KIRINN
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上流を信頼できる良いものに改善したくて、昨年末Esoteric K-01を導入しました。ヘッドホンアンプの自作をしています。 5.1chのシステムはありますが、音楽を聴くメインのシステムはヘッドホン…

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GEM-1(田口晃サウンド:俺様の音を聞け!)



ついにきたか、というカテゴリーのヘッドホンアンプである。

以前から、価格帯や製品のアプローチとして
「このカテゴリー」がすっぽりと空いていることに、
気付いている人はけっこう居たことだろう。

価格帯としては、EARのヘッドホンアンプも存在するが、
この市場に、新鮮味を持って改めて切り込んだのがGEM-1といえる。

先日、エミライ大崎ショールームにてGEM-1試聴の機会を頂いたので
その感想を公開します。

ですが、最初に断っておきます。
私はこのアンプを使って音楽を聴きたいとは思えません。
何度聴いても、まるで音楽を死姦しているかのような不快な気分になるからです。
そして同時に、GEM-1は現代オーディオ、音楽産業の一面をよく象徴している、とも感じます。

不本意ながら、どうして私が同人音楽やインディーズを多く欲しているのかも、
今回の件で気づいてしまった。それは後ほど書いておきます。

わたしは、取り繕うのが苦手です。

だから、
はじめに、GEM-1を買ってしまった人、欲しいと思っている人に謝っておきます。
70万の価値を持つとされるヘッドホンアンプが皆こういうものであると思われては困るので、
今回は敢えて酷評します。

良いと思わないなら、そもそも記事にして公開などしないのですが、
今回は市場のタイミング的に公開に踏み切ることにしました。

買ってしまった人、GEM-1を本気で良いと思っている人は、私を恨んでもらって良い。

私の事を信用しなくなる人も出てくるだろうし、
記事そのものの信憑性を無くそうと働きかける動きも現れるだろう。
各所で「KIRINNの自演乙!」とか現れそうである。
人としてごく自然な反応であろうから仕方ない。

さすがに刺されて殺されるとかは困りますが、
それなりの覚悟の上です。
お好きなように。

では、試聴時の感想を、どうぞ・・・

---

この製品は、アンプ単体で見たときには、
非常に個性の強い仕上がりとなっている。

単体で使用したときには、とてもニュートラルとは言いがたいアンプである。
このシステムを通すと、音が容赦なく「改編」されてしまうので、
そのままの音を聴きたい人には、全く持って向かないヘッドホンアンプである。

また、田口晃氏のプロデュースする、インターコネクトケーブルから、アンプ、電源ケーブル、
インシュレーター、ヘッドホンケーブル、ヘッドホンまでを含めて、トータルで揃えた時に、
初めて完成するシステムである。
別の要因が加わると、あっけなくバランスが崩壊する危ういバランスの上に成り立っている。
GEM-1単体ではなく、HD600とCaldasリケーブル、電源ケーブル、特製インターコネクトケーブル等を含めた
総合的なパッケージ製品としてみるべきだろう。トータルう90万円強になるとか。

これをどう捉えるかは、
個々人のニーズによるところが大きい。

自分で製品を探求していくことに魅力を見出す人よりは、
そんな手間はかけたくなく、最適な組み合わせが予め提供されている、
「パッケージ化された製品」を求めている人たちに対して、強い訴求力を持つものと思われる。

当日は、リファレンスとして用意されているHD600と、持参したT1で聴いた。
GEM-1を通して聴くと、音楽は以下のようになる。

試聴時のメモをほぼそのまま掲載している
-----
・高域・低域に顕著なピークを持ち、その先がだら下がりのカマボコサウンド

・HD650で聴くと高域と低域にピークが出るのでHD600がリファレンスとのことだが、
 それはHD650ではなくアンプの音である

・低域の質感はソリッドではなく、ぶよぶよとしている

・空間の広がりは狭い(元のHD600の空間表現よりもかなり狭くなる)

・音が頭の周りに張り付く

・奥行き表現が死ぬ

・左右の定位は分かりやすい(チャンネルセパレーションが良い)

・音に圧迫感があるため、中域、ヴォーカル帯域は密度が高いかのように感じられる

・一音一音に強い脚色と加工を感じる。

・音は緻密。密度感はある。

・だが、音と音の隙間の音、気配や雰囲気が消えている

・音を分解してこのシステムで再構成している感覚。

・音が締めあげられている感覚(アタック音が分かりやすく強調されるが、周辺の倍音が消えている)

・音をノコギリで分解したあげく、俺様(田口晃)サウンドとして再構成したような気持ち悪さ

・とても豪華できらびやかな音場表現。
 だが、その舞台裏が空っぽで何も感じられない。

・音が死んでいて生気がない。

・歌っている姿が見えてこない。(手嶌葵/クリスマスソングス試聴時)

・音そのものの定位や情報量はそれなり。

・低域はソリッドではなく、ぶよついている。

・熱量がスポイルされている。

・歌声に生気が無く、ただ音が鳴っているように聞こえる

・ゾンビサウンド

・音楽が、レイプ目どころではない、
 死んだ音楽を死姦しているような気分になる。長くは聞いていられない。


-----

試聴時のメモは以上である。

彼らの主張としては、
田口晃氏のレコーディング時のリスニング感覚に、
ヘッドホンで近づけた製品とのことだ。

さて、試聴時にはおかしなことが起きていた。
レコーディング時の感覚に近づけたはずなのに、
私が聴いていた時、音楽は生気を失い、間違いなく死んでいた。

死んでいる、と断言する理由はこうだ。
録音からマスタリングまでのプロセスで極力手を加えないようにして制作される鮮度の高い音楽、
MA recordingsの作品(マーティン・ツェラー/J.S.Bach 無伴奏チェロ組曲)までもが、
見事に生気を失っていたからである。

場の雰囲気や、人の気配、空間の広がり、建物内に反響する音の広がり、
躍動感、熱気といったものが失われ、
まるでゾンビが暗い密室で演奏しているかような気持ち悪さを覚えた。

手島葵さんのアルバム、「クリスマスソングス」に到っては、
まるで死んだ肉体を無理やり動かして声を出させているかのような、
一種、死姦じみた不快感を催した。
彼女のアルバムは、ささやくような声に時々ぞくっとする健康的な美しさがあるのに、
それが微塵も感じられない。

ゆえに、私は、GEM-1を通して聴く音を、
「ゾンビサウンド」と呼ぼう。

なぜ、
田口晃氏が自信を持って
マスタリング時の感覚に近づけたはずのシステムで
このような事が起きるのか。

つまりこういうことだ。
レコーディング、マスタリングの時点で、
このGEM-1のシステムと同様、
音の分解と再構成による改編が行われているのではないか、と。
このプロセスを経てしまったら、どんな魅力的な楽曲も、死んでしまうのも致し方なかろう。

HD600、T1、両方で聴いて思うのは、
これは、フラットさや、自身の存在を消す方向性を持った製品ではないということ。
かなり強い「我」を持った製品である。

個々のコンポーネントは独特の癖を持っており、
その個々の癖を、田口晃氏の感覚によって絶妙に組み合わせた音になっている。
つまるところ、このシステムを使うと、
あらゆる音楽が「田口晃サウンド」に変貌する。

このプロセスでは、
入力された音をバラバラに分解し、
田口晃サウンドに再構成して出力する。

俺様サウンド、とでもいうのか。

これが嵌る人にとっては最高に気持ちいいだろうし、
合わない人、そういうものを求めていない人にとっては、
嫌悪感すら催す可能性を持ったシステムとなりうる。

聞かせ方のバリエーションの一つとしてはアリかもしれない。
ただ、私には全ての音楽をコレで聴こうとは思えない。

さて、
全て自社製でそろえた時に最大の魅力を発揮する、
というのはオーディオブランドのみならず、多くの製品に共通しているアプローチであるとは思うが、
この製品については、その傾向が殊更に強い。

”囲い込み”そのものは、ビジネス戦略として決して間違ってはいない。
AppleもSONYも独自規格で製品開発を進めるのはよくある話だし、
市場を制したものが、結果的に共通規格と成っているに過ぎないのかもしれない。

だが、ベノー氏ほどの技術者であれば、各々のコンポーネントをさらにニュートラルに仕上げ、
他社製品とのコネクション、汎用性を持たせることも十分に可能であったと思われる。
その点が、私には残念である。

ーーー

レコーディング時の音に近づけた、との事らしいが、
リファレンスとされているこの環境でさえ、とてもフラットとは言いがたい。

癖と癖を組み合わせて、なんとか辻褄を合わせたような音作りである。

バーニーグランドマンスタジオの多数の人間が、HD-600が一番自然だと言ったとのことだが、
忘れてはならないのは、
残念ながら、彼らは普段モニタースピーカーで音作りする人達である、と言うことだ。

はなから、彼らはヘッドホンなど相手にしていない。
ヘッドホンの本当の可能性や良さを理解した上で、生まれて来た製品ではないのだ。
ちょっと商売話が持ちかけられたので、じゃあ作ってみるか、となったらしい。

ちなみに、ヘッドホンアンプの製作を持ちかけたのは島氏であり、
彼いわく、彼もまた普段はヘッドホンを使わない人である。

では何故ヘッドホンアンプを作ろうとしたか?
それは、今はスピーカーオーディオよりもヘッドホンの方に勢いがあるから、
田口晃とトーマスベノーメイの記念すべき大一作目がコケる訳にはいかない、
との判断があったらしい。
これは、直接聞かされた話。

なんとも、下世話な話である。
正直、そんな製作秘話など聞きたくはなかった。
本当に、ユーザー層をリサーチしたのなら、その発言が何を意味するか、自ずとわかるはずなのだが。

仮にも、GEM-1はヘッドホンアンプとしては、
既存の製品の価格帯を抜け出した、大きな期待を背負った製品となるわけである。

その生まれた理由が、
普段ヘッドホンを使わない、
進化している最近のヘッドホンの良さを理解しない人達が、
ヘッドホンならではの良さを生かす方向ではなく、
仕方なく、ヘッドホンでモニタースピーカーで聴いたときの感覚に近づけようとして生まれたのが
GEM-1であると知ったとき、期待していた人達はどう思うであろうか。

私は、残念であった。
とてもとても残念だった。
それなら、ヘッドホンで音楽を聞く必要など無いではないか。

これは、スピーカー再生の代替手段を目指した、勝ち目の無いアプローチである。
どだい、ヘッドホンはスピーカーの代わりにはならない。
目的が違う。在り方が違う。

さて音の評価に戻ろう。


HD600は淡々となる。
音楽が持っている熱量、生気を根こそぎ奪い、ただ音だけを出力する。
T1では低域がまともに鳴らなかった。
ヘッドホンの相性もかなり多いようである。もともと300Ωまでの対応と歌っているので、
仕方ないのかもしれない。

GEM-1から感じた「意思」は、以下のようなものだ
----------------------------------------
アーティストの意思や感覚、
伝えようとしたもの、
そんなものは知ったことではない、
お前らはただ演奏すればいい、
俺の作る音が最高なんだ、
黙って聞け、
俺の作るものは俺の音がしなければ気がすまない、
もっと俺を評価しろ!
----------------------------------------
こうして、
音楽に込められた意思・感覚・感情的な知覚情報は
分解され、改編され、凌辱され、死姦される。

音楽に対するこういうアプローチに、
一度でも巻き込まれた人達は憐れである。

「俺様のプロデュースする音」という名目の下、
アーティストの表現や演奏は、無残に分解され、改編される、
ただの「素材」と化してしまう。

そうではないアプローチとの違いは何か。
唯一つ。

アーティストの意思、伝えようとした「もの」を尊重するか、
「俺様」の音を突き通すか。

GEM-1は後者であり、レコーディング現場でも行われた、
「俺様サウンド」を、再生の現場にも再現した製品である。

まるで、現代オーディオの悪い側面を極大化したような製品である。

このような方針を持つものが楽曲製作の現場に多く携われば、
音楽業界が衰退するのも致し方なかろう。
聴いても、何も伝わってこないのだから。

ちなみに、自宅環境はまだしも、
Walkman直差しで聴いたときでも感じられた音楽の熱量、訴求力といったモノが、
GEM-1 を介しては感じられなかった旨伝えたところ、
島氏経由で、国内にいないと伺っていた、田口晃氏から、それは音源が悪いせいだとのご意見を頂いた。
貴重なご意見ありがとうごさいました。

手嶌葵さんのアルバム、クリスマスソングスは、音源として悪いそうですよ♪
MA recordingsの無伴奏チェロ組曲もしかり。
これには苦笑するしかない。

--------

音楽を産み出す側の人間が、
「源音など存在しない」と豪語し、
しからば、こちらが何をしようが構わないではないか、という。

確かに、絶対的な源音など、特定することは出来ないだろう。
だが、だからと言って存在しないわけではない。

作った人間の、心に抱いた風景、感覚が、源音。
作り手の意識、感覚を内包した音楽の源風景であろう。

以前、音楽とは、作り手の感覚や意識の伝達手段である、という話を書いた。

それを踏まえて、言うならば。

極論すれば、理想的な音楽とは、作り手の頭の中に存在するのだ。
それが、作り手とは異なる感性の受容体を持つリスナーに余すことなく伝わったとき、
音楽、人の意識は干渉しあい、新しい波や方向性の表現の音楽が生まれる。

人の世と同じで、音楽も絶えず、
新しい可能性としての多様性を持ち続ける。
聞いた人の数だけ存在する、聴いたときの感覚もまた、間違いなく音楽の真実である。

ゆえに、改編され、本来の伝達情報を奪われてしまった再生信号は、
音楽としての価値を失ってしまっている。

そんなものに、存在意義はあるのか?

多方面からのバッシングを覚悟で言うならば、
音楽を作る時点でこの分解・改編行為が行われているのだから、
どんな再生環境だろうと、死んだ音楽が生き返ることはない。

乱暴に言うなら、自分好みに音が変わって自慢気に喜んでいるレベルである。
それが、正しい音だと信じてやまないのだろう。
とんだジャイアニズムである。

-----

この製品は、従来のような、順当にシステムをステップアップしていこう、
というユーザー層をターゲットとしているようには見えない。
ヘッドホンで、マスタリング時のモニタースピーカーの聴感を目指したアンプである。

ヘッドホンアンプとしては新しい切り口に見えるが、
実際のところ、製品の持つベクトルとしては
従来のオーディオ産業の延長線上にある製品として相違ない。
どういうことかというと、
「積極的な音楽改編・再構成」を良しとするアプローチである。

たびたび引き合いに出して申し訳ないのだが、
製品の傾向としては、以前紹介した、
D-SPEC SRとは相反するするベクトルを持ったヘッドホンアンプであると言える。
ベクトルが全く異なるので、並べて比較するのも無理がある。

GEM-1は、「俺様(田口晃)サウンド」として入力された信号を改編し、再構成する。
イコライザーに近い存在である。出てくる音から、心を伝える魂は抹殺されている。

対するD-SPEC SRは、音楽再生という行為に対する黒子に徹して、
純粋に音楽のみを聞かせ、盛り上げてくれる。

あなたは、どちらを選ぶだろうか。

「田口晃サウンド」が聴きたいのなら、GEM-1を選ぶといいだろう。
だが、普遍性のある音楽体験は、決して望めないことを覚悟する必要がある。
おそらく、気に入って買ったはずの人でも、
不思議と長時間は聞いていられない事にいずれ気づくだろう。

勝手な希望であるが、
ヘッドホンオーディオに関しては、従来のオーディオにみられる
様々な、しがらみ、利権、常識とは、離れた発展が可能であると感じてきた。

X-HP1、KH-07N、DCHP-100、D-SPEC SRにしても、アンプによる脚色を極力排して、
そのまま増幅しようというアプローチを持った製品群である。
そして、この方向性の製品が多くのヘッドホンユーザに受け入れられている、という現実がある。

ところがここにきて、GEM-1の存在は、
従来のアクセサリー・オーディオの流れを汲む、
「積極的な音の改編」というベクトルを持った製品として登場した。

ここに、私は一種の危機感を感じている。

口当たりよく、改編、加工された音は、確かに「分かりやすい」だろうが
もともと音楽が持っていた熱量や感覚が既に失われていることを忘れてはいけない。
オリコンチャートの衰退の一因として、
このような楽曲改編のプロセスに、アーティストもリスナーも正直うんざりしているから、
だとは言えないだろうか。

インディーズ時代に魅力的な音楽を作っていた人達が、
有名になり、プロとしてレーベルに所属したとたん、かつての魅力を失ってしまうことが多々ある。
自分の意図したものが決して届かない、
自分がだだの記号や材料であると知ったなら、誰しもものづくりの欲求を失う事だろう。
だがCDが売れなくなったからといって、音楽が聴かれなくなったわけではない。

一方、同人音楽やインディーズ音楽はますます元気である。
いまや、従来の販売網やレコード会社を必要とせず、
アーティストの作ったものがそのままリスナーやファンの手元に届く仕組みが成立しているからである。
この仕組みの中には、従来の、アーティストに対する方向性の強要や改編プロセスが入る余地が無い。

GEM-1の象徴する「積極的な音楽改編と再構築」は
ヘッドホンオーディオも従来の音楽産業と同じ衰退の方向性に導く危険性を秘めているように感じられる。

GEM-1が、低価格帯で登場するのならば私もそこまで気にはしない。
ヘッドホンアンプとしては最上級の価格帯として、
ヘッドホンアンプを象徴するようなポジションにあることが問題なのだ。
だから、今回は合えて酷評させていただいた。

自分好みに音を変えて一喜一憂するのがオーディオマニアだとするなら、
間違いなく、GEM-1はオーディオマニアのための一品であるといえる。
従来のヘッドホンアンプでは満足できないオーディオマニアに応える製品かもしれない。

ここでいうオーディオマニアとは、
従来のヘッドホンユーザーとはまた異質な存在である点を強調しておきたい。

私の勝手な市場予測だが、今後の市場は、
従来のヘッドフォニアを対象とした30万円程度までの製品群と、
既に高額な再生装置を持っている、富裕層向けの100万円前後の製品群とが、別々に成長し、
その間を埋めるように、製品群が現れていくものと予想する。

以前聴いた情報が確かなら、
今年EARもヘッドホンアンプの新製品投入を計画しているはずである。
また、KH-07Nの特性を変えた、バランスプラグ対応版(NOT BTL回路)も控えている。

このカテゴリーは、まだまだ未成熟で発展の余地がある。
今後も、この市場がどう成長していくか、目が離せない。



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K-01

ESOTERIC

K-01

¥1,470,000(税込)

発売:2010年10月1日

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Esoteric K-01のレビュー

K-01の存在を知ったのは、音源の上流に良いものを入れたいと探していた2010年の年末のこと。

PS3でもそこそこ聞けていたけど、いいかげん限界を感じていたし、
長く付き合えそうな良いSACDプレイヤーはないものかと検討していたところ、
発売されて間もないK-01に興味がわいた。

昨年12月にダイナ5555に試聴に行き、聴くだけのつもりがその場で購入を決定。
あの時のテンションはおかしかったと思う。価格からして、ほいほい買う代物ではない。

いきなり導入する価格帯の製品ではないと思うが、
いずれ満足できずに行きついていただろうと思うので後悔はしていない。

以前からEsoteric のデザインは端整で好きでしたが、まさか自分が買うとはおもっても見なかった。

導入してから6ヶ月経ち、そろそろレビューしても良かろうと。

発売時期が比較的近いハイエンドSACDプレイヤー達と比較してみます
なお、K-01以外のプレイヤーは、ダイナミックオーディオ5555さん視聴ルームでの感想をもとにしています。

<Esoteric K-01>
静と動の描き分けが的確な大人びた音。

海外でも信頼性の高いメカ部には、洗練された美しさがある。
トレイ開閉時には軽快なレスポンスと共に動きだし、開ききる直前にふっと減速する。
なんとなく優秀な執事を連想した。

音は、各音源から放たれたエネルギーがキラキラと拡散しながら空間を満していく。

CH-Precision D1のように、一本の音の矢が鬼気迫る様に飛んでくるのとはまた違う鳴り方。
TAD D600のように演奏者にかぶりついて聞く感じではなく、ユーザと演奏者の間には適度な距離感がある。

音は平面的にならず、空間の広がりと立体感をもって描かれる。
音の定位はかなり明確だが、音源の輪郭そのものは線というより粒子状に感じる。

音の鮮度はかなりのもので、微細な音まできちんと拾ってくれる優秀さがある。

女性にたとえるなら、クールで知的で華やかだけどたまに見せる色気が魅力的。
基本冷静なんだけど、必要な時には厚く、力強く音楽を奏でる。

ややハイファイ感を感じるけれども、誇張しすぎず、立場を弁えている。
プレイヤーの音が前面に出てくるタイプではない。

以前のP-03 D-03の音は聞いていないのですが、
K-01以降、音楽表現の表情の豊かさがかなり改善されているとのこと。

当初の期待通り、長く付き合えそうな良い機種と感じています。

いずれは、10Mhzクロックも投入したいところですが、優先順位から言ってかなり先の話になりそうですね。


<TAD D600>
音楽の持つ「熱さ」をリスナーに届ける国産のプレーヤー。
プレイヤー部と専用電源が別筐体で、合わせて40kgを越える重量級。

一音一音に安定感と力強さがあり、音に強いメッセージ性を感じる。

音に落ち着きはあるけれども、なんか前のめりで迫ってくるような気配がある。
聞く側も、それなりに心得て音楽を聴く必要があるように感じる。

独特の色が載るので、これが好みじゃない人もいそう。

K-01もそうだが、リモコン含め操作性があんまりいいとは思えない。

K-01導入時に、ちょっと迷ってやめました。
価格もキャパオーバーでしたし。



<CH-Precision D1>
無音の闇からにじみ出るような気配まで再現する稀有なプレーヤー。

従来のプレイヤーならばあってしかるべきボタン類まで取っ払ってしまい、
ロータリーコントローラーに操作を一元集中させたフロントパネル。
そのデザインには強い意志を感じる一方、生半可なものを寄せ付けないオーラがある。
(筐体デザインからして、人を選ぶという意味ではブランド性が一貫している)
見た目はシンプルすぎて、これに300万かとちょっと戸惑う。

肝心の再生音について。
音の再現性に容赦が無く、曖昧さが微塵もない。
音が硬くて冷徹、というのとは違って、しなやかさや熱さもきちんと出す。

一度聞くと、その世界観に引き込まれる魅力がある。
音色でプレイヤーの色が出るということはなく、再現性の精密さによる疑似体験がこのモデルの特色のようにも感じる。

読み込む音源、繋がるシステムもかなり選ぶように思う。
全て一定の水準をクリアした環境ならば、
音楽とリスナーが真っ向で対峙する特異な空間にトリップできること間違いなし。
K-01でも出るべき音は全て出していると感じたけれど、これは想像する出音を遥かに越えていった。

最近値上がりして値段も尋常ではないが、その価値は確かにあると思わせる音。
これでさらにCH-C1(DAC)とか専用電源とか入れたらどうなるんだ。
所有オーナーが羨ましい反面、トータルコストが恐ろしくて所有者の事が結構心配になるラインナップ。

D1、C1、専用電源、10MHzクロックを用意して、スピーカー、ケーブルにもそれにふさわしいものを用意したら
あっという間に2000万は越えるシステムになりそう。
いや、聞いたら絶対欲しくなる。恐ろしい(笑)


▼K-01をDACとして見たときにどうか

K-01導入時、PCオーディオやネットワークオーディオも検討したが、制御しきれない要因が多そうだったので候補から外れました。

音源再生装置として完結しているものを求めていたので、DAC一体型のK-01は条件にあっていました。

CDメディアに特段こだわりがあったり、PCオーディオの可能性を否定している訳ではありませんので悪しからず。

DACとしての性能はこの価格帯にふさわしいものと思います。
アシンクロナス転送にも対応した独自ドライバを提供している点も高評価です。

同じ音源をPCでリッピングして再生した場合、やや勢いが削がれたような鳴り方になります。
今のところ、ハイサンプリング音源以外はCDメディアで聞いています。



▼その他
最後に、不満点もあるので書いておきます。
・本体にある「modeボタン」に関連する機能が、リモコンから操作できない。
(アップコンバートの設定が本体のmodeボタン長押しでしか選べないのはいかがなものか)
・リモコンのボタンレイアウトが機能的ではない。
・リモコンの使わないボタンが多すぎて美しくない。
・アップコンバートを使うと「空気感」は出るが一音一音の輪郭が若干滲んで、極小時間ずつずれてダブっている様に聞こえる。アップコンバートそのものがこういう音なのかどうか判断するだけの経験がありません。
・あと、アップコンバート選択時に、音がばっつり途切れるのは不安になる。

致命的に使えないということはないですが、リモコン関連は次期製品では配慮してほしいと思います。

次回は、自分がK-01を導入するに至った経緯を紹介しようと思います。

【SPEC】●再生可能ディスク:スーパーオーディオCD、CD、CD-R、CD-RW ●アナログオーディオ出力:RCA×1、XLR×1 ●出力インピーダンス:RCA…2.45Vrms、XLR…2.45Vrms(0dB設定時) ●周波数特性:5Hz〜55kHz(-3dB) ●S/N比:115dB ●デジタルオーディオ出力:同軸デジタル ●デジタルオーディオ入力:RCA、光デジタル、USB-B ●ワードシンク入力フォーマット:BNC×1 ●消費電力:33W ●外形寸法:445W×162H×438Dmm(突起部含まず) ●質量:約31kg

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