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【内】 六難九易と開目抄のツボ
菊川(吉川)さんが法華経の六難九易の解説を試みられているようです。
http://megalodon.jp/2012-0509-1551-57/sokanomori.exblog.jp/17932426/

私は菊川(吉川)さんの説明よりも、タニケンさんの説明のほうが上手だとおもいます。

http://taniken3.blog114.fc2.com/blog-entry-12.html

末法において法華経受持し弘めることが、不可能に見える「九易」よりも
難しいという事だとおもいますが、では現代においての法華経「六難」の
修行とはなにか?という部分を付けるともっと良い感じになるとおもいます。

でもこのように仏法を自分なりに言葉にしてあらわそうとされる事は素晴らしい
事だとおもいます。

しかし残念ながら、ブログ村創価のカテゴリー内では「教学」の内容の正確性よりも
「その人の人気」でランキングがしめられてしまいます。私がお勧めしたタニケンさんの
記事は上位には入りませんでした。

なにを書かれているかよりも、誰が書いたかで小さなカテゴリー内での順位が
ついているのが現状です。
時をおかずに返答をしたり相手の所へ書き込んだりする「マメ」さが人気を左右します。
内容がほとんどない短文の「更新予告」ですら一位になったりするのはその証拠でしょう。

さて、少々話がそれましたが現代の「六難」の修行とは、「南無妙法蓮華経」を
唱え他に弘めることにつきると思います。
残念ながら、ごく普通にお題目を唱える事ができ同志と仏法を話す事が日常に
なっている学会員さんはともすれば「ありがたみ」が薄れてしまう事がままある
のではないでしょうか。

あたりまえのように御本尊に向かいお題目を唱え、学会活動ができる。

私は六難九易を論じる時に、いつも「一眼の亀」の説話を思い出します。
末法において法華経と出会う「希少性」、またその法華経を受持している同志に
出会う「希少性」、そしてその同志と法華経のエッセンスであるお題目。
南無妙法蓮華経を唱え研鑽し弘めていく事ができる「希少性」に気がつか
なければなかなか感謝の心は湧いてこないと思うのです。
なぜ信心をしているのか?と問われて、親が信心をしていたからと言う人も中には
いますが、なぜそんな親の所に自分は生まれてきたのでしょう。
とんでもない確率であることは間違い在りません。でもそれに気がつかない。
恩を知らなければ感謝できようがありませんよね。

では、「感謝の心」とは他人が見ることができるのでしょうか?
人間は媚びへつらう意図があれば感謝の言葉は出せます。
学会や学会員に対して感謝の言葉はさっと口に出せても、本当にそうおもって
いるのかどうかは言葉だけでなく、むしろ「振舞い」(行動)に顕れます。

青年部時代に人材グループ等で、学会活動は「している」(してやっている)では
なく「させていただいている」という心構えが大事だと指導されましたが
この根幹になければならないものが知恩・報恩感謝の心ではないでしょうか。

勤行の祈念文で毎日「報恩感謝」の語句を黙読していても、活動報告等で創価学会や
三代会長を賞賛できていても、実際には仕事・家族・信仰との間でいつのまにか
“自分本位の”優先順位ができてはいないでしょうか。

仕事が忙しいから学会活動はおもうようにできない
家族が大事だから信心は二の次
信心が大事だから家族や仕事は適当にする

このいずれの考えも報恩感謝がまだまだできていない証左ではないでしょうか。
ましてネットコミュニケーションを優先して現場をおろそかにしていれば
本末転倒です。

ちょうど5月の座談会御書は「開目抄」の有名な部分。

「我並びに我が弟子諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、
 天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、
我が弟子に 朝夕教えしかども疑いををこして皆すてけん
つたなき者のならひは約束せし事をまことの時はわするるなるべし]
                           (開目抄)

仏法(法華経)では、自らが過去世、仏(師匠)に報恩感謝し「末法に正法」を弘める為に
進んで現在の乱れきった世の中に生まれたという因縁が説かれています。

正法を疑う心、捨てる心、嘆く心。 これらは過去世の約束を忘れてしまって
いるのではないかと日蓮大聖人は問われているのです。
「まことの時」とは苦難に遭っている時こそが、究極の目的である成仏へと
境涯を開くチャンスだと言われているのではないでしょうか。

ついつい忘れてしまう事を責めておられるのではなく、「なんの為の信心か」を
明確にしないと、六難九易の九易のたとえに、たやすいこととして説かれた
とてつもない難事よりも、もっと些細な事を理由にして学会活動を休んだり
やめてしまったりしてしまうものだと指摘されているのです。

ちょうど大白蓮華5月号の76ページにも「自らの誓願が破れる」と表現されている
のは、私たちが末法で普通に南無妙法蓮華経を唱える事ができている「原因」は
師匠への報恩の誓願の「結果」であるという事が全く別であるように考えている
様子を示しているのだと思います。

口先だけではなく「本当の報恩感謝」を体現している人は、

『我日本の柱とならむ 我日本の眼目とならむ 我日本の大船とならむ等と
 ちかいし願(ねがい)』   (開目抄)

日蓮大聖人のように、だれでもない「私」が日本の人々救ってみせるという気迫
が感じられます。

この大誓願に生きる人は「やらない理由」「できない理由」を毎日朝夕に考えて
お題目をあげているはずがありません。
信心をやめさせようと苦難が襲いかかってきている時こそ「まことの時」境涯を
あげるチャンスであることを信仰体験を通じ身をもって会得されているからです。

○○さんがどうだとか学会の組織がどうだとか、仕事がどうだとか、信心できない
理由ばかりを探している愚痴の心を持った人や、ちっぽけな名聞名利に生きて満足
している人を、いくらおだてたところで苦難と立ち向かう「大誓願」をおもい
だしてくれはしません。むしろ逆効果です。

一人一人が怠惰や我欲を制しどこまで純粋に弘教に邁進できる人になれるか
一番難しい。
だからこそ、手本となる師匠や現場で影の闘いに徹している同志との心の距離を
縮めることが肝要になってくるのではないでしょうか。

法華経六難九易の譬え・開目抄は共に、一見するとたやすいと思えるような心がけ
にも実は「末法広宣流布」の成否を左右する要があるとの意義があるように思えます。

どこまで、一人たつ精神を自分に刻み込めるか。
創価学会は「癒やし」を求める人の休憩所ではありません。
また感謝に裏付けられた行動(振る舞い)に愚痴や嘆きはありません。

あらゆる苦難に怖じず立ち向かう。
より多くの一人一人がこの誓願に本当に目覚めたとき、日本を覆い尽くす不安の闇は
消え去ることでしょう。


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by abehi-ken | 2012-05-09 16:14 | Trackback
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