練習誌・随筆
2006/01


[ 随筆 ] [練習誌]



 随筆


めんどり御難
 「あれにしようや」と郭さんが指さしたのは樹の下で草をついばんでいる、ややふとめのめんどりだ。合点承知。すばしっこい息子の明明が、後ろから鶏を羽交い絞めにすると、郭さんが竹籠をパッと伏せる。その手際のいいこと。籠のとりにいっとき、破られた朝の静けさは、またすぐに戻った。
 武漢の東湖に近いこの桐林は、辺りに住む人たちの共用の庭になっているようだ。
 その日、東湖や博物館などをゆっくり回ってかえってくると、待ちかねたように夫人が食事の支度にとりかかる。予備のガス台までくりだして、すべて出来立ての状態でもてなそうという心遣いに、私は日ごろの自分がはずかしい。縁起よく九品並んだ料理の中で地鶏の唐揚げと白菜の酢油漬けは絶品だった。
 私の皿に山をなした鶏の骨は、大きく砕いてスープをとるのだという。
 食事のあいだ、朝の捕物劇をすっかり忘れていられたのは、正に僥倖であった。
麻衣



おー、そいつが文化か4 経帷子
 前号で古代人は死者を穢れたものと考えていたと書いたが、古事記の中にこんな記述がある。
 いざなぎの尊は、ともに日本の国造りをした妻のいざなみの尊が死んで、悲しさ、恋しさのあまり黄泉の国へ迎えに行く。いざなみの尊は「黄泉の神々に相談するからその間、私の姿を絶対に見ないで下さい」と言う。
 あまりにも長く待たされたいざなぎの尊は灯りをつけて、腐乱した醜い妻の姿を見てしまう。妻は怒り狂い、いざなぎの尊は、ほうほうの体で逃げ帰る。
 動物性蛋白質は腐敗すると強烈な異臭を放つ。肉体も例外ではない。子供の頃、おんぼうと言う言葉があり、田舎ではまだおんぼう焼きと言って使われていた。おんぼうは漢字では【隠亡】と書く。火葬や、墓の番をする人達のことで江戸時代は賤民とし取り扱われていた。
 終戦後間もない昭和23年頃だと記憶するが、近所の歯医者のお婆さんが亡くなって、当時の風習で、隣組が葬儀一切を取り仕切る組合葬となった。中学生だった私は父の代理で手伝いに出た。役わりは、おんぼう焼きである。田舎のことで死者を火葬にするのだが野焼きである。大人たちに交じって棺桶を担いで裏山に登った。平らに開けたところがありそこが露天の火葬場となっていた。
 おんぼう焼きは最初にして最後、こんな体験をした子供はあまりいないだろう。一日がかりの作業だった。前の日に用意した薪を並べてその上に棺桶を置き酒で浄めて火をつける。淡々とことは進んでいく。「仏さんはお婆さんだから焼きあがるのは早いだろう」と言って夕方まで薪をくべたりして火の番をする。その間、大人達は酒を飲んでいた。
 お婆さんは経帷子(キョウカタビラ)を着ていた。白い死装束を見たのも初めてだった。黄泉の世界への旅姿である。額被り(頭巾)、手甲、脚絆、草鞋などをつけ、杖と三途の川の渡川料を入れた頭陀袋がある。
 ここに不思議な文化がある。経帷子には極楽浄土へ導く経文が書かれている。頭巾には白い△の布が付いている。亡者や幽霊のシンボルマークになっているこの△マークはいったいなんなのか。この「額被り」、鎌倉時代の【北野天神縁起絵巻】に喪主や棺を担ぐ人が付けていることが描かれており、古墳時代の埴輪や壁画にはこのマークが多く描かれているという。
 まだその意味は解かれていない。おー、文化は長い歴史をもつものだ。
 もし、あの時、白い△の布を額につけて棺桶を担いでいたら、私は足の生えた幽霊になっていただろう。
 人は誰でも死を迎える。荼毘に付されるときは、死装束はごめん蒙りたい。なんで杖ついて旅をしなければならないんだ。新しいパジャマに花を添え、それに紙とボールペンがあれば十分だ。
                                                      次回
猿和



マイクの向こう側
 マイクのこちら側とあちら側と、歳はたいして違わない。最近まで私は私のボランティア活動をそんな風に説明していたのです。ところが先日いつもの調子でふらっと伺ったデイサービスでの出来事です。
 私は昭和七年生まれの申年ですよと云ったところ、「私は昭和八年生まれ」「あたしは九年うまれよ」「私はずっと若いの、病後の後遺症なの」いろいろな反応が返って来てショツクでした。勿論中心は大正生まれでしたけれど、もはや私は大きい流れの中の一人になっているというのが現実なのです。
 ハーモニカを一本持っていて皆の唄う声に合わせて、明治、大正、昭和の懐かしいメロディーを吹くのが私のボラ活動です。
 介護している若い人、見学や実習に来ている人よりましなのは、私達が古い歌を多く知っているという事です。しかし時々刻々川の流れのように様相がかわっているのは確実なのです。現状をキープするのには相当大きなエネルギーを要することなのだと、この頃つくづく感じています。
 「共生」という状態の中に大切な何物かがあるように思います。
 ちなみに私のハーモニカで訪問した皆で唄おう会での歌のメニューをご紹介しましょう。備忘録のノートは2002年の暮れから始まっています。月に三回以上やっています。
 箱根八里 鉄道唱歌 ラジオ体操の歌 冬景色 数え歌 一月一日 雪 早春賦 仰げば尊し 椰子の実 お富さん 憧れのハワイ航路 二人は若い 星影のワルツ ゴンドラの唄 里の秋 とんがり帽子 旅の夜風 月の砂漠 旅愁 荒城の月 くいしんぼうのカレンダー 紀元節 春よ来い 春の小川 春が来た おぼろ月夜 花 知床旅情 赤とんぼ 紅葉 村祭  故郷の空 故郷 埴生の宿 野崎小唄 あゝそれなのに みかんの花の咲く頃 浜辺の唄 りんごの唄 虫の声 星の界 船頭小唄 丘を越えて 東京音頭 秋の子 おぼろ月夜 朝 こうま とんび 港 谷間のともしび 広瀬中佐 かれすすき われは海の子 かもめの水兵さん 幸せなら手をたたこう 紅い翼 森の熊さん 青い山脈 今日の日はさようなら 希望 なだそうそう 世界でただ一つの花 さとうきび畑 影をしたいて 明治大学校歌 ちいさい秋みつけた 虫の声 聖夜 めんこい子馬 叱られて 野ばら 軍艦マーチ 鐘の鳴る丘 七里ヶ浜哀歌 東京市歌などなど。
 時々トークが入る。“富士山の高さは何メートルですか? 兎おいしかのやま おいし母の姿。リンゴの唄と富士駅前の闇市、そこで売っていた痰切り飴。戦災孤児だけど明るい鐘の鳴る丘のレンドラなど。
 東京市歌、大東京の歌、東京都歌。この話はまたいつかしたい。私が云うのもおかしいが、音楽って不思議なものですね。
甲太木 猿尚


 ある日の練習誌より




下草刈りのこと 
 先日那須の山小屋へ行ってきた。少しは涼しいかと期待していたら、ムンムンと湿気がつよくて、その上暑い日で、これなら沼津でゴロゴロしていた方がよほどまし、と思った。たしかに朝晩は涼しかったけれど。
 小結街道から別れると、四軒建っている私道に入る。この私道に沿って金網が張ってあって農業用水が走っている。道路の半分は国の所有地で国が管理しているのだそうだ。家の管理人さんが怒っていた。このあいだ、役所から派遣された下草刈の人が来たので見ていたら、百合だの日光きすげだのが生えているのに、みな刈ろうとするから「それらは残して下さい」といったら「刈り残しでもしたら上の人に叱られますよ、どうしても、と云うならここに百合があります。刈らないで、と木札を立てて下さい」との返事だった由、あゝ、なるほど、行政というものは上から下までそうしたものなのだ、と身近なところで納得、きれいに刈って行った由。
 参議院で郵政法案が思いがけぬ大差で否決、小泉さんらしくさっさと衆議院を解散させ、選挙戦が始まる。いったい日本はどうなるのか、私が心配してもどうにもならないけれど、改革なんて云っても結局日本は変わらないのではないか、基本的にはなに一つ変わらない。小泉さんが変人だったのが唯一、日本は変わるかな、と思ったんだけど。
アルト 外山伊都子



母の命日 
 私の父はすごい音痴だったと思う。
 小さい頃、布団の中でよく鉄道唱歌や軍歌をうたってくれた。今だったら子供が音痴になると、廻りからクレームが付くところだったろうけれど子供心に何か変な歌と思いながらも優しい父の心根に耳を傾けていたものだった。今もその話になると姉弟で大笑いとなり父の話にひとしきり花が咲く。
 でも母の声は細かったがきれいだった。朝から歌声が流れてくる。どこからかなと思うと押入れに布団をしまいながら押入れに向かって遠慮がちに歌っていた。
 ドンド腹のすわっていた母なのに意外と恥ずかしがり屋で近所の友達仲間に「歌って、歌って」とおだてられても仲々歌わない人だったようだ。「朱にまじわれば赤くなる」と言うけれどすべて悪い方になびきやすいのかなって思う。でも悪いところは父似だの母似だのと人は言うけれど悪いところが気になる為だろうか。みんないっぱい良い所をも受け継いでいると思うのに。でも私は歌にかんしては父似だろうと思っている。先生もお友達もそんな私には何も言わず、特に先生の熱心さに我を忘れて張り切って歌ってしまう。
    60年前の8月6日は原爆投下の日
    23年前の8月6日は母が亡くなった命日
 母の命日と言う見出しなのに何故か、何故か…、音痴の父からの文章が始まってしまった。やはり私は余程、父の音痴を形見に貰った為だろうか?お父さんごめんなさい。その分元気で楽しく歌っていますから。
ソプラノ 今村さえ子



中身は何かな 
 先々週の練習終了間際、桜井さんから突然渡された米久のビニール袋!
 “焼き豚?ハム?ソーセージ?それとも肉??”一瞬、私の頭の中は食材のオンパレードでした。反省!
 数年ぶりにノートを読ませて頂きました。子供達も一応自立し、今、私は仕事中心家事少々の毎日です。得意なこともなく先のことを考えると、百抹の不安を抱えています。でもコーラスの皆さんは色々な状況の中でも、日々、生き生きと明るく前向きに暮らしていらっしゃる。先輩方をお手本にさせていただきます。
 もうすぐ合唱祭。皆さんについて…追いかけてかな。美しい歌声を披露したいと思います。
 これからもどうぞ宜しくお願いします。
ソプラノ 飯田光子
SEO [PR] ギフト 音楽配信 コンサート情報 わけあり商品 無料レンタルサーバー