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2009-04-07

あなたのような存在こそ、「大人」なのだ

大人になれなかった人間から「大人」たちへ - G.A.W.

 そんな、十代の鬱屈した俺は、自分が30歳になったときに、なにをしているのだろう、と想像してみた。

 やはり、少女マンガを読んでいるのだろうな、と思った。好きになれるのはフィクションのなかの登場人物だけで、そのことがたとえ30歳になっても変化するとは思えなかった。結婚なんて想像の外だった。なにしろ俺には致命的に女性に好かれる資質が欠けている。致命的に、だ。

 そうした「30歳」は、俺の考える「大人」のイメージとはずいぶんかけ離れていた。いや、だれが考えたってかけ離れてるんだけど、俺は、自分はそのような「いきもの」なのであって、いまさらあがいて人間になろうとしてもどうしようもないのだ、と思っていた。諦めていたというには、少しばかり現実への未練がなさすぎた。やはり「俺はそういうものなのだろう」と、大した気負いもなく思っていたのだ、というのが正解に近いと思う。

(略)

 少なくとも俺は、俺がなりたくないと思っていた「大人」にはならずに済んだようだ。あの諦めきったような、疲れた横顔、世界には夢も希望もないのだというため息、世界は有限の閉じた空間であって、人はそのなかでせいいっぱいあがいて生きる以外になにも残されていないのだという諦観に裏打ちされた、即物的な享楽主義。そんなものとはあまり縁がないようだ。

人と自分の感性が違うというのはごく当たり前のことで、ある人がある意味でその言葉を捉えていたとしても、別の人が別の意味でその言葉を捉えているのはごく当たり前のこと。それを一々気に掛けたり、あるいは直したいなんて思ってたらこの世の中まともに生きていけない。そんなことは、分かってる。分かってるんだけど、その上でも、やっぱり言いたい。

「それこそ、まさに『大人』じゃないか。」

オタクという「大人」

まぁ、これは別にこの書いた人の「大人」像が悪いんではなく、ただ僕が抱いている「大人」像がねじ曲がっているだけなのだが。

というのも、僕の中にある「大人」像っていうのは、まず第一に「オタク」なのだ。これが、例えば仕事に忙殺されて家に居場所がない父親とか、ずっと家に閉じこもって家事かワイドショー見てるぐらいしかしない母親とかだったら、僕も「そんな大人にはならたくない」とか言って、そして成熟を拒否したあり方としてのオタクを、大人にならない方法として捉えることが出来たのかもしれない。

でも、そうじゃなかったんだよなぁ。ホント、こんなこと書くとはてなに数多く居る「親から十分な愛情を注がれなかったアダルトチルドレン」さんたちから石でも投げられそうだが、僕にとって親っていうのは、例えば休日になればゲームのイベントとかに連れてってくれる、というかむしろ自分たちがそういうイベントに行きたがり、ゲームやマンガはどんどん買ってくれる、というか親たち自身がゲームやマンガを買ってくるから僕はそれらをやったり読んだりしてるだけで別に買って貰う必要すらないという、ほんと、良い親だったのだ。*1そして、そんな人生の楽しみ方を心得ている人たちだから、彼らはいつも笑顔で、人生今が一番楽しいー!という感じだった。だって、自分たちで金を稼いでいるわけだから、人生の中で一番可処分所得が多くて、子供の頃買えなかったゲームやおもちゃをばんばん買えるわけだ。そりゃ楽しいわな。

だから、僕は世間で言われる「いつも下向いて人生に絶望している大人」っていうものを、理解はするけれど、実感としてはよく分からない。小町とかに書かれる愚痴を見たり、大学の飲み会とかで他の人の話を聞くと、世間一般では、大人っていうのはそういうものなのらしい、ということは分かっているのだけれど……

で、そんな世間一般の人から唾でも吐きかけられそうな僕なのだけれど、そこで更に吊し首にされそうなことを言う。で、そんな親を見ながら、しかし、僕は、こう思っていた訳だ。

「こんな大人にはなりたくないなぁ」と。

フィクションの中に幸せを求めることへの違和感

確かに僕の親たちはとても幸せそうだった。好きなゲームやアニメをやって、特に母親なんか、一日中ゲームやってて、RPGなんか買ってくれば一番最初にクリアするのは決まって母親だったりと、そんな感じの日常なのだ。きっと、本人にとってはすさまじく幸せなのだろう。

でも、そんな親を横目で見ながら、しかしある程度の年齢に達した*2とき、僕はこう思うようになったのだ。「でも、そんな人生、一体何の意味があるの?」と。

アニメやゲームなんて、所詮空想のこと、フィクションじゃないか。マンガで幾らすごい冒険や恋愛を読んだって、冒険や恋愛しているのはそのマンガの主人公であって、僕らが生きているのは相変わらずこの何にも変わらない日常だし、ゲームでいくらハイスコア出したって、「現実」には何も影響しない。お母さんそのゲーム何週目だよ!という感じになってしまった訳です。

何だろーなー、ほんと、何でそんな若いのにそんなジジ臭い感覚に至り、そしてそれがこの年になるまで続いているのか理解できないのだけれど、でも僕は、その時フィクションに絶望しちゃったのだ。それまでは順調にアニメ・マンガを読み、オタクへの道を歩んでいたわけだけど、一旦その道を止めるわけだ。

そして、僕がどこに行ったかって言うのが……すごい恥ずかしい「トラウマ」ではあるのだけれど、2ちゃんねる、なんだよねぇ……

2ちゃんねるこそ「現実」だった

具体的に言うとニュー速板の住人だったわけだ。その頃のニュー速っていうのは本当にアングラからいよいよメジャーになる途上の、なんつーか、「俺らもしかして社会を変えられるんじゃね?」的な良く分からない活気があったんだよね。で、ちょうど電凸やらスネークやら、そういうものが生まれる頃だったんだよね。で、そういうのを見ながら僕は、ここでなら日常でない「現実」に触れ、そして、変えられるんじゃないかっていう、そんなことを思ったのだ。例えば、児童ポルノを掲載しているホームページを晒し上げて通報したりしてたらテレビ局からメールが来たり、自殺予告を止めようとみんなでその自殺予告をした人を見つけ出そうとしたり、ある芸能人がラジオ番組で自分の子ども虐待していることを告白してた、なんてコピペを真に受けてみんなでラジオ局に電凸したり……

そして、実際そういうことをしている中で、そういう内容がちょこちょこっと既存のメディアに取り上げられたりするわけだ。それは、スポーツ新聞の片隅にちょこっと載ったりするだけなのだけれど、それだけで何か、自分たちがすごいことをやっているかのような錯覚を抱いたりして……それこそまるで自分たちが「戦士」にでもなったりするような感覚だ。よくネット右翼のことをはてななんかでは「国士様(笑)」なんて揶揄するけど、あれは結構当事者の心理をよく表していると思う。現実の闇に立ち向かい、世界をよりよくしていく「戦士」、いや、実際はそれこそせいぜい自分の部屋に閉じこもって、メールしたり電凸したりしてるだけなんだけどさ、その頃の僕は、それだけで世界が変えられると本気で信じていたんだよ。

でも、そんな夢もやがて破れる訳で……だってその行為には何もリスクを負ってないんだもの。リスクも何も得られずに、世界を変えられるほど、世界は甘くない。具体的に言っちゃうと、ネットの中でやったいろいろな事が、リアルにも影響を与えてくるようになっちゃったのだ。個人情報が晒し上げられ、家に嫌がらせの電話や手紙が届いたり、あるいはリアルのクラスメートが僕がネットでやっていることを調べて馬鹿にしてきたり……

ここで、ちょっと時間をさかのぼる。僕がなんで2ちゃんねるに嵌ったか。そもそも、フィクションに絶望したとして、じゃあ友達づきあいなり恋愛なり、そういう日常を楽しむようにすれば良いことなわけだ、普通の人にとっては。でも僕は、人生の最初っからとにかくフィクションに囲まれた生活を送ってきた。それこそ学校から帰ったら外にも出ずずっと家で独りでマンガ読んだりゲームしたりするような。しかもそこで読むのは親の物な訳だから、当然周りと話は合わない。そしてその結果として、中学生の頃には立派な非コミュが完成していたわけです。

そして非コミュの日常なんていうのは、ほんとフィクションを除けば「退屈」とかない、そんな生活な訳でさ。学校でも休み時間はとにかく机に突っ伏して、学校が終わったら即座に家に帰る。そんな生活で、友達も恋人もできる訳がないわけです。というかむしろいじめの対象にならないように、出来るだけ人と関わらないようにするしなければならない……

そんな日常を送ってたからこそ、2ちゃんねるにハマったわけですが、しかしそのハマった2ちゃんねるも、当たり前ですが、日常と地続きだったんですよね……そしてネットが日常を浸食してきたとき、初めて僕は、真の「現実」というもの、そしてそのおぞましさを、身を以て経験するわけです。あの電話の向こう側の声の気持ち悪さ。「お前のサイト見たぜ」という時のクラスメートの顔のおぞましさ。ここで僕に一定のコミュニケーション能力があればそういうことにも対処できたんでしょうが、そんな能力は昔も今もないわけで、その時はとにかく必死に2ちゃんねるから足を洗おうとしていたわけです。

もし、その時足を洗わなかったら、それこそ僕は極東板とかで今も、「国士様(笑)」として活躍していたかもしれません。もしかしたらその過程で本気の活動家にでもなっていたのかもしれませんな。多分その方が幸せだったろうなぁ……

代用品としての「フィクション」

そして、そういう現実から逃げるようにして僕は、再び「フィクション」の世界へと逃げ込み、そしてオタクとなった訳です。

ですが、それでもやっぱり、それは僕にとっては現実の代用品でしかないんじゃないか、という気持ちは変わらないんですよね……いや、それはただ単にオタクとしての精進が足りないんだ。もっともっと深いオタクになれば、現実なんて不要になるんじゃないかと思って頑張ってきたけど、オタク的なものを摂取すれば摂取するほど、逆に、でもそれはフィクションでしかない。現実じゃない。いくらゲームの中で主人公になれたって、現実では僕は友達も恋人も作れず、一日中暗い部屋の中で過ごす非コミュじゃないかって思えて、むしろ作品の中で色々楽しそうな経験をするキャラクターたちが憎くなってくるわけです。

もちろん、これが多くのオタクには全然理解されないことであろうっていうのは分かるんですよ。よく訓練されたオタクである彼らは言うのでしょう。どれが現実で、どれが現実でないかなんていうのは、結局人の心の持ちようで幾らでも変わるものなんだと。だったら、より都合の良いものを「現実」と認めたほうが人生ずっと楽しく生きられるじゃないかと。そしてそうやってみんながそれぞれにとっての〈優しい世界〉に引きこもれば、みんな幸せになれる。何も悪いことなんかないじゃないか、と。

でも、僕はそんな各々が自分の世界に引きこもって、自分に優しい世界を作り、そこで生きるということに、どうも拒否感がある訳なんです。例えば、この前、「初音ミクは生の声の人々に失礼だ」という記事が増田で人気になりました。はてなでは、どうやらあれは単なる時代について行けない劣等人種の戯れ言として処理されたようですが、僕はあの記事に共感してしまうんですね。

もちろん、初音ミクの楽曲だって作り手はすごく苦労するんでしょう。でも初音ミクの場合、歌うのはあくまでミクですから、それは隠されて届けられるわけです。例えばものすごい高い音を出そうとしたとき、生の声ならば、その高い音を出す苦しみが、ノイズとなって曲を聞くとき直に耳に届くかもしれない。でも初音ミクは、どんなに高い声でも苦もなく歌い上げ、ノイズが一切無い、聞き手にとって心地よいきれいな音で、耳に届けるわけです。

でも、本当にそれで良いのか?双方が双方に取って心地よい、都合の良いものだけを送り合って、醜く気持ち悪い、そんな部分を隠し合う。そんな形で伝えられる曲が、その曲の作り手の心を伝えられるのか?という思いがあるわけです。

でも、じゃあ歌い手の苦しみを楽しむことが出来るのかっていえば、やっぱりノイズなんてものはない方が自分にとっては心地よいわけで……だからミクは流行るわけです。

フィクションには「現実」はない、と僕は愚痴る。でもじゃあ僕にフィクションではない「現実」を受け入れる覚悟があるのかって言えば、そんなものないわけでさ。例えば、↓の動画

永井先生のアイドルマスター 番外編3 ‐ ニコニコ動画(原宿)

この動画は、ほんとアイマスっていう〈優しい世界〉をプレイする僕たちの姿を見せるということで、逆説的に「現実」を見事に描ききっている動画だと思うわけだけど……僕は、この動画を見て、真面目に吐きそうになるわけです。

これがまさに「現実」なんですよね。フィクションを捨てて、現実を直視しようとするならば、まさにこういう「現実」こそを直視しなければならない。現実に生きるというのは、こういう永井先生みたいな自分たちを認めなければならないわけですけど、でも……

あるいは恋愛、とくにセックスについて考えてみようか。一番最初に挙げたページにこんな記述がある。

 あるいは、二十代後半まで童貞でいることはおかしい、だれかがそう言うかもしれない。悪いかよ!! ……すんません、いまは逆ギレすべきところではありませんでした。いやまあ、確かにセックスしたければできるように努力したほうがいいんだけどさ、すべてを投げ打ってまでそんなにセックスしたいか?って話。別にいまのままの自分で棚ボタ的にちょういんらんな女子中学生とかに迫られる可能性を夢想してもいんじゃね?(答。あんまりよくないです)

それに対して僕はどうか。僕は、セックスすごいしたいです!といっても、もちろん童貞で、セックスのやり方すらよく分かってないわけだけど、とにかく女の人に抱かれたいわけです。何もしないで、ただ一つになっていたい。独りじゃなくて私が見ているって、言って欲しいわけです。

でも、一方で、僕はすごくセックスしたくなかったりする。というのも、女が怖いのだ。例えば僕は、エロゲーをやるときもセックスシーンは実は直視出来ない。モザイクがあっても、そのモザイクの向こう側にあるものを想像すると途端に気持ちが悪くなるのだ。あるいは、セックスをしているときに、相手も自分を評価しているということが怖い。つまり、自分の身体が値定めされるというのが怖いのだ。相手の心の中で自分が罵倒されているということへの恐怖。

でも一方で、そういう気持ち悪さや恐怖があるからこそ、一つになることの快楽があるというのも理解している。理解しているけれど……!とまぁ、こんな風な感じで、極端な気持ちよさと極端な気持ち悪さの間を矛盾しながらいったりきたりするわけ。それは、確かに中和すれば引用してきたサイトの人のように、「セックスなんてどーでもいいや」という風になるのだろうけど、僕の中ではそれは絶対に中和できず、ただ2極の間で引きちぎられそうになる、そんな感覚な訳です。

そして、こんな感覚に悩まされる僕からすると、引用元の態度は、やっぱりすごく「大人」なんですよ。

結論:矛盾

で、こーやってぐだぐだ書いてきたわけですが、実はこんな感覚はぜいたく病で、働きもすれば忘れていくことであることもまた知ってる訳なんですよね。

だってそんな矛盾を抱えてられるっていうのも結局、自分が何も働かなくても生きていけるモラトリアムにあるわけですが、そのモラトリアムが終われば、人は自分の力でサバイブしていかなきゃならなくなる訳です。そうなれば、どっちにしろ選ばなきゃならなくなる。オタク化して、日常は単なる作業だと割り切り、フィクションの中の閉ざされた〈優しい世界〉を自分にとっての「現実」だと思い込むか、あるいはこの醜い現実に踏み込んで、適者生存バトルロワイヤルをするかという、二つの選択。

結局今の僕っていうのは、その二つの選択のどちらを選ぶかで迷ってずるずると引き延ばす。そんな「ぜいたくな子ども」な訳です。そして、その選択をしたとき、人は「大人」になるのかもしれない。

でも、はっきりいって今の僕にはそんな道は見えない……というか、見たくないわけで、でもそうやって引き延ばすことなんかもはや出来ないわけで……

自分の頭の中が混乱してきたのでここらで記事を書くのをやめにする。なんか発狂しそうだ……というか、むしろ発狂してしまった方が楽な気も、なんかするなぁ……

*1:マンガで言うと家族ゲーム (Dengeki Comics EX―電撃4コマコレクション)みたいな感じかな

*2:具体的に言えば中二である。えー、そうです、中二病ってやつです。それをこんな21まで引きずった結果がこんな文章ですよ!

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