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「世界一」東京スカイツリーのお披露目の日が近づいている。高塔にひかれるのは人間のサガだが、すぐに飽きるのも人間。あの白い巨木は、だいじょうぶ? 通天閣が地元民に百年愛されている秘密を解き明かした本の著者、酒井隆史さんに、墨東の下町を歩きながら問うてみた。
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なにはともあれ「とうきょうスカイツリー駅」へ。錦糸町から大横川親水公園に入ると、右手中空に白い巨体がヌッと立った。
「シュールだなあ」。酒井さんの最初のつぶやき。
「新しい塔は、見慣れた景色を一変させますね」。スカイツリー駅は塔直下にホームがあり、のしかかられるようだ。
■通天閣との比較その1
東京スカイツリー(東京都墨田区押上)は高さ634メートル。自立式電波塔として世界一を誇る。こんなに高くしたのは、地上デジタル放送の電波をくまなく届けるため。
初代通天閣は1912年に興行施設「ルナパーク」の目玉として誕生した。現在の通天閣(大阪市浪速区恵美須東)は2代目で、高さ103メートル。天気予報と時刻の表示が精いっぱい。
「初代通天閣とスカイツリーは、両方大林組の施工です」
電車に乗り東向島駅まで。玉の井の跡地を目指す。永井荷風の小説「●東綺譚(ぼくとうきだん=●はさんずいに墨の異体字)」や滝田ゆうの漫画で描かれてきた私娼(ししょう)街。戦前の帝都の深部だ。
■通天閣との比較その2
玉の井は、近代日本の代表的高塔「浅草十二階」こと「凌雲閣」(1890年完成)の根元にあった私娼街から派生したとされる。戦火で消失し、戦後も以前の隆盛は戻らなかった。
初代通天閣の周辺「新世界」も、すぐに妖しい歓楽街へと変貌(へんぼう)する。1916年、500メートル南の飛田遊郭が認可される。西には労働者の街、釜ケ崎。
「スカイツリーは逆に、すでに役割を終えた元私娼街、民衆の街に突然どーんと現れたわけですね」
だが、旧玉の井も今は大部分が健全な下町のたたずまい。「ぬけられます」の看板があるわけもなく、曳舟駅近くの旧赤線「鳩(はと)の街通り」へ。ここには「カフェー建築」と呼ばれるハイカラな造りの家が残っていたが、「最後の色街」飛田の、時間が止まったような現役感バリバリのわいざつさとはほど遠い。
「興行施設として失敗した初代通天閣は、結果として街拡大の牽引車(けんいんしゃ)になった。大阪の代表的繁華街キタともミナミとも違う、民衆の街が出来ていった」
戦後、通天閣の再建が叶(かな)ったのは、ここに住み、塔を求めた一人ひとりが資金集めに奔走したからだ。
「近代の高塔はほとんどが行政や資本主導で作られているのに……そのユニークさに、彼らの都市住民としての成熟を感じます」
隅田川を渡って対岸の浅草へ。平日なのに、吾妻橋では、炎のオブジェとスカイツリーが並ぶ「異景」を撮ろうとする人が並び、浅草寺へと向かう仲見世通りは人でごった返していた。下町めぐりの観光客も、大多数はまだ浅草どまりか。
ツリー下に戻り撮影していると、人なつこそうな商店主が「レフ板使う?」と声をかけてきた。「ツリー開業? 関係ないだろうね。通りに名物の食べ物とかあればいいんだけど」
酒井さんにその話をすると「新世界は数年前から串カツの街として活況を呈してます。人気店の前には、昼前から人が並ぶ。通天閣も混んでます」。
墨東にも、ツリー効果でいい波がきませんか。
「語られることもまれだった地域に注目が集まり、新しい東京ガイドが書かれるかもしれません。ただ、スカイツリー自体は、巨大で新しいモノ、新名所を絶えず造り続けないと不幸になるという、今では根拠の薄い、20世紀型開発思想の延長線上にある気がする」
最後に両国の江戸東京博物館で、タイムリーな特別展「ザ・タワー」を見た。
「エッフェル塔でさえ建つ前はパリの恥と言われ、建った後は破壊案や改造案にさらされてたんですね」
東京タワーや太陽の塔の建設時より、スカイツリーは歓迎ムードが強い気が。
「批判に力がないのは、肯定する力も弱いことと表裏じゃないでしょうか。どんな塔も2年もすれば昇りたがる人が減る。見られる存在になった時、スカイツリーがどう人の生活に溶け込み、どんな意味を与えられるか。そこに興味があります」(編集委員・鈴木繁)
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さかい・たかし 65年熊本県生まれ。早稲田大大学院博士課程満期退学。大阪府立大准教授(社会思想史、社会学)。昨年末に大著『通天閣』が刊行された。