「東京の街が奏でる」第二夜
2年前の「ひふみよ」ツアーの素晴らしさ、そして今回の「東京の街が奏でる」というツアーの、たった十二夜、しかも場所は東京オペラシティタケミツメモリアルホール、芝居やライブに出かけていくことがすっかり日常になったわたしにとっても、それはなんというか久々に訪れた「ハレの日」の感覚だったとおもう。第二夜を選んだのは、初日や休日や休前日といったすこしでも倍率を上げそうな要素を排除した結果の選択だった。行けるだけでいい、と思っていたし、結果としてその通りになったと思う。
2階の上手側バルコニー席から見ていたので、舞台はとてもよく見えた。思ったよりステージが小さく、メトロノームが不自然なほどたくさん置いてあるなと思った。開演時間を過ぎたあたりからか、不規則な音が場内に流れだし、最初それは馬の蹄の音のように聞こえたのだけど、舞台上に並べられたそれぞれテンポの違うメトロノームが規則的に不規則な音を作り出していることに気がついた。舞台をセッティングする黒子が(ほんとうに黒子の格好をしている)そのメトロノームをひとつ止め、ふたつ止め、みっつめを止めたところで、ぱたっと光が落ち、暗闇になった。
開演前のアナウンスで「赤外線双眼鏡の使用はお控えください」と言っていたので、暗転が続くのかなということは少し予想していたのだけど(それにしてもほんとうに赤外線双眼鏡なんてもってくる人はいるのだろうか!)、案に相違して完全な暗転はそれほど長い時間ではなかったと思う。暗闇の中にオルゴールの「いちょう並木のセレナーデ」が響く。ぼおっとかすかな灯りが点き、その手回しオルゴールを回しているひとの姿が浮かび上がる。
その手回しオルゴールと共に登場するのは日替わりということらしく、第二夜のゲストは東京スカパラダイスオーケストラのGAMOさんでした。毎回、「東京の街で奏でている」ミュージシャンがやってくるらしい。「音楽」についての短いリーディングと共に、「みなさんが緊張しないように…って、ぼくがいちばん緊張していますけども」と場を和ませてくれたGAMOさん。実際、みんなわりと「固唾を飲んで」という雰囲気だったから、GAMOさんの緊張しつつも場を和らげる前座(ご本人談)の語りはすごく効果的だったと思う。あと、会場に来たときから多分誰しもが思っていた「立っていいの?座って聴くの?」という心の中の疑問第一位にもここで説明があり、うしろのスクリーンに鹿が跳ねている影絵が出たら立ってもイイヨ!の合図。鹿が座っていたら座って聴いてイイヨ!の合図。雌の鹿の絵は女の子だけで歌って、雄の鹿の絵は男の子だけで歌ってね、でもすきなときに立って良いし座って良いし歌っていいんだよ、いちおうの目安です、とGAMOさんは言った。
人間が生きていくために必要とするのは寒さをしのげる衣服、食べ物、そして暖かい部屋。音楽は生きていくためにぜったいに必要なものではない。だけど、音楽があれば「いつか」を思うことができる。「いつか」を待つことができる。
「このオルゴールは、『LIFE』で最後に演奏されたときのものです。もう一度鳴らしてみます」。いちょう並木のセレナーデが流れる中、再び暗転し、そして小沢くんが登場。
ラフな格好だけど、どこにも安っぽい感じがない、いつまもで小沢くんは「様子のいい」男の子だなあなんてことを思いながら見ていました。最初は振り子に関するリーディング。途中で、「大丈夫、曲はたっぷりやるから」なんてちょっとおどけた感じで差し挟んだのがなんとも、いやいやわかっているけれど、こっちの心を見透かしたようなタイミングでくるなーと笑いそうになった。「ようこそ『東京の街が奏でる』第二夜へ!」と両手を広げて歓迎してくれた姿にじんときた。なにしろ本当に本当に楽しみにしてきたのだもの!
重力の発見から振り子が作られ、振り子から「時を均等に分割する」メトロノームの話へ。舞台上にセットされたメトロノームをひとつ揺らして、最初は「東京の街が奏でる」新曲です、と小沢くんは言った。曲の途中で、真城さん、キタローさん、そしてストリングスの4人(弦楽四重奏!)が順番に呼ばれてそのたびに大きな拍手が起こる。曲の途中で、とつぜん「さよならなんて云えないよ」のワンフレーズが差し挟まれてまさに浮き足立つ観客たち(わたしもだ)。跳ねる鹿のマークがここぞとばかりに出てきて、そして「さよならなんて云えないよ」がほんとうに始まる。
もういきなり、私の「心のベストテン第1位」みたいな曲から入ったのでわーどうしよどうしよ、と心があたふたしたけれど、しかしステージを見れば明らかなことなのに、そうか、この構成でいくということはそれだけある意味繊細な音の構成で行くってことなんだ、とここで改めて気がついたというか、なにしろひふみよツアーがまさにフルバンドの構成だったからよけいにということもあるけれど、これは、小沢くんはたいへんだな…!とギターにかがみ込むような姿勢で一心に弾いている姿を見て思ってしまったり。ギターを弾くという作業をやるのが小沢くんひとりなので、そのためのヘッドセットだったんだろうと思いますが、しかしヘッドセットで彼のあの楽曲群をやるというのは相当タフでないとできないだろうなあと。
しかし「左へカーブを曲がると」を歌う小沢くんの声は、やっぱりひときわ力が入っていて、会場の音の響きの良さもあるけれど、この楽曲で歌われる風景が眼前にざあっと広がるような気がして、やっぱりどうにもぐっときてしまうのだった。
立て続けに「ドアをノックするのは誰だ?」ヒー!しかし、一糸乱れぬ手拍子もだが、それがドアノックダンスの振付の部分だけぱたっとやむのがもう、ここに来ている人の気合いと歳月を表しているようで嬉しくておかしくてしょうがなかったなあ。しかしこの曲のギターは相当につらそうで、小沢くんはもうまさに必死というテイでかき鳴らしていた。終わった後、右手をぶんぶんと振りながら、こういう構成だから今回、ギター弾きっぱなしで…と照れたように言っていたけれど、どうやら手が攣りそうになっていたらしい。
「いちょう並木のセレナーデ」の「夜中に甘いキスをして」のあとのフゥ~!というかけ声がなんだか遠慮がちだったのは、みんなまだ会場の空気をはかっていたのかなーなんて思いつつ。小沢くんはたいてい曲の前に、知ってたら一緒に歌って、と言っていたし、実際曲の途中でも、ものすごく気軽にほいっと観客に歌を託していた。そしてそれに間髪入れずについていく観客たち。観客の歌声が軌道に乗るまでは小沢くんが歌い出しをリードしたり、逆にまったくその必要がないと見るや彼は両手でもっともっとと客を煽ったり、その押し引きは一貫して絶妙だったと思う。コンサートの頭からしっぽまで、構成もなにもかも叩き込んでいると思うのに、その構成に胡座をかかないというか観客の反応を掬い取る見事さはひふみよツアーの時とまったく変わらなかった。
そこに投入される「今夜はブギー・バック/あの大きな心」。ラップの部分も小沢くんが、華麗にではなかったけれどとてもキュートに歌っていて、観客ももちろん「16小節の旅の始まり」を完璧に歌い上げていて嬉しくなった。ミラーボールというよりか、大きな水玉、といった感じの照明がくるくると回りだし、吊された天井のピンスポットが客席に白く強い光を照らしていく。小沢くんが左右に大きく身体を揺らして「心変わりの相手はボクに決めなよ」と歌う。そこからまた「ダンスフロアーに 鮮やかな光」と戻っていくときのあの感覚はなんだったのだろう。興奮が身体を駆け巡るような感じ、叫びたいような、走り出したいような。やっぱりこの曲はすごい、これだけの時間が経ってもまったく古くならないどころか、こんなに観客を興奮させてやまない。
リーディング、文章の長さについて。聴いているときに、ものすごく激しく首を縦に振っていたと自分でも思っていたし友人にも言われたが、まさにそうそうそうそう!!!!激しく同意!!!というやつそのままのリアクションをとってしまったわたしです。思い出せる限り要約してみるのでちょっと長くなるかもしれない。
今は短い文章の時代だけど、実は文章の長さはその内容を決めてしまう。今から別のことを短い文章でまとめてみる。ひとつ。「選挙は大事な大人の義務です。よりよい社会を作るために、積極的に選挙に参加しましょう」。ふたつ。「選挙をすると敵と味方ができてしまう。より強い社会を作るために、できるだけ選挙はしないほうがいい」。ふたつめのことはよくわからなかったんじゃないかと思う。もうすこし説明してみる。昔から港町などで作る漁業組合のような集団は、物事を決めるときに選挙という手段をとらない。何かを決めるとき、ひとりでも異を唱える者があれば、全員が同意するまで話し合いを続ける。選挙をすると、敵・味方がはっきりしてしまい、いざというときに強い基盤を保てない。海の上で強い基盤を保てないと言うことは命の危険を意味する。だからより強い社会を作るために、選挙はなるべく行わない。今度の話は、よくわかったと思う。ひとつめの短い文章が、なんの説明もなくても「言っていることがわかる」のは「その話がなにか知っている」から。短い文章で伝えられることは、そういった共通認識のもとに成り立っている。
新しいことを伝えるにはある程度の文章の長さが必要になる。でも長い文章を読むのはなかなか忍耐力のいることで、メールでさえも長い文章は飽きられる。そして、短くてわかりやすい、「知っている」ことだけが繰り返し伝えられる。短い文章のやりとりがまるでそりで雪の上を滑るようなものだとすれば、長い文章はそりを引いて丘の上に登るような作業だ。雪の上を滑り降りるのは確かに気持ちのいいことだが、言うまでもなく、降りてばかりはいられないのだ。
文章の長さはその内容を決めてしまう。文章を書く、ということに敏感なひとなら絶対のそのことをきっと知っている。
まあ、もう、小沢くんの話に自分のことを引き合いに出すな!という感じだけれど、この「共通認識のないところにも投げられる文章」というのは私もいつも向かい合っては七転八倒し、大抵の場合は刀折れ矢尽きてバッタリふて寝、という感じになるのが関の山だけど、それでもできるだけそういうところを忘れないでいたい、と思っていたので、もうほんとうに首がとれるほど頷きまくってしまったのです。
着席したままで「あらし」と、ひふみよツアーのときにも披露された「いちごが染まる」。最初のシークエンスよりも小沢くんもぐっと落ち着いて余裕が出てきたような印象を受けました。声もこのあたりからすばらしくよく伸びていた気がします。知っているひとは歌ってね、と前置きしながら「それはちょっと」。ううう、うれしい、「ひふみよ」のサイトで、やるよという前置きがあったからやるだろうとは思っていたけれど、それでもとても嬉しかったです。\それはちょっと、/の合いの手を入れられたのもうれしかったし、我が儘だから、で小沢くんを指さしてみたりするのもたのしかった。いつかひょっとしたらって思うよ、のフレーズを2回目に繰り返したとき、意味もなくうわーんと泣きたいような気持ちになったのはあまりにもたのしすぎたからかもしれない。
リーディング。Believe、信じること。アメリカのプロスポーツの応援なんかで「I Believe」なんて書いた幕やペインティングを見てもわかるとおり、信じるということはポジティブな意味で使われる。信じると力が出るから。信じる人、 believerを日本語に直訳すると「信者」になって、なんだか途端にネガティブな意味がまとわりつく。これは日本ではいつも世直しの気運が宗教的な気運となって現れてきたことと関係があるのかもしれない。ぼくがもしこの国の支配者になったなら、そういった過去の例を研究して、「信じる」ことのネガティブさを世論に流し込もうとするだろう。信じないと、力がでない。それはなんだか恋愛にも似ている。良い悪いではなく、何かを信じること。それにしても、「信者キモチワルイ」とひとは言うのに「恋愛キモチワルイ」と言わないのはなぜだろう。どちらもおなじことなのに。
「僕はひとが何を信じてもいいと思う。そういう信じる人を僕は応援する。I Believe.と額に書いて9回裏ツーアウトでバッターボックスに立つ選手のように。」
「天使たちのシーン」。ここでこの不朽の名曲を放りこんできますか…!ひふみよツアーのときともまたアレンジの違った楽曲。天井の高い三角屋根のこのホールと曲の雰囲気がすごくあっていたような気がしたのは、なんとなくホールの形が教会を思わせたからかもしれない。 次の曲、「どこ行こう どこ行こう 今~」と歌ってくださいと前置きがあって「おやすみなさい、仔猫ちゃん!」に。男の子と女の子にそれぞれ別々に歌わせたりしてて、そしてみなもちろん律儀にそれに応えているという、この美しい風景よ。
リーディング。飼っていたオカメインコは喋るインコだった 。と、ここでやおら観客のほうに向き直り「ここでこのインコの声を真似してみせるんだけど…」とはいえ照れる、といった風情の小沢くんにやんやの喝采を送る観客たち。しかしこの、オハヨ、ジュンチャン、ケンチャンというインコの物真似はおかしくもかわいらしく、顔がにやけてにやけて参りました(しかも似てる、ってもちろんそのインコ知ってるわけじゃないが!でも似てる)。ジュンチャン、あ、ジュンチャンっていうのは兄です(律儀)、ケンチャン、そしてこのインコは時々教えてもいないのに妙なことを言い出すのだった。宿題ヤッタ?
それから何年も経って突然、そうか、あれは、僕と兄が学校に行っている間、母親が教えてやがったのか…!そのことに気がつくのに10年かかりました(かかりすぎ!)。気がつくと今やもうその母親の歳になっている。大人は子どものしらないいろんなことを知っている。たのしいことも。くるしいことも。でも今は「若い」ということがやたらと賛美される。若いと言うだけでもてはやされる。大人の方がたくさんのことを知っているのに。
大人になって、たまにこんな素敵な場所でこんな素敵な時間を過ごすことができることを祝いたいとおもいます、と小沢くんが言ったときに湧き起こった自然な拍手は、たぶんみんなこの日の「ハレの日」の感覚が胸にあったからなんじゃないかなって思いました。
リズムは常にステージの上に沢山置かれたメトロノームのうちのひとつが担っていて、そのメトロノームに合わせて始まった「東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディー・ブロー」。多分、これから長い時間が経った後で、この日のライブを思い出したとき、私はこの曲のときのことを思い出すんじゃないかとおもう。もちろん『LIFE』のアルバムで、それこそ繰り返し繰り返し聴いてはいたけれど、この曲を聴いてあんなにもぶちあがったことは今までなかった。小沢くんの言葉を借りれば「危険なくらい」私は完全にぶちあがっていた。理由は実際のところよくわからない。ただはっきり覚えているのは、「それでいつか僕と君が歳をとってからも」と身体を大きく揺らしながら歌う小沢くんの声と、「空に散らばったダイヤモンド」「行きましょなんつって腕を組んで」と、最後の音節を区切るように力強く言い放って、そのたびに左足を大きくあげて床を蹴っていた仕草で、それを見るたびにそのキックがまるで興奮への加速を高めるように思えたことだ。小沢くんの歌詞がめずらしくあやふやになったのはこの曲の時だったか、それは定かではないけれど、その天井知らずの興奮の次にきたのが「僕らが旅に出る理由」なんて、これはもういけない。
ここのところこの曲をずっと繰り返し聴いていたせいもあると思うのだけど、「僕らの住むこの世界では旅に出る理由があり 誰も皆手を振ってはしばし別れる」という歌詞の、それはいろんな意味で訪れる旅であり別れでもあるんだなと思い、それを圧倒的な祝祭の空気の中で歌い上げるこの曲を聴いているうちに、一緒に見ていた友達の方を振り返って意味もなく抱きしめたいような、なんなら知らない人でも抱きしめたいような、そんな気持ちになった。多分、ちょっと泣いていた(うそ、ちょっとじゃない)。歌詞の中の、女の子の手紙とそれに対する男の子の反応を、会場の女の子と男の子交互に歌わせてくれたんだけど、そのぎこちなくも喜びにあふれたやりとりもとても胸に残るものだった。そういえばひふみよのとき「我ら時を行く」って歌詞を変えたよな、そして今度でる作品集も「我ら、時」。小沢くんの中ではみんなみんな繋がっているんだろうなあ。
とどめといわんばかりに「強い気持ち・強い愛」。もうどうしたらいいのか!多幸感とか祝祭空間とかいう言葉が頭のなかをぐるぐるする。なぜだか妙に今同じ会場にいる観客のみんなを見たくなってしまって、落ち着きなくきょろきょろしてしまった。ちょうど向かい側の下手側のバルコニーに、まさにボーダーを着た男の子が、あーーもうオレ今たのしくって仕方ねえなー!って顔して踊っているのを見て嬉しくなる。みんな踊ってたし、歌ってた。その興奮を宥めるかのような「春にして君を想う」。あああ、嬉しい。そういえばこの曲にも「齢をとって」という歌詞があったなと思い、さっきの東京恋愛専科でもそうだけれど、そういうキーワードに敏感に反応してしまうのは私が歳をとったからなのか。でも小沢くんの歌う「歳をとって」はいつもなんだか漠然とポジティブで、だからこそぐっとくるんだろうなとおもった。
リーディング。小沢くんはインド映画がお好き。インド映画の日本語版というのはなかなか公開されないのでつまらない。僕はもう、自分がついていけないくらいのインドインドしたインド映画がすき。ついていけない自分が好き。「…あ、そっち…」とか「…そういう展開…」と不意を突かれるようなやつ。インド映画お得意の展開に「輪廻落ち」というのがあって、それはたとえばこんな風だ。炎に包まれる家。脱出するヒロイン。けれど、なぜかヒーローは閉じ込められてしまう。悲鳴。見つめ合う目。ちぎれるネックレス(ちぎれてみせる律儀な小沢くん)。爆発。スローモーション。みたいな。がらっと画面は変わって、とあるファストフードショップ。カウンターに不自然なくらい普通の男の演技をしているヒーローが立つ。ヒロインが迎える。いらっしゃいませ、ご注文は…見つめ合う目。はっ、あなたは…!スローモーション。そしてこの輪廻落ちは、わりと頻繁におめにかかることができる。インドの人たちの根底にある、肉体は死んでも魂は死なずふたたび巡ってくる、という考えのなかに自然に根ざしているからだ。
僕の曲でギターをガシガシとかき鳴らすような曲はメトロノームで言うと130のリズムなので、僕はそれは130グルーブと呼んでいる。「愛し愛されて生きるのさ」なんかはぴったり130。それはぼくが痩せていて、ギターで曲を作る、その僕の中から生まれてきたものだからこうなっている。僕がもし太っていたり、ピアノで曲を作っていたりしたらもっと違うものが生まれていただろう。
キタローさんと初めて合わせるときのようにやってみます、と言ってメトロノームのリズム(130?)と共にギターを弾き始めるが、音が出ない。シールドがどこかで抜けてしまったのでしょうか。黒子さんが慌てて直しながら小沢くん「こういうこともあります」。
「暗闇から手を伸ばせ」、「愛し愛されて生きるのさ」そして「ラブリー」。まさに130グルーヴの連打にまたしても危険なほどぶちあがる観客たち。愛し愛されて生きるのさのときだったけな、うしろに昔のツアーのオフショットが映し出されたりして、小沢くんも勿論若いしみんなみんな若い、青木さんの顔が見えてはっとしてしまった。曲が終わったときまだ映しだされている映像を小沢くんも振り返って見ていたなあ。ラブリーは、やっぱり、この曲の「とっておき」な感じはちょっと特別なんだよなあ。うれしかったのはLIFE IS COMING BACKと歌ってくれたこと!感じたかった僕らを待つ、もなんどかあったけど、でも確実にLIFE IS COMING BACKと言っていた。最初のリーディングの時に、例えば音源をあそこをもっとこうしたい、なんて思っても、すでに音楽は放たれてみんなのものになってしまっている、と言っていたことと関係があるのか、ないのか、でもこれはきっと嬉しかったんじゃないかな、みんな、と思います。それにしても、最初の2,3曲とは比べものにならないぐらい小沢くんの声はガンガン観客を圧倒していて、彼の真のタフネスぶりを見たと私は思ったね。
次の曲がはじまった瞬間、もしかしたら今日一番のわああっ!という歓声が湧き起こって、あの曲が「ある光」が始まった。ひふみよツアーのとき、ほんのワンフレーズでおあずけだったということもあるし、この楽曲の持つ意味みたいなものもあるのかもしれないけれど、ともかく今の小沢くんが「ある光」を歌っている姿をみることができてよかったです。この曲のときだけ客電もふくめて場内が一斉に明るくなり、強い光に会場が包まれたのもすごく印象的だった。「この線路を降りたらすべての時間が魔法みたいに見えるか」と歌われて、そしてほんとうに一度「線路を降り」た小沢くんにとってこの曲が持つ意味はもちろん本人のみぞ知るところなんだろうと思うけれど、私は(そして多分他の多くの人も)この曲が好きだし、こうして再会できたことをうれしく思います。
神秘的、という新曲のあと、いちど長めの暗転があって、再び点灯していつ果てるともない大きな拍手が贈られて、小沢くんは「今の新曲で、構成としては終わりです」と言った。時計を見ていたわけではないけれど、体感としてもかなりの時間が経っているというのはわかっていたし、そしてこの構成からも、いったんはけてアンコール、というようなことをするつもりはないというのはなんとなくみんなわかっていたような気がする。コンサートの最中にもいちど丁寧なメンバー紹介がありましたが(そのときバイオリンの奥村さんがはけるタイミングを間違えてらしてすごく照れていたのが印象的)、ここでももう一度。でも下手側の3人だけにコメントをもらって、じゃあ第三夜は残りの三人に何か喋ってもらおう、って新しいなオイ、と思ったら「何しろ時間が…!オペラシティから蹴り出されちゃうからね」だそうです。
で、コメントを半分にしてくださったのは今日のゲスト、東京スカパラダイスオーケストラのGAMOさんをここで呼んで、ぶっつけ本番で1曲やってしまおうという試みのためなのでした!「さっき手が攣りそうになった」ドアノックをGAMOさんとふたたび。GAMOさんが、もちろん余裕のあるプレイなのだけどどこか緊張というかぐっと背中に力が入っている感じがあって、でもすんげえすんげえカッコよくて、もー私は思わず足をじたばたさせてしまったのですが(ステキすぎて)、曲のカットアウトが決まった瞬間へろへろと崩れるGAMOさんのかわゆさに年甲斐もなくきゃあきゃあと喜んでしまいましたとさ。
ミュージシャンの皆さんを小沢くんが見送り、最後はひとり椅子に座ってもう一度「東京の街が奏でる」。最初に聴いたときよりも身近に思えたのは3時間半という時間を共有してきたからなのでしょうか。「東京の街が奏でる」第二夜、どうもありがとう、と彼は言って、コンサートは終わった。
どの曲に対しても、熱狂的とも言える熱い熱い拍手と歓声が送られていたし、みんな思いっきり歌ったり踊ったり手拍子したりしていたし、それでもストリングスの音もちゃんと拾えて、小沢くんの声もしっかり届いていて、ここで鳴っていたすべての要素を楽しめた!という感覚がすごくありました。それはやっぱりこの会場のおかげというのもあるんだろうなあ。
いてもたってもいられないような興奮と、ひとりでラジオを聴いているときのようなしんとした感覚とが同じ時間の中に混在していて、なんというか余白のあるステージングだなと思いましたし、それを心から楽しめるのも私が大人になったからなのかなあなんて。しかし、小沢くんの書くテキストが素晴らしいのは知っていたけどやっぱり群を抜いていますよねあのひと。なにより通して聴いたときの全体の構成の絶妙さたるや!リーディングの録音がほしい、真剣に。
ひふみよツアーのときから思っていたけれど、小沢健二という人はものすごく「光」と「闇」に敏感な人なんだなというか、あれほど照明のひとつひとつを意識して組み立てている人もそうそういないのではないかと思う。なんかとりあえずこんな感じ、みたいな明かりがまったくなくて、同じように暗転にもきちんと意味があるというのがひしひしと伝わってくるステージングでした。背面にスクリーンではなくて影絵を映し出したりするのも、小沢くんふうに言えば「ローテク」な仕掛けで、でもある意味光と闇をこれも象徴しているよな、と。
小沢くんにたくさん「歌って」と言われたこともあるけれど、ほんとにいっぱいいっぱい歌ったし、それで私のほうが声が嗄れ気味という情けなさですが、後半になるにつれてどんどん小沢くんのボーカルが前に前に出ていたことを思うと、ほんっっとにタフだなこの人は、と自分より3つ年上の彼のタフネスに脱帽した次第です。あの細い身体のどこにそんなパワーが。
コンサートの途中で、何度も「感極まる」としか言いようのない感情に突き動かされたけど、ひふみよの時と違うのは小沢くんが最後に言ったように「めったにやらないけれど、やるときはちゃんとやる」ということをもう信じられているところかなと思います(あの時は、もうこんな時間は二度とないかもと半分ぐらい思っていた)。いろいろと形は違えど、「犬は吠えるがキャラバンは進む」だし、いろんなことが続いていくんだなってことを今はもう信じられる。
そして何より、小沢くんが生み出したあのキラキラの楽曲たちの力、いみじくもustで小沢くんが言った「もう消費されて忘れられてもよいような曲を、じっと心の中に握っていてくれた人がたくさんいたことを本当に光栄に感じます」というあの言葉そのままに、オペラシティに集まった観客のそれぞれの心の中でずっと小沢健二の音楽が続いていたということ、その音楽の力に酔いしれた夜でした。足を運ぶことができたことをほんとうに心から感謝します。たのしい夜、うつくしい夜、大人になった自分を祝福したくなる、すばらしい一夜でした。