・「坊主が憎いので、袈裟まで憎いです」
というようなことは、ほんとに多いです。
これ、やがては、
「袈裟が憎いです、ほんとに袈裟が憎い。
坊主が憎いというわけではないんですが‥‥」
というふうに変化もしてきて、
さらには、
「数珠も憎い、木魚も憎い、仏像が憎い、
ああお経が聞こえて憎くて憎くて死にそうだ」
というふうにさえ、なったりする。
なんで坊主が憎かったんだっけ?
ほんとに坊主は憎まれるべきだったんだっけ?
そして、この袈裟と坊主は関係あるんだっけ?
というようなことが、問われないかぎり、
憎いの独り歩きがひどくなるばかりです。
誰のこころのなかにも、憎い坊主は何人もおります。
むろん、ぼくのなかにもおりましたし、おります。
おそらく、人間の本性のなかに、
「坊主が憎いと、袈裟まで憎くなるもの」ということが、
プログラムされているんだと思います。
どれほど理性で「それはちがう」とわかっていても、
なかなか、この網からは逃れられません。
もともと、袈裟まで含めて「坊主」なのかもしれません。
そのへんまで考えると、かなり複雑なことです。
ずいぶん昔に「坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い」
ということを発見した人がいたんだと思いますが、
その発見の瞬間は、
「坊主と袈裟は関係ないはずなのにね」と、
我に返っているということが、おもしろいです。
吸いこまれるような自殺の名所の崖に、
「ちょっと待て」の看板があるらしいですが。
ついつい「袈裟まで憎い」と思いがちな人間のこころに、
「人って、そういうふうに思いがちなものだぞ」と、
看板を立てているようなことばですね。
まったく逆さからの見方として、
「あばたもえくぼ」というのもありましたっけ。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「憎い」の話って、どうにも楽しくはないものですなぁ。
というようなことは、ほんとに多いです。
これ、やがては、
「袈裟が憎いです、ほんとに袈裟が憎い。
坊主が憎いというわけではないんですが‥‥」
というふうに変化もしてきて、
さらには、
「数珠も憎い、木魚も憎い、仏像が憎い、
ああお経が聞こえて憎くて憎くて死にそうだ」
というふうにさえ、なったりする。
なんで坊主が憎かったんだっけ?
ほんとに坊主は憎まれるべきだったんだっけ?
そして、この袈裟と坊主は関係あるんだっけ?
というようなことが、問われないかぎり、
憎いの独り歩きがひどくなるばかりです。
誰のこころのなかにも、憎い坊主は何人もおります。
むろん、ぼくのなかにもおりましたし、おります。
おそらく、人間の本性のなかに、
「坊主が憎いと、袈裟まで憎くなるもの」ということが、
プログラムされているんだと思います。
どれほど理性で「それはちがう」とわかっていても、
なかなか、この網からは逃れられません。
もともと、袈裟まで含めて「坊主」なのかもしれません。
そのへんまで考えると、かなり複雑なことです。
ずいぶん昔に「坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い」
ということを発見した人がいたんだと思いますが、
その発見の瞬間は、
「坊主と袈裟は関係ないはずなのにね」と、
我に返っているということが、おもしろいです。
吸いこまれるような自殺の名所の崖に、
「ちょっと待て」の看板があるらしいですが。
ついつい「袈裟まで憎い」と思いがちな人間のこころに、
「人って、そういうふうに思いがちなものだぞ」と、
看板を立てているようなことばですね。
まったく逆さからの見方として、
「あばたもえくぼ」というのもありましたっけ。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「憎い」の話って、どうにも楽しくはないものですなぁ。
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