。「BAM!」は夜に仕事するときの楽しみだったので、聴けなくなってとても残念。21時からの新番組はJ-POP主力の若年層向けになってしまったので、もうご縁がありません。
だから、自分の世代的にも、生活習慣的にも、「レディオ・ディスコ」がジャストフィットした、ということなのか。
いや、違うな。もっと根源的な、音楽の原理的な理由で、「レディオ・ディスコ」は聴く者を惹き付けるんだと思う。
ディスコ音楽は、音楽的・音楽史的にはあまり語られずにきたと思う。むしろ産業ロックのように「消費される」音楽として生まれ、その使命を全うし、消えたといえよう。批評家から評価されるようなものじゃなかったし、。
ピーター・バラカンさんはブルーズやR&Bなど黒っぽい音楽もよくかけていたけど、ディスコはほとんどかけなかった。彼もディスコは守備範囲外なのだと思う。まあ80年代、彼は坂本龍一や矢野顕子をサポートしたり、MTV系を支えてたわけで、日本のディスコには通ってないだろうしね。
ディスコ文化は、「レディオ・ディスコ」でも「80年代死語の世界」などとやや自嘲的に紹介されるけど、完全に大衆的なものだったと思う。先鋭的な批評家から無視されたのもむべなるかな。あんまりにもありふれたものは、そのときそのときでは批評の対象からはずされちゃうんだよね。そして、なくなってから初めてその価値を再評価されたりして。まさにいまがディスコの再評価時代だと思います。誰か、僕も納得できるように語ってくれないかなー。
僕は、言ったように、ディスコ自体を体験したことがない。岡山にはディスコあったのかなー。東京出てきて行ったのはもうクラブだったしなー。ディスコブームってどこで起きてたの?という状態。田舎者です。
しかし不思議なことがあって、たとえば「サタデー・ナイト・フィーバー」(1977)で一世を風靡したジョン・トラボルタ。彼はディスコが盛んだった80年代は「ステイン・アライブ」(1983)がコケて長らく不遇だったんだよね。ブームに火を点けた人だったのに、94年の「パルプ・フィクション」まで、彼は我々の視界に戻ってこなかった。きっとディスコで踊ってた人たちも、彼のことは忘れてたと思う。その間もビー・ジーズはヒットを出し続けてたと思うけどねー。なんでだろう。退屈論(小谷野敦)
唐突だけど、「なぜ私はディスコ音楽に惹かれるのか」「なぜディスコ音楽は批評的に語られずにきたのか」という疑問に、答えがありそうな気がしてる。それが、この本。小谷野敦の『退屈論』。
小谷野敦は文芸評論家なのでディスコ音楽については1字も語っていないけど、この本では「退屈とは何か」「退屈はなぜ生じるか」「退屈を避けるためにヒトはどう振る舞ってきたか」などが、文学史・文明史的に語られています。なかでも出色なのが、「人生に意味はあるか」という議題。
古来、いろんなヒトが、暇に飽かせて「そも、人生とはなんぞや」と思索してきたのだが、ここ21世紀になってほぼ答えは出ているようだ。
いわく、「人生に特段の意味はない」と。
これは「人生」を「音楽」に置き換えても成立する箴言ではなかろうか。
自分のことを反省しながら言うのだけれど、音楽に何かの意味を求めて聴いてきた選んできた自分は、音楽に対して不純だった。
申し訳ない。
だもんで、僕は、何かの主張があるわけでもない、労働者たちが仕事の後に気張らしで遊びに行くディスコなんてとこで消費されてるだけの音楽に見向きもしなかったわけだ。何か意味がありそうな、革命を歌ったレゲエだとか、不満を歌ったパンクだとか、頽廃を歌ったグランジ、思想とのシンクロを見せたニューウェーブなどを見栄張って聴いてきたわけだ。基本的にこれらの音楽は今も僕は好きだ。
しかし、ディスコ音楽のリズムに否応なく惹かれる自分がいる。この、薬物のような身体反応を誘う音楽って何なのか。
それは、意味を放擲したところにある、即物的な、それこそ「ノレるかどうか」だけが問題の、下賤な音楽だった。それでいて高度に洗練され、大きな文化潮流を形成したものでもあった。
人生に意味はない。音楽にも意味はない。しかし、律動はある。
ということではないかと、思うわけです。
今後も午後1時半からの「レディオ・ディスコ」は楽しみにしています。DJオッシーのMIX(と言っていいのかどうか)は大変素晴らしい。サヨコさんのトークも。80年代生まれの若い人たちが、どんだけ理解できるかどうかは知らないが、リズムはわかるんじゃないかなー。
あと、今後も退屈については考えていきたいと思っています。