【忘れ得ぬ人々】:日韓併合100年/6止 農場主と診療所医師

 ◇交流の跡、探る動きも

 韓国南西部・全羅北道群山(チョルラプクドクンサン)市にあった「熊本農場」の診療所に赴任した李永春(イヨンチュン)博士は多忙を極めた。農場には小作人とその家族を含め約2万人が生活していた。診療所に赴任してから1945年の終戦までの10年間、李博士と同僚が診療した患者は21万2000人余りにのぼる。
 李博士は、農場の経営者である熊本利平氏の要請を受けて農場に赴任する際、5年後をメドに農村の衛生環境改善のための研究所設立の許可と運営資金の提供を受ける約束をした。43年10月、熊本氏は、李博士が提案した「農村衛生研究所」の設立を認め、3000ヘクタールの農場のうち1500ヘクタールから上がる収入を運営費に充てると明言した。 毎日新聞社 東京朝刊 ニュースセレクト 海外 特集 【忘れ得ぬ人々】 2010年02月18日 00:18:00 この記事は参考資料です。転載等は各自の責任で判断下さい。

 しかし、終戦・解放で熊本氏は約束を果たすことができなかった。李博士は戦後、苦労を重ねて米国や韓国政府を説得して研究所を設立した。

 李博士は戦後、熊本氏が別荘として使っていた農場内の家に住み、その家が「李永春家屋」と呼ばれるようになった。今回見つかった農場の経営記録や熊本氏の手紙は、この家を一人で守る博士の五男、李柱雲(イジュウン)氏(59)が家の中で偶然発見したものだ。

 李博士と熊本氏がどんな思いで農場診療所を設けたのか。終戦・解放の前後、2人の間に「約束」を巡ってどんなやりとりがあったのか。

 「父はあまりにも多忙で、家で顔を見たことがない。道ですれ違って『こんにちは』とあいさつするような親子関係だった」という柱雲氏の口から、戦後も長く続いたとみられる李博士と熊本氏の交流を裏付ける証言は得られなかった。

 熊本農場を研究する国立全北大学の蘇淳烈(ソスンヨル)教授(53)は「熊本氏をどう評価すべきか。そのためには農場経営の分析と、熊本氏と李博士の交流を示す資料の収集・分析の両方の作業が進まねばならない」と指摘する。

 昨年、韓国の若手研究者らが熊本氏の故郷である長崎県壱岐島の現地調査を試みた。植民統治時代の歴史をありのまま分析しようとする彼らの中から今、「日本の研究者からより積極的な協力を得たい」という声が上がり始めている。【全羅北道全州で大澤文護】=おわり