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オランド勝利の意味を矮小化し歪曲する日本のマスコミ
フランスの大統領選とギリシャの総選挙の結果が出たが、それを報じる日本のマスコミの口調に大いなる違和感を感じる。第一に、この選挙に示された欧州の市民の民意に内在することなく、きわめてネガティブな反応を示していること、第二に、この結果を政治問題としてではなく国際経済の問題として捉え、市場の視線で報道していることである。NHK-NW9の大越健介は、冒頭、「市場は懸念を示しています」と言い、現地パリの映像ではなく、八重洲の新光証券のボードから映像を出して、株価が下がったとか、ユーロが下がったとかの説明を始めた。まるでテレビ東京のWBSを見ているようだ。同じく、本日(5/8)の朝日新聞も、2面の見出しに「欧州危機、不安再び」と書き、各国の国債が市場で売り浴びせられて債務危機が再燃する恐れがあると書いている。まるで日経の記事を読んでいるようだ。資本の論理で情報処理されている。テレビを見ている視聴者に、この欧州での出来事を厄災として受けとめるよう促している。市場原理主義とはこういう報道の態度を指すのではあるまいか。NHKに受信料を払っている人々、朝日を購読している人々、その大多数は普通の市民であり、株を売買して儲けている市場関係者や富裕層ではない。今回、緊縮策にNoを突きつけ、格差是正と経済成長を求めてオランドに投票したフランスの市民と同じ境遇の者だ。
 

NHKや朝日は、本来、国民の大多数を占める人々に内在して報道すべき言論機関であるにもかかわらず、一部である市場の立場に立ち、言わば市場の大本営報道部になっている。これこそ、まさに新自由主義のイデオロギー支配の現場そのものだ。市場とは何なのか。嘗て市場はアダム・スミスのインビジブル・ハンドの神として一般認識され、全体の経済利害の総意が反映した公正なものとして観念されていた。大塚久雄がデフォウからホモ・エコノミクスの人間類型を説き、ウェーバーのエートス論と重ねたとき、市場はそうした理念的な存在でよかった。多くの中産層が市場に参加し構成していたからだ。しかし、グローバリズムの時代の市場はそうではない。市場は人々を豊かにするものではなく、逆に収奪して貧困に追い込むものだ。市場の実像とは、昨年、NHKスペシャルで放送していたロンドンの投機家の姿である。市場の意思とは富裕層の意思そのものであって、経済活動している全体の意思の集約ではない。大越健介はそこを巧く利用し、日本人の過去の市場観念に依拠する形で、オランドの政策を否定する市場の姿勢を正当化するのだ。しかし、それは竹中平蔵らが10年前にやったことだった。そして、4年前には否定され廃絶されたはずの言説行為だった。それがまた復活している。市場信仰が甦っている。マスコミの「正論」になってしまっている。

今回の欧州の選挙結果は、ギリシャ危機から仕掛けられた市場による政治と政策の統制に対する市民の反転攻勢なのだ。市場は、ギリシャの債務危機をユーロ危機へと誘導し、国債投機で莫大な利益を得つつ、同時に各国の労働法制の規制緩和と社会保障削減と増税を実現するべく、政治に介入して各国の政権を一瞬の間に市場の奴隷にした。マスコミが言う「緊縮策」とは、増税と社会保障削減である。マスコミが言う「構造改革」とは、労働法制の規制緩和であり、非正規化と低賃金化である。マスコミが積極表象として言う「緊縮策」と「構造改革」とは、資本と市場のターミノロジーであり、富裕層に利益をもたらし、労働者に不利益をもたらす政策のことだ。欧州委員会の官僚は、市場がユーロ危機を利用して国債を投機するのに手を貸し、各国の政治と法制を独裁し、脅迫によって「緊縮策」と「構造改革」を強制したのであり、それに市民が反発したのは当然で、ようやくその抵抗の正当性が政治の表面に現れた。それまでデモやストの抗議行動は、マスコミによって悪性表象を塗り固められ、過激派のレッテルを貼られていたのだ。欧州委と市場とマスコミによって、左派と労働者は「改革に反対する抵抗勢力」に、そして「過激派」に仕立て上げられていた。フランス社会党のオランドの選挙勝利によって、やっと政策主張の正当性を確立できたのであり、多数派たる地位を得たのである。

今回、問われたのは格差問題である。そして、財政再建と経済成長の問題だ。これは、まさに日本の問題そのものである。日本でも若者の2人に1人が定職に就けず、不安定な人生を強いられている。けれども、なぜか日本では格差問題が提起されない。貧困対策は言われるが、格差構造の解消や是正は政策のアジェンダやイシューではなくなった。政治問題にならず、無視され放置されている。本来、格差に抵抗して最前線に立っていなければならない湯浅誠と反貧困の連中は、官僚の代理人になって消費税増税を正当化する言説を垂れ流し始め、出版と講演とマスコミ露出を自慢する芸能タレントになり果てている。テレビ出演でギャラを稼ぎ、すでに労働貴族ですらない。フランスには理性があり、格差問題が正面から提起され、それを政策として掲げる勢力が出現し、メランションが選挙の台風の目となった。また、増税が不景気を加速させ、税収増ではなく税収減を導き、財政再建に逆効果になる道理も、フランスでは常識であり正論である。わが国では、岡田克也や菅直人が増税して景気回復だと言い、増税で社会保障が充実するから生活はよくなると言い、その珍説を湯浅誠がエンドースするという倒錯現象がある。誰も正論を言わない。日本では経済学の常識が消え、どれほどブログで言い続けても、「古い左翼」のレッテルを貼られて排斥されるだけで、全く世間一般に説得力として浸透しない。

オランドが選挙で訴えてきた「経済成長」の言葉は、日本のマスコミが言っている「成長戦略」とは意味が違う。日本のマスコミは、「景気回復」という言葉を抹殺して使わなくなり、「経済成長」を「成長戦略」の言葉に狡猾に切り換えた。ブログで何度も指摘してきたことだから、読者には耳にタコで恐縮だが、今回も、朝日やNHKが同じ手法を使い、オランドの政策の意味をスリカエている。日本の政党やマスコミが言う「成長戦略」とは、新自由主義的な中身の政策である。これは、安倍内閣から麻生内閣と続き、菅内閣に継承されてきた政策群で、具体的には、教育や農業や医療の分野を自由化して投資を促し、資本に参入させて大きな産業にするというものだ。こうした規制緩和の政策群を、官僚がグリーン・イノベーションとかライフ・イノベーションなどという標語で美化して眩し、政権の基本政策として据え、マスコミが「成長戦略」という語で括って喧伝してきたのである。もう5年以上経つ。「経済成長」の概念と表象は、この新自由主義的な「成長戦略」にすっかりリプレイスされてしまった。ケインズ的な意味における「経済成長」を言う者はどこにもいない。オランドの言う「経済成長」は、われわれが嘗て使っていた「景気回復」の意味である。企業生産と個人消費を活発にするという意味で、公共投資でそれを促進するという政策だ。きわめて古典的な「経済成長」の方式であり、ケインズ政策である。フランスではその概念が生きている。

日本の政府やマスコミが言う「成長戦略」が、本来の意味の「経済成長」とは違うということを、マスコミに登場する論者は誰も指摘しない。金子勝ですらそれを言わずに口を閉ざしている。これまで、日本の政権とマスコミは、欧州の債務危機と「緊縮策」へ向かう欧州の政治動向を情報として利用して、「税と社会保障の一体改革」を正当化し、これが世界の潮流だと繰り返し言って国民を洗脳してきた。大越健介が番組でモンティにインタビューする放送があったが、あれを見たとき、日本政府がモンティをわざわざ日本に招待したのは、特に政府間で用事があったわけではなく、マスコミを使ってモンティに緊縮財政路線を宣教させ、消費税増税の支持を拡大する世論工作のためだとすぐに直観した。今後、イタリアとスペインでも労働者と市民は政治的な反撃を始めるだろう。「緊縮策」と「構造改革」にNoを突きつけ、ケインズ的な経済成長を政策選択することを政府に求め、それを多数世論にするに違いない。ブログでは欧州危機の記事で幾度も言ってきたが、国債と通貨を防衛しようとするなら、ヘッジファンドによる市場での自由投機を許してはいけないのである。国民の財産である国債の投機で各国財政を脅かし、それで暴利を貪る行為など法的に規制措置するのが当然なのだ。もし、そのために国債を抱える銀行が破綻するのなら、その前に銀行を国有化するべきで、日本のように郵政で引き受ける安全な仕組みに変えればよいのだ。

オランドの公約を見ると、富裕層への課税強化だけでなく、金融機関への規制強化があり、投機家と銀行との分離を明言している。社会党の候補が大統領になったのだから、社会民主主義の政策が実行されるのは当然だ。来年のドイツの選挙も左派が勝利し、欧州が新自由主義から最終的に決別することを願う。写真を見ていたら、一夜明けたパリで、オランドの勝利を喜ぶ若者たちが、赤いバラ一輪を手に持ち、歓喜して互いに抱き合う一枚があった。その傍らでは若い女の子が、安堵と喜びを抑えきれないという表情で、片手で目元を覆っている。この若者たちは、20%の失業率とサルコジの「緊縮策」の中で、何とか死地を脱しようとしてこの選挙戦に臨んだのだ。自分たちの将来のため、選挙にコミットして戦い、勝利を手にしたのだ。バスティーユ広場の中央記念柱の台座の上では、やはり若い男女が歓喜して拳を天に突き上げている。とてもいい絵だ。若者には未来がある。未来をよくするためには政治を変えないといけない。政治に主体的に参加し、勝利して喜ぶのは当然の絵だ。オランドがどこかで変節して、この変革が裏切られるかもしれない。しかし、今はそんな事を考えるのではなく、サルコジの再選を阻まなくてはならず、彼らはそれに成功したのだ。純粋な熱情が素晴らしい。政治とは、本来こういうものだ。日本も、日本の若者もこうでなくてはならない。日本のマスコミの貶め目的の卑しい情報工作に較べて、パリの若者たちの絵がどれほど政治の真実を語っていることか。

1981年のパリの映像を思い出す。もう30年も前になる。あのときも、今回よりもっと盛り上がって、若者たちが一輪の赤バラを持ってパリ市街に夜どおし繰り出し、クルマのクラクションを鳴らし続けてお祭り騒ぎをした。ミッテランを当選させた原動力は変革を求める若者のエネルギーだった。若者が政治を動かす。自分たちの未来のために。エジプト革命もそうだった。そうじゃなきゃいけない。


by thessalonike5 | 2012-05-08 23:30 | Trackback | Comments(1)
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Commented by 裕次郎 at 2012-05-08 15:57 x
日本国民よ、いい加減に新自由主義の回し者達を葬り去り、勤労者社会を取り戻せ、年功序列でよかったのだ。だからマイホームもマイカーも大学進学も出来たのだ、日本人は日本の宝を放り捨ててグローバル・スタンダードならぬアメリカン・スタンダードを取り入れた。ハゲタカ・ファンドに郵貯を掻っ攫われないように、TPP参加に反対しよう。
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