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葉山以南の邸宅遺産


印刷用ページを表示する 掲載日:2011年5月11日

葉山以南の邸宅遺産


有栖川宮別邸の写真

    有栖川宮別邸(『有栖川宮総記』より)

    有栖川宮本邸はジョサイア・コンドルの設計によって1884年に竣工した煉瓦造の本格的な西洋館だった。明治時代の大邸宅では、接客用の西洋館と日常生活用の和館両方をもつのが一般的だったが、皇族の場合、西洋館で日常生活も営まれた点に特色がある。しかし、この葉山の別荘は茅葺きの田舎家風の意匠を持ち、彼らが和風と決別していたのではないことを如実に物語っている。1913年建築の東伏見宮別邸は外観を洋風とするが、二階の寝室に用いられたと考えられる居室は和室である。このように、別邸に見られる居住への嗜好は公的色彩の強い本邸とは異なり、彼らの本音を知る手がかりとして貴重である。


明治時代の鎌倉地図「相模国鎌倉名所及江之島全図」





    上:葉山御用邸本邸謁見所

    下:同内部
    (小野木重勝『近代和風宮廷建築における和洋折衷技法に関する研究』より 二枚共)



旧東伏見宮別邸の写真 旧竹田宮別邸室内の写真 旧竹田宮別邸ボートハウスの写真

    左:旧東伏見宮別邸(現イエズス孝女会修道院)
    中:旧竹田宮別邸室内
    右:旧竹田宮別邸 邸内に引き込まれたボートハウス

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    左:旧竹田宮別邸(現北原照久邸)

    1931年頃建設 鉄筋コンクリート造地下一階地上一階建て 海際に建ち、あたかも海に浮かぶ優雅な艦船のようである。内部意匠などにはアールデコの特色が色濃くみられるが、モダニズムの影響もみられる。主室の半円形アルコーブ正面には、相模湾を眼下に従えて富士山が座る。


    右:旧井上成美邸

葉山を日本近代史の中で際だった存在にしたのはベルツ博士である。エルウィン・フォン・ベルツは明治9(1876)年に御雇い外国人として来日し、帝国大学で教鞭を執りながら、明治23(1890)年には天皇家の主治医となった。明治12(1879)年7月のベルツの日記に日本のある役人が海水浴場を設けようと計画しているため、その下見に江ノ島や七里ヶ浜に行ったとあり、すでに、この頃にはベルツが海水浴場として最適な地を探している様子がうかがえる。その後も、熱海や真鶴などへおもむいているが、ベルツ自身は明治22(1889)年には葉山堀内に別荘を所有していたことがわかっている。ちょうど、横須賀線開通の年である。葉山は海水浴地としても良好であるばかりでなく、北に山を背負う地形から、避暑避寒地としても適していた。また、何よりも富士山や江ノ島を一望することが可能な相模湾上の位置が、外国人にも、また、日本人にも好まれたと考えられる。

イタリア公使マルティーノもベルツとともに葉山の発見に貢献した人物だった。有栖川宮 熾仁親王は明治22(1889)年にマルティーノの別荘に滞在した後、明治24(1891)年に葉山に別荘を所有した。当時有栖川宮家の王子威仁は海軍大佐であり、明治26(1893)年には横須賀鎮守府海兵団長となっている。有栖川宮が葉山に別荘を設置したのは、軍人として葉山という立地が魅力的だったからだろう。有栖川宮に次いで、北白川宮も明治26(1893)年に葉山に別荘を設置した。そして、明治27(1894)年、葉山に御用邸が造られるに至り、葉山の別荘地としての地位は格別のものとなった。

葉山には明治20年代以降、貴顕紳士の別荘が相次いで設けられた。皇族の別荘としては既に見た、有栖川宮家、北白川宮家をはじめとし、東伏見宮家、小松宮家、竹田宮家などが葉山近辺に別荘を設けた。その他御用邸の地にふさわしく、葉山の別荘所有者には一流の著名人が名を連ねる。堀内には近衛家、細川家、井上良馨、高橋是清、一色には鷹司家、岩倉家、松平家、徳川家、井上毅、団琢磨、金子堅太郎、桂太郎、伊東祐亨など枚挙にいとまがない。

長井には最後の海軍大将井上成美が晩年を過ごした住宅が一部現存する。葉山以南の近代を象徴する重要な遺構といえよう。

三浦半島西海岸の近代の歩みを見てきた。海水浴と横須賀線による恩恵は、今もこの地を支え続けている。しかし、一方で近代の歩みを確認することのできるような遺産が失われつつあるのも事実である。とりわけ世代交代による別荘地や住宅地の変容は地域の景観を一変させるものであり、優れた環境を継続させるための知恵と工夫が求められている。

(主要参考文献)島本千也『海辺の憩い』、島本千也『鎌倉別荘物語』、鎌倉市『鎌倉市史 近代通史編』、『神奈川県近代洋風建築調査報告書』、『神奈川県の近代和風建築』


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