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日本国憲法の生命力 - 改憲論が渦巻く中での存在感
土砂降りの雨に見舞われた憲法記念日。悪天候の中、日比谷公会堂で護憲派の「憲法集会」が開かれ、主催者発表で2600人が参加したニュースが報じられた。同じNHKの報道の中で、改憲派による都内の集会の映像も紹介されたが、会場の客席が疎らで空席が目立っていたのが印象に残った。WSJの記事を見ると、主催者発表で450人の参加とある。この傾向は、この2、3年ずっと同じだ。10年前、15年前を思い出すと、集会の盛況ぶりにおいて彼我のコントラストが逆転している。自由主義史観運動が燎原の炎のように全国に広がっていた頃は、明らかに改憲派の集会の方が動員が多くて熱気と迫力があった。今は閑古鳥が啼いている。折角、橋下徹が維新八策を打ち出して「国のかたちを変える」と吠え、自民党が応じて7年ぶりに改憲案を出し、改憲の気運を盛り上げる政治状況を現出しながら、肝心の5月3日の集会がこの閑散ぶりでは、そうした「状況」が単にマスコミを使って演出したハリボテの工作でしかない実態を露呈してしまっている。マスコミ報道では、今回の自民党による改憲案の提示について、保守色を強調して民主党との差異を訴求する政局目的のものだとしていて、国会の憲法審査会で議論する動きがなく、与野党を超えた合意を追求してない点が指摘されている。要するに、近づく総選挙を睨んで、各党が独自憲法案を宣伝材料に使っているにすぎない。


自民党の改憲案については、テレビ報道で一度も詳しく説明された機会がなかった。新聞は取り上げて概略を報じたが、中身が議論されているのはネット上であり、しかも恐ろしく評判が悪い。国権主義を剥き出しにした明治憲法のようだと批判されている。無論、この改憲案は自民党の本音であり、彼らの右翼的イデオロギーがストレートに体現された「作品」に違いないのだが、国民が国家を縛るという立憲主義の原理を正面から否定するところに、敢えて意図的に主眼を置いていて、反動的であると同時に挑発的な内容になっている。この改憲案には、自民党が戦後ずっと唱えてきた哲学が染み込んでいて、例の、「押しつけ憲法と戦後教育のために日本と日本人が悪くなった」という主張が反映された条文構成だということに気づく。この憲法草案から見えてくるのは森喜朗の顔であり、GHQに一蹴された松本試案に他ならない。自民党と戦後保守が言ってきた「自主憲法」そのものであり、その妥協なき姿がこれなのだ。彼らの思想がいかに古色蒼然として時代錯誤であり、リアリティがなく、現代社会で通用しないものであるか、この改憲案の生身の実像がよく証明していると言える。先進国の憲法ではなく、どこか途上国の全体主義国家の憲法を思わせる。論評すればするほどボロが出るため、保守マスコミも報道を避けていて、すなわち「宣伝材料」としては逆効果になっている。これこそが日本の「保守」の正体なのだ。

一方、統治機構の改変に狙いを定めた維新の側は、5月3日に合わせて独自の憲法草案を提示することがなかった。戦後民主主義への仇讐と憎悪を露わにした自民党の改憲案に較べれば、一院制や首相公選制にアクセントを置いている橋下徹のプレゼンテーションの方が、改憲論としては世間の耳障りがよく、「前向き」なイメージの問題提起として説得的に響くに違いない。しかし、これまた実際に条文にして出すとなると至難の業で、言うは易し行うは難しの問題に直面する。提出した憲法草案は必ず現行憲法と比較される。そして、理念の程度や人権保障の水準が問われるところとなる。この問題に関連して、5/3の朝日が12面(国際面)に出色の記事を書いていて、「日本国憲法、今も最先端」と大見出し、「不朽の先進性、実践次第」と小見出しを打っている。現在の世論で支配的となっている改憲の論調と一線を画する言論であり、憲法記念日の特集として相応しい報道だ。これは米国の大学の法学者が世界188か国の憲法を調査分析した結果で、記事はこう書いている。「世界から見ると、日本の最大の特徴は、改正されず手つかずで生き続けた長さだ。同教授(シカゴ大学のギンズバーグ)によると、現存する憲法の中では『最高齢』だ。(略)だからといって内容が古びているわけではない。むしろ逆で、世界でいま主流になった人権の上位19項目までを満たす先進ぶり。人気項目を網羅的に備えた標準モデルとしては、カナダさえも上回る」。

「バスティーグ氏(バージニア大学准教授)は『65年も前に画期的な人権の先取りをした、とてもユニークな憲法といえる』と話す。日本では、米国の『押しつけ憲法』を捨てて、自主憲法をつくるべきだという議論もある。それについてロー氏は、『奇妙なことだ』と語る。『日本の憲法が変わらずにきた最大の理由は、国民の自主的な支持が強固だったから。経済発展と平和の維持に貢献してきた成功モデル。それをあえて変更する政争の道を選ばなかったのは、日本人の賢明さではないでしょうか』」。記事を書いた記者の立野純ニは、自分の思いをバスティーグに言わせている。人権カタログだけが憲法の水準を決める指標ではないけれど、こうして、憲法は常に他の憲法と比較されて優劣を論じられるのである。その憲法がエクセレントで普遍的かどうかは、起草に関わった者の人格と信念と理想に負うところが大きい。日本国憲法の場合、想起するのは24条のベアテ・シロタと25条の鈴木安蔵だが、虐げられていた日本女性の権利確立のために渾身の筆を揮ったシロタの情熱に思いを馳せ、下劣な橋下徹との彼我を考えると、現行憲法と維新憲法との差異は現時点で十分に透視と想像が可能だ。シロタはこんな草案を書いた。「幼児と幼児を持つ母親は国から保護される。必要な場合は、既婚未婚を問わず、国から援助を受けられる。非嫡出子は法的に差別を受けず、法的に認められた嫡出子同様に身体的、知的、社会的に成長することにおいて権利を持つ」。

このシロタの草案がケーディスに却下されず成文化されていれば、生活保護の母子家庭への加算を妨害しようとした2009年末の藤井裕久と財務省の行為は憲法違反となっていただろうし、どこかの時点で「母子家庭保護基本法」が制定されていたかもしれない。また、シロタはこんな条文も起草している。「公立・私立を問わず、児童には、医療・歯科・眼科の治療を無料で受けられる。成長のために休暇と娯楽および適当な運動の機会が与えられる」。「すべての日本の成人は、生活のために仕事につく権利がある。その人にあった仕事がなければ、その人の生活に必要な最低の生活保護が与えられる。女性はどのような職業にもつく権利を持つ。その権利には、政治的な地位につくことも含まれる。同じ仕事に対して、男性と同じ賃金を受ける権利がある」。素晴らしい。日本国憲法が65年間も改定されず、そのまま維持されてきたのは、憲法としての品質が良かったからで、他の新憲法でリプレイスすることができなかったからである。理想の水準の低い憲法草案では現憲法に太刀打ちできないこと、過半数をめざす国民投票に持ち込めないこと、そのことを改憲側が知っていたから、あるいは経験で知ったから、憲法を変えるという政治を65年間も発動することができなかったのだ。バスティーグの言うとおりである。逆に言えば、護憲派がどれほど政治的に劣勢になっても、日本人は高い理想を捨てなかった。65年前の決意を忘れず、掲げた理想を守り抜くことをした。これは素晴らしい歴史だ。

このブログでずっと言い続けたことは、憲法は革命の瞬間に生まれ、法律の専門家ではない素人の手で起草され、アンシャンレジームを否定した理想が条文に明記されるということだ。だから、平和裏に改憲が断行されるということはない。平時に与野党が話し合いで改憲案を纏め、3分の2で発議し、国民投票にかけるという図は想定できない。それほど簡単なものではない。憲法は哲学が問われる問題であり、官僚が省益動機で無造作に作文する法律と同じではないのだ。ブログを始めたとき、憲法論として言ったのは、改憲してから戦争を始めるのではなく、戦争してから改憲するという政治のリアリズムである。このことは、警告として何度でも言っておきたい。現実に憲法が変えられる可能性としては、尖閣で軍事衝突が起きた場合が最も高いのであり、すなわち石原慎太郎のアプローチこそが改憲の現実性の第一なのだ。今回、橋下徹の統治機構論の改憲案から始まって、自民党の国権主義の改憲案の動きに繋がり、そして石原慎太郎の尖閣騒動があった。第四のモメントとして、緊急事態基本法の制定による実質的改憲がある。これまでほとんどマスコミ報道にも登場しなかったが、今回、いきなりNHKの憲法記念日の特集番組で、森本敏と増田寛也によって上から説教されていた。要するに、憲法に不備があったから震災の救援や復興が遅れたという、震災を口実にして便乗した噴飯な改憲策動であり、有事に戦争反対を言う者を弾圧し排除することを目的とした有事治安法制の仕上げである。

だが、おそらく、こうした改憲論のムーブメントも、連休が終わって消費税政局が過熱すると、途端に忘れられて報道の背後に退くだろう。自民党も民主党も、改憲はおろか消費税増税ですら選挙の争点にできない。原発再稼働も争点にできない。TPP加盟も争点にできない。橋下徹の維新も、メッキが剥げて次第に支持率を下降させ、それと共に官僚と財界に積極的に媚を売るようになり、自民党と大差ない凡庸な政策群に平準化されていくだろう。大胆な政策で選挙に殴り込む勢いを失うはずだ。憲法は半世紀前の人々の理想が今日の生存を支えている。その理想と決意は300万人の戦争犠牲者が媒介している。外濠を埋められても埋められても、平和憲法は大坂城と違って難攻不落。憲法の生命力に私は舌を巻く。それは人間の理想というものの力強さだと確信する。理想を失った現代人に、理想の輝きのある憲法を否定することはできない。現代人は現行憲法を超えられず、条文に手を加えられず、戦争を起こさないかぎり、あと50年でも100年でも、半永久的にこの憲法を守り続けることになるだろう。


by thessalonike5 | 2012-05-04 14:54 | Trackback | Comments(0)
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