著名人インタビュー

最愛の妻が余命半年の乳がんに。それでも彼女は前向きで強かった

生活の上でも仕事の上でも欠かせないパートナーとの暮らし。「彼女のいない人生なんて考えられない。彼女より3日でも4日でも早く死にたい」と思っていた。しかし、運命は時に非情で残酷だ。結婚から10年になろうというとき、節子さんの右胸が腫れ上がった。検査の結果、告げられた病名は乳がん。
 「乳がんの場合は治る確率が高いので、患者に病名を告知することも多い。節子も医師から乳がんであることを告げられました。でも実はね、彼女の場合は極めて悪性度が高くて進行が速い炎症性乳がんだった。医師は私だけを呼んで言いました。手術できない可能性が高く、その場合は余命半年と」
 それまで、隠し事は一切なく、なんでも話し合ってきた夫婦だったが、さすがに今回は、事実を告げることはできなかった。抗がん剤と放射線治療を行い、幸いがんが小さくなったので切除手術。入院は半年間という長期にわたった。
 「彼女は、普通の乳がんにしては治療の順番も入院の長さもおかしいと思い、娘に医学の本を買ってきてほしいと頼むんですね。僕は、なるべく炎症性乳がんのことが書いてない本を探して娘に託して。でも、退院後に自分でインターネットで調べ、炎症性乳がんであるとが分かってしまいました。それからが大ゲンカです。“なんてことをしてくれたんだ。余命が短いならよけいに一日一日を精いっぱい生きたい”と責められましてね。僕はね、とっても悪いことをしたと反省しました。しかし女性はね、本当に強い。何て強くて前向きなのか、とてもかなわないと思いました」
 前妻の末子さんは乳がん初期で、手術すればほぼ安心と言われていたのに3年後再発。発病から9年にわたる厳しい闘病生活を送った。
 「彼女も一度も弱音を吐かなかった。そして節子も余命半年だったのに、5年10カ月も頑張った。いつも前向きで、僕の仕事を手伝いながら、がん患者として自身が受けた医療雑誌の取材・執筆の仕事も積極的に行うようになった。最後はストレッチャーで運ばれながらシンポジウム出演に出かけ、亡くなる約1カ月前にはNHKの生放送にも出演した。僕が彼女たちを支えたのではなく、逆に僕が支えられていたと思う」

田原総一朗
田原総一朗

介護を通してより深まった夫婦の絆。最後の瞬間は電話でさよならを

節子さんが入院中、田原さんは仕事の合間を縫って毎日病院へ。退院して家に帰ってきたときには、縫合不全で壊死してしまった傷口の消毒を毎晩手伝った。「手術の影響で右腕が上がらずシャンプーできないから、僕が彼女の髪を洗って乾かした。それは、夫婦の絆がどんどん深まっていくような、ある意味とても充実した日々ですよ」
 最後の1年は、がんが脊椎と脳に転移して歩行困難に。
 「妻の車いすを押すのも楽しかったですよ。彼女の足になっているわけだから、一体感を感じたね。風呂に入れるのもいいものです。ふたりで裸になり、相撲取りのように僕が彼女を抱いて一緒に湯に入る。結婚して長く経つとね、キスもあまりしなくなるでしょう。それが、肌と肌が触れ合って、彼女への愛情がますます深まった。僕にとって、介護がつらいということはまったくなかったんです」
 夫婦にとってこれ以上ない濃密な時間を過ごし、2004年8月13日、節子さんは天国へと旅立った。
 「実はこの時期、僕にはニューヨークと北朝鮮への取材が控えていた。医師は、僕が帰国するまで持ちこたえさせる自信がないという。彼女はまだ意識があって、どうしようかと相談すると、絶対に行きなさいと言う。だから僕はまずニューヨークへ行って、一度日本へ戻ってきました。そのときにはもう、彼女は意識がありませんでした。そして再び、北朝鮮へ行きました。出発前に娘が、なんでもいいから僕の声を録音して残していってくれという。それで、30分くらい話をしました。娘によると、その録音の声を聞かせると、妻は意識がないにもかかわらず少しだけ反応したということです。日本へ帰国する前日、娘から危篤状態だと電話がありました。携帯を妻の耳元に持っていくから話してくれと。私はとにかくなんでもいいから、しゃべりました。そして2時間後、妻は息を引き取りました」
 節子さんが亡くなり、ひとりで生きていけるのか、もしかしたら後を追ってしまうかも……そんな自問自答を繰り返した。節子さんの遺骨を家に置き、箱をなでたり叩いたりしながら過ごした数カ月。「お坊さんに、お墓に入れないと安眠できないと言われ、やっとのことで納骨しました(笑)。彼女が亡くなる2カ月前に、双子の孫が生まれましてね。その存在が、僕を生かしてくれたのかもしれません。今も生きがいですね」
 節子さんを亡くしてから、この夏で丸8年。今振り返って思う、田原さんにとっての結婚とは?
 「尊敬し合うふたりがするもの、でしょうね。尊敬とはつまり信頼。愛は長続きしないこともあるけれど、信頼はずっと続く。信頼し合っていればお互いに言いたいことを言い合える。それが、夫婦が長続きする秘訣なのかな」
 2人の妻を見届けて、自身の最期には理想があるという。
 「テレビの生放送中にね、“あれ、田原が静かだな?”って見たら死んでた、というのがいいな。コロッといくのがいいよね」と、笑いながらも大真面目。どこまでいっても仕事人間なのだ。

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田原総一朗

1934年、滋賀県生まれ。テレビ東京のディレクター、映画監督を経て、現在はジャーナリスト。討論番組『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系)の司会は25年目。ほか『激論!クロスファイア』(BS朝日)、新番組『ノンストップ!』(CX系)にレギュラー出演。

取材・文/保科和代 撮影/清水知成 ヘア&メイク/香椎三花 撮影協力/ANAインターコンチネンタルホテル