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福島第一原発の事故をきっかけに、政治や行政、科学者などへの不信と疑念が広がった。
その連鎖を断ち切り、信頼を再構築するにはどうしたらいいのだろうか。
政府は新たな原発・エネルギー政策に向けた「国民的議論」を掲げる。関係する審議会や調査会で検討してきた選択肢を整理して、国民に提示する。夏までに今後の方向性について合意を目指す考えという。
ただ、議論の前提が整っているわけではない。政府の事故調査委員会の報告はまだだ。原子力規制庁(仮称)もできていない。原発の新しい安全基準作りはさらに先になる。この夏の電力需給や自然エネルギーの普及度合いも議論を左右する。
知恵を絞る必要がある。拙速にことを運べば、かえって不信を広げかねない。
■普通の人々が学ぶ
欧米では、科学者ら専門家への「信頼の危機」に見舞われた際、市民参加による熟議を通じて信頼の再生を図ってきた。
たとえば、英国は牛海綿状脳症(BSE)のヒトへの感染を否定した専門家の信頼が地に落ち、市民参加型の議論に本腰を入れた。遺伝子組み換え作物をめぐる議論にはネット経由を含め2万人が参加した。ナノテクノロジーの安全性でも、様々な議論の場が設けられた。
科学技術は暮らしを便利にするが、思わぬ副作用や危険性もある。公害や大事故などを経て、実用化の是非などに社会の意見を反映する流れが世界的に加速している。
一方、低下傾向にある民主政治への信認を補う目的でも、政策形成に市民が加わるさまざまな仕組みが考案されてきた。
原発・エネルギー政策は、この二つの流れが重なる最大級のテーマといえる。
日本の原発政策では住民の意見を聞く形をとりながら、実際は既定の方針を正当化する「名ばかり民主主義」が横行してきた。九州電力で発覚したやらせメールはその典型例だ。
これに対し、欧米での市民参加型では、無作為抽出などで数十人程度の「普通の人々」を選ぶのが一般的だ。いわば「社会の縮図」である。
参加者は基礎知識を学んだうえでじっくり考え、議論する。その結果を意見書やアンケートで集約し、行政や議会に尊重させるといった流れをとる。
議論が社会から信用されるための生命線は、独立、中立、そして透明性だ。
中立で独立した主催者のもとで、議論を誘導しないよう習熟したスタッフが進行役をつとめる。議事に協力する専門家が業界や行政とどんな関係にあるのかも明らかにする。
■補完としての「常識」
これらの方法は決して魔法の杖ではない。手間も金もかかるうえ、最終的な決定権はない。選挙で選ばれた議会に代わるわけではない。あくまで補完として、その時々の暫定的な市民社会の常識を示すにすぎない。
それでも、これまでのやり方の欠点を補う力はある。市民の良識や、譲れない信条の違いを「見える化」する。賛否両極に大きく割れる原発議論を乗り越えるには必要な機能だ。
熟議の成果を次世代へリレーするなら、「将来世代」の意思決定権を尊重する動機もはたらく。使用済み核燃料の処分など末代まで関わる問題に、ひとつの方法を示唆してもいよう。
さらに、各政党がさまざまな政策を掲げる選挙では個別政策で必ずしも最適の選択ができない、というジレンマを解きほぐすのにも有効だ。
かつて徳島市では吉野川の可動堰(ぜき)問題をめぐり、賛否から距離を置く市民が勉強会を数多く開き、その実績を踏まえて市が住民投票を行ったことがある。
国政でも、草の根の熟議を継続させ、数年間の実績を経てから国民投票にかける仕組みもありえよう。
政府が考える国民的議論も、中立的な担い手に運営を任せたうえで、もっと時間をかけ、議論を将来につなげるよう、工夫してはどうだろう。
政府としては脱原発依存の方針を早く具体化すべきだが、熟議型の議論を続けることは政策の定着や見直しに役立つ。
■国会で制度作りを
市民参加型の熟議を支えるうえで、大きな役割を果たしているのが議会(国会)だ。
日本でも福島事故では国会が調査委員会を設け、事実究明に力を注いでいる。ここは、民意の熟成にも目配りしてほしい。原発・エネルギーに限らず、税と社会保障改革など世代を超えた難題は目白押しである。
国会に事務局を置き、自ら熟議集会を主催したり、大学やNPOなど中立組織による開催を支援したりしてはどうか。
不信と混迷が深まると、強い指導者を求めがちだ。しかし、政策への市民の関与を強め、わがこととして解決する道こそが民主主義を深化させる。