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旧伊達領北部に伝わる「行山流」の鹿子踊りは、水戸辺村の住人であった伊藤伴内持遠が元祖とされています。一関市舞川(旧相川村)に伝わる巻物によると、伊藤伴内から弟の五郎と三介に伝えられた鹿子踊りは、平磯浜の千葉平九郎、入谷村の安倍四郎兵衛に伝授され、さらに平九郎を通じて相川村の吉田猪太郎に伝えられたと記されており、巻末には元禄十三(1700)年七月吉日の日付とともに持遠の花押が添えられています。後に四郎兵衛のいた入谷村が伊達藩養蚕業の中心地として栄えるようになると、胆沢、磐井、気仙などの諸地域との結び付きが強まり、それによって「行山流」と称される鹿子踊りが今日見られるように広く各地に伝播されたものと考えられます。
行山流発祥の地である水戸辺、入谷とも鹿子踊りは途絶えていましたが、昭和五十七年に水戸辺集落を見おろす高台の土中から「奉一切有為法躍供養也 享保九辰年 本吉郡水戸辺村敬白」と刻まれた石碑が発見されました。「世のなかに存在するすべてのもの(一切有為法)のために、躍りをもって供養し奉るものである」と解釈されます。この供養碑の発見を機に獅子踊り復活の機運が高まり、平成三年四月一日に行山流水戸辺鹿子躍保存会が発足、伊藤伴内直系の躍りを伝える舞川鹿子躍保存会からの手厚い指導のもと、平成四年七月に地区水戸辺の人々に初披露、八月十四日には菩提寺である慈眼寺にて躍供養として奉納し、平成五年九月には復活の「庭揃え」となりました。
なお、鹿子踊りの「おどり」については、供養碑の碑文に「躍」が用いられていること、跳躍運動である「おどり」を表すには「踊」よりも「躍」の方が相応しいとの考えから、水戸辺の保存会では「鹿子躍」の表記を用いています。
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