2009-06-21
id:seijigakutoさん、マジで言ってんのそれ?
はてなブックマーク - だからずーーーーっと言ってたでしょ、俺は。 - NaokiTakahashiの日記
id:seijigakuto フェミニズム, 表現の自由 家父長制を推奨する表現物=差別問題として訴えるのは、電波すぎて真面目に相手する人は極少数に限られると思います / とはいえ、相手の攻撃対象を正確に把握する事は大事だと思います 2009/06/20
他にもこんな意見があるけれども。
id:orihime-akami 家父長制を叩くってのはさすがにやりすぎだなぁ。現代に流行る考え方ではないけど、十分多様性の範囲に入るでしょ。 2009/06/20
……
家父長制批判こそフェミニズムの根本テーマじゃなかったっけ?
いや、そりゃ最近はフェミニズムっていう思想も多様化しているけど、でもその根本には、「父親こそ一家の長であって、女性はそれに付き従うもの」という家父長制への批判がある。少なくとも僕はフェミニズムの思想っていうのをこんな風に理解していたんだけれど……それが「電波」で「真面目に相手する人は極少数」って……
ごめん、ちょっと余りにも訳が分からなすぎて頭の中が混乱しているから整理してみようか。
そもそも何で女性差別ってものが近代において生まれたのか。それは、男性の労働が「賃金労働」とされ、女性の労働が「アンペイド・ワーク」とされたからだよね。
つまり、労働っていうものがもし賃金を介さないで成立したとしたら、そこでは家事労働も農作業その他の労働も全ての労働は同じもので、故に男性が女性より優位に立つなんてことはないでしょう。
ところが、そこで男性の労働には賃金が「貨幣」において支払われることになったと。そうすると、貨幣っていうのは貯めることが出来るわけだ。そしてそれにより、男性の側は余剰労働力を「貨幣」として貯めこむことができるようになった。
所が、女性の労働にはそのような「賃金」は支払われない。故に余剰労働力が生じたとしても、それを貯め込むことは出来ない。するとどうなるか?男性の側は余剰労働力をどんどん蓄積し豊かになっていくのに対し、女性の側はそうはならず、結果として富の不均衡が生じる。そして、資本主義社会においては富を保持している方がより強いから、男女の不平等、女性差別が生まれる。
そしてさらに、そのような不平等を維持するために、「男は元々偉いんだ。女はそれに付き従うべきだ」とか、あるいは「男はこういうことをやれ、女はこういうことをやれ(性別役割分業)」とかいう文化が生まれてくるわけだ。そしてそういう文化における差別と富の不平等が、相互作用しながら相乗効果により差別構造を強化していく。これこそまさに「家父長制」なわけだ。浅学非才な説明の仕方かもしれないけど。
そういうことを考えた上で、改めてCLANNADのポスター
を見てみるときに、そこに「家父長制」に基づく差別がないなんて、どうして言えるのか?
当たり前だけど、差別性が認められることが、即表現規制に繋がるなんてことは言えないよ。僕は、これは「批評」によって何とか出来る、というか、しなければならない問題だと考えているし、この様な差別性を根拠にする表現規制はやってはいけないと考えている。でも、それは差別性の否定を意味しはしない訳。
「家父長制」は既に克服された考え方か?
また、こんな主張もある。
id:Marce 2009/06/21 01:36
まぁ、僕はAIR以降の鍵を原則認めていないので批判は大歓迎……つ−、冗談は兎も角として、「ロマンチックラブストーリー」や「家父長制度」を批判するフェミニスト、というのも最早時代遅れだと思います。別にクラナド無罪を主張したいわけではありませんけど、そもそも現在のネオリベ的な世界観では、もはや家父長制度というのは一種のパロディとか、ある種のファンタジーとしてか機能していないわけで、原則的には「他人の性癖にケチをつける」以上の議論には発展しないと思うんですけどね。
要するに「家父長制」なんていう風な、人々に「このような正しい生き方をしなさい」と強制するものはもはや存在していなくて、あるのは「男が賃金労働をし、女性が家事労働をする」というライフスタイルである。しかしもはや今の社会においてはそのようなライフスタイルこそ正しいなんて全く思われてないし、そのように人々に思わせるような文化・制度もないと、そういう主張なのでしょう。
しかし、だとしたら何故女性差別はなくなっていないんですか?何故性別によって賃金の平均に違いが生じるのか。何故職業・役職において「女性が多い職業・役職」、「男性が多い職業・役職」なんてものがまだあるのか。何故「専業主夫」みたいなものが未だ特別なものとされるのか。
もちろん個別の特殊例を出せば「そうでない例」っていうのは幾らでもあります。しかし、それらを全て足した統計においては未だ「家父長制」は健在でしょう。それを無視して「この世の中はネオリベ化してるんだから家父長制によって抑圧されている人間*1は居ないんだ!」なんて言うフェミニストが居たとしたら、それこそ既に終わっているでしょうな。
全ての表現は差別性が認められる。だからごちゃごちゃ言うな?
また、「こんな風に『隠れた差別』なんてものを一々あぶり出していたら、全ての表現作品は差別的であるということになってしまうじゃないか」という主張もあります。
しかし僕はその意見にはこう返しましょう。「そうですが、何か?」
差別っていうものが私たちの社会の構造に根付く以上、その社会から表現作品っていうものは生まれるんだから、社会の差別性を表象しない作品なんてそもそもありえないでしょうが。アーティスト(笑)の中には、「俺の作品は俺の感性から生まれてくるんだ。社会のことなんか何も関係ない」なんて言う奴もいますが*2、じゃあその感性はどうやって生まれたのか?まさか「神が与えてくれたんだ」とか寝言吐いたりしませんよね?やっぱり社会の中で育まれたんでしょうが。
差別性が一切無い無色透明な表現なんてありえません。しかしそのことは、「だから別に差別なんて気にすることない」っていう意味では全然ないのです。むしろ逆、表現は差別性を含んでいる。だからこそ私たちは、全ての表現を「批評」し、そこに含まれる差別性を暴いてくことが重要なのです。
つまり、具体的にその表現はどのような形で差別的であるのかということを指し示していき、そしてそのことによって、私たち一人一人が「差別するもの」であることを自覚し、そして改善していく。それこそが、重要なのです。
逆に言えば、そのような「批評」というものが存在するからこそ、私たちは表現の自由を擁護し、表現規制を批判することができるのです。もし人々が「批評」することを忘れ、表現の差別性が全く改善されなくなったとしたら、その差別を何とかするには権力による表現規制しかなくなるでしょう。しかし、私たちは権力によらずとも、批評によりその差別性をより軽減していくことができる。例えば今回のCLANNADの件について言うならば、このように「CLANNADにはどのような差別があるか」と論じることにより、CLANNADを無批判に受け入れるような人たちに、「いやでもCLANNADにはこんな問題もあるよな」と思わせ、それが無批判に受け入れられるべきものではなく、表現を受け取る一人一人が考えながら受け取る必要があるということを自覚させることが出来るのです。
故に、批評は通じなければならない
そしてそれ故に、批評は、そもそも人々に届かなくてはならないのです。
僕がブックマークコメントで
id:amamako 表現規制の話は脇に置いておくと、「CLANNADは差別的か否か」という問題提起は、既存のエロゲ―批評(笑)にはなかったもので、とても重要だろう。確かに批評の問題ではあるが 2009/06/19
と書いたことに対し、次のような言葉が投げかけられました。
はてなブックマーク - Запретная Зона APPがCLANNADも攻撃対象に
id:NaokiTakahashi いやまあ、彼らの理屈から行くと当然CLANNADは批判の対象の筆頭に上がると思うよそりゃ。だから、純愛の人は対岸の火事だと思ってちゃダメだよと俺は再三警告してきたわけで/↓amamakoよう、俺は5年前からやってんだそれ
はてなブックマーク - だからずーーーーっと言ってたでしょ、俺は。 - NaokiTakahashiの日記
id:y_arim 表現の自由, game, culture, society, gender 純愛だから大丈夫どころか「人生だから大丈夫」くらいのことは言ってそうだなあ、冗談で。/しかしこんな内容、それこそエロゲ論壇(笑)が何年前に通過した場所だと……。 2009/06/21
要するに「きちんと自分たちはそれをやってきた」と。
しかし、ではそれが人々に通じてるか?周りのブックマークコメントを見てご覧なさいよ。みんな「CLANNADは差別的」に脊髄反射して、「CLANNADはエロゲじゃないし」とか「CLANNADに家父長制が認められたとして、それが何で差別になるの?」とか、そんなコメントばっかりじゃないですか。
エロゲ論壇だって結局人々に伝わったのは「CLANNADは文学的にすげー作品だ」ぐらいのメッセージでしかないでしょう。要するに、信者がそれを肯定するためのネタとしてしか扱われなかったわけです。
何故か。結局それ(エロゲー批評)には「社会性」がなかったからです。
ここで言う社会性には二重の意味があります。一つは「エロゲーもまた社会の中の表現物である」という認識の欠如(大体、今回の表現規制に対し、エロゲ論壇はそもそも語る言葉すら持ち得なかったじゃない)。そしてもう一つは「(エロゲーに特に思い入れのない)社会の人々にも分かるように話す」ということの欠如です。
はっきり言って、それら二つを兼ね備えているという点だけ考えても、エロゲー批評はAPP研のフェミニズム批評に負けているのです。
まとめ
- エロゲ語るんならフェミニズムのフの字でもいいからきちんと学びなさい。話はそれからだ