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hayariki.net 茶道
「我が国の茶道人口は、公称2000万人とも言われている。実態としてはかなり少なく見積もる必要があるが、それにしてもマーケットとして相当な規模になる。しかも、マーケットの特徴として、女性と高齢者そして富裕層が多い点に注目する必要がある。」(海老沢昭郎「強い観光のために」長崎国際大学論叢第2巻、2002年、40頁)
「良いやきもの」とは「使えば使うほど変化し味わいが増すもの」である(実方浩信『日本人の特権 やきものと茶の湯』朱鳥社、2005年、13頁)。
長次郎は静、ノンコウは動。長次郎は、茶碗からは自己主張は感じられず闇に溶け込むような雰囲気を持っている。黙って静まりかえり禅の僧侶のような崇高な茶碗といえる。しかし内面から湧き上がるエネルギーは相当なもので、その内面からの強い訴えに心打たれる。ノンコウは長次郎とは相反する茶碗であり、自己主張を全面に押し出している。楽茶碗に装飾的試みが為されたのもノンコウからである。
技術的にも楽家歴代随一の名工と言われ、長次郎に比べ大変薄作りで、口造りも蛤端という尖った難しい造りをしている。その他、釉薬も、窯の改良などで黒の場合は光沢があり、赤は大変鮮やかである。ノンコウは、その独特の腰の曲線の為、大変持ちやすく、飲みやすい。見込みも広く茶碗も大きめなのでお茶が点てやすい。長次郎は次元の違う近寄り難い独特の雰囲気がある。ノンコウは、点てやすく、持ちやすく、飲みやすく、形も素晴らしく、さすがと思わせる大変優れた茶碗である。
国宝・白楽茶碗(銘不二山)本阿弥光悦作
雪を戴いた霊峰富士を想わせる独特の釉景色から命名された。全体に白釉を施して白樂茶碗を焼いたところ、窯変(窯の内部の火や煙の状態によって、釉薬が予想外の発色・化学変化を起こすこと)によって下半分の白釉が内外ともに焦げ、まるでその頂に雪を戴いた富士山のような釉景色が現れた。この偶然に生み出された釉景色、そして二つとはできない会心作の意をも込めて「不二山」と光悦みずから名付けた。
作者の光悦はこの茶碗の箱に自分の名を記したが、これが日本陶芸史上初の作家による作品への署名となった。本阿弥光悦が嫁に行く娘に与えたと伝えられる。尚、惺入の黒茶碗に都富士がある。
サンリツ服部美術館(長野県諏訪市湖岸通り2−1−1)所蔵
http://shinshu-online.ne.jp/museum/sanritsu/sanritu2.htm
財団法人サンリツ美術館は、諏訪市のサンリツ企画(株)が所有する美術品と、元セイコーエプソン社長、故服部一郎氏が妻と娘に残した美術品を展示する。服部時計店3代目社長の服部正次(はっとりしょうじ、1900−1974)と、その長男でセイコーエプソン社長であった服部一郎(1932−1987)のコレクションを展示するため、1995年(平成7年)開館した。
唐物茶入れとは、古くから中国より伝来したもので、元来は油壷か薬晶用の壷である。主に宋・元時代に生産された物を指す。同じ中国でも中国南部で生産されたものは南方諸国のものとあわせ島物と分類されることがある。
国焼のようにその産地を表示するのではなく、その姿、恰好から名づけられ、分類される。さらにこの各々を区別するために、その所持者や所在地の名称を冠している。
唐物茶入れの特徴唐物茶入れの特徴は以下の通りである。
●姿恰好がすっきりしていて総体に薄作で非常匡上手に形成されている。
●粕薬は天目粕で濃い柿渋色淋主体でつやがある。
●土は漉土で、砂気がなく、よく締り、白紫色を呈している。
●糸切りが左回りである。
●和物に比べ、厳格な姿で貫禄があり、しかも美しく清清しい感じがする。重量感溢れる見た目を呈していながら、そのシルエットは実にすっきとして無駄がなく、とかくぽってりとしがちな和物とは明らかに一線を画する。
●無ぐすりのものはない。
唐物
唐物の語は、延喜3年(903)8月1日の太政官符に「應禁遏諸使越關私買唐物」とある。また朝廷から大宰府に派遣され唐物を検査する役を唐物使(からものつかい)と称した。唐朝(618〜907)が滅び宋朝(960〜1279)になってからも唐物と呼ばれた。下って江戸から明治に至るまで中国渡りの品物を唐物と総称し、やがて中国以外の海外のものを含む語意が加えられていった。
文琳:甑が低く、肩から胴へと張りだした美しい形状の小壷。全体の形が文琳(林檎の異名)の実に似ていることに由来。中国で李瑛が天子に林檎を献上して大変に喜ばれ、そのお礼に文琳の間を賜った故事から林檎の別名となった。
文茄:文琳と茄子の中間の形をした小壷。茄子・文琳の夫々の頭文字から付けられた名称。
尻張:上部よりも下部(尻)の方が張った様に膨らみを帯びた形状の小壷。
丸壷:胴が平丸形に膨らみ、甑がやや長く、そのため相対的に口造りが高い位置にある小壷。
肩衝:肩が衝いた様に角張り、胴から腰にかけて一旦緩やかに膨らみ、畳付に向けて窄まる形状。
擂座、大海、茄子、文琳、肩衝、瓢箪、鶴首、驢蹄、耳付、茄子、鶴首、尻膨等がある。
岩城文琳[いわきぶんりん]
陸奥国の武士、岩城貞隆が所持していたことから名付けられ、後に伊達家の蔵となった。球形に近い文林で、いかにも豊満で美しい胴全体に見事な鶉斑(うずらふ)を現出して山形に連なり置形となしている。
中興名物、漢作
別名・・・上天文琳
仕覆・・・白地古金襴、濃花色白極緞子、鳥襷緞子、柿地大内菱、花色地菱紋緞子
盆・・・・青貝唐子絵四方盆
挽家・・・小堀権十郎
伝来・・・岩城貞隆〜伊達政宗代々〜坂元金弥(東京)
所持・・・藤田美術館
吹上文琳[ふきあげぶんりん]
【中興名物】唐物
仕覆・・・しじら間道、白極緞子
書付・・・遠州、不昧
伝来・・・小堀遠州〜酒井雅楽頭忠以(宗雅)〜松平不昧代々・伯爵直亮〜五島慶太
所持・・・五島美術館
若草文琳[わかくさぶんりん]
【名物並・東山御物】漢作
別名・・・国師文琳
仕覆・・・定家緞子、笹蔓緞子、奈良裂
盆・・・・堆朱丸盆
書付・・・遠州
伝来・・・東山御物〜南禅寺本光国師崇伝〜日置清兵衛〜山脇宗興〜後藤程乗〜大賀善兵衛惟要(自得庵如心)代々〜稲川安右衛門〜男爵住友吉左衛門
所持・・・泉屋博古館
横山文琳[よこやまぶんりん]
漢作
仕覆・・・珠光緞子、丹地鶏頭金襴
書付・・・伝遠州
伝来・・・前田家家老横山山城守長知〜前田家代々・侯爵利為
平野文琳[ひらのぶんりん]
唐物
仕覆・・・白茶地毛織留、紹鴎緞子、朝倉間道、縞間道織留
盆・・・・唐物倶理(屈輪)丸盆
書付・・・遠州
伝来・・・平野道是〜芸州浅野家代々・侯爵長勲
水戸文琳[みとぶんりん]
唐物
仕覆・・・清水裂、藤種裂
書付・・・八代哀公、徳川圀順
伝来・・・綱吉(不明)〜水戸徳川家代々〜石井定七(大阪)
三島文琳[みしまぶんりん]
漢作
仕覆・・・縞繻子宝尽、金春裂、望月間道
書付・・・小堀大膳
伝来・・・伊豆三島代官某(不明)〜前田家代々・侯爵利為
佐竹文琳[さたけぶんりん]
唐物
仕覆・・・紹鴎緞子、龍紋緞子
伝来・・・秋田佐竹家代々〜田村市郎(神戸)
筑紫文琳[つくしぶんりん]
唐物
仕覆・・・萌黄地宝尽緞子
盆・・・・輪花黒塗倶利菱盆
書付・・・翠巌和尚
伝来・・・津田宗達・江月和尚〜龍光院
所持・・・龍光院
丸形のやや下膨れ、口造りが細まる、優美で上品な形状の小壷。全体の形が茄子の実に似ていることに由来する。唐物茶入の最上位に位置付けられる。茄子は天子、肩衝は将軍と言われる。宝珠の形に近いことから、茄子茶入はすべての茶入に先立つとも言われる。利休以前は真の盆点には茄子の茶入以外は用いなかったとされる。肩衝等も用いられるようになったのは利休以降である。
天下三茄子は九十九茄子、松本茄子、富士茄子である。名物五つ茄子は富士茄子、曙茄子、七夕茄子、利休小茄子、豊後茄子を指す。そもそも中国では油壺として使用されていたと考えられている。
九十九茄子
九十九茄子は千利休が天下一の名物と激賞した漢作の大名物である。作物茄子、付藻茄子、九十九茄子、九十九髪、九十九髪茄子、松永茄子と多くの別名を有する。室町幕府三代将軍足利義満秘蔵の唐物茶入れであった(東山御物)。足利義満が戦場に行くときも持っていったというほどに愛した品とされる。八代将軍義政の時に寵臣山名政豊に与えられたが、十五世紀末になって義政の茶道の師であった村田珠光の手に渡る。珠光はこれを九十九貫文で購入したことから、『伊勢物語』の「百年(ももとせ)に一とせ足らぬ九十九髪 我を恋ふらし俤(おもかげ)にみゆ」に因み、「つくも」と名付けた。
珠光の手を離れてからも所有者は転々とし、その度に値段が跳ね上がっていった。越前一乗谷の朝倉太郎左衛門が入手した時は五百貫、その後法華宗徒で本能寺の大壇越であった越前府中武生の豪商小袖屋の手に渡ったときには、一千貫の値が付いた。その後、小袖屋は京都の豪商・袋屋にこの茶入れを預けた。預けた理由としては越前の戦乱を避けるためとする見解と仕覆を作らせるためとする見解がある。
ところが天文五年三月、京都で天文法華の乱が起こり、比叡山延暦寺や近江六角氏から攻撃を受けた京都法華宗二十一本山は壊滅の憂き目を見る。ようやく法華宗徒が京都還住を許された天文十六年頃、この名物茶入れは本圀寺の有力壇越でもあった久秀の手に入っていた。久秀は一千貫もの大金を投じて購入したという。
その後、久秀は織田信長に献上し、信長の配下となった。信長は九十九茄子を愛用し、天正10(1582)年5月29日に僅かな供を連れて上洛した際も持っていった。信長は天正10年6月1日、本能寺に近衛前久、博多の豪商、島井宗叱を招き、茶会を開催した。その数時間後に明智光秀に襲われる(本能寺の変)。
焼け跡から奇跡的に発見されたとする見解と本能寺から運び出されたとする見解もがあるが、やがて羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の手に渡った。その後秀吉から秀頼に伝えられて大坂城で愛蔵されていたが、大坂夏の陣で再び兵火にかかる。戦後、徳川家康の命で焼け跡から探し出されたもののかなり破損しており、修復のため漆接ぎの名工・藤重藤元が修復した。その後、藤重が拝領し、東照大権現宮拝領の家宝として江戸時代を通じて藤重家に代々伝えられた。
明治になり、三菱財閥の岩崎弥之助の所有となる。弥之助は四百円という茶入れの代金を払うために、兄の弥太郎から借金をしたと伝えられる。弥之助がこの茶入れに執着したのは、その伝来の重みもさることながら、「つくも茄子」という名が、九十九商会を興した岩崎家の歴史に響きあうところがあったからとする見解がある。現在、弥之助、小弥太父子のコレクションである静嘉堂文庫美術館(世田谷区)に収蔵されている。X線調査で、釉と見られる景色等の表面を覆う部分は、ほぼすべて漆による修復と判明している。
仕覆・・・破袋
伝来・・・足利義満・義政〜山名政豊〜珠光〜三好宗三〜越前朝倉太郎左衛門〜越前小袖屋某〜松永禅正久秀〜信長〜秀吉〜家康〜藤重藤元代々〜男爵岩崎弥之助・男爵久弥
国司茄子[こくしなす]
伊勢の国司北畠氏が所持していたところから、国司茄子と呼ばれた茶入。竹林七賢図をあしらった堆朱盆が添う。松花堂昭乗、若狭酒井家などを経て大正12年に藤田家へ。
【大名物・八幡名物】漢作
仕覆・・・国司間道、萌黄地唐物緞子、花色地唐物緞子、モール横筋、白極緞子解袋
盆・・・・堆朱七賢之盆
伝来・・・伊勢国司北畠家〜若狭屋宗可〜松花堂昭乗〜大阪の道具屋勝兵衛〜若狭酒井忠禄・伯爵忠道〜藤田家
所持・・・藤田美術館
大きさ 高さ5.9×口径2.8×胴径6.8×底径3センチ
年代 14〜15世紀(中国 明時代)
京極茄子[きょうごくなす]
佐々木(京極)道誉の愛蔵した唐物茶入れ。一旦室町幕府家に入った。やがて京都町人の半田紹和から堺の津田宗及が入手し、それが英賀衆の赤橋善海(橋善海)に渡った。天正11年(1583年)7月11日、赤橋は羽柴秀吉に京極茄子を献上した。
【大名物】漢作
別名・・・織田茄子
仕覆・・・定家緞子、鉄色地梅鉢唐草紋緞子、鉄色地雲鶴卍紋緞子、紺地人形手緞子
伝来・・・京極家〜足利幕府茶匠半田紹和〜石橋道叱〜播州の赤橋善海〜秀吉〜織田三五郎可休〜家康〜甲府候綱重・綱豊〜徳川本家〜紀州徳川家代々・侯爵頼倫
徳川頼倫(とくがわ よりみち)
紀州藩元藩主家の当主、侯爵(1872[明治5].6.27-1925[大正14].5.19)。政治家、貴族院議員。幼名藤之助。江戸期に二度、田安家当主をつとめた慶頼(家茂後見役)三男である。宗家を嗣いだ家達、田安家を飼いだ達孝は実兄。明治39年、家督を相続。大正11年宗秩寮総裁となり、皇族関係の事に貢献することが多かった。
明治29年(1896)から2年間のケンブリッジ留学・欧米諸国視察を経て帰国。西欧の図書館制度に感銘を受け、明治31年、飯倉町の自邸の一角に日本初の私設図書館・南葵文庫を設立した。麻布市兵衛町の偏奇館に居住していた永井荷風は週2、3度は通ったとされる。麻布飯倉片町に居住していた島崎藤村も「飯倉付近の文化的施設として誇りうるもの」として南葵文庫を挙げる。
大正2年(1913)からは日本図書館協会総裁も務めた。関東大震災(1923、大正12年)で蔵書を失った東京帝国大学図書館に南葵文庫の蔵書を寄贈した。紀州徳川家の蔵書を基とした、和洋合わせて約10万冊に及ぶ。これにより、翌年、南葵文庫は閉鎖された。
明治44年(1911)に史蹟及天然記念物保存に関する建議が貴族院に出されて可決された時は建議の提案者の一人となった。同年12月、民間団体「史蹟名勝天然記念物保存協会」が設立され、会長を務める。この団体の運動が大正8年に史蹟名勝天然記念物保存法成立をもたらした(丸山幸太郎「文化財の保護と活用の史的考察」岐阜女子大学紀要第30号、2001年、100頁)。
南方熊楠とも交流がある。明治30(1897)年、イギリス留学中の頼倫は、熊楠の案内で大英博物館を見学、孫文とも熊楠を介して出会っている。大正11年、南方植物研究所基金募集のため上京した熊楠に頼倫は一万円を拠出した。神社合祀反対運動にも共感し、貴族院で尽力した。南方熊楠は神社合祀で併合された後の神社林が伐採されることで自然風景と貴重な解明されていない生物が絶滅するのなどを心配した。大正に入ってからは、不合理な神社合祀がされることはなくなり、1920年(大正9年)、貴族院で「神社合祀無益」と決議され終息した。
徳川頼貞(とくがわ よりさだ)
紀州藩元藩主家の当主、侯爵(1892-1954)。政治家。徳川頼倫の嫡子。学習院卒業後、イギリスのケンブリッジ大学に留学。音楽研究のためにヨーロッパ各国に滞在した。大正14年(1925)、父の死後に家督を相続。以後、20数年間、貴族院議貞をつとめた。
敗戦後、第一回参議院議員選挙に和歌山県選挙区から立候補し、当選。旧華族出身の国会議員の草分けとなった。国会内では参議院外務委員長の職にあり、6年の任期を務めた。この間、無所属から緑風会、新政倶楽部、日本自由党、民主自由党、自由党と所属政党を変えている。第三回参議院議員選挙に同選挙区から出馬。当選後、約一年を経て、任期半ばで現職のまま没する。
音楽好きで南葵音楽図書館を主宰した。楽譜・古楽器などのコレクションはその存在を世界に知られていた。晩年にはパリ高等音楽院名誉評議員、日本フィリピン協会会長など音楽や親善関係の団体の役員を多数兼ねていた。
大正14年頃に関東軍を通して清朝の秘宝である中国陶磁器を購入している。購入代金は張作霖の軍資金として使われた。最終的には450点の古陶磁の他、文具、玉器、景奉藍七宝等を含めた代金の750万円が張作霖に渡った。しかし古陶磁は数年後、紀州家から流出してしまう。流出した名品は、先ず上海在住のイギリス人に持ち込まれた。その一部はユダヤ人銀行家サッスーン家のパーシバル・デヴィッドの蔵品となり中国陶磁中屈指の名品とされている、デヴィッドコレクションとなる(The Percival David Foundation of Chinese Art)。日本でも東京国立博物館の重文品や出光美術館、梅沢美術館、永青文庫などに散らばっている。
水戸徳川家には財団法人水府明徳会、尾張徳川家には財団法人徳川黎明会という団体がある。しかし紀州家には相当するものがない。
紹鴎茄子[じょおうなす]
薄造りで、胴がよく張った小さく愛らしい姿と、肩先から裾にかけての三筋の見事な釉なだれが見どころである。武野紹鴎の愛蔵品で、底の糸切には「みほつくし」の文字と紹鴎の花押が書かれている。挽家は、身は唐木、蓋は漆を塗った椰子の実、合口は籐組という、珍しいものです。仕覆は紹鴎間道と、五種緞子の一つとして珍重された正法寺緞子。若狭盆には利休のケラ判があり、遠州筆江月和尚宛の書状が添っている。
村田珠光の弟子・珠報から、紹鴎に伝えられた。紹鴎の死後、娘婿の今井宗久が預かった。紹鴎の息子の宗瓦が成人すると所有が争われたが、宗久は信長に献上した(永禄11(1568)年)。これによって宗久は堺の東方五ヶ荘千石を拝領した。「宗久は如何なる種を蒔きつらむ 茄子一つが五ヶとこそなれ」と落首された。
【大名物】漢作
別名・・・松本茄子、みをつくし茄子
仕覆・・・正法寺緞子、紹鴎間道
盆・・・・利休在判 朱塗四方盆
書付・・・遠州、坂本周斎
伝来・・・松本珠報〜鳥居引拙〜紹鴎〜今井宗久〜信長〜宗久〜秀吉〜今井宗薫・宗呑〜家光〜東本願寺〜粟津左近〜河村瑞軒〜瓦屋平兵衛〜坂本周斎代々〜男爵鴻池善右衛門
所持・・・湯木美術館
茜屋茄子[あかねやなす]
銘の茜屋は、堺の茜屋吉松が所持していたことに因る。宋代のものと伝わる。『玩貨名物記』の「唐物小壺」の筆頭に「あかねやなすひ 尾張様」と記されている。現在大名物に位置する茄子茶入は十四点伝世しているが、その中でも最も大きい。宗悟茄子とほぼ同じ大きさであるが、肩が張っている分、茜屋茄子の方が大きくゆったりとした印象である。艶のある黒褐色をしている。
【大名物】漢作
別名・・・茜屋大茄子
仕覆・・・本能寺緞子
伝来・・・堺の茜屋吉松〜家康〜尾張徳川義直代々・侯爵義親
所持・・・徳川美術館
茄子
北野茄子[きたのなす]
全体に黒褐色の釉がかかり、口の近辺に僅かに傾れが見られる。
【大名物】漢作
仕覆・・・珠光間道(利休好)、本能寺緞子(遠州好)、茶地波梅鉢紋緞子(織部好)、紫地作土紋龍金襴、紺地丸紋三葉葵紋金入緞子、白茶地牡丹唐草紋緞子、茶地石畳紋緞子織留
盆・・・・在星風四方盆
伝来・・・松本宗不〜筑紫の吉水四郎〜秀吉〜油屋常言〜妙国寺〜酒井の西宗真〜久松家家臣奥平藤左衛門〜伊予松山松平隠岐守定直〜徳川家本家代々・公爵家達〜野村徳七
所持・・・野村美術館
富士茄子[ふじなす]
【大名物・東山御物・重要美術品】漢作
仕覆・・・緞子剣先、モール段織間道、八左衛門間道解袋、モール間道解袋
盆・・・・四季丸盆
添茶杓・・利休作 ふしなすひ茶杓
書付・・・遠州
伝来・・・足利義輝〜京都の医師曲直瀬道三〜祐乗坊〜信長〜曲直瀬道三・翠竹〜秀吉〜前田家代々・侯爵利為
所持・・・前田育徳会
松本茄子[まつもとなす]
【大名物】漢作
仕覆・・・破袋
伝来・・・珠光〜松本珠報〜信長〜秀吉〜藤重藤厳代々〜男爵岩崎弥之助・男爵久弥
所持・・・静嘉堂文庫美術館
宗悟茄子[そうごなす]
【大名物】漢作
仕覆・・・靱屋緞子、紹鴎緞子、糸屋風通、白極緞子、竪縞木綿間道
伝来・・・十四屋宗悟〜織田三五郎可休〜徳川本家・綱吉〜土屋相模守政直代々・子爵正直〜五島慶太
所持・・・五島美術館
福原茄子[ふくはらなす]
伊達綱村が新庄越前守に懇望して以来、伊達家の家宝となった。
【大名物】漢作
仕覆・・・紺地巻龍緞子、白地木綿縞間道、笹蔓緞子、白紋緞子、紺地宝尽鳥襷緞子
盆・・・・唐物朱四方盆
書付・・・遠州
伝来・・・松平飛騨守〜新庄越前守〜伊達綱村代々〜大阪の島徳蔵
七夕茄子[たなばたなつめ]
【大名物・東山御物】漢作
別名・・・針屋茄子
仕覆・・・間道
書付・・・遠州
伝来・・・東山御物〜針屋新左衛門〜橘屋宗玄〜前田家代々・侯爵利為
紹鴎茄子[じょおうなす]
【大名物】漢作
仕覆・・・大内菱金襴、紺地唐草模様緞子、しじら間道
伝来・・・紹鴎〜京の辻玄哉〜肥前鹿島藩主鍋島帯刀〜川越の松平大和守代々〜東京の益田信世
利休物相[りきゅうもっそう]
【大名物】漢作
別名・・・木の葉猿
仕覆・・・絽色柿地唐花縫、笹蔓手菊唐草紋緞子、蜀金モール、輪違緞子、しじら間道
盆・・・・菱形椎黒盆
書付・・・小堀権十郎
伝来・・・利休〜家光〜伊達政宗〜大阪の升屋平右衛門〜岩崎家代々・男爵小弥太
所持・・・静嘉堂文庫美術館
兵庫茄子[ひょうごなす]
【大名物】漢作
仕覆・・・二重蔓牡丹唐草金襴
付属・・・利休の消息、船越伊予守の添文
伝来・・・利休〜船越伊予守〜萬野裕昭
所持・・・萬野美術館
曙茄子[あけぼのなす]
【名物】漢作
仕覆・・・木下緞子波梅紋、丹地緞子二重波梅紋、細川緞子卍菱蔓丸紋
伝来・・・相阿弥〜境の商人阿知子宗句〜前田家代々・侯爵利為
豊後茄子[ぶんごなす]
【名物】漢作
仕覆・・・花色緞子蓮宝尽紋
伝来・・・西田宗与〜京の鱗形屋〜前田家代々・侯爵利為
利休小茄子[りきゅうこなす]
【名物】漢作
仕覆・・・間道
伝来・・・利休〜秀吉〜前田家代々・侯爵利為
種子茄子[たねなす]
漢作
仕覆・・・御納戸地雲龍紋、紺地唐草緞子
伝来・・・種子島左近〜島津家久代々・公爵忠重
名物
●大名物
北野茄子[きたのなす]
富士茄子[ひじなす]
付藻茄子[つくもなす]
松本茄子[まつもとなす]
宗悟茄子[そうごなす]
茜屋茄子[あかねやなす]
福原茄子[ふくはらなす]
七夕茄子[たなばたなつめ]
京極茄子[きょうごくなす]
紹鴎茄子[じょおうなす]
紹鴎茄子[じょおうなす]
利休物相[りきゅうもっそう]
兵庫茄子[ひょうごなす]
志野丸壺[しのまるつぼ]
金森丸壺[かなもりまるつぼ]
土田丸壺[つちだまるつぼ]
寺沢丸壺[てらさわまるつぼ]
唐丸壺[からまるつぼ]
利休丸壺[りきゅうまるつぼ]
早苗丸壺[さなえまるつぼ]
天下一丸壺[てんかいちまるつぼ]
青山丸壺[あおやままるつぼ]
石河丸壺[いしこまるつぼ]
龍光院丸壺[りょうこういんまるつぼ]
●名物
曙茄子[あけぼのなす]
豊後茄子[ぶんごなす]
利休小茄子[りきゅうこなす]
●中興名物
木下丸壺[きのしたまるつぼ]
薄板(うすいた)は花入を畳敷の床に置く時に下に敷く板である。薄板には「矢筈板(やはずいた)」「蛤端(はまぐりば)」「丸香台(まるこうだい)」の三種があり、花入により使い分ける。それぞれ真・行・草の格となる。
「矢筈板」が最も格が高く、真の格式をもつ。
真塗で板の木口が矢筈(弦につがえるために凹字がたになった矢の頭部)形で、上側の寸法が下側より一分大きく、広い方を上にし、古銅・青磁など「真」の花入に用いる。寸法は一尺四寸三分×九寸三分五厘(約43cm×約28cm)で厚さが二分五厘である。
「蛤端」は、木口が蛤貝を合わせたような形で、砂張・施釉の国焼など「行」の花入に用いる。溜塗が典型であるが、真塗や掻合せ塗もある。木地の蛤端は草の扱いとなる。寸法は一尺三寸四分×九寸五分五厘(約40cm×約29cm)、厚さが二分五厘である。
「丸香台」は円形で縁も丸みを帯びている。掻合せ塗で、伊賀・竹の花入などの「草」の花入に用いる。寸法は直径一尺五分と一尺の2種類あって、厚さは三分五厘である。
薄板を用いない場合として、板床の場合と籠の花入の場合がある。籠の花入に薄板を用いない理由は籠自体が中の花入の薄板の役割を果たすためである。歴史的には『茶話指月集』のエピソードに由来する。「古織(古田織部)、籠の花入を薄板なしに置かれたるを、休(利休)称(賞)して、古人うす板にのせ来たれども、おもわしからず。是はお弟子に罷り成るとて、それよりじきに置く也」。例外として名物唐物籠には薄板を敷くこともある。
真行草は本来、書道における書体の類型を示すものである。しばしば日本人の美意識の表現として用いられる。
中国・東晋時代に書道の基礎を作った王羲之は、古代の篆書(てんしょ)、隷書(れいしょ)に対して真(楷書)・行・草の三書体を確立した(楷書・行書・草書)。「真」は最も格調が高く、「草」は正統を脱した逸格の態であり、「行」はその中間で真を略化したものである。やがて格式が高く整った真、その対極に位置する破格の草、両者の中間に位置する行という言葉を、様々なジャンルで応用するようになった。
特に絵画表現、庭や建築のデザイン、芸能における芸のスタイル(芸風)などに用いられることが多い。茶の世界でも同様である。真行草各々に真行草があり、真行草九段と呼ばれる(真の真行草、行の真行草、草の真行草)。
中国においては、真がもっとも正統なる格式として高い価値が与えられ、行と草は真に次ぐものとされる。これに対し、日本的美意識の発達する中世において、この三者は等価値、ないしは草こそもっとも成熟したものであるという、いわば価値観の逆転現象が生じた。不完全の美ともいうべき「侘び」「冷え枯れる」といった美意識が注目され、真の格をやつし、くずすことによって、より精神性の高い「侘び」の極地に至ろうとする思想である。
茶の湯では東山時代の書院茶を真とし、ハレの儀礼ではその形式に従いつつも、侘び草庵の茶を理想としている。書院茶から独自の茶の世界を作り上げた珠光およびその後継者である宗珠・紹鴎が行とすれば、侘び茶を追求した千利休が草である。
真の茶…奠茶(てんちゃ 仏への供茶)、献茶(貴人への供茶)
行の茶…その中間、真の茶を和らげた行の茶の創案が茶の湯の発祥である
草の茶…日常喫茶
茶道具の格付けにも真行草が用いられる。道具の持つ歴史的背景、品格、雰囲気で分類される。中国伝来の道具類で足利将軍などの高貴な人々や神仏に茶を奉るときに使用する台子や皆具は、真の格の道具である。中国産の陶磁器をモデルとした国産の陶磁器類などは行の格である。土の趣を表現した国焼の陶器類や竹・木などの素材そのままを生かした素朴な道具類は、草の格である。道具の真行草は合わせるのが基本である。真行草が混ざっている茶席は茶碗のご飯をフォークで食べるようなものである。
古い点前、格式のある台子、伝物の点前では「真」に近い花入が相応しい。侘茶、例えば名残の時期などの中置、窶れ風炉を使った茶の湯では「草」に近い物が似合う。
真の花入は室町時代までに日本へ伝来した唐物花入。「高麗青磁」「交趾」「安南」や「オランダ」など唐物に準ずる物として同じ扱いをする。
行の花入は、唐物の中でも一格落ちるものが分類される。「釣船」「七宝」「モール」。準唐物である高麗物であっても「粉引」や「三島」、今時の韓国製の「高麗青磁」。青磁や染付の類でも国産品である作家物は、稽古はともかく公の場所(茶会や茶事)では「行」として扱う方が無難である。「楽焼」の花入は「行」に扱う場合と時によっては「草」の花入として扱う場合がある。
草の花入は伊賀焼、仁清、色絵等である。
真:土
行:唐金
草:鉄
茶室の真行草は次のように考えられる(小瀬昌史「日本の伝統芸能における型論-真・行・草-」大阪市立大学大学院都市系専攻修士論文梗概集2004年3月)。
真:書院造。直線的な材。
行:書院造の柱割を1.5 倍に変更。草庵という書院造と対極の様式を組み合わせる。ひなびた材。
草:真(書院造)とまったく別の様式と柱割を形成。
太閤園淀川邸(旧藤田徳次郎邸)の茶室棟では「真行草」各段階の茶室を設けていた。数名の数寄者を招いての茶事の舞台となる書院に表千家の「残月亭」写、やや崩した野趣ある庵に「大炉囲い」、草庵茶室に「一畳中板」と按配していた(岩崎正弥「太閤園淀川邸(旧藤田徳次郎邸)茶室棟に関する調査報告」池坊短期大学紀要31号、2001年)。
天井で真行草を構成する茶室もある。裏千家の寒雲亭は天井が三つに分かれている。即ち床前が棹縁天井、それから点前座の方が一段低くなって落天井、上がり口の方の残りの部分は舟底天井となる。
柄杓の扱い
柄杓の扱いにも真行草がある。置柄杓が真、切柄杓が行、引柄杓が草である。置柄杓は湯を汲んだ後、釜の口に置く際の扱い。柄杓の中節のところを親指と人差し指で挟み、押さえて置く。
切柄杓は釜の口に合を上向きに平行になるようにおき、親指と人差し指の付け根に柄を預け、親指以外の4本の指を揃えて、手の平を向こうに見せつけるように開く。
引柄杓は水を釜や茶碗に入れ、風炉に置く際にする扱い。5本指をまっすぐに揃えた形で柄の切り止めまで引いていき、最後は親指を人差し指につけ丸い指の形で置く。
唐物点前は唐物の茶入を使用する時の手前である。昔は一城に匹敵すると言われた唐物のための手前である。大事な道具の扱い方、道具を拝見に出す所作、客は拝見の所作、それを戻す所作、最後に亭主と正客の問答を扱う。裏千家では茶通箱、唐物点、台天目、盆点を四ヶ伝(しかでん)と呼ぶ。入門、小習いの基本的な点前の次の段階に位置する。表千家では入門後、家元から許される資格として「習事」、「茶通箱点」、「唐物点」、「台天目天」、「盆天」、「乱飾」がある。
大円之真台子
真台子と大円盆に乗せた唐物茶入れ、御物袋入り天目茶碗の組み合わせ。唐金(青銅)の「皆具」と呼ばれる揃いの道具(水指、杓立て、蓋置き、建水)を使用する。盆は黒漆真塗りの大円盆を使用、茶入れを載せて持ち出し台子天板中央に据える。御物袋三ツ輪結びの天目茶碗を台付きで持ち出し、天板の風炉の上に当たる位置に据える。古袱紗を二つ折りで茶杓を乗せて天板の水指の上に当たる位置手前に置く。
点前中、盆は拭き終わった茶入れを天板中央点前に仮置きしてから「圓」字に拭くのは草と同じ。茶杓は盆の五時の位置に置かれた状態。他の伝法ものと同じように茶室への出入りは真。入室時、筅皿と火箸の扱いは真行と同様。点前自体は台子の濃茶点前に、唐物茶入れの扱い、茶碗の台天目に御物袋の扱いが組み合わせたもの、ただし、盆以外には古袱紗を使用するのが特徴。建水は台子から下ろしてから上げ下げはない。柄杓、湯水の扱いは真行と同じ。お茶は天目台に天目茶碗が乗った状態で出す。方向を変える際、亭主は持ち上げたまま、客は畳に下ろしてから回す。拝見は盆中仕服共。
真之行台子
真台子と唐物茶入れ盆点て、御物袋入り天目茶碗の組み合わせ。唐金(青銅)の皆具(水指、杓立て、蓋置き、建水)を使用する。盆は茶入れに添った唐物の若狭盆など、茶入れを載せて持ち出し台子天板中央に据え、御物袋三ツ輪結びの天目茶碗を台付きで持ち出してからは、茶入れを盆ごと天板の左方に移し、天目台を天板の右方に据える。
点前中、盆は茶入れを天板中央点前に仮置きしてから「國」字に、天目台は茶筅通しの前に特殊に畳んだ袱紗で酸漿部分を挟んで拭く。茶室への出入りは真。入室時は真の茶巾と茶筅を仕組んだ筅皿を右掌に載せるが、入室時の挨拶があるので、勝手付きに外して息が掛かるのを避ける。前後の火箸の扱い(片方ずつ)の間、筅皿は風炉火窓前に仮置きし、点前中は勝手付き膝線上に移す。
点前自体は台子の濃茶点前に、茶入れの盆点て扱い、茶碗の台天目に御物袋の扱いが組み合わせたもの、建水は台子から下ろさない。茶杓は真、使用前は袱紗も真に畳み、使用後は行と同じ。茶入れ盆の右側に置く。柄杓は杓点てからの抜き差しは二段階に、台子点前だが蓋の開け閉めには構え、湯水を汲む際は常に取り置き、茶を点てる時は水を加えてから湯を二度に分けて注ぎ、水はこのとき以外、釜に足さない。お茶は天目台に古袱紗を敷き、その上に天目茶碗が乗った状態で出す。方向を変える際、亭主は持ち上げたまま、客は畳に下ろしてから回す。拝見は茶入れ盆共、古袱紗に乗せた茶杓、仕服。
京王百貨店・秋の茶道具展
京王百貨店新宿店6階京王ギャラリーにて2008年9月18日から9月24日まで「秋の茶道具展」が開催される。表・裏千家のお書付品を中心に茶碗・水指・茶杓・棗・釜・軸・他、古今の50余点と、楽家歴代の銘碗を中心に、大徳寺和尚の一行や特別提供品などを展覧即売する。
茶室は神聖な空間であり、安易に入ることはできないものである。それ故に本格的な茶室には狭いにじり口が設けられる。茶室とは高位高官でも頭を下げなければ入れず、武士であっても帯刀も許されず、命である刀も置いて丸腰で入らなければならない。
ここにはキリスト教の影響もあると指摘される。即ち、茶室を天国と見立て、マタイ福音書第7章第13節の「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」を体現したものとする。狭き門は秘められた真理への入口であり、一切の虚飾、執着を脱ぎ捨てることを要求される。