蜀山人こと大田南畝は、こう詠んだ。
世の中に 人の来るこそうるさけれ とはいふものの お前ではなし
これをもじって、作家の内田百閒は、こう詠んだ。
世の中に 人の来るこそうれしけれ とはいふものの お前ではなし
百閒は、家にさまざまな人が続々とやってくるので落ち着かないと、
この歌を紙に書いて玄関に掲げた。
しかも、こんなふうに、蜀山人の歌と並べて。
世の中に 人の来るこそうるさけれ とはいふものの お前ではなし 蜀山人
世の中に 人の来るこそうれしけれ とはいふものの お前ではなし 亭主
百閒の家にやってくる人は、
誰しも百閒を慕って、会いたくてやって来る人ばかりで、
しかも、百閒流のへそ曲がり加減や、頑固おやじ気質もわかっている。
だから、そんな歌を見たって驚かないどころか、
「先生が、またへそ曲げてるわ!」と、
ちょっと喜んでしまうのではないかと。
静かに暮らしたいけど、とはいえ、ものすごい寂しがり屋の百閒は、
一見嫌味なこの歌を、訪ねてくる人が喜んで笑ってくれるのではないかと、
そこまでわかってやっている確信犯ではないかと。
そして、百閒を慕う人々は、
亭主の曲がったへそや、頑固然とした顔が見たくて、ますますやって来る。
それでも、もの売りや、借金の取り立て人は、やって来てほしくない百閒。
亭主の歌が書かれた紙も、何者かによってはがされてしまう。
そこで百閒は、門に次のように書いた札を掲げた。
春夏秋冬 日没閉門
春夏秋冬、陽が暮れた後は、誰の訪問も受け付けませんよ、というわけで。
それでも人はやって来てしまうのです。
寂しがり屋の百閒のもとに。